前々から、あるひとつのことがずっと頭の片隅に引っかかっていた。
それは、芸能でも芸術でもなんでもいいのだが、
一つのことを窮めた人、あるいは窮めようとストイックなまでに
精進を重ね、かなりな水準に到達した人というのは、
同じことをなしても、他者と全く異なる、その人独自の型(スタイル)を
形成するのではないかということだ。
このことに気づいたのは、最初は「ピアノ演奏」次に「バイオリン」
そして「狂言」「二胡(中国のもの)」「ギター」「三味線」…他に朗読。
まだまだこれからももっとそのことを発見していくだろう。
たとえていえば、同じ曲を演奏していても、その奏者によって
まったく異なる曲に聴こえる、ということだ。
それは、音の長短や早い遅いや強弱という、目に見えた差異ではないのだ。
なんだろう?音の色が違うというか…
そして、ひとりの演奏家がどの曲もすばらしく均一にうまいかというと
そうでもなく、ある曲はAという演奏家がすばらしく
また、ある曲はむしろBのほうが胸に迫ってくるものがあるとか
そういう違いもあるのである。
音楽だけでなく、たとえば「狂言」でよく知られている
『萩大名』というのがあるが、これなどは同じような動作を演者は
しているのだけれども、やはり、その人のもつ味わいみたいなものが
違うように感じるのだ。
このスタイルの違いについて書いてある本を見つけた。
斎藤孝「スタイル間コミニュケーション論 生き方のスタイルを磨く」
太宰治の短編をとりあげて人間の「癖を技に変える生き方」について
書いており、なかなか興味深い。
それは、芸能でも芸術でもなんでもいいのだが、
一つのことを窮めた人、あるいは窮めようとストイックなまでに
精進を重ね、かなりな水準に到達した人というのは、
同じことをなしても、他者と全く異なる、その人独自の型(スタイル)を
形成するのではないかということだ。
このことに気づいたのは、最初は「ピアノ演奏」次に「バイオリン」
そして「狂言」「二胡(中国のもの)」「ギター」「三味線」…他に朗読。
まだまだこれからももっとそのことを発見していくだろう。
たとえていえば、同じ曲を演奏していても、その奏者によって
まったく異なる曲に聴こえる、ということだ。
それは、音の長短や早い遅いや強弱という、目に見えた差異ではないのだ。
なんだろう?音の色が違うというか…
そして、ひとりの演奏家がどの曲もすばらしく均一にうまいかというと
そうでもなく、ある曲はAという演奏家がすばらしく
また、ある曲はむしろBのほうが胸に迫ってくるものがあるとか
そういう違いもあるのである。
音楽だけでなく、たとえば「狂言」でよく知られている
『萩大名』というのがあるが、これなどは同じような動作を演者は
しているのだけれども、やはり、その人のもつ味わいみたいなものが
違うように感じるのだ。
このスタイルの違いについて書いてある本を見つけた。
斎藤孝「スタイル間コミニュケーション論 生き方のスタイルを磨く」
太宰治の短編をとりあげて人間の「癖を技に変える生き方」について
書いており、なかなか興味深い。