現代川柳『泥』終刊号
その二
映画を観て思い切り感動したいと時々思う。
それもグシャグシャになってしまうくらい泣けるものか、そうでなければ、顔がグシャグシャになってしまうほど笑えるものを。
しかし、思いっきり感動したくて川柳を読もうとは滅多に思わない。けれど感動させられる作品との出会いは確かに何度かあった。
夢中になって句を創りたい、と思った日は余り無かった。
正直に言えば、締め切り日が迫っているから創っていたような気がする。
反面、作りたい意識はいつも頭の隅にあって、気になっていたことは事実である。
おそらく30年以上も関わってきた、一種の習性のようなものが、身についていたからかも知れない。
川柳に夢中になっていたと言えば、嘘になる。
夢中になれなかったから、今も、こうして続けているのではないだろうか。
例えば作品が歪な壺と言われようが、皿になってしまったと思われようが、それらは、わたし自身である。
創られた作品はわたしのほんの一部、だから、わたしのすべてを表白したなんてことは言えない。
創ることや書くことをいつも辛いと思っている。
でも、いやいやながら創ったり、書いたことは一度もなかった。
書くことは、なんと残酷で、そして楽しいことなのだろう。
続く・・・。
その二
映画を観て思い切り感動したいと時々思う。
それもグシャグシャになってしまうくらい泣けるものか、そうでなければ、顔がグシャグシャになってしまうほど笑えるものを。
しかし、思いっきり感動したくて川柳を読もうとは滅多に思わない。けれど感動させられる作品との出会いは確かに何度かあった。
夢中になって句を創りたい、と思った日は余り無かった。
正直に言えば、締め切り日が迫っているから創っていたような気がする。
反面、作りたい意識はいつも頭の隅にあって、気になっていたことは事実である。
おそらく30年以上も関わってきた、一種の習性のようなものが、身についていたからかも知れない。
川柳に夢中になっていたと言えば、嘘になる。
夢中になれなかったから、今も、こうして続けているのではないだろうか。
例えば作品が歪な壺と言われようが、皿になってしまったと思われようが、それらは、わたし自身である。
創られた作品はわたしのほんの一部、だから、わたしのすべてを表白したなんてことは言えない。
創ることや書くことをいつも辛いと思っている。
でも、いやいやながら創ったり、書いたことは一度もなかった。
書くことは、なんと残酷で、そして楽しいことなのだろう。
続く・・・。