猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナ禍の憲法、緊急事態宣言、営業の自由・財産権と補償

2021-05-01 22:55:07 | 憲法


新型コロナの感染が広がって1年以上がたっている。この間に緊急事態宣言の発出が3回あった。「発出」という言葉に、はじめは強い違和感を感じたが、慣れっこになってきている。

その中で、きのうのNHKの時事公論のテーマは『コロナ禍の憲法』であった。緊急事態に私権を制限できるか、という問題提起であった。

私は、そうではなく、緊急事態に政府に権限を集中して良いのかという問題として考えるべきだ、と思う。私は、政府を国民へのサービス機関として考え、国民に主権があると考える。緊急事態といえど、政府が国民の同意にもとづかずに命令するのはオカシイと思う。

「私権」というとき、「私有財産制」を前提しており、損した得したという感情を肯定している。損した得したという感情は、近代に生まれたものであり、中世の平等理念を否定し、人のものを奪っての金儲けを肯定するものである。

したがって、「私権」より「平等」を尊重する人にとって、コロナ禍で、生活に困った人を助けることに賛成するが、これまではこんなに儲かっていたのに、どうしてくれるのか、と言われも共感できない。

 ☆   ☆   ☆
憲法第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
憲法第29条 財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
 ☆   ☆   ☆

新型コロナ禍で、緊急事態宣言禍で「営業の自由や財産権」が問題となったというが、日本国憲法は「営業の自由」を別にうたっていない。「職業選択の自由」である。日本は資本主義国だから、「金儲けの自由」があり、だから、「営業の自由」があるという誤解が背景にあると私は思う。

「補償」とは、あくまで、新型コロナ禍での生活困窮をみんなで助けるものと考えるべきである。

J・K・ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)に「第8章 経済的保障(Economic Security)」という章をもうけている。この中で、資本主義社会は競争社会だから人びとはいつも不安におとしいれられていると書いている。金持ちも貧乏人もその点では同じである。ところが、金持ちは、安心感を得るために財力を使って不確実性から自分を守る仕組みを作る。ところが、貧乏人は団結しか、安心を得られる手段がない。その結果、金持ちはますます金持ちに、貧乏人は貧乏になる。

「補償」は、緊急事態宣言がなければ、こんなに儲かっていたのに、という仮定にもとづいの支払いである。これはおかしい。憲法29条の3項「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」の適用だと、私は思わない。未来の営業収入はあくまで新型コロナで不確定になったのであって、みんなで助け合うという意味の「経済的保障」と考えるべきである。

日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とのべる。

「その権力は国民の代表者がこれを行使」というのは、エイブラハム・リンカーンの「人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)より、ちょっと腰が引けている。

が、私はこれを民主主義国の宣言として考え、緊急事態宣言下の政府への権力集中に反対する。政府が人民のサービス機関として信頼されていれば、みんな政府のいうことを信用して、込み合う通勤電車に乗らないし、飲み屋に行かないであろうし、ゴールデンウイークだからといって遊びに出かけないと思う。政府も、信頼されていれば、飲みに出かけるな、遊びにいくな、外ではマスクをしろ、率直に言うことができる。

自民党の憲法改正を許してはいけない、参議院選挙

2019-07-03 14:11:44 | 憲法


きょう(7月3日)、朝日新聞に各政党の参院選の公約を掲げていた。
驚いたことに、自民党は、公約に、憲法改正を明確に掲げていた。

「わが党は改正のイメージとして ① 自衛隊の明記 ② 緊急事態対応 ③ 合区解消・地方公共団体 ④ 教育充実――の4項目を提示」
「衆参の憲法審査会で、国民のための憲法論議を丁寧に深めつつ、憲法改正原案の国会提案・発議を行い、国民投票を実施し、早期の憲法改正を目指す」

とんでもないことである。民主主義の自殺である。

この憲法改正4項目は、昨年の3月26日に自民党憲法改正推進本部が公表したものである。
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①は、憲法9条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」に、
「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置を取ることを妨げず、そのための実力組織として、……、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」を
付け加えることである。

今までの戦争も、「平和と独立」「国と国民の安全」という名目で行われてきた。そんなものは戦争をして良い理由とならない
それに「戦力」と「実力」とはどこが違うのか。
現在の自衛隊がもっている武器は、戦車、爆撃機、戦艦ありで、「戦力」そのものである。見え見えの「ごまかし」を憲法に付け加えることは、際限のないウソの始まりになる。
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②は、いわゆる「非常事態条項」で、民主主義そのものの否定である。「非常事態条項」は、約90年前に、30%ちょっとの支持のナチ政権が独裁を可能とするために使った憲法条項である。自民党は「非常」を「緊急」に置き換えただけである。

自民党案の緊急条項は、「内閣は、……、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる」、「各議院の出席議員の3分2以上の多数で、その任期の特例を定めることができる」とし、選挙を停止し、議会を無視して、内閣に権限を集中するものである。

