常照寺開山 敬峰(けいほう 元吉田町2723)
京都・大徳寺から来て、品川・東海寺の輪住(禅宗寺院で、住職が輪次で短期間に交代すること)になっていた仰堂(ぎょうどう)に、徳川光圀は水戸に大徳寺派の寺の開創を依頼したそうですが、固辞されたそうです。そして仰堂は、その後死去してしまったそうです。そこで、光圀は、その弟子である敬峰を水戸に迎えたそうです。仰堂は、光圀の侍女だった村上吉子(左近局(さこんのつぼね))の兄だったそうです。元禄13年(1700)に水戸に来た敬峰ですが、光圀が病気になったために会うことが延期されているうちに、光圀が死去してしまったそうです。できあがった常照寺で敬峰は、仰堂を招請開山として、自身を開山第一世としたそうです。敬峰はその後、大徳寺住職になったり、東海寺の輪住にもなったそうですが、その後常照寺に戻り、住職を辞した後、境内に潜夢庵をつくって住んだそうです。写真は、常照寺にある歴代和尚銘です。
茨城県知事 山岡鉄太郎(鉄舟)(現在の茨城県庁 笠原町978-6)
水戸は、幕末の争乱で人心が荒れ、難治県といわれたそうですが、その茨城県の初代参事(県知事)に明治4年、山岡鉄太郎が静岡藩の権大参事から転任したそうです。山岡の号は鉄舟で、勝海舟、高橋泥舟の3人で幕末の三舟と言われた人で、勝海舟と西郷隆盛との会談のお膳立てをしたりして、徳川慶喜の無事をはかったそうです。参事に指名されたのは、そうした徳川家とのつながりがあったことや、妻が鹿島神社社人の家の出だったことなどが関係しているらしいとのことです。ただ、山岡の在任は1ヵ月未満で、伊万里県令に転任したそうで、実際の事務には携わらなかったようです。写真は昔撮った谷中・全生庵(台東区谷中5-4-7)にある山岡の墓です。
水戸第一高等学校校長 国分行道(三の丸3-10-1)
今の水戸地方気象台(金町1-4-6)の地にあった、教員を養成する茨城師範学校に、明治11年、予備学科が開校したそうです。これが現在の水戸第一高等学校の前身だそうです。初代校長は、茨城師範学校の初代校長でもあった、国分行道だそうです。国分は宮城県出身で、茨城県の学務課長在勤の後、仙台高女の初代校長になったそうです。写真は、水戸第一高等学校の正面です。
茨城県立歴史館長 岩上二郎(にろう 緑町2-1-15)
岩上二郎は、茨城県知事時代に文書館と歴史博物館の機能を持つ茨城県立歴史館を構想して、昭和49年に実現させ、知事退職後に初代館長になったそうです。徳川光圀が大日本史を完成させるために資料の調査収集に力を尽くした姿勢にも思いをめぐらしたそうで、資料の調査・研究・保存を優先させるという運営方針を採ったそうです。昭和53年に参議院議員になり、昭和63年には議員立法で公文書法を成立させたそうです。写真は、以前、県立図書館にあったパネルにあったものです。
TV番組初代水戸黄門 東野英治郎
パナソニック(旧・松下電器)の創業者・松下幸之助が、水戸藩家老・三木之次(ゆきつぐ)の後裔・三木啓次郎から援助を受けたこともあって成功したことも関係したようで、パナソニックは昭和44年開始のTBSのテレビドラマ・水戸黄門のスポンサーになったようです。その初代黄門役は東野英治郎が演じたそうです。東野は、映画・東京物語、用心棒、楢山節考、白い巨塔などに出演した俳優だそうですが、TVの黄門役もはまり役だったようです。約14年間黄門役を演じ、「かっかっかっ」という独特な笑い声があったり、「じゃがいも黄門」ともいわれたりしたそうです。写真は水戸駅北口にある銅像です。