猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

生成AIを過大評価している大人たち、生成AIの使用禁止

2023-07-02 21:27:57 | 教育を考える

けさの朝日新聞に『作文コンクール 生成AIは禁止』という記事がのった。

私も禁止するのが当たり前だと思う。自分の力で書くことは考えることに深みを与える。考えることが単なる試行錯誤にとどまらず、自分の考えに整合性がとれているのか、体系化できないか、普遍化できないか、という論理的思考へと、書くことによって導かれる。

ただ、生成AIをみんな過大評価しているのではないか、と思う。生成AIの原理は、文を文法にしたがって生成するのではなく、大量の蓄積した文章のデータを学習し、統計的にもっとも確率の高い順に言葉をつなげるだけである。そこには知性がない。

この朝日新聞の記事によれば〈(全国学校図書館)協議会の設楽敬一理事長は応募要領の文面を検討する過程で、チャットGPTで感想文を3回作成してみたが、「いずれも平坦な文章で、賞を取れるような内容ではなかった」〉という。それはそうだろう。

私も同じ経験をしている。その話をしよう。

N高(角川の経営する通信制高校)に通う男の子の数学学習を私はNPOで支援している。彼は、数学が好きでもないのに、オンライン授業を真面目に聞いて、適宜、教科書を参照しながら練習問題を解いて、答えをネットで提出する。彼が最後に苦しむのは、学習の単元ごとに、学習で何に興味をもったか、何が面白かったか、の360字以上のレポートの提出である。

レポートを作成する本人はもともと数学が嫌いの上、オンラインの講義ははっきりと言ってつまらない。講師だって、撮影者以外の誰も見ていない中で講義するのだから盛り上がらない。淡々と教材を進むしかない。

それで、私は彼に、レポート作成にチャットGPIを使うよう提案した。彼は、何度も何度も入力文を変えながら、使える応答文を模索した。結局、「使えねーな」ということになった。私ものぞいてみていたが、チャットGPIの答えは、あまりにも陳腐で、数学を理解していず、整合性もない。

朝日新聞の記事で、博報道教育財団も神戸親和大も作文コンクールに使用を確実に見抜く方策は用意できていないと言うが、生成AIを使ったかどうかでなく、個性や独創性のない陳腐な作文に賞を与えなければ良いだけである。生成AI は平均的にもっともありそうな文を生成するだけで、生きている子どものもつ悩み、不安、焦り、怒り、希望、喜び、情熱などを反映できない。平均には個性がないのだ。


江利川春雄の『英語教育論争史』に加える言葉

2023-02-01 00:36:42 | 教育を考える

いま私は江利川春雄の『英語教育論争史』(講談社選書メチエ)を読んでいる。江利川は、明治以降の、英語教育の縮廃論とその反論の歴史を、英語教師の立場から本書にまとめている。

私は、覚えることが嫌いで英語が好きでなかった立場から、私も英語教育論争に参加したい。

「縮廃」という言葉は、パソコンの「かな漢字変換」も機能せず、インタネット検索にも引かからない。これは、江利川が縮小論と廃止論とを統合して新しい言葉「縮廃論」を使っているからである。この選択は、江利川が英語教育「擁護」の立場に立っているからだ。

江利川は論争の歴史を、「欧化」と「国粋」の対立から書き出している。第六章にいたって、これを「英語帝国主義」と「反英語帝国主義」と言い替えている。彼の言う「帝国主義」は、軍事的に政治的に経済的に劣る国の言語や文化を破壊することを言う。ただし、江利川はどちらかの立場に立つわけではない。

私自身は、言語が時間をかけて共通化していくことは、文化に起因する戦争を生むこともなく、経済的交流に利すると考える。言語が入り混じることで、言語がより豊かになるであろう。

いっぽう「英語帝国主義」は、世代間のコミュニケーションを分断するだけでなく、確かに、古い世代の権威を奪う。が、ある程度はやむ得ないと思っている。英語は現状では有用であるから、私も英語教育を縮廃せよと意見には同意しない。

「英語帝国主義」の本質をまず掘り下げたい。

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江利川は次のエピソードを紹介する。

「英語が、連合王国内のケルト系諸言語を駆逐する過程で英語を話せない人々は「二級市民」とされ、母語を話した子どもの首には「方言札」が吊るされ、教師に鞭打たれた」

私もカナダにいるとき、アイルランド系の大学院生から同じ話を聞いた。

現在もそのような暴力が教育現場で行われているとは思わない。しかし、英語能力で厳然たる差別があることも事実である。「英語帝国主義」とは「英語能力」で差別することの問題である。反対すべきは、「差別」である。

