(前編からの続き)
さて、ゲームや漫画への過剰なのめり込みを批判する論者であっても、夏目漱石やドストエフスキーを否定するつもりはないだろう。現実にあらざるものを虚構と呼ぶのであれば、純文学もまた虚構であるが、よく考えてみれば、実在しない人物、作話の中の人物に感情移入するというのも、なかなか不思議なことである。
人間の脳内にはミラーニューロンという機能がある。他人の言動を、まるで鏡を見るように感得し、ついつい同じ言動を取ってしまうことがあるのは、このミラーニューロンの働きによる。人間が他人に共感できるのは、ミラーニューロンがあればこそである(おそらく脳内にはミラーニューロン以外にも、共感を生み出す器官が複数あるはずだ。それらの働きの複合的な効果として共感という感覚が派生しているのだと思うが、脳科学に詳しくない小生には、厳密なところはわからない。ここでは、その複数の器官を代表してミラーニューロンという言葉を用いていると理解していただきたい)。
このミラーニューロンは、必ずしも現実世界の人間だけに向かうようにはできていないのではないだろうか。ミラーニューロンは、現実の人間と、フィクションの登場人物を区別できない。だから人間は、絵空事の物語にも涙を流す。
これには「シミュラクラ現象」というのも関わっている。シミュラクラ現象とは、逆三角形に並んだ三つの丸を顔(2つの目と口)と認識してしまう、という錯覚のことで、人間の敵味方の判別や、肉食獣の接近を素早く察知するために発達した認知作用の副産物である。壁のシミが人の顔に見えてしまうのもその働きに拠るのだが、これによって人間は絵画や漫画を読むことができる。人間以外の生物にとっては、絵画や漫画は――たとえ自分と同じ種が鮮明に描かれていようとも――ただのシミや模様でしかない。
そして、シミュラクラの影響も受けているであろうミラーニューロンは、人間と、それ以外の生物をも区別することをしない。だからこそ人間は、ペットを飼うのだと思う。ペットというのも不思議なものだ。人間以外の生物は、ペットを飼うことはない。生存競争上の合理性から共生するのみである。人間は、共感能力の獲得によってペットを飼うようになった。
人類が今日にまで至る繁栄を築くことができたのは、共感能力に拠るところが大きい。人間の社会とは、共感の産物である。他人の痛みを我が痛みのように覚知する共感によって、人間は今ある社会を作り上げた。動物でも「群れ」を形成することはあるが、群れというのは生存戦略として他の個体を利用する(より正確には他の個体を利用し、かつ他の個体に利用される共依存の関係)ものであり、共感を基調とする「社会」とは――共通する部分はあれ――別物である。
つまり何が言いたいのかというと、虚構と現実を混同する感覚を否定することは、人間社会の否定、ひいては人類の歴史の否定にまで繋がるのではないか、ということである。
歴史ということで過去に遡って考えると、原始社会は、どの共同体も必ずと言っていいほど「神話」を有していた。
口述によって語り継がれる神話の中で、土塊が人間となり、人間が動物に、あるいは動物が人間へと姿を変えて異種間婚姻を果たし、異形の子を生した。風が起こって炎となり、砂埃が吹き溜まって島が生まれ、一粒の水滴が海になった。この自由奔放な発想はもちろん脳内の比喩と象徴によって生み出されたものである。
そして、これらの物語は単なる絵空事ではなく、現実と地続きの過去、実際にあった歴史とされていた。
これを野蛮な時代の迷妄と嗤うのはたやすい。しかし、ダーウィンの進化論などの科学的知見が真実を明らかにするまで、人類は種としての自分達がどのようにしてこの世界に誕生したかを検証することができなかった。科学的手段を持ち合わせてはいないが、宇宙の真理を知りたいという願望はある。ならば、想像力によってそれを満たすしかない。
現代の我々が、科学的見地を最も信憑に足る認識手段と思い込んでいるように、原始社会の人々も、想像力こそが世界の成り立ちを解き明かす至上の手段と考えていたのだ。言い換えれば、科学の発展によって想像力は活動の領域を大幅に狭められていった、ということだ。
ただ、ここで注意しなくてはならないのは、科学と想像力は対立する概念ではない、ということである。科学は何かを立証しようとする時、まず仮説を立てる。この仮説は何の根拠もないものであり、想像力によって構想されたものであるが、それなくしては科学は進展しない。
