濃尾各務原地名文化研究会の8月定期講演会が有りました。この会は年間計画で偶数月に開催されます。
下の案内ハガキが手元に届きました。
第1部が「戦時の記憶」
第2部が「地名に見る各務原台地の開拓史」です。
会場は各務原市産業文化センターでした。割と大きな部屋でしたが、参加者が多く机を並べた部屋の中は満員に近い
状態で100名近くの人数でした。
何れも、高齢の方です。
土曜の午後の時間帯となっていましたが、平日の開催でも、差し支えないような人が多いと思いました。
開始の前です。
ほとんどの席は埋まって居ます。
開始に伴い、「青い山脈」の合唱でスタートです。
起立して唄い始めました。
用意されていた歌詞の用紙。準備した枚数が少なかったのか、私の手元にはありませんでした。
でも、歌詞の用紙が無くても唄えました。
第1部の戦時の記憶です。
黒内さん。間宮さん。野田さんがそれぞれの戦時体験を話されました。
黒内さんは飛騨高山の出身です。志願して陸軍兵器学校に入校したのだそうです。その頃は情報を得る術が先生から聞いたりする事ぐらいしか無かったのだそうです。
兵器学校を出てから大阪の陸軍造幣廠に居て、8月14日に空襲を受け、防空壕に避難して生き埋めとなったが、無事に壕から出てくる事が出来たのだそうでした。防空壕に直撃弾を受けたりして380名が亡くなったと話していました。
間宮さんの体験は空襲で焼夷弾が落ちてきて火事となり、油状のモノが燃えていて、中々消えなかった。消すのに竹箒を使っていたら、箒が燃え出したと話されました。
当時、岐阜中学に通っていて、岐阜から帰って来る時、那加地区に爆撃が有った場所。高山線と各務原線との間に電車の車庫が有ったが吹き飛ばされていたのを見たそうです。
ご自身で一番怖い思いをしたのはグラマンからの機銃掃射に遇った事でした。命からがら、土管の中に隠れて難を逃れたそうでした。震えが止まらなかったと語っていました
野田さんは岐阜市加納で育ち、岐阜市島地区に疎開していたそうです。前に話されたお二人よりは若い年代です。当時、小学校1・2年生だったそうです。学校に奉安殿があり、教育勅語を言わされたと言っていました。
戦時中、子供にも我慢を強いられた時代で、米は米穀通帳を持って並んだ。苦しい時代だったと話されました。
第2部。
西村文化財課長の「地名にみる各務原台地の開拓史」です。
当時の字絵図を繋ぎ合わせた資料で説明です。
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