最近、BBCが英国内の「発音」による差別をとりあげていた。「発音」で上・中流階級に属するか否かがわかるのだという。それが、弁護士事務所や一流企業の採用面接に影響するので、「発音」を矯正する教育が盛んだという。

私は理系の人間であるから、下層の「労働者階級」に自分が属していると思っている。じっさい、アメリカのIT企業の研究所には、ひと昔前と違い、アングロサクソン系の人間が応募してくることがない。イタリアンやアイリッシュやスラブ系もほとんど応募しなくなり、応募してくるのはアフリカン(黒人)かイスラム系かインド系か中国系か韓国系である。研究所ではブロークン・イングリシュが行きかっている。

特権階級は確かにある。そして、彼らは言語だけで差別しているのではない。

私の同級生に銀行マンがいる。彼が言うに、いくら発音を矯正し完璧な英語を話しても、出身大学で差別されるという。その大学の寮でしか通用しない記憶をもって、パーティで差別されるという。差別は「英語」だけの問題ではない。上流・中流階級は他者が自分たちの中に流れ込まないように、いろいろなフィルター(ガラスの天井)をもうける。

繰り返すと、警戒すべき「英語帝国主義」は、自分たちの特権を守るための、英語を名目にした差別である。

日本国内でも、英語の能力で行われる差別が問題である。英語教師が、その差別を前提にして、英語教師の特権を楽しんでいないか、という問題もある。英語を教えるという理由で高い時給のアルバイトをしていないか、ということである。

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私は、英語が有用だと理由で、英語教育が行われるのはそれで良いと思う。

日本語のなかに英語を取り組んでいくことも当然だと思う。日本語にない概念が英語にある。明治時代のように、それを漢字を組み合わせた造語に置き換えるより、原語をそのまま使ったほうが良いと考える。そのためには、縦書きの著作をやめて、すべて横書きにした方が良い。横書きなら英語やドイツ語やフランス語やラテン語やギリシア語が混ざっても不自然でない。

また、英語の構文が日本語の中に取り入れられていくのも当然である。夏目漱石は英語の構文にならって新しい日本語をあみだした。宇野重規や加藤陽子の著作を読むと英語の構文の影響をよく見いだす。言いたいことを先にだし、しだいに補足を加えていく、英語の構文は論理的な文章に向いている。

日本語はゆっくりと変化して、世界共通語に近づくのでよいと考える。

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英語縮廃論に、英語の習得が難しいから公費で教育するだのは無駄だという主張がある。

私はそう思わない。上・中流階級に加わろうと思わなければ、発音や文法がでたらめでかまわない。やさしい英語で通用する。完璧な英語を話す教育を施さなくても良いと思う。

もちろん、現在の英語の書字の難しさは、スペルと発音とに距離があることにある。英語を母語とする人にもスペルが正しく書けない人がいる。これは、イギリスやアメリカの政府が特権階級を守ろうとして、書字改革をおこわないことにある。フランス語も同じ問題を抱えている。イタリア語やドイツ語はスペルが発音に近い。

日本の大学入学共通テストの英語は、無理のない範囲でできている。時間をかけて勉強しなくてもできる範囲である。週に4、5時間の学校授業で充分である。予習も復習も必要がない。人によってそうでないのは、受けた英語教育に問題があるか、満点を取りたいと思うからである。

時間をかけて教育しても英語で手紙のひとつも書けないと縮廃論者は言うが、やさしい英語で心のこもった手紙を十分に書ける。和英辞書を引く必要もない。相手の気持ちを考えて書けば良い。単語にはニュアンスがあるから、よく知っている単語を使って手紙を書くほうが無難である。

何年か前、新渡戸稲造の“Bushido: The Soul of Japan”(『武士道』)を読んだが、難しい単語ばかり使って、英語のリズムがない。こんな下手な英語しか書けないのは、彼が間違った英語教育を受けていたからだと考える。

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私は、英語がとくに素晴らしい言語だとも思わない。英語は、他のヨーロッパ言語と比べると表現力に欠く言語である。

ラテン語やギリシア語やスラブ語には格変化がある。これらの言語では、名詞、形容詞、冠詞が相互にどういう関係にあるか、また、動詞とどういう関係にあるかを明確にするため、語尾が変化する。したがって、強調したい語から言葉を連ねてもかまわない。語順の自由度が大きい。また、動詞の語尾が主語によって変化するから、主語と動詞の語順が変わってもかまわない。

英語は名詞、形容詞、冠詞の格変化がなくなったため、語順が限定される。名詞の動詞との関係を明確にするため、英語では前置詞の使用が発達した。前置詞はもともと副詞だったのである。主語による動詞の変化もなくなったため、動詞と主語との距離を離せない。英語の文法というものは慣用句を整理したものにすぎない。

