梅里先生碑(常磐神社 常磐町1-3-1)
光圀が常陸大宮市にある水戸徳川家の墓地へ、寿蔵碑(じゅぞうひ)といって存命中に建てる自身の墓誌を建立したそうです。写真は、それを模して建てられた碑だそうです。「其の人と為(な)りや、物に滞(とどこお)らず、事に著(ちゃく)せず。神儒を尊んで神儒を駁(ばく)し、佛老を崇(あが)めて佛老を排す。」といった印象的な299文字が彫られているそうです。写真は、昭和43年に明治維新百年を記念して茨城県吟詠剣詩舞総連盟が常磐神社境内に建てた碑のようです。
大日本史と彰考館の碑(二の丸跡 36°22'29.9"N 140°28'46.8"Eあたり)
江戸水戸藩邸で光圀が始めた大日本史編纂事業ですが、光圀の引退とともに元禄11年(1698)に編纂所である江戸の彰考館を、水戸城内へ移したそうです。光圀の死後、江戸藩邸と水戸城の2か所体制となり、それが斉昭の時代まで続いたそうです。写真左は彰考館跡碑、右は大日本史編纂之地碑です。
桜川碑(見川36°21'56.6"N 140°25'46.0"Eあたり)
元禄9年(1696)に光圀は、吉野と並ぶ桜の名所といわれた、現・桜川市の磯辺から、ヤマザクラ数百本を見川と桜川一帯に植えて、桜の名所をつくったそうです。歴代の藩主も桜を植え継いで景観を守ったそうですが、その後放置されたそうです。大正4年に河和田の青年会がサクラを河和田(桜川団地橋児童公園)に復活させたそうです。写真は、見川部分に水戸桜川日本桜の会と水戸桜川千年桜プロジェクトが建てた桜川の碑のようです。
桜詩碑(六地蔵寺 六反田町767)
「六地蔵寺に遊び戯(たわむれ)に垂糸(すいし しだれ)の桜花に題す」という題で宝永2年(1674)に詠まれた、「裊娜(じょうだ)絲桜風定静(じょうだたるしおう(いとざくら)かぜさだまりてしずかなり)」で始まる光圀の詩を刻んだ碑だそうです。書は水戸徳川家13代徳川圀順(くにゆき)だそうです。碑裏には、最晩年の栗田勤(いそし)による漢文での解説があるようです。
銷魂橋碑(36°21'48.2"N 140°29'15.4"Eあたり)
水戸街道で水戸の出入口の備前堀に架かる銷魂橋を説明する石碑です。「たまげばし」とよむようですが、別れが惜しまれて魂が消(銷)えるようだという意味のようで、光圀が付けた名前ということです。このあたりからはみごとな水戸城が見えて、見る人々が驚いたということからいわれた「たまげ(魂消るとも書くようです)橋」という通称があって、それに光圀がひねった名前を付けたような気がします。偕楽園公園にある窈窕(ようちょう 美しくしとやか)梅園も、高枕亭へ上る坂道である光圀命名という窈窕坂からきているようです。これも、光圀が羊腸(羊の腸のように曲がりくねった)の坂道をもじってつけた名前のように思えます。