文節を語としてとらえる、もう少し進めれば、詞ととらえる、この文節がそのように文法として設定されていることに言及してきた。なかなか理解されないことかもしれないが、わかってみれば、ごく当たり前のことになる。あたりまえだということに、わかるのがどれほどむずかしいか。文節が詞と辞の組み合わせである、組み合うというのは関係しあって構成することであるが、自立語と付属語で、自立するものに重きを置くと、それは語である、ということであるから、自立詞と付属辞と言っている。學校文法の、便宜、自立と付属とを語の現象としてどのようにとらえさせるかである。 . . . 本文を読む
「ふんいき」か、「ふいんき」か、というタイトルは、それで音位転換のことかと、なんのことかわからないようだ。山茶花と、さんざか と言ったのかどうか、さざんか というのを、山茶 茶山 などとして見るようなことだ。それで思い立って、ふいんき を検索すると、ヒットしたのは変換できない、読み方の間違った言葉だった。それをさらに検索すると、すでに、そのフレーズであったかとなる。2003年の歴史まで解説にあるが、読めない、読み間違いによる漢字変換の取り上げ方だった。ていいん 店員、 げいいん 原因、ぜいいん 全員、この発音は、ふいんき と似ているようである。さらに見ていくと、慣用読みになってしまった解説がある。勘違いもここまでになると、誤読を慣用にしてしまった例に対して、これはそもそも、ふんい と、ふいん との相違であるから、漢字表記を知れば、雰囲- したがって、この読み方では、間違えることはない。
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あらためて取りざたされるところを、夏目漱石の文字遣いについて、サイトのいくつかで知る。文献を書誌からの視点で厳しく扱うことは大切なことであるから、それはそうであるとして、興味深い。その一方で電子情報化された簡便さに弊が及ぶかの主張を見てしまった。まさに、憤懣をもってする意見には、むべなるかなと思い津、一方で、書誌から情報というところまで、現代的な様相を思ってしまう。通行本は活字における原本との原稿の隔たりは編集者によってきめられるところ、それを了解をしてのいわば流布本の形態である。文庫化されるときのその著作の運命みたいなものだろう。かたや電子情報の定本扱いは、かなり困難である。底本となるものが著作権による、そのかかわりで時代による文字の有無に始まって、それにルビを振るようなことがあれば、まさしく、校本であるかどうかの根本がとらえられる。たまたま、漱石の小説の愛好によってその意見を知ることになり、いちいち、ごもっともである。情報によってしからしめる、この電子媒体というものは、そこに書誌でいうところの本文批判は成立しない。 . . . 本文を読む
漱石の用字に、本文の生態学という一書をなす石川氏のブログに、2014年10月16日 朝日新聞 三四郎 漱石の「当て字」――麗々 か 例々か が、あって、氏のホームページ http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/index.htmlに、漱石の書誌学本文研究があることを知った。さきのサイトのタイトルには、初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』 と、あるものである。それで導かれて、『本文の生態学』については、全ページを私のホームページに pdf 版で掲載 というのを、拝読することにする。さきのブログサイトを読む限りで、漱石の用字法の麗々しさを、否、例々しさを取り上げている。まさに原文表記にその用字法を見出している。漱石の表記を学んだわたしの読書体験からすれば、原文の全集読みは、その表記の醍醐味に圧倒されていただけであったのだが、無理もないのは13歳であったから、そして、いまに多くを得ていることを知る。 . . . 本文を読む