ナチス政権下で、共産党、社会民主党の出席を逮捕などによって妨げ、非常事態条項で、国会がヒトラーの独裁を承認したのである。
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③は、選挙区の人口と議員数の関係を無視し、一票の公平性を否定するものである。現在の代表民主制の基盤を壊すものになる。
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④は、「教育を受ける機会を確保すことを含め、教育環境の整備に努めなければならない」とするもので、現行法で充分なのに、「憲法改正」をするためにわざわざ作った条項である。「含め、教育環境の整備」が陰謀臭い。
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3年前に妻の買ってきたビッグイシュー(The Big Issue)の創刊13周年記念インタビューで、浜矩子が、失敗したアベノミクスの行き先は統制経済だ、と語っていた。

憲法改正は、安倍晋三の経済政策の失敗、外交の失敗への不平不満を抑え込むためのもので、民主主義を否定し、他国との戦争を引き起こす第一歩である。こんな公約を掲げる自民党を、参院選で勝たせてはいけない。


【自民党憲法改正推進本部の昨年の憲法改正案】
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/constitution/news/20180326_01.pdf

憲法記念日、樋口陽一のインタビュー 、危惧から怒りに

2019-05-03 20:08:08 | 憲法

きょう5月3日は日本国憲法記念日である。朝日新聞は樋口陽一のインタビュー記事を載せていた。同じ記事なのであるが、紙版とデジタル版とはタイトルが違う。
デジタル版のタイトルには「憲法学者・樋口陽一氏の危惧」とあるが、紙版では「危惧」という言葉がない。樋口陽一は、国民の良識を信頼して、危惧していないのだろうか。

「安倍晋三氏とその周辺が旗を振る形での改憲ということになれば、幅広い支持に至らず挫折するでしょうね」という。
その理由は、安倍とその周辺が、「言葉を積み重ねることで公共社会に共通の枠組みを築き続けていく――そういった文明社会の約束事をあまりに軽んじる政治家たちだからです」だそうだ。

84歳の樋口陽一はボケているのではないか。人間の歴史は殺し合いの歴史でもある。「文明社会の約束事」は何の意味ももたない。勝つか負けるかの戦いが常に継続しており、互角の状態で、はじめて「文明社会の約束事」が守られるのである。

憲法12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とあるのは、権力者が憲法さえ踏みにじる可能性があると、危惧しているからである。

1950年代の「自主憲法」の旗印での改憲が実らなかったのは、敗戦のショックが日本人の心の中に残っており、民主主義がまだ生きていたからである。

ところが、現在、休日には交番に国旗が掲揚され、大学を含む公立学校では儀式に国旗掲揚と国歌斉唱がなされ、戦前の修身と変わらぬ内容の「道徳」が正式教科になっている。子どもたちは、お上と同じ意見をいわないと人生に損をすると思っている。

現在、民族主義が民主主義を押しのけているように見えるが、民族主義の実態は、劣等感と無気力のかたまりである。だから、よけい始末が悪い。

樋口は、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」が「個人」でないといけないという。その点では、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』と同じで、多数派というものを信用していない。
この多数派というものが信頼できないのは、人間は自分の利益を優先しがちであり、無力感が社会に充満していれば、容易に勝ち馬に乗ろうとするからだ。多数派ということは正しさの証明にならないのだ。
そして、中身のない多数派は、弱い者いじめを始める。

たとえば、テレビは、ごみ屋敷といって、社会的に孤立している老人をいじめる。東京湾の貝を食べるといって、貧しい中国人をいじめる。日本が外国人労働者に頼っているのに、池に外来種がいるといって、池の水をぬき、みんなで外来種を殺すさまを放映する。人間としてのやさしさと寛容がテレビから消えている。

たとえ多数派の意志であろうとも、政府やメディアや社会が、個々の人間から自由を奪っていけない、と、ミルのように思うなら、ミルのように正面をきって、社会と戦わないといけない。

そのためには、樋口も、自分が考える正義とは何か、社会に正面をきって言うべきである。

インタビューの最後に、「人口の減少、財政の破綻、国としての友人がいない日本の姿……。ぼけっとしていていいのか、といいたくなります。これは決して自虐ではありません」と樋口は言う。怒っているのなら、怒りを前面にだすべきだろう。しかし、ボヤキの対象が、「国力の衰え」に関するもので、権力による「自由」「平等」「民主主義」の侵害ではない。

情けない。ボケている。ボケている。

象徴天皇は日本国憲法の傷である。象徴天皇が世襲制と結びつく限り、象徴天皇は子どもを作るための家畜になる。「個人として尊重」が無視されている。憲法3条以降にかかげる象徴天皇の仕事は、AIつきの泥人形でもできることである。国会の長たる参議院議長に任せればよい。天皇制は廃止すべきである。

また、憲法に「権利と義務」と書くのはおかしい。戦前の大日本国憲法の名残であって、「義務」はすべて削除すべきである。義務とは強要のことである。これは、「個人の尊厳」に相反する。

