徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

竹下製菓 トラキチ君

2025-01-31 23:58:33 | 
今日はタイガー基地です。




竹下製菓は佐賀の会社で、おもにアイスを作っています。販売地域は九州一円で、九州人なら誰でも知っています。一番人気は、最近東京でも販売されるようになったブラックモンブラン。
このトラキチ君は、バナナアイスの外側に、チョコを縞模様にコーティングしたものです。阪神ファンは全員食べるように。
でもね、けっこうシェアが低いんですよ。ブラックモンブランはわりとどこにでもあるんですけど、トラキチ君は九州でもあんまり売ってる店ないんです。みんなで捜そうぜ!
そう、アイス。当たり付きアイスの話をしましょう。子供はアウトローという話。
僕が小学生のころ、当たり付きアイスを100%当てる方法が、まことしやかにささやかれていました。
なんでも、ワルい同級生が、購入前のアイスの袋をちょっとだけ開けて、そこから棒を抜き取り、当たりはずれを確認して袋に戻し、当たりだったら買う、ということをしていたらしいのです。これなら百発百中です。
いや、ワルいヤツですね。そーゆーことを平気でするのがいたんです。まさにアウトロー。
しかしそーゆーヤツって、自分で手口を考えるのでしょうか。それとも、ワルい兄貴に教わるのでしょうか。兄弟そろってろくでもないヤツらってのもけっこういましたよ。熊本って土地柄もあったんでしょうか。
模倣厳禁ですからね。

あと、こんな話も聞いたことがあります。
僕が通ってた小学校の、隣の校区に、とあるゲームショップがあったんです。今のゲームショップは、もうほぼチェーン店ですが、当時は個人経営のお店が多く、そのショップは、おじいさんが経営しているところでした。
僕はそこに行ったことがないので、おじいさん以外の店員さんがいたのか、それともおじいさんがひとりでやっていたのか、それはわかりません。とにかく、大体おじいさんが店頭に立っているお店だったんですね。
そのお店、ショーケースのカウンターがあって、カウンターの上には、ゲームソフト数個が入ったカゴが置いてあったらしいんです。たぶん、そのカゴに入っていたのはお買い得品だったのでしょう。
アウトローがそのお店で、ワルをやらかしたのです。
おじいさんは基本、ショーケースのカウンターの前に立って店内を眺めているのですが、たまに用があってうしろを振り向くことがある。アウトローは、おじいさんがうしろを向いた瞬間に、カゴの中のソフトを盗って、それをあたかも自分が持ち込んだフリをして「買い取ってください」と頼んでいたそうなんです。
おじいさんは、そこそこお歳だったせいか、カゴのソフトがなくなっていることも、買い取りを求められたソフトがカゴのものと一緒であることも気づかなかったらしいんですよ。年寄りの弱みに付け込んでお金をだまし取っていたのです。クズですね。

あとそう、メダルゲームの詐欺を目撃したこともあります。
店頭にメダルゲームを置いてる駄菓子屋でのことです。赤か白かを当てる、ルーレットのゲームでしたかね。当たったらメダルが倍になって戻ってくるゲームです。
4歳くらいの男の子が、そのゲームで遊んでたんです。そこに小学5年くらいの男が絡んできました。
男は4歳児に、「一緒にやろう」と持ちかけました。そして、「赤に賭けよう」と提案しました。
4歳児は素直に応じ、ゲームを始めました。メダルは4歳児のものです。
ゲームは当たり、1枚賭けたメダルが2枚になって戻ってきました。すると男は、「2人で協力して当てたから1枚ずつわけよう」と言いました。
4歳児はまた素直に応じ、2枚のメダルを山分けしました。男はさらに、「じゃあそのメダルでもう1回やろうか」と言いました。
4歳児は自分のメダルを投入しました。男は「白に賭けよう」と言いました。
ゲームはまた当たり、2枚になったメダルを2人は山分けしました。男にうながされ、4歳児はまた、自分のメダルでゲームを始めました。
いくら当たりになろうとも、4歳児のメダルは増えず、男は自分の懐を痛めることなくメダルを稼げる、という手口だったのです。4歳児はだまされていると自覚することができず、普通に2人で遊んでいると思い込んでいたようです。
この詐欺は、ゲームがはずれて4歳児のメダルがなくなるまで続きました。
これはまだ微笑ましいほうと言えなくもないですけどね。それにメダルゲームって、そんなに連続で当たることないですから、記憶が曖昧なんですけど、男が稼げたのはせいぜい3,4枚程度だったはずです。
とにかく昔は、こーゆーワルいこと平気でしでかすヤツらがゴロゴロいたわけです。今の子供はいい子が多いですよね。

