どうも父の話が多いので、ファザコンと思われているようなのですが、否定もしませんけれど、自分では普通だと思っています。
ただ、父の発病から亡くなるまでは、一進一退で結構時間があったので、素人ながら病気について、あるいは病院についてある程度知ることができ、お話したいことが多い、というのは事実ですね。
大腸がんでした。あと数ヶ月で満5年を迎えるという時に、また、癌が出来ているのが見つかりました。想像ですけれど、最初の手術をして無事に退院できても、定期の検査ってありますよね。初めのうちは検査から検査の期間は短いのです。ところが順調であれば、次の検査は三ヵ月後、半年後、一年後、というように間隔が長くなります。 父はね、再発したの分かっていたんじゃないかと思ってるんです。
出血とかあったはずですし。 でも、定期の検査まで行かなかったんじゃないかなって。
二度目の手術は、前回に開いたところが癒着していたのでそれを剥がすのに時間をとられ、14時間くらいかかりました。
津の大学病院に入院して、どういうわけか年末になるとダウンして、何度も年越しを病院で迎えてました。 その都度、担当の主治医なんかがかわるのですけど、最後の担当の先生は、実に・・・冷たく思える先生でした。
医師たちは忙しくて、身なりもあまり構っていられず、白衣が皺だらけという人が多かったのですが、その先生はいつもプレスのきいた白衣姿で、髪も乱れていませんでした。及川なんとか・・・ミッチーと呼ばれている人に似てました。
最後の方はもう病院としてもすることがないんですよね。特に早くから不要な延命措置はしないでくださいと言っていた我が家では。
今から思えば先生の言葉は最善だったのでしょうけれど、ごくごく事務的に「ホスピスに行く事をお勧めします」と言われた時、邪魔だから早く出て行って、他の患者さんに病床を開けてくれ、と言われているような気がしました。
結局、最期の最期でどうしようもない、という時が来るまで自宅で過ごし、別の病院で亡くなったのは、入院してから2週間とちょっとでした。
今思い出しても、父には可哀想なことをしたと思ってます。最期くらい、痛み止めだけの処置をして、ホスピスのような自由な環境においてあげればよかった。大好きなお酒を禁止せずに飲ませてあげたかった。
知識がなかったんです。その頃、ホスピスの具体的な・・・。これは一生の悔いですね。 長くなりそうなので、また書ける時にします。ちょっと辛い人、多いでしょうし。
ただ、父の発病から亡くなるまでは、一進一退で結構時間があったので、素人ながら病気について、あるいは病院についてある程度知ることができ、お話したいことが多い、というのは事実ですね。
大腸がんでした。あと数ヶ月で満5年を迎えるという時に、また、癌が出来ているのが見つかりました。想像ですけれど、最初の手術をして無事に退院できても、定期の検査ってありますよね。初めのうちは検査から検査の期間は短いのです。ところが順調であれば、次の検査は三ヵ月後、半年後、一年後、というように間隔が長くなります。 父はね、再発したの分かっていたんじゃないかと思ってるんです。
出血とかあったはずですし。 でも、定期の検査まで行かなかったんじゃないかなって。
二度目の手術は、前回に開いたところが癒着していたのでそれを剥がすのに時間をとられ、14時間くらいかかりました。
津の大学病院に入院して、どういうわけか年末になるとダウンして、何度も年越しを病院で迎えてました。 その都度、担当の主治医なんかがかわるのですけど、最後の担当の先生は、実に・・・冷たく思える先生でした。
医師たちは忙しくて、身なりもあまり構っていられず、白衣が皺だらけという人が多かったのですが、その先生はいつもプレスのきいた白衣姿で、髪も乱れていませんでした。及川なんとか・・・ミッチーと呼ばれている人に似てました。
最後の方はもう病院としてもすることがないんですよね。特に早くから不要な延命措置はしないでくださいと言っていた我が家では。
今から思えば先生の言葉は最善だったのでしょうけれど、ごくごく事務的に「ホスピスに行く事をお勧めします」と言われた時、邪魔だから早く出て行って、他の患者さんに病床を開けてくれ、と言われているような気がしました。
結局、最期の最期でどうしようもない、という時が来るまで自宅で過ごし、別の病院で亡くなったのは、入院してから2週間とちょっとでした。
今思い出しても、父には可哀想なことをしたと思ってます。最期くらい、痛み止めだけの処置をして、ホスピスのような自由な環境においてあげればよかった。大好きなお酒を禁止せずに飲ませてあげたかった。
知識がなかったんです。その頃、ホスピスの具体的な・・・。これは一生の悔いですね。 長くなりそうなので、また書ける時にします。ちょっと辛い人、多いでしょうし。
病気が判ってから、亡くなるまで・・・。
手術はしませんでした。
できるだけ、母の意に沿うようにという夫の言葉どおり、最期も自宅で看取りました。
夫の姉2人も専業主婦だったから、3人で面倒を見られたことが義母にもしあわせ?だったのかと・・・。
「家で・・・」と望んでも、なかなか望みどおりにいかないのが、現実ですよね。
日曜日以外の毎日、午後から往診をしてもらって、点滴をして・・・。
よく頑張ったなぁ~って思います。
夫の姉たちとは、多々意見の食い違いがあり、その後の関係をこじらせました。
同じ子どもでも、男と女では母親に対する想いが違っていたようです。
痛恨のミス。汚点です。
これ、実は続・続々・・と書きダメしてあるんだけど、ちょっと躊躇ってるのよね。
なんか暗すぎて。 我々の年代になると避けて通れない親の話ではあるけれど・・・。
良く分からない。神の意思に委ねるのなら、静かに運命を待てば良い。そこまで、強くなれば良い。でも、生きたいなら、生き抜く努力をして欲しい。
私には、分からない!
亡くなった親は子供の事を恨んだりしてまへん…
子供の幸せが親の幸せ…
そやし悲しんだりしたらあきまへんえ…
毎日楽しく暮らすことが親孝行!
できひんかった親孝行があるとしたら今しまひょ…
自分が幸せであること…それが親孝行どすがな!
相変わらずウチってエエ奴やわ~♪
久しぶりやね。久しぶりに出てきて難しい話やな。
エホ○の証人かいな。輸血拒否してるなんて。言うたり。そんな教えは曲解やって。もし、とことん拒否するなら生きたがってはならないよ。それかE.キューブラー・ロスの『死の受容』だったかな、その本でも読んでみ。多分、死に対して取引したはる最中やわ。
3期ならまだ勝ち目はあるやろ。
おちゃこ様
いつもおちゃこ様のお話、うかがってると元気が出ます。なんかくよくよするのがアホらしなってくる。
今日、ももさんちでもグチっちゃった。ごめんなさい。
おちゃこ様の生き方、参考にする。まぁ、できひん思うけど(笑)←せやけど、感謝はいっつもしてるで。
ありがくと♪
私、側で見てて、苛々するんだ。あんなに生きたがって、辛い治療に臨んだあっちゃんは、呆気なく死んだ。手遅れだった。なのに、なんで…。あんなに苦しんでる御主人がいるじゃないか。。
信者じゃない人からすれば信者の考えていることなんて理解できませんしねぇ。
少なくとも、愛するお頭は、癌から復帰した。もう少し生きて、私のお目付け役をしてくれるそうだ♪