敷居とは何か。玄関の入り口にある。そこが高いのである。どうなるか、入りにくい。その思いは屋敷にある。訪ねた家の門構えに横木を渡した敷居がある。それをまたいで門のうちに入る。その敷居があるのでそれに足をかけるわけにはいかない。踏んではいけない。礼儀作法にあるからである。なぜそうなったかは、歴史にあることで、木製で仕切られてそこには踏みつけることで傷むようであったからである。その敷居がへこんだのを神社仏閣で門に見ることがある。またぐところをひょいとのって踏むから人々の通った後に変形していく。踏んではいけないのはそういうことか。屋敷に対する思いはその敷居が高い威厳にあって踏むことができない、入りにくさである。その屋敷にはおおく、家長がすむ、一族の長がいる、地域の世話役がいる、大家がいる、もっと言えば武家が住む。そこに近づかない、近づけない、近づきがたいわけがあったりすると、敷居をまたぐ思いにその高さを実感する。おそらく挨拶をしなかったり、感情に行き違いがあって出入りしない、たな賃をためるかどうかして払わないままにする、と言ったことがあると、そうなる、というわけである。 . . . 本文を読む
文章は漢字表記を用いる。日本語の常用である。仮名交じりの文章を日本語文章とした。漢文文章と和文文章をわけることもあって、文章を一義に捉えることは行われなかった。そこには散文と韻文の考え方もあった。散文の意味は韻文を韻を踏み統一するのを規則とするなら、散文はその統一を図らないちうほどのことであった。それも漢文によるところである。詩と文である。文章を散文に捉えるのは本来ではない。韻文にも文章があり、定型と韻律を持つかどうかという、その文章の捉え方は言語表現の、漢字による表現の基礎にある。日本語でいう歌謡としての原型に似る。
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ブログのリマインダーが知らせた。ブログはFB、タイムラインのシェアである。このサイトでの文言をコピーしていたのだろう。コンピュータプログラムのメモリー操作だが、このリマインダーに限らず、この仕組みにFBチームがその名を連ねる。アルバムの編集などに手を加えたかのごとくにである。ページの提供を受けてサイトを使用しているのだから、そこに管理者があってサイトの運営をしているということだろう。その状況をとらえるとコンピュ―タの機能の面目躍如として便利なのか、そうなのか。記憶は電子記録となって個人のメモリーに消されることなく残るようなことは人間の頭脳のようでもあるが、それは忘れるということがないのである。ここに書き記すことがリマインダーのように来る日も来る日も、記憶ならぬ電子記録をなぞることである。 . . . 本文を読む