舞台から喜怒哀楽を買い求め
連休の最終日、お客様から高いチケットを無料でいただき友人と「吉本興業の吉本新喜劇」を観て来ました。
なんといっても、理屈ぬきに抱腹絶倒の中心は「フジワラFUJIWARA」です。
テレビでは伝わリ切れない、臨場感ですっかりファンになりました。
「人を笑わせる」産業の「吉本興業」。若手デ売れない数年は15分の舞台一本ネタで給料はたったの「100円」だそうです。
月に一本の出演であれば、本人の口座に「100円」振り込まれ、「引き落とし手数料がかかる」ため、その100円も下ろせない、コントのような本当のお話です。
今、人気のある吉本芸人もそのような「仕事の環境」から仕事のステップを踏んでいると思うと人間は「自分たちの夢を叶えるためにはお金は二の次になる」とは、わかる様な気がします。そのほうがハングリー精神が発揮できるのです。
私も川柳をやっていても「一円」にもなりません。
アマチュアスポーツに夢を賭けても一円にもなりません。
そこに「自分の無償性というかけがえのない何か」を「本物の価値」の精神性を見出せるのだと思っています。(人それぞれ違いますが・・私はそうです。)
彼らもお笑いの下積み生活で、食うや食わずで「人を笑わせるネタを作る」
彼らはいつも本当は泣きたいことばかりだろうと思います。
以前、ロサンアンゼルスで「昔のアカデミー賞授与式会場」のホテルに泊まりました。ホテルの入り口にはチャップリンの彫刻が椅子に腰掛け旅人をなごませてくれました。私も隣に腰かけ偉大なチャップリンの像とスナップ写真を撮りました。そのホテルの斜め向かいのチャイニーズシアター広場のアーティスト達の手形が並べてある観光名所では「エディーマーフィー」の手形を探し、カメラでパチリと撮りましたが・・彼らにも不遇時代はもっとたくさんあったのです。
今日つくづく再発見したのは、
映画も、舞台も、絵画も、スポーツ観戦も、テレビも、新聞・旅行もスーパーのお買い物も、100円ショップのお買い物もとどのつまりは多かれ少なかれ、私たち人間は
「人間の喜怒哀楽」の感情の高揚を求め、さまざまな事に・ものにお金を使っているということです。(案外気づかないのが・・日常)
フジワラの原西孝幸は「吉本興業ダサイアンケートno2」に選ばれています。
けれど、舞台では老若男女が好感を持てる無垢さで絶妙な間合いと、スピードと人間性のよさが会場を大爆笑させてくれます。
お腹の底からこどものように笑い転げてしまいました。ボケ突込みがどちらも出来る、珍しいコンビなようです。(舞台だからこそ見えるのです)
興業を見終え、友人と市民会館の階段を下りようとしたら、手すりにつかまりながらゆっくり階段を下りて来る老夫婦が、名残惜しそうに・・
「こんなにおもしろいとは思わなかったねー」男性
「ほんとに楽しかったわ・・もっとやってくれるかと思っていたけれど・・・」女性
2時間半くらい時間は経っていたのだけれど、楽しいことには時間はあっという間です。
人生笑ってばかりもいられないという人もおありでしょうが、ユーモアはヒューマンの語源です。笑うことは人間の生活の根源でもありましょう。笑う門には福が来る。
貧乏人は良く笑うといいますが、最近貧乏に近づいているせいなのか良く笑っています。
連休最終日もすばらしい笑いで過ごしました。笑っていやなこともふっ飛ばせば社会も犯罪は激減するはずです。健康も笑いから、脳の活性化も違ってくるとは研究で実証済みです。
それにしても、今の漫才コントのネタのベースには、アニメ・ゲームのバックボーンは欠かせないようです。
秋葉原系が・・台頭しています。
そういえば、ずーっと以前、漫才コンビの中田カウス・ボタン両氏が瀬戸内寂聴さんが主催された岩手県天台寺(名刹)で開催された「青空法話」で、漫才をされたあと、畳にからだを小さくさせてそして、畳におでこがくっつくくらい平身抵頭のご挨拶をされた姿をとなりで見ていて、びっくりしたことがあります。
それから「お笑いの人たち」の仕事の裏にある、上下関係のすさまじい厳しさを垣間見た気がしました。そういうことは表舞台のわたしたちには出さないのがプロなのでしょう。
本日の漫才・コントはずーっとずーっと大御所カウス・ボタンさんらより吉本興業の後輩たちでありました。そして、彼らと同じ轍を踏んだ後輩達です。
そこにも、生きたドラマと、コントと、漫才を含んだ「芸人のシリアスさ」に脱帽してしまいます。この次は自腹で見に行こう!!
とりあえず、おあとがよろしいようで・・・。