科学と想像力は背反するものではなく、相補的関係にある。想像力によってこれまで正しいとされてきたことを、科学が次々反証してきた経緯があるので、想像力(虚構)と科学(現実)は相反するものだという誤解が生まれたのである。
というわけで結論。
人間においては、そもそも虚構と現実を区別することはできない。虚構と現実を混同することによって人類は現在の繁栄を築くことができた。虚構は、人間だけが知覚できる人間だけの武器である。それに人類は、これまでの歴史の中で、虚構と現実を区別しようとは(ほとんど)してこなかった。
それが近代以降、科学主義や近代的合理主義、及び啓蒙主義の精神によって、非科学的に見えるものや、不合理的に感じられるものに対し、「迷信」や「野蛮」といった見地から「虚構」という区分を与え、それを「現実」との対称概念であるということにした。しかし、もともと虚構は現実の中に含まれており、両者の間にに明確な違いなど存在しなかった。虚構と現実を截然と分割することができるというのは、それら近代の観念による思い込みに過ぎないし、虚構の否定は人類の歴史そのものの否定に繋がってしまう。
また、虚構を現実に混迷をもたらすものとして社会から排除することは、人間の想像力を枯渇させ、文化を衰亡させてしまう恐れもある危険な行為である。
・・・まあこういうわけでして、固っ苦しい話の後は、人類の叡智の一つの達成たる当ブログのマンガでも読んでお寛ぎ頂ければと存じます。はい。
さて、ゲームや漫画への過剰なのめり込みを批判する論者であっても、夏目漱石やドストエフスキーを否定するつもりはないだろう。現実にあらざるものを虚構と呼ぶのであれば、純文学もまた虚構であるが、よく考えてみれば、実在しない人物、作話の中の人物に感情移入するというのも、なかなか不思議なことである。
人間の脳内にはミラーニューロンという機能がある。他人の言動を、まるで鏡を見るように感得し、ついつい同じ言動を取ってしまうことがあるのは、このミラーニューロンの働きによる。人間が他人に共感できるのは、ミラーニューロンがあればこそである(おそらく脳内にはミラーニューロン以外にも、共感を生み出す器官が複数あるはずだ。それらの働きの複合的な効果として共感という感覚が派生しているのだと思うが、脳科学に詳しくない小生には、厳密なところはわからない。ここでは、その複数の器官を代表してミラーニューロンという言葉を用いていると理解していただきたい)。
このミラーニューロンは、必ずしも現実世界の人間だけに向かうようにはできていないのではないだろうか。ミラーニューロンは、現実の人間と、フィクションの登場人物を区別できない。だから人間は、絵空事の物語にも涙を流す。
これには「シミュラクラ現象」というのも関わっている。シミュラクラ現象とは、逆三角形に並んだ三つの丸を顔(2つの目と口)と認識してしまう、という錯覚のことで、人間の敵味方の判別や、肉食獣の接近を素早く察知するために発達した認知作用の副産物である。壁のシミが人の顔に見えてしまうのもその働きに拠るのだが、これによって人間は絵画や漫画を読むことができる。人間以外の生物にとっては、絵画や漫画は――たとえ自分と同じ種が鮮明に描かれていようとも――ただのシミや模様でしかない。
そして、シミュラクラの影響も受けているであろうミラーニューロンは、人間と、それ以外の生物をも区別することをしない。だからこそ人間は、ペットを飼うのだと思う。ペットというのも不思議なものだ。人間以外の生物は、ペットを飼うことはない。生存競争上の合理性から共生するのみである。人間は、共感能力の獲得によってペットを飼うようになった。
人類が今日にまで至る繁栄を築くことができたのは、共感能力に拠るところが大きい。人間の社会とは、共感の産物である。他人の痛みを我が痛みのように覚知する共感によって、人間は今ある社会を作り上げた。動物でも「群れ」を形成することはあるが、群れというのは生存戦略として他の個体を利用する(より正確には他の個体を利用し、かつ他の個体に利用される共依存の関係)ものであり、共感を基調とする「社会」とは――共通する部分はあれ――別物である。