それから中学のころでしたか、どこかに出かけた帰りに、住宅街を歩いていたときのことです。
考え事しながら歩いてたんですけど、うしろのほうで大きな声が聞こえてきたんです。怒鳴っているようでもある。
何気なく振り向くと、「お前に言いよっつた(言ってるんだ)お前に!」という声が飛んできました。
すでに日が暮れてたし、20メートルくらい離れてたんでよく見えなかったんですけど、僕と同じくらいの歳の男がこちらを向いていました。
これどーゆーことかというと、僕が道を歩いていて、ふと家にいた男と目が合った。それはほんとに偶然だし、すぐに視線ははずしたはずですが、男は「ガンつけられた」、もしくは「ケンカ売られた」と判断したわけです。
それで外に飛び出してきて、僕を呼び止めようとずっと怒鳴っていたのです。
僕はめんどくさいので、知らんぷりしてそのまま歩き去ろうとしました。男が追いかけてくるかもしれないと思いましたが、ちょうどその瞬間に、男の家の中から、「アンタなん怒鳴りよっとね」という、そいつの母親らしき声がしました。
いいタイミングでブレイクがかかったのです。命びろいしました。
昔はいましたよね、目が合っただけで発狂する基地の外。今の子供は穏やかな子が多い。
皆さん、基地の中に入りましょう。そしてタイガー基地、もといトラキチ君を食べましょう。

明治 ブルガリアヨーグルト LB81 プレーン

2025-01-24 23:41:04 | 
今日は東の欧のトロッとしたやつです。




日本よ、これがブルガリアだ。甘味ゼロのシンプルヨーグルト。前は小袋入りの砂糖が付いていたと思いますけど、今はなし。
なんでも、1970年の大阪万博の際、ブルガリアのパビリオンで振る舞われたヨーグルトに、衝撃を受けた明治の社員さんが開発に取り組んだとか、なんかそんな話でしたよね、たしか。ヨーグルトを甘物やデザートではなく、食事のひとつ、あるいは健康食品ととらえるようになったキッカケがこれ・・・ですよね?曖昧な物言いばかりですみません。
甘味がほしい僕は、果物と混ぜたりします。蜂蜜なんかもいいですね。
しかし世の中はすっぱい。そう、なんてスッパイんだ大人のパラダイス的な話をしましょう。自転車に対する風当たりの話。
僕のおもな移動手段は自転車です。あまり遠出をすることはありませんが、基本的に自転車でどこでも行きます。それで特に不自由なく暮らしています。
そんな僕がちょいちょい感じるのが、自転車利用者に対する風当たりの強さです。
たまにあるじゃないですか、「自転車は歩道を走るべきか、車道を走るべきか」の論争。定期的に議論が起きますよね。最近じゃ「自転車乗るならヘルメットかぶれ」って圧力もあります。
「車道を走れ」って意見の人は、自転車は軽車両で、道路交通法により車道を走るべしと定められているからって言いますよね。
でも僕は、歩道を走ります。車道を走ることは、ほぼありません。
日本の車道は、自転車が走れるようには設計されていないからです。
これもよく言われることですが、車道のはじの、自転車用のスペースは、非常に狭い。隣を走る自動車と、充分な距離を保つことができません。
それに、よく自動車が停車してたりするので、それをかわすために、車道の中央に出なければならなくなります。けっこう危ない。
「道交法で定められているのだから自転車は車道を走るべき」と主張する人たくさんいますけど、ハッキリ言って、法律が間違っていると思います。
法律で定めているのであれば、自転車が安全に走れる道幅を確保すべきです。それができていないのに、「法律だから車道を走れ」と言うのは冷酷すぎます。
福岡じゃ自転車専用レーンが作られてる道もあったりするんですけど、そこを走ることもありません。やはり充分な道幅がないからです。
日本ならではの道路事情、もしくは土地事情のせいで、自転車が安全に走れる車道を設計できないのであれば、法律のほうを変えるべきだと思います。

