猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

軍備増強、原発推進に慎重な候補がひとりしかいない自民党の総裁選

2024-09-27 11:19:54 | 政治時評

きょうの午後1時から自民党総裁選が行われる。

この3年間に岸田文雄はいつの間にか、軍備増強、原発推進に舵を切った。自民党総裁選で、軍備増強、原発推進に慎重な姿勢を示すのは、石破茂ただ一人である。聞くところによると、経済自由主義の小泉進次郎か、軍事派マッチョ保守の高市早苗がトップ争いをしているようだ。

軍備増強にしろ、原発推進にしろ、国を二分する話である。それなのに、これらに慎重な自民党総裁選候補が9人中に1人しかいないのに、私は日本の将来に不安を感じる。立憲民主党の新代表、野田佳彦はちゃんとこれらに反対するのかも心配である。

軍備増強はきりのない軍備拡張競争に落ち込む。現在、自衛隊員志願者が少なく定員割れを続けているのに武器や戦闘機や戦艦にお金をどんどんつぎ込むということは、政治家と軍事産業との癒着を深めることにならないのか。軍事費は身の丈にあった程度でいいのではないか。平和外交のほうがだいじではないか。

年初の能登大地震で、珠洲に原発を作らないで良かったね、志賀原発を再稼働しなくてよかったね、と地元では言っているのに、自民党総裁候補のほとんどが原発推進を言っているのはいただけない。また、使用済み核燃料を保管する場所がないのに、原発を稼働して使用済みの核燃料を増やしていいのだろうか。核燃料サイクルの名のもとに、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出すことは新たな問題を引き起こすのではないのか。

核燃料サイクルの問題は、プルトニウムを燃やす発電炉の技術ができていないのに、プルトニウムを使用済み核燃料から取り出すという不思議な展開になっていることだ。

また、ウラニウム核燃料は放射性物質の閉じこめが施されている。それを破壊してプルトニウムを取り出せば、放射性物質が拡散する。プルトニウムを燃やせば、ウラニウムと同じく、放射性物質が生産される。核燃料サイクルに何もメリットはない。

総裁候補の河野太郎は、かつて核燃料サイクルに反対していた。しかし、総裁となる野心に負けて、自分の意見を引っ込めている。

自民党の多数が個人的野心のなかで狂いだしているとき、野党はもっとしっかりしないといけない。


立憲民主党の代表選と野党の役割

2024-09-13 02:59:22 | 政治時評

このところ、メディアは自民党の総裁選と立憲民主党の代表選を対等に報道しており、よい傾向だと思う。

きのうの朝日新聞の夕刊に、立憲民主党は政権を本気で取る気があるかの記者のコメントがあったが、政権を奪うことが野党の本来の役目ではない。野党のもっとも大事な役割は、政権党と異なる政治方針の選択肢を国民に示すことである。さもないと、国民には選挙の際の選択肢がなくなり、自分の意思を代弁してくれる議員を国会に持てなくなる。

例えば、原発を推進するのか、原発を仕方がなく使用続けるのか、原発を廃棄し太陽光発電や風力発電を推進するのか。

沖縄の住民の意思を中央政府が無視し、沖縄ばかりに中国を敵とする米軍の基地を押し付けていてよいのか。日本に米軍基地は必要なのか。

インフレで国の借金をチャラにしようという経済政策によって、見捨てられる層を誰が代弁するのか。インフレは強い産業に属する雇用者だけが有利で、他は実質的に賃金の切り下げになるのではないか。他の産業も社会に必要なものを生産しているではないか。

日本の産業を育成するために、消費税を重くし、特例を作って法人税を軽くしていく、現在の税制度の不満を誰が代弁するのか。

経営者の都合で雇用を打ち切り易くするのは、よいことなのか。

政権の交代だけで政治が良くなると期待するのは幻想である。選挙はお祭りでない。個人的野心や党派的野心に基づくエリートの権力闘争の場であってはならない。政権党の恩恵を受けない層を野党がしっかりと代表しないといけない。

立憲民主党代表選の候補者の主張を聞いていると、野田佳彦は政権交代しかない。政権党との違いは、政治資金を私的目的に使わないとしか言っていない。

枝野幸男も、自民党との違いがはっきりしない。自民党よりも効率的に政治を行うとしか言っているように聞こえる。

メディアによっては野田を押しているが、野田や枝野はもう国民にとって必要とされないのではないか。彼らは引き下がって、泉健太や吉田晴美に立憲民主党を任したほうが良いのではないかと私は考える。


知的レベルが低いのは小泉進次郎だけではない、メディアはもっと低い

2024-09-08 23:12:09 | 政治時評

(John Kenneth Galbraith)