また、人権を「国民」に限定するのはおかしい。「人間」に置き換えるべきである。人間が国境を越える時代である。外国人労働者にも人権がある。

「安倍晋三とその周辺」に逆襲しないと、権力に従順で、弱い者いじめの好きな人間が、どんどん社会に増えていく。

石川健治の「憲法と平成」、文明ではなく平等と自由の問題

2019-04-30 17:34:48 | 憲法


4月27日の朝日新聞「ひもとく」で、憲法学者の石川健治が『憲法と平成 「文明のあり方」を支える役割』という評論を書いている。

「文明のあり方」を支える役割が憲法である、という趣旨のようだ。

評論は、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」という、天皇即位後朝見の儀の明仁の言葉で始まる。
石川健治は、その誓いが果たされたかどうかの評価をくださない。

そのかわりに、即位の年、1989年を「惑星直列的な記念(の)年」にたとえ、歴史的転換点として捉える。そして予言するかのように書く。

《安倍長期政権を支える統治構造は、「89年」後の世界に対応すべく行われた種々の制度改革がもたらしたものであり、この改革の継続は、いずれ憲法改正を求めることになるだろう。》

この憲法改正は、武力放棄の条項のことだろうか、それとも、象徴天皇制に関する条項のことだろうか。

続いて、立憲主義という「ひとつの文明のあり方を支えるものとしての憲法」と旧来の天皇中心の「国体」との間の、「文化摩擦」に話を移す。

美濃部達吉が1912年の『憲法講話』で次のように書いたという。
《世界の重なる文明国は、あるいは民主国たるか、しからざればみな立憲君主政体を採ることとなった》
そして、「全国民の代表者」としての「国会」を重視する。統治権が天皇「御一身の利益のため」だけにあるとするのは、「我が古来の歴史に反するの甚だしい」と言い切った。

ここで、私は大正デモクラシーの限界を感ぜずにはいられない。

民主制も立憲君主制も、平等と自由を求めた民衆の戦いの結果であって、「文明」の進展によるものではない。「文明」の言葉に、欧米に対する劣等感と、欧米から輸入した底の浅い大正デモクラシーとを、感ずる。

石川健治は、「文化摩擦」が完全に解消されたのではなく、いまでも、「憲法もろともに立憲主義を押し流そうとしてきた」と言う。
次に、話を人工知能(AI)に移す。これにはついていけない。

平等と自由を求めた民衆の戦いという視点こそ、憲法と天皇制の議論で必要だと私は思う。

現行の憲法が植民地主義、軍国主義を封印

2019-04-22 09:12:59 | 憲法


3年前の憲法記念日5月3日、憲法学者の石川健治が朝日新聞に興味ある小論を寄稿した。
それは、植民地主義、軍国主義を清算し、復活を防ぐ「結界」こそが、戦後の平和憲法であり、憲法9条である、とするものであった。

彼が「結界」という言葉を使ったのは、キリスト教的「かおり」を避けるためであり、本当は「封印」という言葉のほうが適切かもしれない。戦後の平和憲法は、思想信条の自由を掲げ、植民地主義、軍国主義を「公(おおやけ)」の世界から「私(わたくし)」の世界に封印したわけである。

しかし、憲法9条は残る最後の「封印」であり、すでに、いくつかの「封印」は破られている、と私は思う。

戦前に植民地主義、軍国主義の先兵であった岸信介が、「占領下に成立の憲法」の廃棄を掲げて、戦後政治に復活したのが、封印の最初の解除である。「占領下に成立の憲法」の廃棄は、当時の日本人のこころの底にあったナショナリズムに訴え、植民地主義、軍国主義の復活の旗印になった。

つづいて、私の子ども時代の「総評の解体」、日教組の弱体化、国旗掲揚や国歌斉唱の強要、道徳教育の導入、大学教育への文部科学省の介入と封印が破られた。ナショナリズム、愛国主義が政府主導の形で、教育の現場に持ち込まれた。

さらに、岸信介の孫、安倍晋三によって、6年前の機密保護法、4年前の集団軍事行動を可能とする安保法制、2年前の共謀罪法、と加速的に封印が破られている。

日本国憲法9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している。そして、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と言う。

この規定があるから、日本には「軍隊」がないのである。日本にあるのは「自衛隊」なのである。現行の憲法があるから、「自衛隊」を他国に派遣し、他国の人たちを殺すことができないのである。

最後の封印、日本国憲法9条が、武力による植民地主義、軍国主義を封印しているが故に、私も憲法改正に反対する。

しかし、日本国憲法には「天皇制」という欠陥がある。憲法2条で象徴天皇を「世襲制」と規定しているのである。憲法1条から7条は、「平等」を社会の原則とする憲法14条と矛盾する。憲法から削除すべきである。

日本国憲法14条は
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する」
と規定している。

「皇室」「世襲制の天皇」は、人間を「門地」により差別するものである。
人間としての平等が、民主制の骨幹なのだ。
「天皇制」という憲法の欠陥が、戦後73年の民主主義を壊してしまう可能性がある。