(Марина Девятова)
佐伯啓思は、『「ロシア的価値」と侵略』(朝日新聞寄稿、3月26日)で、西側の価値の優位にたいして異議を唱えている。私も、ロシア軍のウクライナ侵攻のなかでBBC放送が安易に「西側の価値」を強調しているのにウンザリしている。
だいたい、文明は東方からきたのではないか。キリスト教の発祥の地はガリラヤのナザレではないか。メソポタミア文明、エジプト文明、ギリシア文明の衝突によって生まれたのではないか。
それを16世紀末のスペインと海賊国家イギリスとの闘いで、たまたま、イギリスが勝ったから、海外に植民地をもつ帝国となっただけである。そして、厚かましくも、ギリシア文明の後継者のフリをしている。
「西側の価値」の1つは個人主義であるが、その発祥の地は東方のシリアである。自分は国家と切り離された存在であるとの認識が個人主義の原点である。
プラントンが何が善か何が正義かを論ずるに、国家(公共)にとって何が善か何が正義をもとに考えた。それは、古代ローマ帝国の政治家に引きつがれている。しかし、自分を国家と一体と思えない人びとには、国家の横暴のなかで、自分の幸せとは何か、自分の心の平安はどうして得られるか、真剣に考えざるをえない。個人主義はそのようしてローマ帝国の属州シリアに生まれた。
ところが、西側の個人主義は、王侯貴族が自由気ままにふるまっている「自由」を、新興勢力の自分によこせということに始まっている。17世紀の哲学者のジョン・ロックの『統治論』を読むと、「自由」と言っているのは、「私的所有」のことである。自分の財産を王や貴族に奪われたくないと言っているのだ。「公」に対して「私」の主張だが、「私」を主張できるのはどこまでの人びとなのか、ロックはその問題は真剣に考えていなかったようだ。ロックは、召使いが働いて収穫したものは雇用主のものとした。
19世紀、20世紀になると、国と国とが国民を動員して戦うようになる。総力戦である。総力戦を戦い抜くには、国民国家という装いが必要となる。選挙で選ばれた優秀な人材が国を統治しているという装いが必要となる。いっけん、民主主義であるように思えるが、この代議制は、偉大なるものが国を統治するという寡頭制、独裁制に容易に転換される。それは、西側の「自由主義」の内側に、能力のあるものが「自由」の果実を独占してもよいという堕落の種がまかれているからだ。
問われているのは、「市場主義」とかいう技術的な問題ではなく、本質的には、「私的所有」の問題である。これは自分のもの、あなたにはあげないという、「公」と「私」の境界の問題である。
「西側の価値」を守るために、私たちはロシアと戦うのではない。ロシア軍がウクラナイに攻め込み、住居やインフラを爆撃し、人びとを殺し、あるいは、いままでいたところでは生活することができないようにしているから、それを止めるために闘うのである。
佐伯啓思は、「西側の価値」にたいし「ロシア的価値」に言及する。しかし、「ロシア的価値」として言及しているのは「大地憂愁、神と人間の実存、それにロシア正教会風の神秘主義といった独特の空気」である。ピンとはずれでないか。
「西側の価値観」から抜け落ちているのは、私たちはみんな同じ大地に生きるもの、自分だけ豊かであってはいけない、人と競わないでみんなで穏やかに生きたい、という気持ちである。そういうものがトルストイやドストエフスキーの小説から聞こえてくる。そして、それは感動をさそう世界のすべての小説にも埋め込まれていると思う。「西側の価値観」こそ、決して普遍的でない。
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(The Remains of the Day)
残念なことに、NPOの仕事があって、昨夜のウクライナ大統領ゼレンスキーの国会演説をリアルタイムでライブで同時刻に聴くことができなかった。家族に聞くとあまり評判がよくなかった。言語の壁が高かったようだ。同時通訳はとても難しい。在日ウクライナ人が通訳したらしいが、自国語を聞いて理解できても、それを同時刻にそのまま外国語に翻訳することは難しい。ふつう通訳者は、事前に話の要旨を聞いていて、同時通訳するのだが。軍事侵攻中の今回はそれもできない。