9月8日現在、自民党総裁選の告示がまだないのに、メディアは小泉進次郎を有力総裁候補として大々的に取り扱っている。2日前に進次郎を知的レベルが低いと質問した記者がいたが、メディアの非知性的な風潮への反抗のつもりだったのだろうか。とにかく、メディアが総裁選を劇場型に煽るのは、やめにして欲しい。ジャーナリストが政治に知性的な視点を失っては、その使命を果たしたことにならない。

進次郎が総裁選出馬会見で規制緩和を訴えていたが、規制を緩和したからといって、経済が好況になるわけではない。規制があるのは、富裕層の経済的自由のために、貧困で不自由な生活を強いられる人々を救うためにある。したがって、規制緩和が社会正義であるかのような誤解は正さないといけない。

J. ガルブレイスは、1957年出版の『ゆたかな社会(The Affluent Society)』で、歴史的な視点から、経済的自由主義や資本主義社会が生んだ好況と不況の波を論じている。経済的自由主義とは、経済的活動に規制をかけてはいけない、という考えだが、はじめは、君主からの規制を想定していた。それがいかなる政治的規制をかけてはいけないという考えになったのは、「社会進化論」の学説の影響である、とガルブレイスは言う。

ガルブレイスによれば、経済学の主流は、経済には自立的な法則がある、たとえば、資本の蓄積とともに、労働者の賃金は低下していく、といったことを明らかにすることだった。ところが、「社会進化論」はそこに価値観をもってくる。

「経済社会は人々の競走場裡である。戦いの条件は市場によって決められている。勝利者の報酬は生き残ることであり、立派に生き残ればさらに富という報酬が与えられる。これに反して敗北者は獅子の餌食になる」「弱者を淘汰することによって弱者が再生産されない」「無慈悲であればあるほど、弱者がより淘汰されるので、その効果もいっそう慈悲深い」

19世紀のハーバート・スペンサーはこう主張して、チャールズ・ダーウィンにさきだって「適者生存」という言葉を使った。

好況・不況の波は19世紀から起きていたが、その不況がどんどんひどくなって、1928年の大恐慌のときに、政治が経済活動に介入することを、全世界的に社会が受け入れた。岸田政権が「新資本主義」という言葉を使う90年前のことである。

このときの政治による経済活動への介入は、単に政府が公共事業に財政支出するだけでなく、アメリカは金融業にも規制を行った。株価操作を防ぐため、銀行業と証券業とは同一の法人が経営してはならないなどである。1928年の大恐慌は株価暴騰の後の株価暴落で始まった。

新自由主義とは、この90年前に始まった規制の撤廃を唱えることを指す。この逆行の背景には、ケインズ型の財政支出による景気対策が効果を発揮しなくなったことや、貧困層のために国が出費することの富裕層の不満がある。じっさい、スペンサーは公的教育制度にも反対していた。

菅義偉や岸文雄は自民党総裁選で新自由主義を批判した。その菅が、今回、規制緩和を唱える小泉進次郎の推薦人になっている。菅の「新自由主義批判」はウソだったのだろう。


田中秀征の提案する中選挙区連記制

2024-09-02 12:35:23 | 政治時評

3週間前、機能不全に陥っている代議制民主主義を救うために、田中秀征が朝日新聞で中選挙区連記制を提案していた。はじめは、彼は見当違いのことを言うと思っていたが、時がたつとそんなに悪くないな、と私は思い出した。

彼の中選挙区連記制とは、一選挙区の議員定数を3人から5人にして、有権者は2名に投票できることをいう。

「裏金問題に見られる政治の劣化の主因は小選挙区制にあり」という田中の主張は理解しがたいが、小選挙区制は、確かに、政党幹部に権力が集中し、民意が反映しにくいと思う。小選挙区制ではマイノリティの意思は切り捨てられると思う。

田中はつぎのように言う。

「中選挙区の時代は、農業団体に強い議員と商工団体に強い議員が自民党内で激しく対立し、(党内で)調整するのが常でした」「小選挙区制では、自民党を支持する農業や商工、建設団体、医師会などが、こぞって一人の自民党候補を推すのです」「議員は政党のトップに逆らわなくなる。そのうちに構想力もなくなり、志まで失う」

小選挙区制となると、当選した議員が誰の利害を代弁するのか、曖昧になる。みんなにいい顔をしようするから、政策ではなく、軍備増強とか保守的価値観をふりまくだけになる。これは、ハンナ・アーレントが「全体主義の起源」で訴えた20世紀初頭からワイマール共和国のドイツの代議制民主主義の欠陥そのものではないか。

