学会発表の予行演習を指導した。天津からの留学生である。滞在5年目を超えて学位取得に邁進している。週に2回の面談での指導は、その時間を費やす。研究の正念場に来ているので、この週末の東京での発表には神経を使う。テーマに、日中同形語の研究をすすめ、学位の後塵を拝す。あれは5年前のことになるが、日中同形語の研究で指導をした。それはいわば古典籍からの同形語の論議に想を得ている。それが続となって、新たな手法で研究を開拓している。現代語研究は辞書読みを超えることになる。日中同形語は同形を字形に見ている。その字形も本来には康煕字典などをもとにした漢字を、いまはそれぞれ、日本では常用漢字表に見るような通行字体にしているし、中国語では簡体字が考案されて用いている。旧の漢字体はいまだ行われることがあるが同形とはならない。言語学でいう同音を追及するのと異なって、字形はもとより六書に分類されての転ずる用法がある。 . . . 本文を読む
まさこと 人名に見ると、正言、正辞、正説、雅言、匡言である。匡字は、きょう と発音しているが、匡言 kuāng yán と、拼音に見えるので、きょう ではなくて、こう となるべきであったか。匡正 と言う語義があり、正しいことに通じる。きむら‐まさこと 木村正辞、1827~1913、幕末から明治の国文学者に、まさこと の名がある。 . . . 本文を読む
文章の構成について、その段落に関係構成を分析するのを修辞に見て、起承転結をモデルとするのを、その議論に観ることがある。その起承転結は論理構成にならないことが言われてきた。文章論においてこの議論は文章が作品であるか、言語の表現には違いないが、それを文章の統一体とみる文法機能を見出すかの違いがあって、そのいずれであるかよりも、その説明にポイントがある。つまり、転筆において論理飛躍があるというものである。よく知られているところで作品には表現のあやを見出すので論理の飛躍をどの論理によるかという、それは、あやとしての連想にあるので言語芸術の妙としては認めても、言語が関係構成する理屈はに充てはまらないということである。それは議論になることのことがらではない。その立場をとらえて、文学ですか、文法ですか、というような、話である。 . . . 本文を読む