ちなみに、一水会顧問で政治活動家の鈴木邦男さん(右翼なんだけど、右翼らしからぬところ多々あり)も、自転車について、著作の中で私見を述べています。鈴木さんは、国際シンポジウムに招待されて、ニューヨークに行ったことがあったそうなんですね。で、そこで日本とアメリカの自転車事情の違いに気づいたとのこと。


ダメだな。日本は遅れているよ、と思いましたね。(中略)
「暴走自転車」のことだ。これもやっと今になって「危ない」「取り締まれ」という声が出た。(中略)歩道を猛スピードで走る自転車のことだ。歩行者にぶつかっても「ドケッ!」と怒鳴って走っている。(中略)
セントラルパークなどでは自転車に乗って運動している人がいる。しかし、市街では一切ダメなんだ。いや、違うな。歩道を走ってはダメなんだ。歩道は文字通り、「歩く人」の道だ。自転車は車だ。だから車道を走れ。そういうことだ。でも自動車がいて、こわい。だったら自転車に乗るな、ということだ。
理屈はスッキリしている。簡単明瞭だ。日本だって、そうさせればいい。自転車も車だ。乗りたければ、車道を走れ。それがこわかったら乗るな。あるいは歩道では、降りて、車をひいて歩け。これは当然だろう。それなのに車道を走る勇気のないバカが、歩道を全速力で走って、歩行者に怪我をさせる。とんでもない連中だ。歩道を走った時点で逮捕したらいいのだ。
(鈴木邦男『愛国者の座標軸』作品社)


鈴木さんは非常に聡明な方で、僕が知的に信頼している作家さんのひとりなんですけど、正直この発言はいただけません。
先に言いました通り、日本の車道の自転車用部分は非常に狭い。もしすべての自転車が車道を走るようになれば、自動車との接触事故が頻発するようになるはずです。
すべての自転車が車道を走るようになれば、歩行者の安全は高まるでしょう。でもそのぶん、自転車の危険が高まってしまう。
つまり、自転車が歩道を走れば、歩行者と自転車の接触事故が起きるし、自転車が車道を走れば、自転車と自動車の接触事故が起きてしまうわけです。
ではこれ、どちらのほうが危険度が高いか。
歩行者と自転車の接触事故と、自転車と自動車の接触事故、どちらのほうがダメージが大きくなるでしょうか。
言うまでもなく、後者です。自転車と自動車の接触事故のほうが、重傷になりやすく、死亡にも至りやすい。
だから自転車は歩道を走るべきなのです。接触事故が起きたときのダメージが、歩道と車道では大きく違うのですから。
たしかに、歩道を走る自転車利用者に、マナーの悪い人が多いのは事実です。むやみにスピード出していたり、歩行者優先で道をゆずるべきなのに、強引に突っ切って歩行者をどかせていたりしますから。
接触事故を起こしてなくても、スピードの出しすぎで歩行者を驚かせたり、ストレス与えてしまってる時点でアウトですよ。歩道を走るには、それに見合った速度というものがあります。
でも、だからといって車道に追い出すのは違います。自転車が車道を走るのは危険です。
必要なのは自転車を車道に追い出すことではなく、自転車利用者の教育です。マナーの悪さを改善しなくてはならない。
歩行者優先を徹底させ、「自転車は歩行者の許しを得て歩道を走らせてもらっている」という謙虚さを身につけさせる。
そうすることによって歩道の安全を確保すべきなのです。歩道の安全は、自転車を車道に追い出すことによって確保すべきではない。
鈴木さんが自転車に腹を立てる気持ちはよくわかります。ほんとに、自転車利用者はマナーの悪い人が多い。
けれども、車道に追い出すべきではない。自転車を車道に追い出せば、歩行者の安全は高まりますが、その代わり自転車の危険が高まってしまう。
まさか鈴木さんは、「歩行者が安全になれば自転車はどうなってもいい」などと思っているわけではないでしょう。歩行者だろうが自転車利用者だろうが、安全は等しく大事です。
ですから、教育によって変えていくべきなのです。自転車利用者のマナーを向上させ、それによって歩道での事故を減らしていく。そーゆー方向で安全を確保していくべきなのです。
歩道を走る際の速度の上限を定めて、スピード違反を取り締まるのもいいかもしれませんね。自転車にスピードメーター取り付けるのも、技術的にそんな難しくはないはずです。

