写真は酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ ひたちなか市磯崎町4607-2)にある「水戸斉昭公お腰かけの石」です。
芋の葉
斉昭が3、4才の頃に、同年代の子供たちなどと高台に行ったときに、にわか雨にあい、そこの畑にあった芋の葉を傘がわりにして帰ってきたそうです。それを6代藩主治保(はるもり)が見て、畑の主に聞いて取ってきたかと問い、断り無く取ってきたとしたら盗んだことになると叱られて、3日間部屋に引きこもらせたそうです。武田耕雲斎に宛てた手紙にあるそうです。
安政元年(1854)の書
「一、飯を得るたびに、兵糧の窮屈を思い 一、衣を製するに、甲冑(かっちゅう よろい・かぶと)の窮屈を思い 一、居宅を構(かま)えるに、戦いの陣中での不自由を思い 一、起居の安きに、山野の苦しみを思ひ 一、父母妻子同居し、兄弟親戚と交わるに、遠国雑居の時の悲嘆を思いやり、今日の無事安穏を大幸とすれば、何ぞ奢(おご)りの思いを生ぜん。」(現代文化してあります) 吉田松陰は斉昭のこの文章を刷って、松下村塾のメンバーに配ったそうです。
廊下歩き100遍
安政5年(1858)に行われた井伊直弼による勅許なしの日米修好通商条約締結に対して、抗議の押しかけ登城をした徳川斉昭は、駒込中邸に蟄居(ちっきょ)謹慎の処分をうけたそうです。このときは、運動不足を補うため毎日22間(約40m)の廊下を1日100遍往復したそうです。斉昭が行った水戸藩の天保の改革に対して幕府によって行われた弘化元年(1844)の隠居謹慎処分のときは、裃(かみしも)に威儀を正して膝を崩さなかったそうです。しかしこのときは、うさばらしに、職人と自由に話したり、かんしゃくを起こすと大声でどなりちらしたりしたそうです。
牛乳
当時はすでに牛乳の栄養価は高く評価されていたそうですが、斉昭は牛乳が好きだったそうです。水戸城中にいた子供たちに飲ませたり、家臣の病気見舞に贈ったりしたそうです。
菓子
「大和菓子景山百種菓子」が徳川ミュージアムにあるそうです。これには、斉昭による古今和歌集などの古歌にちなんだ創作菓子24選が描かれているそうで、製造にあたっての指示も記されているそうです。景山は斉昭の号です。
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