つまり何が言いたいのかというと、虚構と現実を混同する感覚を否定することは、人間社会の否定、ひいては人類の歴史の否定にまで繋がるのではないか、ということである。
歴史ということで過去に遡って考えると、原始社会は、どの共同体も必ずと言っていいほど「神話」を有していた。
口述によって語り継がれる神話の中で、土塊が人間となり、人間が動物に、あるいは動物が人間へと姿を変えて異種間婚姻を果たし、異形の子を生した。風が起こって炎となり、砂埃が吹き溜まって島が生まれ、一粒の水滴が海になった。この自由奔放な発想はもちろん脳内の比喩と象徴によって生み出されたものである。
そして、これらの物語は単なる絵空事ではなく、現実と地続きの過去、実際にあった歴史とされていた。
これを野蛮な時代の迷妄と嗤うのはたやすい。しかし、ダーウィンの進化論などの科学的知見が真実を明らかにするまで、人類は種としての自分達がどのようにしてこの世界に誕生したかを検証することができなかった。科学的手段を持ち合わせてはいないが、宇宙の真理を知りたいという願望はある。ならば、想像力によってそれを満たすしかない。
現代の我々が、科学的見地を最も信憑に足る認識手段と思い込んでいるように、原始社会の人々も、想像力こそが世界の成り立ちを解き明かす至上の手段と考えていたのだ。言い換えれば、科学の発展によって想像力は活動の領域を大幅に狭められていった、ということだ。
ただ、ここで注意しなくてはならないのは、科学と想像力は対立する概念ではない、ということである。科学は何かを立証しようとする時、まず仮説を立てる。この仮説は何の根拠もないものであり、想像力によって構想されたものであるが、それなくしては科学は進展しない。
科学と想像力は背反するものではなく、相補的関係にある。想像力によってこれまで正しいとされてきたことを、科学が次々反証してきた経緯があるので、想像力(虚構)と科学(現実)は相反するものだという誤解が生まれたのである。
というわけで結論。
人間においては、そもそも虚構と現実を区別することはできない。虚構と現実を混同することによって人類は現在の繁栄を築くことができた。虚構は、人間だけが知覚できる人間だけの武器である。それに人類は、これまでの歴史の中で、虚構と現実を区別しようとは(ほとんど)してこなかった。
それが近代以降、科学主義や近代的合理主義、及び啓蒙主義の精神によって、非科学的に見えるものや、不合理的に感じられるものに対し、「迷信」や「野蛮」といった見地から「虚構」という区分を与え、それを「現実」との対称概念であるということにした。しかし、もともと虚構は現実の中に含まれており、両者の間にに明確な違いなど存在しなかった。虚構と現実を截然と分割することができるというのは、それら近代の観念による思い込みに過ぎないし、虚構の否定は人類の歴史そのものの否定に繋がってしまう。
また、虚構を現実に混迷をもたらすものとして社会から排除することは、人間の想像力を枯渇させ、文化を衰亡させてしまう恐れもある危険な行為である。
・・・まあこういうわけでして、固っ苦しい話の後は、人類の叡智の一つの達成たる当ブログのマンガでも読んでお寛ぎ頂ければと存じます。はい。
世間を騒がせる殺人などの凶悪犯罪を未成年が犯した際、その犯人が暴力的でグロテスクな描写を含むゲームに耽溺していたり、残酷描写のある漫画やDVDを所持していた場合、属に有識者と呼ばれるお歴々が決まって口にする定型文句が「虚構と現実の区別がつかなくなった故の犯行」というものだ。(もっとも最近はそういう話を聞かない。ただしそれは、有識者の意見が変わったのではなく、犯罪の傾向や報道の切り口のほうが変化しているのだろう)
小生はずっと前からこの解釈に疑問を感じていた。とある精神科医だったと思うが、この定型句に対し、「虚構と現実の区別がつかなくなるほど意識が混濁していれば、目的を持った行動を取ることすらできなくなるので、殺人など犯しようがない」との反論を加えていた。おそらくそれは正しいのだろう。しかし、何か足りない気がする。この(たぶん)精神科医の反証だけでは、肝心要の部分を言い落しているのではないかという気がするのだ。