僕もね、同じ自転車利用者として、マナーの悪い自転車に腹を立てることがありますよ。
「お前らのせいで自転車に対する風当たりが強くなってんだよ」って思うんです。
最近じゃ、ながらスマホの運転ね。スマホいじりながら自転車こいでる人見ると、「単独事故起こして骨折れろ」って思いますよ。ほんと、あれはよくない。
歩道は歩行者優先。自転車は歩行者様から通行を許してもらっている立場なんだ。そのことをわきまえて謙虚に走れ!

クラシエ 甘栗むいちゃいました

2025-01-17 23:36:42 | 
今日は事後報告です。




殻を剝いた甘栗のパック売り。これが発売されたとき、大ヒットすると同時に、ちょっとした議論も巻き起こしましたね。「殻くらい自分で剝け」とか、「現代人は楽しようとしすぎ」だとか。おもにジジイが文句をたれていたのです。
しかしジジイの警世とは裏腹、日本社会はどんどん「楽する」方向に向かっています。堕落、ブラボー!
そう、年寄りの繰り言なんて気にする必要ないんですよ。栗だけにね。
年寄りの愚痴、あるいはお説教といえば、「世の中は厳しい」っていうお題目ありますよね。僕、あれが嫌いでしてね。
子供のころは、「なんかイヤ」という、なんとなくの反発心があるだけで、なぜイヤなのか、うまく言語化できていませんでした。
ですが、大人になるにつれ、この言葉が嫌いな理由がわかってきました。

ひとつは、この言葉を口にする人が、ある種の「美学」に酔っているから、です。
「世の中は厳しい」と言いたがる人は、「自分はそんな厳しい世の中を力強く生きている」「オレは努力している」「タフガイなオレはカッコイイ」と思っているのです。つまり、「世の中は厳しい」と言いながら、暗に「自分はすごい」と自慢しているのです。
「厳しい世の中を力強く生きているオレ」という美学に酔っている。美学にひたるために「世の中は厳しい」と言っているのです。
つまり、「世の中は厳しい」というお説教は、自分に酔うための口実にすぎないのです。
だから、ナルシシズムが透けて見えてウンザリするのです。

理由のふたつめは、自分自身が厳しく振る舞うために、世の中を免罪符にしているから。
「世の中は厳しい」と言いたがる人は、他人に厳しくしがちです。そして、その厳しさはやむを得ないものだと言う。
「世の中は厳しい、だからこうせざるを得ないんだ」と。
でも、厳しい振る舞いをしているのはその人自身です。世の中が強要しているわけではない。
やさしくしようと思えばできるのに、そうはしない。その人自身が、他人に厳しくするという選択をしているのです。そして、それを世の中のせいにしている。
つまり、その人が厳しい振る舞いをするのは、その人自身の責任でしかないのに、その責任を世の中に押しつけているのです。「世の中は厳しい」と言うことで、責任転嫁を図っているのです。
これはズルい。だからイヤなのです。