20世紀初頭のドイツの失敗は比例代表制で起きた。小選挙区制だけが悪だと言えない。

政党が国民を代表しなくなってしまうということこそ、2大政党制が陥る罠ではないだろうか。アメリカでのトランプの出現は、従来の民主党や共和党が、国民のどの層を代弁するのかあいまいになったからではないだろうか。多数の政党があるのが健全な代議制民主主義ではないだろうか。無党派の議員がいても良いのではないだろうか。

こういう問題意識をもって、田中の中選挙区連記制を考えると、あり得る選択肢に思える。


政治不信と不安「わかる選挙」への渇望、宇野重規

2024-07-26 04:03:55 | 政治時評

きのうの朝日新聞に宇野重規が論壇時評『都知事選が示した民意 不信と不安「わかる」への渇望』を書いていた。「「わかる」への渇望」とは「わかりにくい」タイトルである。

選挙を民意の反映プロセスとすると、有権者は多様な政党や候補者の中から自分の立場を代弁するものを選ばなければならない。有権者にとっては、どの政党や候補者を選べばよいのか、「わかりにくい」というのが、宇野重規の主張である。

これは別に都知事選に限ったことではない。また、政治に限った問題ではない。

私は果物が好きである。果物の味は、同じスイカでも、同じ桃でも、同じメロンでも、大きく異なる。食べてみないとわからない。しかし、食べる前に、お金を払う必要がある。

高額な電化製品の場合も、買って使ってみないと、使いやすいのか、どれだけ壊れずに働き続けるのか、わからない。

私がまだ子供のとき、私の親父は、選挙のたびに、自民党の新人を応援して投票していた。そして、選挙が終わってしばらくたつと、いつも裏切られたと怒っていた。子どもの私からみれば「自民党」に投票するから悪いのだと思っていた。

商品の購入では、このような判断を「ブランド」と値段でするということになる。電気洗濯機は「東芝製」より「日立製」が壊れにくいとか、そういう噂にもとづいて買うことになる。

選挙が「わかりにくい」というのは、まず政党の「ブランド」イメージが壊れたのだと思う。最初にそれが壊れたのは1990年代ではないだろうか。それ以前は「革新」か「保守」という「ブランド」イメージが機能していた。「革新」を期待する人は「革新」に、「保守」を期待する人は「保守」に投票した。

私の親父をダマしつづけた「新人」というのも「ブランド」イメージである。1990年代に起きた「新党ブーム」も「ブランド」イメージによる有権者ダマしである。

商品の場合、「ブランド」イメージの確立や維持には、かなりの企業努力がいる。そのために、企業は商品の品質管理に努めるとともに、莫大な広告費を使うことになる。「広告」は、電通や博報堂が言うような「ニーズの喚起」や「欲望への刺激」だけでなく、企業イメージの確立(事実上の詐欺行為)やマスメディアの共犯者化(メディアの買収)として働く。

今回の都知事選で2位の石丸伸二の選対事務局長はマニフェスト選挙を批判している。政策をいくら細かく説明しても、その政策は実現できるか、わからない。そんなもので有権者は候補者を選ばない、と言う。

確かに選挙マニフェストは商品の機能表示のようだが、政治の場合、権力を握ってからでないと、マニフェストに表示された結果は生じない。しかも実現に時間を要する。

2009年、民主党はマニフェストを示し、選挙に勝って政権を獲得した。しかし、マスメディアはマニフェストが実現しないと叩き、民主党政権は 3年と もたなかった。民主党はマスメディアを味方につけておかなかったからである。すなわち、広告費を使ってマスメディアやコメンテータを買収しておかなかったからである。

石丸伸二の選対事務局長が言うように、石丸は「新人」というブランドを使ったのである。「(石丸は演説で)『小さな問題はどうでもいいんだ』と言って『政治を正すんだ』という話しをずっとやり続けた。それでも来る人の8、9割は『すごい』と言って帰っていく」のだ。

このことからすると、「「わかる」への渇望」という要求に、どだい無理な点がある。「チョコレートの味は食べてみないとわからない」のだ。

したがって、選挙だけで民意を反映するのではなく、政治への民意の表現の場を日常的に設けなければならない。マスメディアが買収されても、政治への不満が述べられる場が必要である。

インタネットがその役割をするとは言えない。

インタネットには大量の情報があふれている。どのSNSも企業が運営している。国民は、企業の作ったアルゴリズムを通して、情報にアクセスすることになる。企業がアクセスする情報を管理しているのだ。いっぽう、権力者側はAIを使って誰が「反権力的」か同定できる。

このように私たちはとても難しい時代に生きている。自分たちを自分たちで権力者から守る文化を生む必要がある。