徳丸無明のブログ

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安易な二元論からの脱却を企図して・前編

2018-06-18 22:05:10 | 雑文
二元論(にげんろん)・・・①一般に対象を考察するのに二つの異なった原理でする考え方。②哲学で、世界が二つの独立した根本原理から成り立っているとする考え方。精神と物質の二つの実体をみとめたデカルトの立場はその代表例。③宗教で、世界を善悪二神の争いと見る考え方。ゾロアスター教・マニ教など。〈対義語〉一元論、多元論。(『日本語大辞典』講談社)



もう5年程前になるだろうか。さまぁ~ずの街ブラ番組「モヤモヤさまぁ~ず2」を観ていた時のこと。テレビ画面には東京都内のどこにでもある住宅街が映し出されていた。なんでもない平凡な風景、その背後に町内の掲示板があった。出演者の笑い声が響く中、掲示板の隅に、「ここより先オウム立ち入り禁止」と書かれていたのがふと目に入った。
その瞬間、かつての差別を思い出した。差別を伝える学習教材に記載された「ここより先ブラク立ち入り禁止」と書かれた看板の、古めかしいモノクロ写真。遥か昔の、日本社会が恥として糾弾してきたはずの陋習は、消え去ってなどいなかった。臆面もなく一部の人々への排除の姿勢を露わにしてみせるその様は、現代にもなお息づいていたのだ。
それとこれとは話が違う、と思われるだろうか。出自だけで不当な扱いをされてきた被差別者と違い、オウム真理教は地下鉄サリン事件を筆頭に数多くの犯罪を犯してきた。未だに何を起こすかわからないカルト集団を恐怖するのは当たり前で、極力排除したいと願うのは当然ではないか。そう思われるだろうか。
しかし、本当にそうだろうか。元オウム真理教、現在のアレフ、ひかりの輪、山田らの集団は、今もなおテロや殺人を犯しかねない潜在的犯罪集団なのだろうか。
映画監督の森達也によれば、元オウムの危険性は、公安調査庁の情報操作によって作り出された面が大きいという。


一九五二年に施行された破壊活動防止法に基づいて、国家の治安・安全保障における脅威に関する情報を収集・分析する情報機関として公安調査庁は設立された。当初の監視の対象は日本共産党であり、その後は新左翼系のセクトなども対象団体になった。しかし冷戦終結後に存在意義を失い、リストラも漸次進行し、サリン事件が起きる直前には解体の声もあった。その公安調査庁にとってオウムは、まさしく生き延びるための糧となった。当時の職員から、地下鉄サリン事件が起きた日の庁内の異常な高揚について聞いたことがある(ほとんど万歳三唱の雰囲気だったという)。つまりオウムの危険性を煽り続けることが、今の彼らにとってのレゾンデートルなのだ。
(森達也『希望の国の少数異見――同調圧力に抗する方法論』言視舎)


公安調査庁は、アレフとひかりの輪の脱会者数を伏せ、入会者数のみ強調することで、あたかも信者が急増しているかのような印象操作を行っているという。つまり、公調の存続のために、元オウムは今も危険な団体だとアピールされ続けているのだ。おそらく、公調の監視対象となる団体が新たに出現しない限り、元オウムは半永久的に当局から危険視され続けることだろう。
警察発表を無批判的にたれ流す御用マスコミが決して書かない真実である。しかし、小生はアレフ等オウムの流れを汲む団体が、もう2度と罪を犯すことはない、と言うつもりはない。その可能性は、ゼロではない。ここで言いたいのは、「罪を犯すことのない善良な一般市民である我々」と、それに対する「いつ犯罪に手を染めるかわからない潜在的犯罪者(もしくは犯罪者集団)」という二項対立で捉えるべきではない、ということである。
平凡な一般人として暮らしている人々は、自分自身を無条件に「これまでもこれからも犯罪など犯さない善良な市民」だと思い込んでいる。そして、その対極、もしくは別世界に「悪質な犯罪者」がいると考えている。
だが、そうではない。我々は、多かれ少なかれ潜在的には犯罪者なのである。殺人事件の加害者の知人がよく「とても良い人でそんなことをするようには」と語っているように、いくつかの条件が重なれば、人間だれしも犯罪と親和的になる。個人的な資質によってのみ法を犯すのではなく、置かれた立場が犯罪へと後押しするのである。
もちろんアレフとひかりの輪と山田らの集団は、教団名がオウム真理教であった時代の数々の犯罪行為を自分達の十字架として語り継いでいかねばならないし、95年当時に信者でなかった者も、その罪を我がこととして受け止めるべきだと思う。
しかし、それはそれとして、「罪を犯さない善良な一般市民」と「罪を犯しうる潜在的犯罪者(もしくは犯罪者集団)」という単純な二分法で分断するのも間違っている。人間は、程度の差こそあれみな潜在的には犯罪者なのである。



