た む し ば

引越blogで、リンク切れも多々あるようです。古い記事もありますが記録ということでそのままで^^

サリーリ、いろいろ有るね

2014-08-11 | ノンジャンル
ティンクの激しいリズムのサリーリは実は好みでないな~~~
せめてこのくらいのが好いのだが・・・元気に頑張るしかない!








コンドルは飛んで行くもいろいろあるね。




どちらが良いかは好みの問題ですね~~~


好みと言えば沖縄の島では「鳩間島」もう一度行きたい・・・
今は亡き中澤さんが初めてのシュノーケルでとても悦んでいた・
http://www.media-paradigm.co.jp/~hatoma/

次回の旅行予定→与論島観光ガイド
http://www.yorontou.info/FreeContent/Pub/Default.aspx?cNo=82

↓少し古い情報ですが今でも参考になるでしょうか(与論島出身者より)
小さい島なので、これといった観光名所はありませんが…私のおススメは・・



①「ヨロン駅」という場所があります。
パンフレットにも載っていますが周りは廃棄所みたくてヒドイのですが諦めずに草むらかき分けて(ヨロン駅の看板を見て左側へ)坂道を上がると長い遊歩道があります。晴天の時や夕陽は最高にキレイですよ!!



②干潮でしたら百合が浜での星砂探しも、なかなか出来ないいい体験&思い出になると思います。化粧瓶みたいな小さなビンを持っていくと無くさずに持って帰れますよ☆



③ウドノス海岸は貝殻が落ちています。ビニール袋持参で探してみてください。帰ってから部屋に飾るのもいいですよ~



④空港はとても小さく都会のバス停みたいです。飛行機の離着陸を間近で見れるので離着陸の時間を抑えてプリシアリゾートの浜辺か滑走路の隣の公道で見るとおもしろいですよ。ちなみに飛行機も小さいので飛行機を触って記念写真もいいかもしれないです♪



⑤食事は与論郵便局近くの「フライパン」と役場近くの「海岸通り」と居酒屋「ひょうきん」がオススメです。



⑥役場に隣接している観光案内所で私はヨロン島のャXターをもらった事があります。
市販されているものではないのですがダメモトで「大切にするから、どうしても欲しい!」とねだってみては?部屋に飾っていると拾ってきた貝殻と共にイイ思い出になると思います!(島の人は、そんなにケチでないので大丈夫だと思いますよ)



⑦お店の名前は忘れましたが銀座通り(←名前だけですが…)にある2階にあがった所で「かりゆしバンド」の演奏をやっています。ヨロンの唄を地元の方が演奏したり歌ったりします。席料も1人1000円だったか(?)安いです。南国の歌を生で聞くのもいいですよ♪



「めがね」という映画のロケ地がヨロン島です。

本当に小さい島で沖縄本島のような観光名所はありませんが、ないからこそ自分で作れる旅になると思います☆あとは天気だけを祈るのみです。島の人もあたたかいので楽しんで来てくださいね☆

http://www.vap.co.jp/megane/  ←観るべし

この人はドナタでしょうね http://swimtothemoon.blog12.fc2.com/blog-entry-188.html



あれから69年

2014-08-11 | ノンジャンル
草笛さんのブログより
http://kusabue514.blog117.fc2.com/blog-date-20140811.html

長崎平和への誓い



「被爆者代表『平和への誓い』全文」 

   東京新聞(2014年8月9日 13時56分)

☆ 記事URL:http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014080990135521.html

 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

 八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。

 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。

 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。

 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。

 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。

 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。

 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。

 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。

 平成二十六年八月九日

 被爆者代表 城台美弥子

(東京新聞)