また、小生は10代の頃、「漫画だろうがゲームだろうが、あるいはインターネットだろうが、現実の一部としてこの世界に存在しているわけで、それを虚構と呼ぶのはおかしいのではないか」と思っていたのだが、それも部分的には正しくても、本質的な反論にはなっていないのではないかと今は思う。
「ゲームばかりしていると虚構と現実の区別がつかなくなり、犯罪行為に手を染めてしまう」という、一見もっともらしく、あまりにわかり易いこの説明は、現代を生きる我々が陥りやすいある種の思考の落とし穴の産物なのではないか。そんな気がするのである。
まず、「虚構と現実の区別がつかなくなる」という言明が成立するには、その前段として、「虚構」と「現実」が明確に区別されていないといけないわけだが、この2項の間に確たる分割線を引くことはできるのだろうか。
仮に物理的実体を備えているものを現実とし、それ以外の「現実に在らざるもの」を虚構としてみよう。
すると、漫画やゲームのみならず、頭の中で「今晩のおかずは何にしようかな」と考えることもまた虚構になってしまう。人間は未来を予測し、計画を立てて行動する生き物である。未来に思いを巡らせてこそ合理的で建設的な行為が可能となる。我々が何事かを成す、というのは、言い換えれば虚構を現実化する、ということである。また、虚構の助けを借りてこそ現実はより理想的なものとなる、と言うこともできるだろう。(余談になるが、その意味で、現政権の中枢にいる連中がよく使う「仮定の質問には答えられない」という言い訳は実に不愉快である)
一概に、虚構を「現実社会に混乱を及ぼすもの」と決めつけるのは乱暴なのではないだろうか。
また、漫画や映画、小説などのフィクションについてよく考えてみると、虚構と現実を区別することの難しさが見えてくる。
「創作された物語=虚構」と思っている人は少なくないだろう。しかし、それらフィクションであっても、現実の世界の延長線上に創造されたものである。
「これはフィクションです。実在の人物、団体等とは関係ありません」。しかし、フィクションは一から創り出されるものではない。固有名を持った人物・団体・組織は架空の存在として描かれる。だがその登場人物は、現実の人間と同じ身体構造を備えた生物であって、その物語オリジナルのヒューマノイドではない。架空の野球チームや会社が出てくることがあるが、団体や組織の形成の仕方もまた現実の規則にのっとっている。(その他重力の法則だとか、太陽や空気の存在だとか、生と死の概念だとか、現実世界が成立するための諸々の前提条件も当然のものとしてフィクションの中で生きている)
SFやホラーなどは現実とかけ離れた世界設定だったりするが、それだって現実の発展形、あるいは部分的に現実の姿を変容する「もしこんな世界があったら」という形で創作されるのが普通である。つまり、現実を下敷きにしているという点は同じなのであって、どれだけ突拍子もない作り話であっても、現実と一切の共通点を持たない、ということはあり得ないのだ。もしも、現実と全く関連性を持たない物語が創造されたとして(理論上は不可能ではない)、ほとんどの人間はその物語を理解することができないだろう。言い換えれば、フィクションは現実の延長線上にあってこそフィクションとして理解されうる、ということである。
また余談になるが、一昔前のSF作品が「◯◯の到来」「◯◯の誕生」を予見していたとして、SF作家の想像力が称賛されることがあるが、小生はこれはそんなに凄いことだとは思わない。SF的想像力もまた現実世界の発展形であり、現実を踏まえ、その延長線上にどんな未来が訪れるかに思いを巡らせれば、来るべき世界を描写するのはそんなに難しいことではないと考えているからだ。
そして、フィクションが現実に影響を与え、現実を動かすことがあれば(それは実際「聖地巡礼」のような形で毎日のように起きている)、それは「現実の虚構化」と言うこともできるだろう。現実を反映して創作された虚構(フィクション)が新たな現実を作り出す。さて、虚構と現実の境界線はどこにあるのだろう。
では、設問を「虚構と呼ばれるものはいつ誕生したか」に変えてみよう。
中沢新一の『芸術人類学』によれば、10万年前にアフリカに誕生した現生人類には、それまで接続されていなかった脳内のニューロン同士の間を媒介するネットワークがつくられ、それによって心の中に新たな領域が出現したという。
