徳丸無明のブログ

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タイトスカートの政治学

2020-03-03 22:45:23 | 雑考
石井達朗の『異装のセクシャリティ――人は性をこえられるか』(新宿書房)を読んでの気付き。
これは慶應義塾大学教授で演劇論を専攻している石井が、男装や女装といった“異装”を、おもに演劇の場を中心として、LGBTらセクシャルマイノリティの問題なども絡めて描き出した本である。
石井はこの中で、服装には男女間で明確な性差があるのがどの文明にも普遍的にみられるが、おもに日本を含めた欧米では、20世紀初頭の服装革命以降、1960年代以来の女性運動を経て、徐々に女性が男性の服装を着こなすようになったことに触れ、次のように述べている。


女性の服は確かにひと頃より自由になった。しかし、その自由さに逆行しそうな現象が一方にはあることも確かだ。長髪を更に引き立たせるストレート・パーマ、ハイヒールにタイトスカート――このような出で立ちで職場で働く女性は、自分が女性であるという強力な信号を発しているが、男性に比べて可動性の点ではるかに劣るその服装は、自分は男ほど仕事をできる立場にいない、という暗黙のサインも同時に送っている。


以前の雑考「ガラスの靴なんかいらない」(2019・9・5)にもつながってくる話だが、このくだりを読んだとき、幼少のころの疑問を思い出した。小学校に入る前から、女性のタイトスカート姿を見て、「なぜこんな窮屈な格好をしてるんだろう。足を動かしにくいはずなのに、よく我慢できるな」と不思議に思っていたのだ。
「ガラスの靴なんかいらない」では、「#KuToo」に言及した。そこで、「#KuToo運動は職場でのヒールの着用義務に異を唱えているが、今後はさらに拡がりを見せ、化粧やスカートなどの規定にも異議申し立てしていくだろうし、そうなるべきだ」と述べたが、この本を読んでその思いがさらに強くなった。
動きにくい服装こそが女性らしい服装であるとされているのは、男性側からの「性の政治学」による、巧妙な印象操作なのではないか。美的であるとか、セクシーだとかの甘言によって、女性を劣位に置きたいという願望を覆い隠し、ヒールやタイトスカートを良きものとして受け入れさせてきたのではないか。
しかしながら、これを悪しきものとして一掃することができないのは、たしかにヒールもタイトスカートも美的であって、女性の魅力を引き立てているのは間違いないからであり、また、女性の側の多くもこれを好意的に取り入れているからである。安易に「男女同権にもとるからダメだ」とするなら、単細胞のフェミニストの烙印を免れることはできないだろう。
やはり問題は、そうと気付かせないうちに男女の非対称性を助長・かつ固定化する制度の存在のほうにある。ヒールにせよタイトスカートにせよ、着用を義務付けられていることが女性性の抑圧のもとなのであって、問題は「選べない」という制度のほうにある。
ヒールもタイトスカートも、着用したい人はすればいい。義務化するから抑圧になる。
女性が自分の好み・感性に応じて、自らの選択でヒールとタイトスカートを身に着けるようになるとき、そのときにこそ、“女性らしさ”は純粋に美的な輝きを放つようになるはずだ。