義公誕生之地(黄門神社 三の丸2-2-4)
義公生誕之地という、昭和29年に建てられた、徳川光圀が生まれた、家老・三木之次屋敷跡にある碑です。ここには、義公祠堂(しどう)という、黄門神社が建てられています。この碑のほかに、義公祠堂碑や古梅の歌碑(朽(くち)残る老木(おいき)の梅も此(この)宿のはるに二たひ(度)あふそ(会うぞ)嬉(うれ)しき)などがあります。
桜川遺蹟碑(桜川団地橋児童公園 河和田町63-1)
碑の表は徳川圀順(くにゆき)の「桜川遺蹟碑」という題字、裏には菊池謙二郎の漢文「淸流蜿蜒(えんえん)として北より来(きた)り、東のかた仙湖(千波湖)に入(い)る」ではじまる文章が彫られています。「光圀が元禄9年(1696)に磯部神社(桜川市磯部字稲置772)の桜数百株を移植して、川の名を桜川とした。以来藩主などが賞美したが、明治維新後衰微した。大正になって河和田の青年会が運動して、大正4年に土地を国有から村有に移して名勝旧蹟地として桜を植樹したりして復活させた」などといった内容のようです。
光圀筆塚(常照寺 元吉田町2723)
「兎が鳥蹟(文字)に哭する(泣く)が 是(これ)蒼(中国人名 漢字を作った人)に創まる」で始まる弘道館総裁だった名越南渓の文が刻まれています。「兎は蒼頡(そうけつ)が作った漢字を書く筆のために毛をとられたが、使われてその毛の寂しくなった筆とはいえ、その命は限りないだろう」などといったことが書かれているようです。明和4年(1767)に建てられたようです。
心越禅師之塔(祇園寺 八幡町11-69)
「恭(うやうや)しく越師(心越)の墳墓の前に詣(もう)で 天に叫び地を打ち、眠りをおどろかさんと欲す 一朝法灯の火を挑起(ちょうき かかげあげる)し 東方の万八千を照破す」と読むのでしょうか。光圀の「圀」の字を紹介したのは心越だったという説もあるようです。
義公鑽仰碑(常磐神社 常磐町1-3-1) 安岡正篤撰
「聖人が誤って戦いの時代に現れると英雄となりそれが楠正成であり、治平の世に生まれれば百年の師となり天下の方となり、それは徳川光圀である。」「自分の跡継ぎを、高松藩主になった兄の子に譲ったということに、朱舜水は伯夷叔斉も及ばないと評した。」「昭和43年の明治100年に有志がはかってこの碑を建てた。」などという長文の安岡正篤撰文の刻まれた昭和45年に建てられた光圀を讃えた碑です。
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