馬場氏の時代(建久年間(1190-1198 鎌倉初期)から応永33年(1426)の約230年間)
建久年間(鎌倉初期)に、馬場大掾氏は、今の水戸一高校庭(下の丸)あたりに居館を築いたそうです。この段階では、城というよりも、屋形というものだったようです。(写真は水戸一高校庭)
江戸氏の時代(応永33年(1426)から天正18年(1590)の約164年間)
今の水戸一高部分(本丸)を内城(城の中心部)、水戸三高、水戸二中部分(二の丸)を宿城(家中の諸士や商人)とし、4mの盛り土をした大がかりな普請をしたそうです。土地神への奉斎銭である1300枚の貨幣の入ったかけた壺が出土したそうです。下の丸の浄光寺曲輪(水戸一高校庭)にはまだ浄光寺があったらしいとのことです。ここから千波湖側へ降りる道に大手門があったそうです。(浄光寺口付近 写真は明治35年水戸地図)
佐竹氏の時代(天正18年(1590)から慶長7年(1602)の約12年間)
今の水戸一高部分を本城(本丸、下の丸)、水戸三高、水戸二中部分(二の丸)を宿城(居館)、弘道館、県庁三の丸庁舎部分を三の丸(重臣居住区)としたそうです。石垣のない堀をつくり、その掘り取った土で本城の土塁を作ったそうです。城の出入口を東側の浄光寺口から西側に移し、町人地を城郭から分離したそうです。本丸、大手門などを作ったものの、全体の完成を見ないままに秋田に転封となったそうです。(大手門付近 天保時代水戸地図の復刻版)
徳川氏の時代(慶長7年(1602)から慶応3年(1867)の約265年間)
水戸城の大体の形は佐竹氏によってつくられたようです。徳川氏の時代になって、本丸には火薬庫などが建てられ、二の丸には天守閣にあたる御三階櫓が建てられ、ここが実質的な本丸になったそうです。おおよそ、城のある台地上の上市を武家地、台地下の下市を町人地として整備したそうです。(御三階櫓(地図では天守閣)付近 写真は明治35年水戸地図)
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