メディアプロデューサーであり、登校拒否、ホームスクーラーの先駆け的存在だった羽仁未央さんが亡くなられた(享年50歳)。羽仁さんは、本紙「不登校新聞」創刊1周年記念号に登場するなど、本紙との関係が深かった。ご冥福をお祈りします。
――羽仁さんは、不登校の大先輩とも言えますが、いつごろから?
学校を辞めたのは小学校四年生、九歳のときでした。その前はパリにいたのですが、そのころから学校には行きたくなかったんですね。
小学校二年生で日本にもどってきて、一年ちょっとで学校に行かなくなりました。学校にとくにイヤな思いがあるわけじゃないんですが、とにかく毎日同じ所に行くということがイヤだったんですね。
でも、それがなかなか、うまく説明ができなくて、病気になればと、水ぼうそうにかかった友だちの家に行き、むりやり水ぼうそうにかかったりもしました。
――お父さんは味方だったんですよね。
最初は、父も理解できないようでした。だけど、父は人の痛みや悩みに敏感な人で、理解しようと、あちこちの小学校を見てまわったりしていました。
父は教育委員会に対して「未成年だから発言権がないというのは憲法上問題がある、子どもの発言を無視するべきではない」と言っていました。二年以上も教育委員会ともめて、結局、羽仁家は独特の教育をしているから、ということになりました。
週刊誌なんかでも騒がれて、父は「学校に行かせない変態オヤジ」みたいに取り扱われもしました。
そのころ、ちょうど父が撮影でアフリカに行くことになって、私もついていきました。
――アフリカで感じたことは?
アフリカは、生と死の感覚がちょっとちがっていました。死がすごく浮「ものでもないし、何か特別なことをしていなくても、生きているだけで充分、充実している。都会だけで生きていると、精神ということをあまりに重く考えすぎて、肉体とか生命であることの充実を忘れているのではないかと思います。
私も、ずっと人間とばかり暮らしていたわけではないためか、人間だけがこの地上に生きているものじゃないんだ、という感覚が強くあります。
――日本にもどってきてからは?
日本にもどってきたのは一四歳で、それからは雑誌に文章を書いたり、テレビやラジオに出ていて、そこで得たお金を元手に、映画撮影を始めました。
一六歳のときに16ミリで自主映画を撮ったんですが、すでにそのころから商業的な映画監督になろうとは思っていませんでした。
日本は、プロフェッショナルとか職人をすごく珍重する社会ですが、私は、プロがアマチュアよりも一段高かったり、真剣だとは思わないですね。
■人のお金じゃ、やる気がしない
私が二〇歳のころから、日本はバブル景気で、何でもありの時代になってきました。当時、映画会社から映画撮影の話を何件もいただいたのですが、一本も受けませんでした。
まず、自分が脚本を書いて、自分で俳優を選ばないとイヤでしたね。それに、他人のどうでもいい金で撮るのは、おもしろくない。何でもやりやすい時っていうのは、何をやってもおもしろくない。
そういう、おもしろくない感じが、日本全体にあったように思います。
そのころ、香港映画への興味から香港に遊びに行ったんです。そうしたら、香港は、映画よろしく、すべてのルール違反が起こるところだったんですね。私は、そういうところに強烈に引きつけられて、香港に住み始めました。
香港という街は、人が集まってできた国だから、生き方というものが決まってない。とくに映画界は吹き溜まりで、国籍がない人やヤクザや、いろんな人が集まってくる。
日本では、生きていることを隠していますよね。それが文明的だという感覚をもっている。ところが、香港では生きていることがむきだしなんですね。私は、そのほうが感動的で美しいし、それを撮ってみたいと思い始めました。
■自分の会社を
香港では映画会社と契約していましたが、私は商業映画には向いていなかったし、契約が切れた後は、自分で会社を興して、テレビ会社にドキュメンタリーをもちこんで、それを経済的な支えにしながら、活動していました。
だけどそこでも、マスコミの限界を感じました。たとえば香港返還にしても、香港に六〇〇万人の人間がいたら、六〇〇万通りの思いがあるわけです。マスコミは、それを一つのパターンにしてしまう。
メディアが、自分たちの論理で少数の人を否定しないようにするには、少数の人たちが、自分たちのメディアを持ったら、すごくおもしろいし、新しい人間のコミュニケーションになると思います。
――今のお仕事は?