それでも、深夜のBS日テレの右松健太、飯塚恵子の解説を聞くと、ゼレンスキー大統領のスピーチがとても高く評価されていた。これから、時間をかけて、ゼレンスキーの呼びかけが日本人に行き渡るであろう。そう願いたい。
きょうブリュッセルで行われたNATO首脳会議にも期待をかけている。秘密会議なのでどこまで話されたのか、どこまで合意されたかはわからない。また、バイデン大統領のポーランド訪問にも期待している。
アメリカ政治の研究者、中山俊宏によると、アメリカの民主党の半分はウクライナ侵攻への軍事介入に賛成だが、共和党、アメリカ国民の大半はウクライナに同情するが、介入に慎重な模様である。
ナチスドイツは、第2次世界大戦がはじまる前に、オーストラリアを併合、ポーランドをロシアと分割、チェコスロバキアを占領した。これに対し、他のヨーロッパ諸国は同情すれど、世界大戦に発展させたくなかった。行動をためらった。
奇しくも、きのうの夜、1993年のイギリス映画『日の名残り』をテレビで放映していた。これは、カズオ・イシグロの小説の映画化である。私の妻が中公文庫の翻訳をもっていたが、読むと、映画はうまく内容を絞って134分に納めている。まさに、現在起きていることである。
大戦前夜、世界平和のためにドイツとの友好を維持しようとする貴族に仕える執事ミスター・スティーヴンスの物語である。
彼は、主人に忠誠であろうとして、主人がナチスに利用されいる現実を見ようとしなかった。そして、女執事のミス・ケントンからの婉曲な告白を、本当は好きなくせに、執事の仕事を理由に、答えず逃げたのだ。
スティーヴンスは、大戦後、新しい主人からもらった休暇でミス・ケントンに会いに行き、彼女の気持ちを確認しようとする。その旅の途中、自分が侵略・ユダヤ人排斥・民主主義破壊に傍観者であったことを、彼女を傷つけたことを、心から理解する。しかし、取り返しつかないことをそのまま受け入れ、残りの人生(the remains of the day)を送るために、執事の仕事に戻るという物語である。
今回、私もあなたも傍観者になるのだろうか。少なくも、経済封鎖の反撃で、ガソリンの値段が上がった、カニや鮭の値段が上がったなどという不満は私は言いたくない。
きょうもロシア軍による無差別ミサイル爆撃が、ウクライナの諸都市で続いている。
ウクライナ大統領ゼレンスキーの国会演説が明日オンラインで行われることに決まったという。問題は、この演説が国会議事堂の向かいの議員会館の会議室で行われることだ。
日本にはオーディオヴィデオ(AV)技術先進国である。大規模スクリーンにゼレンスキー大統領の姿を映し出すことなど、半日あればいつでも議事堂に準備できる。30年以上前からスポーツイベントがあれば、会場の外にいつもパブリックビュー(オーロラビジョン)が設置されているではないか。
今回もそうすれば、国会議員が一堂に会して大統領の演説を聞くことができる。なぜ、そうしないで、あす、国会議事堂の向かいの議員会館の一室に、一部の議員を集めて、ウクライナ―大統領の訴えを聴くのだろうか。
それは、ロシア軍のウクライナ軍事侵攻に曖昧な態度を日本政府や一部の政治家がとりたがるからである。
しかし、国際政治でそのような曖昧な態度を取って良かったことがあるのか。どっちつかずの態度をとって、どちらからも嫌われるのがオチである。加藤陽子の本を読んでいると、戦前もそうだったとのことである。
日本はアメリカが提唱するロシアへの経済封鎖に参加することを表明しており、ロシアから報復措置がすでになされている。
自分に意志がなく、他国の政府に脅かされて従っているふりをすれば、周囲の国はみんな脅かし始めるだけである。結局は、何が善で何が悪なのか、何が正義なのかをはっきり自分で判断しなければ、暴力に振り回されるだけの国になる。
大事なのは自分の判断を日本のみんなに世界のみんなにわかりやすく話すことで、脅かす人に耳を傾けることではない。