理由のみっつめは、世の中を改善しようとせず、現状維持に甘んじてしまうから。
「世の中は厳しい」という言葉が嫌いな僕ですが、じゃあ世の中は厳しくないのか、と問われれば、「たしかに厳しいところもある」と認めざるを得ません。厳しさがないのなら、世の人々の苦しみも少ないはずです。
でも実際には、多くの人々が苦しんでいる。これは世の中に存在する厳しさのせいです。
このような事実があるのなら、「世の中は厳しい」という言葉を受け入れるべきではないかと思えてくるでしょう。真理として認めるべきだと。
でも、僕はそうは思わないのです。
なぜなら、「世の中は厳しい」と断言することで、「厳しさ」を肯定してしまうからです。
たしかに、世の中には厳しさがある。でもそれは、できるだけなくなったほうがいいものです。
厳しさのせいで、人々は苦しみます。厳しさは人を不幸にし、笑顔を失わせる。
厳しさを乗り越えることで強さを獲得し、人生のプラスにする人もいるでしょう。でも、乗り越えられなくて体を壊したり、心を病んでしまう人もいる。みんながみんな、厳しさを乗り越えられるわけではないのです。
だから、厳しさはできるだけ少ないほうがいい。理想はゼロです。世の中の厳しさは、できるかぎり排除していかねばならない。
でも、「世の中は厳しい」と言ってしまうと、そうはいかなくなる。「世の中は厳しい」という言い分は、その厳しい世の中のありようを、存在している厳しさを、そっくりそのまま肯定してしまうのです。
そうすると、世の中が変わらなくなる。厳しさはそのまま温存され、厳しさにさらされている人は、苦しみを味わい続けねばならなくなるのです。
つまり、「世の中は厳しい」という言い分は、安直な現状維持、思考停止なのです。だからよくない。
世の中に厳しさがあるのは事実です。それは僕も認めます。
だからといって、それが素晴らしいわけではない。人々を苦しめるものが、理想的であるはずがない。
厳しさは、できるだけ世の中から排除していかねばならないものなのです。
安易に「世の中は厳しい」などと断じてしまうと、それができなくなる。世の中の厳しさに、厳しさに苦しむ人々に目をつむってしまうことになるのです。それはよくない。
厳しい世の中は、変えていかないといけない。厳しさをそのままにしてはいけないのです。
だから、「世の中は厳しい」などと言うべきではないのです。安易な現状肯定におちいってしまいますから。
これが「世の中は厳しい」という言葉が嫌いな理由です。

たしかに、世の中には厳しさがあります。物価が上がっても給料は上がらないとか、心身を病むほどに長時間労働を強いられるとか、生活にゆとりがなくて子供に満足な食事をとらせてあげることもできないとか。
じゃあ、それら厳しさは、素晴らしいものなのでしょうか。肯定的に受け入れるべきものなのでしょうか。
そんなことはありません。できるだけ変えていかねばならないものです。
自分に酔いながらの「世の中は厳しい」という発言は、変えるべき厳しさを、そっくりそのまま受け入れてしまうことになるのです。それはいけない。
だから、軽々しく「世の中は厳しい」などと言ってはいけないのです。
でもま、そんなことを言うのはひと昔前の中高年で、今はもう誰もそんなこと言わないのかもしれません。とっくの昔に死語同然になってしまっているのかもしれない。
だとすると、「今さらそんな話しても」というか、振り返る必要のない過去をほじくり出しているだけなのかもしれません。そーゆー意味じゃ、ムダな記事なのかもしれない。
それでもなんか、「昔はこんなことがありましたよ」って記録にはなりますし、ヘンな説教に騙されてはいけないという教訓にもなるはずです。だからまったくのムダとまでは言えない。
皆さんは、世の中は厳しいと思いますか。厳しいとすれば、そんな世の中をどう思いますか。
僕は変えていくべきだと思います。
なので、「甘ったれんな」って言葉もやめるべきなんですよ。
マキシマムザホルモンが、「ぶっ殺す」に反する言葉として「ぶっ生き返す」と歌ってましたが、それと同じように、「甘ったれんな」ではなく、「辛ったれんな」と言うべきなんです。
世の中の厳しさを少しでも減らしていくために、これからは「辛ったれんな」です。