知識を上から教えこむ教育ではなく、人が持っている可能性をよびさますような教育が、メディアを通してなら、できるんじゃないかと思って、今は、新たに会社を興して、インターネットを活用した教育ソフトをつくる仕事を中心にしています。
また、アジアの若い人が国際交流するNPO活動もしていて、シンガメ[ルで「アジアチャンネル」という活動を始めました。
■いろんな生き方を
――日本について思うことは?
日本はすごい変わった国ですよね。日本で、あるべき姿と思っていることは、氷山の一角でしかない。
それなのに、日本では、若い人が早いうちから好奇心を疲弊させてしまっている。生きていることって、もっと単純におもしろいことなのにって、日本に来るたびに感じます。
――もったいないことですよね。
不登校にしても、その子が弱いから学校に行かないんじゃなくて、学校なんかに無理して行く価値がないということですよね。
ムダな困難はしないほうがいいと思います。そんなことにエネルギーを使うなら、学歴社会の中で、学歴なしで生きていくことにエネルギーを使えばいい。
――今の子どもは、キレるなどと騒がれていますが。
子どもが攻撃的になるのは、そこだけが世界だと思い、追いつめられているからだと思います。
人間というのは、自分が望んでいることを、望んだかたちでしようとするときに、はじめて完成された人格だと思うんですね。だから、自分が何をしたいのかをつかむこと、そういう時間をもつことが大切で、周りもそれをサメ[トするべきだと思います。
画一的な人生のパターンに向けて、みんなが競争しているのは、異常な状況だと思います。
私は、いろんな生き方があるんだということを、メディアの仕事を通じて伝えていきたいですね。もっと多様な生き方を子どもたちがして、それを大人が、不安なくサメ[トできるようになったらいいですよね。
――お忙しいところ、ありがとうございました。(聞き手:奥地圭子/1999年5月1日)
(はに・みお)1964年~2014年11月18日。エッセイスト、メディアプロデューサー。東京都出身。映画監督の羽仁進と女優の左幸子を両親に持ち、叔母は女優の左時枝。祖父は歴史学者の羽仁五郎。曾祖母は自由学園創設者の羽仁もと子。
――羽仁さんは、不登校の大先輩とも言えますが、いつごろから?
学校を辞めたのは小学校四年生、九歳のときでした。その前はパリにいたのですが、そのころから学校には行きたくなかったんですね。
小学校二年生で日本にもどってきて、一年ちょっとで学校に行かなくなりました。学校にとくにイヤな思いがあるわけじゃないんですが、とにかく毎日同じ所に行くということがイヤだったんですね。
でも、それがなかなか、うまく説明ができなくて、病気になればと、水ぼうそうにかかった友だちの家に行き、むりやり水ぼうそうにかかったりもしました。
――お父さんは味方だったんですよね。
最初は、父も理解できないようでした。だけど、父は人の痛みや悩みに敏感な人で、理解しようと、あちこちの小学校を見てまわったりしていました。
父は教育委員会に対して「未成年だから発言権がないというのは憲法上問題がある、子どもの発言を無視するべきではない」と言っていました。二年以上も教育委員会ともめて、結局、羽仁家は独特の教育をしているから、ということになりました。
週刊誌なんかでも騒がれて、父は「学校に行かせない変態オヤジ」みたいに取り扱われもしました。
そのころ、ちょうど父が撮影でアフリカに行くことになって、私もついていきました。
――アフリカで感じたことは?
アフリカは、生と死の感覚がちょっとちがっていました。死がすごく浮「ものでもないし、何か特別なことをしていなくても、生きているだけで充分、充実している。都会だけで生きていると、精神ということをあまりに重く考えすぎて、肉体とか生命であることの充実を忘れているのではないかと思います。
私も、ずっと人間とばかり暮らしていたわけではないためか、人間だけがこの地上に生きているものじゃないんだ、という感覚が強くあります。
――日本にもどってきてからは?