武器をもった自衛隊をウクライナに派遣しなくても、丸腰の平和実現の調査団をウクライナに派遣しても、ロシア軍の軍事侵攻を止めることもできるだろう。丸腰の岸田文雄首相がマリウポリ、ハリコフ、キエフに訪れ、白旗をふって、即時停戦を訴えたって良い。憲法9条の範囲でできることはいっぱいある。
(キエフ Київ)
いま、毎朝起きると、キエフは大丈夫か、ゼレンスキー大統領が生きているか、不安をもって、BBCやCNを見る。戦いが続いていて、ウクライナの地で人びとが大量に死に、自分の住処から逃げるしかない人びとに、やるせない思いを強める。
4,5日前から加藤陽子の『この国のかたちを見つめ直す』(毎日新聞出版)を少しづつ読んでいる。装丁が悪く、開くと、ぎっしりと詰まった文字に圧倒される。編集も悪く読みづらい。しかし、そのうちに慣れてきた。
その136ページに、第1次世界大戦後のパリ講和会議で、イギリス大蔵省代表のケインズが、ドイツに報復的賠償を科すことに怒って、パリを去ったとある。そのとき、ケインズがウィルソン米大統領に「あなたたちアメリカ人は折れた葦です」と言ったという。
本当にどう言ったか探しているのだが、“a broken reed”は英語圏では有名なイデオムでどの辞書にも載っている。いざとなったときに役をたたない人や物をさす。
この語を聞いて、まさに、現在のアメリカ政府をさす、と思った。
加藤は、これが旧約聖書の『イザヤ書』36節6節に出てくる言葉だ、と、牧師の人に教えられたと書く。
「今、お前はあの折れかけた葦の杖、エジプトを頼りにしている。だが、それは寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。」(聖書協会共同訳)
「あの折れかけた葦の杖」はヘブライ語「על־משענת הקנה הרצוץ הזה」の訳である。韻を踏んでいる。
もともと、誰が誰にそう言ったか、わかると言葉に重みがでてくる。『イザヤ書』36章の「折れかけた葦」は、現在の英語圏の「折れた葦」と異なったニュアンスで使われている。
アッシリア国王から遣わされた将軍ラブ・シャケが、ユダ国王の使いに言った言葉である。希望はない、降伏しろと言っているのだ。言葉だけで助けに来ないエジプトなんかを頼みにするな、と言っているのだ。
《ユダ国王の使いは「どうか僕たちにはアラム語で話してください。私たちは聞いて理解できますから。城壁の上にいる民が聞いているところでは、私たちにユダの言葉で話さないでください」と将軍に頼む。》
今も昔も情報戦なのである。
《将軍は答えた。「アッシリア国王が私を派遣されたのは、お前の主君やお前にだけ、これらのことを伝えるためだというのか。むしろ、城壁の上に座っている者たちのためではないか。彼らもお前たちと一緒に、自分の糞尿を飲み食いするようになるのだ。」
そして将軍は立ち上がり、ユダの言葉で大声で叫んだ。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。ユダ国王にだまされるな。彼はお前たちを救い出すことはできない。
私と和睦し、降伏せよ。そうすれば、お前たちは皆、自分の畑のぶどうやいちじくを食べ、自分の水溜めの水を飲むことができるようになる。
私が来て、お前たちを、お前たちの土地と同じような土地、穀物と新しいぶどう酒の土地、パンとぶどう畑の土地にまで連れて行く。」 》
そうなんだ。「折れかけた葦」などに期待せず、降伏し、捕囚になれと言っているのだ。
ウクライナの20世紀の歴史をみると、住民の強制移住(捕囚)がロシアによって行われている。今回もクリミアとロシアを結ぶ町の住人がロシアに連れ去られたと報道されている。
「折れかけた葦」とは、軍事侵攻する側が降伏を迫るために、希望をくじくための言葉である。アメリカ政府が、ロシア政府の言う通りの「折れかけた葦」であっては、ならない。この厳しい戦いの中、ゼレンスキー大統領はよく国民を束ねている。アメリカと世界は彼の頼みを聞け。