文京区・江戸川公園・神田上水旧蹟碑記
光圀はただ一人の水戸で生まれた水戸藩主で、歴代藩主のうちでは、一番水戸(藩内)に滞在した期間が長かったそうです。水戸で生まれてから約5年間、引退して西山荘に住んだ約10年間と、11回の帰藩の期間を合計すると22年くらいになるそうです。73歳で没したそうですから、一生の3割は水戸にいたことになるそうです。一方では、一度も水戸に来ることのなかった8代斉脩(なりのぶ)もいるそうです。定府だったらしい水戸藩は、江戸住まいがどの藩主も長かったようです。
若いころ、馬術の練習に励み、馬上で棹(さお)立ちになったり、落馬したように見せる、逆さになる技をしたりしたそうで、侍医だった井上玄桐は、その技術を「究竟(くきょう)の御上手」と「玄桐筆記」でほめたたえているそうです。馬がモグラの穴に足を踏み入れて倒れ、鞍が割れたこともあったそうですが、落馬して投げ出されたものの、なんともない様子だったそうです。
延宝2年(1674)に自分の食事を倹約するよう指示したそうで、お膳部の覚えによると、「朝夕の膳は有り合わせのもので一汁三菜以下とする」「菓子は無用である」「朝夕酒は出さない」などの項目ががあったそうです。また外にも、食事は朝夕一汁三菜で、野菜の精進料理を好み、野菜の時は食が進み、魚鳥の時は、あまり食べなかった、脂っこいものを食べると胸につかえて悩んだという記事が「玄桐筆記」にあるそうです。
光圀は、元禄1年(1688)に、貧者借金の利率を1割に抑える法令を出したそうです。2-3割の金利が普通だった当時、貧者だけを対象に引き下げたそうで、その他は相対(あいたい)で決めるとしたそうです。後に、藤田幽谷は、それを扶弱抑強(ふじゃくよくきょう)の令といったそうです。
光圀は、同時代人として、松尾芭蕉を意識していたそうです。奈良時代に建てられたという、多賀城跡の壺碑(つぼのいしぶみ)が、当時土中から発掘されて注目されていたそうです。その碑は、西行や実朝が詠ったという歌枕であり、感激した芭蕉は「羇旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり」と、奥の細道に書いたそうです。そのことを知ったからなのでしょうか、芭蕉が旅から江戸に帰った元禄4年(1691)年に、光圀は家臣を多賀城跡へ派遣して大日本史のための調査をし、仙台藩主に鞘堂(さやどう)の建築を勧め、そしてその依頼はかなえられたそうです。芭蕉は水戸藩邸の上水道工事に関係したということもあったそうです。光圀は、奥の細道の旅費を出したのでは、という人もいるそうです。写真は、文京区江戸川公園にある、芭蕉の関与を記した、「神田上水旧蹟碑記」です。(随分前の写真です。)
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