日本にもどってきたのは一四歳で、それからは雑誌に文章を書いたり、テレビやラジオに出ていて、そこで得たお金を元手に、映画撮影を始めました。
一六歳のときに16ミリで自主映画を撮ったんですが、すでにそのころから商業的な映画監督になろうとは思っていませんでした。
日本は、プロフェッショナルとか職人をすごく珍重する社会ですが、私は、プロがアマチュアよりも一段高かったり、真剣だとは思わないですね。
■人のお金じゃ、やる気がしない
私が二〇歳のころから、日本はバブル景気で、何でもありの時代になってきました。当時、映画会社から映画撮影の話を何件もいただいたのですが、一本も受けませんでした。
まず、自分が脚本を書いて、自分で俳優を選ばないとイヤでしたね。それに、他人のどうでもいい金で撮るのは、おもしろくない。何でもやりやすい時っていうのは、何をやってもおもしろくない。
そういう、おもしろくない感じが、日本全体にあったように思います。
そのころ、香港映画への興味から香港に遊びに行ったんです。そうしたら、香港は、映画よろしく、すべてのルール違反が起こるところだったんですね。私は、そういうところに強烈に引きつけられて、香港に住み始めました。
香港という街は、人が集まってできた国だから、生き方というものが決まってない。とくに映画界は吹き溜まりで、国籍がない人やヤクザや、いろんな人が集まってくる。
日本では、生きていることを隠していますよね。それが文明的だという感覚をもっている。ところが、香港では生きていることがむきだしなんですね。私は、そのほうが感動的で美しいし、それを撮ってみたいと思い始めました。
■自分の会社を
香港では映画会社と契約していましたが、私は商業映画には向いていなかったし、契約が切れた後は、自分で会社を興して、テレビ会社にドキュメンタリーをもちこんで、それを経済的な支えにしながら、活動していました。
だけどそこでも、マスコミの限界を感じました。たとえば香港返還にしても、香港に六〇〇万人の人間がいたら、六〇〇万通りの思いがあるわけです。マスコミは、それを一つのパターンにしてしまう。
メディアが、自分たちの論理で少数の人を否定しないようにするには、少数の人たちが、自分たちのメディアを持ったら、すごくおもしろいし、新しい人間のコミュニケーションになると思います。
――今のお仕事は?
知識を上から教えこむ教育ではなく、人が持っている可能性をよびさますような教育が、メディアを通してなら、できるんじゃないかと思って、今は、新たに会社を興して、インターネットを活用した教育ソフトをつくる仕事を中心にしています。
また、アジアの若い人が国際交流するNPO活動もしていて、シンガメ[ルで「アジアチャンネル」という活動を始めました。
■いろんな生き方を
――日本について思うことは?
日本はすごい変わった国ですよね。日本で、あるべき姿と思っていることは、氷山の一角でしかない。
それなのに、日本では、若い人が早いうちから好奇心を疲弊させてしまっている。生きていることって、もっと単純におもしろいことなのにって、日本に来るたびに感じます。
――もったいないことですよね。
不登校にしても、その子が弱いから学校に行かないんじゃなくて、学校なんかに無理して行く価値がないということですよね。
ムダな困難はしないほうがいいと思います。そんなことにエネルギーを使うなら、学歴社会の中で、学歴なしで生きていくことにエネルギーを使えばいい。
――今の子どもは、キレるなどと騒がれていますが。
子どもが攻撃的になるのは、そこだけが世界だと思い、追いつめられているからだと思います。
人間というのは、自分が望んでいることを、望んだかたちでしようとするときに、はじめて完成された人格だと思うんですね。だから、自分が何をしたいのかをつかむこと、そういう時間をもつことが大切で、周りもそれをサメ[トするべきだと思います。
画一的な人生のパターンに向けて、みんなが競争しているのは、異常な状況だと思います。
私は、いろんな生き方があるんだということを、メディアの仕事を通じて伝えていきたいですね。もっと多様な生き方を子どもたちがして、それを大人が、不安なくサメ[トできるようになったらいいですよね。
――お忙しいところ、ありがとうございました。(聞き手:奥地圭子/1999年5月1日)
(はに・みお)1964年~2014年11月18日。エッセイスト、メディアプロデューサー。東京都出身。映画監督の羽仁進と女優の左幸子を両親に持ち、叔母は女優の左時枝。祖父は歴史学者の羽仁五郎。曾祖母は自由学園創設者の羽仁もと子。