もちろん、私は日本語も嫌いである。日本語は人間の上下関係から言葉を変える。論理的な文章を書くのがむずかしい。心の底では私は日本語がなくなってしまえと思っている。

未来の世界共通語はどうなるかは、単に今後どの国が経済力や政治力や軍事力をもつかにかかわる。古代ではギリシア語が地中海沿岸の共通語であり、中世からルネサンスまではラテン語がヨーロッパの共通語である。現在は、英語とスペイン語とアラブ語がたまたま世界共通語である。中国語も、将来、世界共通語の候補になるかもしれない。


教員採用試験の倍率は過去最低となったというが、それでも高すぎる

2022-09-12 00:31:50 | 教育を考える

文部科学省は9月9日、今年度の全国で採用された公立の小中学校や高校などの教員採用の平均倍率は過去最低となり、このうち小学校の採用倍率は4年連続で過去最低となったと公表した。

どれくらいの倍率かと思ったら、今年度の小中高の教員採用平均倍率は3.7倍で、小学校だけでは2.5倍という。私は充分高い倍率と思う。司法試験のような資格試験の倍率ではない。教員採用試験の受験者はすでに教員免許を持っている。彼らが子どもたちのために現場で働きたいと思って、各地の自治体の選考試験を受ける。そして、3.7人が受ければ2.7人が採用されない。

文部科学省は採用倍率が高ければ、質の良い教員がふえると思っているようだ。どんな採用試験をすれば、優秀な教員を採用できると思っているのだろう。私は、採用選考試験で、優秀な教員のたまごを採用できると思わない。

たとえば、暴力や脅しを使わずに子どもの才能を伸ばすことができる力があるかどうかを判定しようとする。紙のテストであろうが面接であろうが、受験者はステレオタイプの答えをするだけである。

私はIT会社の研究所にいて採用面接を頼まれることが何度もあったが、受験者の多くは調子のよいことをいうだけである。卒業研究の話を聞いて判断していたが、採用すると、独創性がまったくないことがある。

したがって、教員の質を上げようと思ったら、大学で質の高い教育を行い、教員に採用したら、子どもの教育について教員間で切磋琢磨する環境を整えることである。教員が職に就くときの高いモチベーションを維持することがだいじだと思う。

私は若いとき教職に興味を持たず、教職関連のコースを大学でとらなかった。会社を退職してから放送大学の教育心理学を聴いていたが、講師の言っていることがお粗末でびっくりした。それでも東京大学の教授だった。

私が勧めるのは、大学で最低限の知識を学び、初心をだいじにし、現場で実際の問題と格闘することで、知識を広げ、自分の理論(working hypothesis)をもつことだ。職場での研修もある程度有効だが、研修屋の研修は単に「上下関係の秩序を守れ」に過ぎず、時間の無駄である。どこの職場でも同じだ。

普通、就職したい人が就職できなければ、失業者になるしかない。したがって、本来、採用倍率は1に近いのが健全である。高い採用倍率を望む文部科学省は、採用試験に落ちた若者が、「臨時的任用教員や非常勤講師などを続けながら教員採用選考試験に再チャレンジ」することを期待しているようだ。私のNPOでも、教員採用選考試験にチャレンジするスタッフがいる。

教員になろうと思わなかった私がみていると、教員になろうとする人たちはとても純真である。こんな人たちを採用選考試験で落とすようなことをしていると、そのうち、だれも公立校の教員になろうとしない日がくるのではと、思う。


科学とはなにか、全国学力調査で理科の正答率に一喜一憂するな

2022-07-30 23:19:51 | 教育を考える

きのうの新聞に、全国学力調査で理科の正答率が低下したというニュースがのっていた。特に「科学的に探究する力」の育成を踏まえた出題で正答率が低かったという。しかし、正答を記号で選ぶ問題で、そんな「探究する力」が測れるのか、と私は考える。したがって、学力調査で一喜一憂しても仕方がない。それより、「科学的に探究する力」とは何なのか、議論することのほうが重要だと思う。

そして、さらに重要なのは、子どもたちが理科が好きになって、日常生活に習ったことが使えるものがないか、と考えだすことである。それを学力テストで測定できるだろうか。

中3の学力調査の理科の問題は、磁気ばねの縮みは力に比例するのか、の実験の結果のデータを解析することであった。「磁気ばね」をテスト問題にしたのは、たぶん、普通のばねの伸び縮みは力の比例にすると教えているからであろう。教科書の法則を否定すると文句をいう人がいるからだろう。本当は、伸び縮みが力に比例する「ばね」というのは特別に作られた物であって、それでも、伸び縮みの範囲が大きくなれば比例しなくなる。特に自分で針金からばねを作ると、金属の塑性変形という問題に直面する。