新たな接続が生まれたということは、これまで無関係に並列して存在したもの同士の間に関係が生まれたということである。それによって比喩や象徴といった、高度な脳の働きが生じ、「芸術」や「宗教」といった文化が生まれたが、同時に「妄想」や「狂気」も誕生してしまったという。(ただ、人間以外の生物からしたら、芸術や宗教も妄想や狂気でしかないだろう。と言うより、人間の妄想や狂気のうちで、社会的に有用な対象にのみ芸術や宗教といった呼称を与え、それ以外と弁別を図っている、というのが正確なのだと思う)
人間は、この脳の変化によって、現実世界の中に、実在を超える「何か」を見出すようになった。たとえば、リンゴ。リンゴを糧とする人間以外の生物は、リンゴに対し、食料以上の意味を見出すことはない。それはただ飢えを回復するための対象であり、ひとたび空腹が満たされてしまえば(食糧を備蓄する習性を備えた生物以外は)もう見向きもしない。しかし人間は、それから季節の移ろいを感じ取り、人知を超えた何者かの意図を直感し、香りに恍惚とし、鮮やかな色彩から創作意欲を掻き立てられる。対象から過剰な意味を汲み取ってしまう。それが人間である。
中沢は芸術と宗教にしか言及していないが、それ以外にも言語がこの脳内の変化によってもたらされたと見ていいだろう。喉頭の振動によって発せられる「i‐nu」という音の連なりと、太古から人類の傍らにいた愛玩動物との間には、もともと何の因果関係もない。言語もまた、無関係のもの同士の結びつけによって成立している。
母国語を覚えた幼児にせよ、外国語を学んだ者にせよ、言語を習得した者がまず最初に夢中になるのが言葉遊び、すなわち「ダジャレ」である。「音の近さ」によって意味のかけ離れた事物同士を結び付けることに、人は快感を覚える。これもまた比喩や象徴の産物であり、ここから詩や俳句や小説などの文化が誕生した。
(後編に続く)
小生はずっと前からこの解釈に疑問を感じていた。とある精神科医だったと思うが、この定型句に対し、「虚構と現実の区別がつかなくなるほど意識が混濁していれば、目的を持った行動を取ることすらできなくなるので、殺人など犯しようがない」との反論を加えていた。おそらくそれは正しいのだろう。しかし、何か足りない気がする。この(たぶん)精神科医の反証だけでは、肝心要の部分を言い落しているのではないかという気がするのだ。
また、小生は10代の頃、「漫画だろうがゲームだろうが、あるいはインターネットだろうが、現実の一部としてこの世界に存在しているわけで、それを虚構と呼ぶのはおかしいのではないか」と思っていたのだが、それも部分的には正しくても、本質的な反論にはなっていないのではないかと今は思う。
「ゲームばかりしていると虚構と現実の区別がつかなくなり、犯罪行為に手を染めてしまう」という、一見もっともらしく、あまりにわかり易いこの説明は、現代を生きる我々が陥りやすいある種の思考の落とし穴の産物なのではないか。そんな気がするのである。
まず、「虚構と現実の区別がつかなくなる」という言明が成立するには、その前段として、「虚構」と「現実」が明確に区別されていないといけないわけだが、この2項の間に確たる分割線を引くことはできるのだろうか。
仮に物理的実体を備えているものを現実とし、それ以外の「現実に在らざるもの」を虚構としてみよう。
すると、漫画やゲームのみならず、頭の中で「今晩のおかずは何にしようかな」と考えることもまた虚構になってしまう。人間は未来を予測し、計画を立てて行動する生き物である。未来に思いを巡らせてこそ合理的で建設的な行為が可能となる。我々が何事かを成す、というのは、言い換えれば虚構を現実化する、ということである。また、虚構の助けを借りてこそ現実はより理想的なものとなる、と言うこともできるだろう。(余談になるが、その意味で、現政権の中枢にいる連中がよく使う「仮定の質問には答えられない」という言い訳は実に不愉快である)
一概に、虚構を「現実社会に混乱を及ぼすもの」と決めつけるのは乱暴なのではないだろうか。
また、漫画や映画、小説などのフィクションについてよく考えてみると、虚構と現実を区別することの難しさが見えてくる。
「創作された物語=虚構」と思っている人は少なくないだろう。しかし、それらフィクションであっても、現実の世界の延長線上に創造されたものである。