いつだったか、市民プールの排水溝の蓋が開いていて、子供がそこに吸い込まれて命を落とすという悲惨な事故が起きたことがあった。その事故を報じるニュースの中で、街頭インタビューに応じた子持ちの男性が「プールのような施設は管理をきちんとしてリスクをゼロにしてほしい」と答えていた。
子供を持つ親としてのその気持ちはよくわかる。だが、原理的にリスクはゼロにすることはできない。
この世には、「リスクがある状態」と「リスクのない状態」の二極があるのではない。「リスクの高低差のある状態」があるだけなのである。
リスクとは、施設などの場の在り方によってのみ決されるのではない。場所と人間の関係性によって決されるのである。そして人間とは、生きている以上常に死の可能性に脅かされているものである。いくら場所の安全性を高めようとも、生身の存在たる人間が関わってくる以上、リスクをゼロにすることは不可能である。
原理的に言ってリスクをゼロにする方法はただ一つ。「死ぬ」ことだけである。
小生はなにも屁理屈を弄しているのではない。生身の存在たる人間は、常に何らかのリスクに脅かされている。例えば、いつも通勤や通学で歩いている道を、いつものとおり歩いていたら、通り魔に刺されてしまうかもしれない。自宅で普段どおりくつろいでいたら、放火されて焼け死んでしまうかもしれない。それらの可能性は限りなく低いものの、ゼロではない。0,1%未満の確率でしかなくても、人間には常に何かしらのリスクが付きまとっている。それが生きるということである。
だから、リスクを完全に排したいのであれば、死ぬしかないのだ。死ねばリスクに脅かされることはないからね。
もちろんプールなどの施設の管理者は、最大限安全に配慮すべきだろう。だが、「リスクゼロ」を求めるのは、リスクというものの在り方について根本的な誤解をしている。人間は、リスクを限りなくゼロに近づけるよう努力することはできる。だが、「限りなく近づけられる」だけで、「完全なゼロ」にはならない。
リスクのこのような性質を理解していないと、人の努力によっては回避できないリスクまで責任者のせいにする見解が出てくる。その果てに極端な犯人探しが行われ、責任を取りたくない大人達の手によって公園の遊具がすべて撤去されるに至るのである。
同様の思考によって、医療ミスに対する訴訟が起こる。手術の難易度というのは病状によって様々だろうが、100%成功する手術というのはあり得ない。医者も人間である以上、一定の確率でミスは発生しうる。ミスによって後遺症を抱えることになったり、家族を失った人達には気の毒ではあるが、それは起きるときには起きてしまう。そのやむを得ない可能性を理解できず、100%成功させて当たり前と考える者が医療ミスの訴訟を起こす。
確かに、医療ミスの中には常識的な手順を踏めば起こらないような性質のものもあるわけで、その判別は難しいところではあるが、ろくに医学の知識のない判事と裁判官が、やむを得ないミスまで有罪とするケースがある。すると訴訟のリスクを嫌う医者が難しい手術を避けはじめる。結果として患者全体の不利益に繋がってしまう。
思えば、過度な自己責任論は、リスクゼロ願望の対極に位置している。どちらも中間がないという点で極端だ。「白か黒か」の二分法でしか考えられないから極端に走る。大抵世の中の真相というのは、白でも黒でもない、その中間に位置しているものである。

(後編に続く)