豊田芙雄
明治20年に水戸徳川家12代篤敬(あつよし)が全権大使としてローマに赴任する時、43才の豊田芙雄は随行員に選ばれたそうです。その際、文部大臣から欧州女子教育事業調べを委託されたそうです。3年間の留学で、ヨーロッパの女子教育や文化を吸収してきたそうです。帰国後、明治27年に寄宿制の私立女学校・翠芳(すいほう)学舎を開いたものの、1年程で、西園寺公望からの徳川篤敬を通じての要請で、校風刷新のために栃木県立宇都宮高等女学校へ赴任したそうです。写真は五軒小学校で見た豊田芙雄の銅像です。
高橋義雄
友人の父が、生糸相場で儲けた金で、アメリカの商業事情を視察することを条件に援助してくれたことにより、明治20年に27才で、渡米したそうです。ところが、相場の失敗で資金が途絶えたそうです。高橋は、イタリア公使・徳川篤敬に書を送り援助を請うたそうです。その結果、洋行は継続され、イギリスにも行き、2年間、海外の商業事情を見てきたそうです。帰国後、同郷の大阪毎日新聞の初代社長・渡辺治を通じて井上馨を知り、さらに益田孝、渋沢栄一を紹介され、彼らによって三井家に迎えられたそうです。写真は、そうとう前に撮った、高橋が今の形を作った日本橋三越です。
常陸山
明治43年に出羽ノ海を親方となって襲名した常陸山一行200人は、満州・朝鮮の国外巡業をおこなったそうです。帰国直前になって、常陸山は、旅順の忠霊塔参拝とそこでの奉納相撲をしたいと言い出して、費用を自分で負担してそれを実現させたそうです。ところが当初帰国するために乗る予定だった船舶が沈没して、結果的に、思わぬ災害から全員が逃れることができたそうです。写真は、今、水戸市立博物館で開催されている常陸山谷右衛門展にあった、常陸山・横綱土俵入りの勇姿です。
木内克(きのうちよし)
大正10年にパリに渡り、以後15年間滞在したそうです。モンパルナスのグランド・ショミエール研究所に3年間通い、ブールデルにも1年くらい師事したそうです。その間に、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ド・ドートンヌなどへ出品したり、原勝郎、岡鹿之助、藤田嗣治と交流したりしたそうです。昭和10年に、国際情勢の悪化により帰国したそうです。写真は、酒門共有墓地にある、木内克も埋葬されているらしい墓です。
徳川幹子
大正15年、夫・徳川宗敬(篤敬の次男)のドイツ留学に同行したそうです。幹子はドイツ語や、合理的なドイツ人の考え方を学び、第一次大戦での敗戦による戦後インフレに苦しむドイツの姿をまのあたりにして、帰国後は生産者になろうと夫と話し合ったそうです。昭和20年の敗戦を体験し、水戸で開拓をおこなおうと決心したもとには、ドイツ滞在があったようです。昭和30年には全日本開拓者連盟婦人部の初代部長にもなったそうです。写真は、茨城県立歴史館で見た徳川幹子の著作です。