他山の石をどうとらえてみても、三省堂 大辞林の解説によれば、 他山の石以(もつ)て玉(たま)を攻(おさ)むべし 〔詩経 小雅,鶴鳴「他山之石,可二 以攻一レ 玉」〕を引いて、そこまではいいのだが、それについて、よその山から出た粗悪な石も自分の玉を磨くのに利用できるの意から、となる解釈がある、これがひろまっているのはどうしてか。それをさらに、粗悪な石が、他人のつまらぬ言行となっては、何をかいわんやである。おそらく、玉がわからない、石と玉の関係をどう見るかがわからないからだが、もっと言えば、他山をもわからないということなのだろ言う。なぜか、自分の人格を育てる助けとなりうることにしてしまっているのは、日本語だけであるのか。詩経の典拠である限り、原文の表現に興味のあるところである。それで、やっぱり使っていて、どうしても、他山の石とせよ、などと言われると、それをたまみがきに使えと言っているわけだから、玉に対しての石で、その石がつまらぬものなら、それを以て君主が賢くなるわけがないではないか。そういう解釈は、ありえない。日本語のどこで間違ったか、儒教をいれたはずなのに、うむ。 . . . 本文を読む
パソコン用語、インターネット用語を見てきて、中国語の用語を表記で見るとどのように翻訳されているかを検索した。英語からの対応なので見やすい。台湾と大陸式があるのは中国でのパソコン事情をうつすところである。連想とIBMの関連を知る人の少なくなった最近である。スマフォの生産工場の一部も、iPhoeと中国でのイミテーションさわぎのことなど、その意味絵は中国の製造は平準化されている。 . . . 本文を読む
逝去は死去することを意味する。敬語の用法とも説明があったりする。死ぬという語を忌みとして嫌う日本語が漢語の逝くに求めた語であろうか。逝くという字には、字音セイ、字訓ゆく・しぬ、同訓異字ここに・しぬ・ゆく、としての説明を、説文、二下に、往くなり、とあり、訓義[1] ゆく、さる。[2] しぬ、みまかる。[3] さける、まがる、およぶ と、字通は載せる。のち長逝死去の意に用いる、と見えるので、この語の成り立ちを思わせる。逝去が、 死ぬことを意味するのは、長くゆく、そして去ることからであるとわかる。熟語の、逝者については、ゆくもの、流水のことであり、論語、子罕にある、子(し)、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝(ゆ)く者は斯(かく)の如き夫(かな)、晝夜を舍(お)かず、を引くように、時間をとらえた言い方である。字通には、さらに、逝水 、逝川をあげて、ともに、 流水としている。日本語での用例には、将門記に、940頃か、逝去す、とあり、太平記に、14C後、三三・将軍御逝去事とあって、日葡辞書にも、1603〜04、Goxeiqio (ゴセイキョ) ナサレタと、日本国語大辞典に見える。 . . . 本文を読む