「これはフィクションです。実在の人物、団体等とは関係ありません」。しかし、フィクションは一から創り出されるものではない。固有名を持った人物・団体・組織は架空の存在として描かれる。だがその登場人物は、現実の人間と同じ身体構造を備えた生物であって、その物語オリジナルのヒューマノイドではない。架空の野球チームや会社が出てくることがあるが、団体や組織の形成の仕方もまた現実の規則にのっとっている。(その他重力の法則だとか、太陽や空気の存在だとか、生と死の概念だとか、現実世界が成立するための諸々の前提条件も当然のものとしてフィクションの中で生きている)
SFやホラーなどは現実とかけ離れた世界設定だったりするが、それだって現実の発展形、あるいは部分的に現実の姿を変容する「もしこんな世界があったら」という形で創作されるのが普通である。つまり、現実を下敷きにしているという点は同じなのであって、どれだけ突拍子もない作り話であっても、現実と一切の共通点を持たない、ということはあり得ないのだ。もしも、現実と全く関連性を持たない物語が創造されたとして(理論上は不可能ではない)、ほとんどの人間はその物語を理解することができないだろう。言い換えれば、フィクションは現実の延長線上にあってこそフィクションとして理解されうる、ということである。
また余談になるが、一昔前のSF作品が「◯◯の到来」「◯◯の誕生」を予見していたとして、SF作家の想像力が称賛されることがあるが、小生はこれはそんなに凄いことだとは思わない。SF的想像力もまた現実世界の発展形であり、現実を踏まえ、その延長線上にどんな未来が訪れるかに思いを巡らせれば、来るべき世界を描写するのはそんなに難しいことではないと考えているからだ。
そして、フィクションが現実に影響を与え、現実を動かすことがあれば(それは実際「聖地巡礼」のような形で毎日のように起きている)、それは「現実の虚構化」と言うこともできるだろう。現実を反映して創作された虚構(フィクション)が新たな現実を作り出す。さて、虚構と現実の境界線はどこにあるのだろう。
では、設問を「虚構と呼ばれるものはいつ誕生したか」に変えてみよう。
中沢新一の『芸術人類学』によれば、10万年前にアフリカに誕生した現生人類には、それまで接続されていなかった脳内のニューロン同士の間を媒介するネットワークがつくられ、それによって心の中に新たな領域が出現したという。
新たな接続が生まれたということは、これまで無関係に並列して存在したもの同士の間に関係が生まれたということである。それによって比喩や象徴といった、高度な脳の働きが生じ、「芸術」や「宗教」といった文化が生まれたが、同時に「妄想」や「狂気」も誕生してしまったという。(ただ、人間以外の生物からしたら、芸術や宗教も妄想や狂気でしかないだろう。と言うより、人間の妄想や狂気のうちで、社会的に有用な対象にのみ芸術や宗教といった呼称を与え、それ以外と弁別を図っている、というのが正確なのだと思う)
人間は、この脳の変化によって、現実世界の中に、実在を超える「何か」を見出すようになった。たとえば、リンゴ。リンゴを糧とする人間以外の生物は、リンゴに対し、食料以上の意味を見出すことはない。それはただ飢えを回復するための対象であり、ひとたび空腹が満たされてしまえば(食糧を備蓄する習性を備えた生物以外は)もう見向きもしない。しかし人間は、それから季節の移ろいを感じ取り、人知を超えた何者かの意図を直感し、香りに恍惚とし、鮮やかな色彩から創作意欲を掻き立てられる。対象から過剰な意味を汲み取ってしまう。それが人間である。
中沢は芸術と宗教にしか言及していないが、それ以外にも言語がこの脳内の変化によってもたらされたと見ていいだろう。喉頭の振動によって発せられる「i‐nu」という音の連なりと、太古から人類の傍らにいた愛玩動物との間には、もともと何の因果関係もない。言語もまた、無関係のもの同士の結びつけによって成立している。
母国語を覚えた幼児にせよ、外国語を学んだ者にせよ、言語を習得した者がまず最初に夢中になるのが言葉遊び、すなわち「ダジャレ」である。「音の近さ」によって意味のかけ離れた事物同士を結び付けることに、人は快感を覚える。これもまた比喩や象徴の産物であり、ここから詩や俳句や小説などの文化が誕生した。
(後編に続く)