理科のテスト問題で調査したのは、日本語の問題文を理解する能力の測定であり、いわゆる「要領のよさ」を調べているのにすぎない。工場での品質改善運動の話をきいているような気がする。そんなテスト問題から、将来「独創的な研究」をする力を測れることはありえない。

学校教育で教えていることは、自然についての仮説であり、近似である。4年前にノーベル賞を受賞した本庶佑が教科書に書いてあることを疑わない子どもは科学をする見込みがないというようなことを言っていた。

したがって、ある法則はどこまで適用できるのか、確かめるにはどうしたらよいのか、法則がなりたつものにはどんな特徴があるのか、法則がなりたたなければ、法則をどう拡張したらよいのか、を考えるのが「科学的に探究する力」であろう。

学校で、用意された器具を使い、マニュアルに従って実験をやったからといって、そんな力はつかない。実験は自分で目的を設定しデザインしないと意味がない。私は物理を専攻したが、大学での物理実験ほど「面白くない」ものはなかった。それは、単に実験ノートをつける訓練にすぎなかった。

「科学」とは、自然を人間が理解し、自然の恩恵を受け入れられるようにすることである。「霊感商法」に騙されないことでもある。


子どもを「洗脳ビジネス者」の手に渡してはならない、福岡の虐待事件

2022-07-21 23:01:46 | 教育を考える

きょうの朝日新聞に、『中学生に袋かぶせて殴り監禁か NPO法人理事長・小学校教員を逮捕』という記事が載っていた。毎日新聞には、同じ事件に『障害児ら拘束の福岡のNPO法人 3日間の療育報酬は100万円』という見出しがついていた。

事件は子どもに対する虐待事件であり、また、詐欺事件である。福岡県警が、虐待と詐欺を行ったNPO法人「さるく」の理事長の坂上慎一と共犯者の小学校教諭の松原宏を逮捕したという記事である。

福岡県警が逮捕に踏み切ったことを評価するとともに、いまだに、このような虐待と詐欺が日本で行われているのか、と唖然とする。

いまから約40年前、戸塚ヨットスクール事件というのが起きた。ひきこもりや家庭内暴力を振るう子どもを有料で引き受け、「教育的体罰」と言う名目で預かった子どもたちを日常的に暴力を振るい、2名が死亡することで、組織的虐待の実態が明るみに出た。

今回の虐待の対象になった子どもたちは、朝日新聞によれば「発達障害児」であり、毎日新聞によれば「知的障害児」「自閉症」である。私の経験からすると、これらの子どもたちが、矯正施設に監禁され、「教育的体罰」という名の虐待を受けるというのが、私には不可解である。新聞は本当のことを語っていないと感ずる。

対象になっていたのは、不登校、ひきこもり、親に暴言暴力を振るう子どもたちであったと思われる。というのは、「発達障害児」「知的障害児」「自閉症スペクトラム症児」はみんな優しい子で、そんな子に暴力を振るう理由なんて、考えられないことだからである。

親は自分の思い通りにならない子どもたちを、お金を払って外部の暴力の導入によって、子どもを支配しようとしたのだと思われる。親はとても愚かしいことをしたのだ。暴力を使って、子どもの考え方を変えるなんてことは、絶対にしてはならないことである。

暴力をふるって考え方を変えさす行為を「洗脳」という。暴力の恐怖感から条件反射的に行動を変えるまで、洗脳対象の人間を徹底的に虐待するのである。当然、抵抗する人間は死に至ることもある。また、虐待する側は、虐待することに快感を覚えるようになり、過度の虐待をするようになる。

不登校、ひきこもり、親に暴言暴力は理由があるはずである。不登校や引きこもりには学校に問題があるからである。教師や他の児童に問題があるのかもしれない。隠れたいじめが結構ある。学校ぐるみでオカシイ場合がある。親に暴言暴力を振るうのは、それを理解してくれない親に対する抗議である。

子どもの訴えを暴力で抑え込み、親の思うように行動させるというのは、根本的な誤りである。不可能である。

私がいるNPOでの経験からすると、通常、小学校の不登校は、学校に行かさず、愛に満ちた環境に置けば、半年で自然に解決する。学校ぐるみでおかしいときは、まともな学校に転校すればよい。

家庭内暴力が生じた場合、私は、親子の和解に重点を置く。親子が対話できるようになることを目指す。

今回の福岡の事件が、社会に広く知れ渡り、子を持つ親が「洗脳ビジネス」に騙されないことを願う。

人は記憶にもとづいて動く「からくり人形」のようなものである。記憶は神経細胞のつながりによって実装される。この記憶に自ら逆らうのが知性であり、自由意志だと、私は思っている。団体や国家の暴力によって、この記憶が書き換えられるなんて、あってはならない。