徳川光圀の時代、延宝3年(1675)に、番所や武士の屋敷で酒を売ることを禁じたそうです。この令は前年も出たそうですので、守られていなかったということなのでしょう。水戸紀年にあります。本町の道明作兵衛はこの頃米高で3000石という大規模な酒造りをしていたようで、町の酒屋が栄えているので、それをまねた番人や武士がいたということなのでしょうか。写真は、その道明の名前を残す備前堀にかかる道明橋です。
水戸では徳川斉昭による娯楽への圧迫などを含む天保の改革がおこなわれる前は、人形浄瑠璃の大薩摩がはやったそうです。一盛長者伝説や八百屋お七などはたいそう当たったようです。芝居の席では、饅頭や、白木の小重箱に入った4~5個の豆腐田楽と一緒に、徳利に入った1合ぐらいの酒が幕間に売られていたそうです。江戸にはあった、幕間に劇場の外へ出て食べる、料理茶屋は水戸にはなかったそうです。小宮山楓軒著の「楓軒偶記」にあるそうです。写真は、一盛長者が住んでいたという地区への入口あたりに建てられた碑(渡里町36°24'36.1"N 140°26'03.7"Eあたり)です。
河童の画家といわれる小川芋銭(うせん)の酒句に
清水汲んで 酒の香残る 瓢(ふくべ ひょうたん)かな(俳句誌・ホトトギス課題「酒」の入選句)
雨雫(しずく) 桜が下に 酔はんかな
酒好きで俳句もよくした芋銭ですので、酒の句がいくつも見られるようです。ただ、飲み過ぎで身体をこわしたようで、
竹の葉の 杯(さかずき)すてし 芋銭子を 如何(いか)に笑ふか 七(なな)の賢人(かしこびと)
という飲めなくなった後の、いかにもくやしそうな歌もあるようです。竹の葉は酒のこと、七の賢人は、酒好きだった竹林の七賢のことでしょう。渡辺鼓堂により水戸にあった茨城日報に芋銭の漫画が掲載されるようになったといわれているそうです。写真は、得月院(牛久市城中町258)にある芋銭の墓です。
彫刻家・木内克(きのうちよし)作のフクロウ灯籠が、大塚子之吉が営み、柵町あたりにあった料亭・大塚屋の庭にあったそうです。酒を飲んでも必ず家に帰ることができるという縁起物としておかれていたそうです。フクロウは夜よく目が見えるということからなのでしょう。現在、護国神社に同じような灯籠(写真)が置かれています。
東武館の館長だった小沢武は、昭和20年の空襲のとき、消火に孤軍奮闘していたそうです。午前3時ごろ、攻撃の第3波が来たときには体が動かなくなってしまったそうです。残っていた配給酒2合や梅酢を飲み干すと、再び元気が出て動けるようになり、家を焼かずにすんだと伝記にあるそうです。写真は同様に焼け残った旧・お稗蔵のようです。