生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(36) 半夏生

2022年07月08日 07時59分51秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(36)         
テーマ;生物の本能
場所;東京の庭 月日;2022.7.6
作成日;2022.7.7 
                                               
TITLE: メジロの子育て

半夏生(夏至の末候で、7月2日から6日まで)

 半夏生(はんげしょう)は七十二候の1つで、Wikipediaには次のようにある。
『半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃。一説に、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになる頃とも。様々な地方名があり、ハゲ、ハンデ、ハゲン、ハゲッショウなどと呼ばれる。
「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。』

 半夏と同じころに生える別名マムシ草と呼ばれるこの花にはハエ科の小昆虫が誘引され、付属体と仏炎苞の間の隙間を通過して花の周囲の部屋に閉じ込められる。雄花ではこの部屋の下部に雄しべから出た花粉が溜まっており、閉じ込められた小昆虫は花粉まみれになる。雄花の仏縁苞の合わせ目の下端には小さな孔状の隙間があって、花粉をつけた小昆虫はここから脱出する。雌花ではこの穴がないため、閉じ込められた小昆虫は外に出られず、いずれ死亡する。この雌花に閉じ込められた小昆虫の中に花粉を体につけて雄花を脱出してきたものがいたときに受粉が成立する。



 八ヶ岳の我が家の山野草ガーデンの中央でぽつんと一本だけ毎年花を咲かせて楽しませてくれる。里山歩きをしていても、林の中でぽつんと一輪だけ咲いている姿をよく見かける。花がその姿を保っている期間も長く、また実がついて、色づくまでの期間も長い。一輪だけで十分に楽しむことのできる独特の植物なのだ。だが、油断大敵、毎年数株が、庭のあちこちに出てくる。これらがすべて、小さな種の中の細胞内の遺伝子によるものなのだから驚かされる。

 代って、動物の方はどうだろうか。東京の我が家の庭には小鳥が良く来る。今年は巣作りをするものが現れた。メジロだ。
 庭のほぼ中央に沙羅双樹の木がある。高さはせいぜい2メートルの小さな木で、毎年よく花が咲く。



そこに、メジロが巣をつくった。暫くすると、雛がかえったようで、頭が見えるようになった。




 雛がかえってから、飛び立つまではほんの数日だったと思う。他の鳥に襲われないように早めの巣立ちのようだ。空になった巣を枝ごと切り離してみた。 
 驚いたのは、細い二股の付け根に、うまく固定されるようになっている。巣の材質は雑多のようだが、繊維がうまく絡んでいて、丈夫だ。中は、卵の殻はおろか、小鳥の糞も一切なく、きれいだった。
 小鳥の巣作りは、親の動作で覚えられるわけは無く、これら一連の作業は、すべて本能に仕込まれているのだろう。





 動物の本能は、生まれる前に完成するものと思うのだが、人間の場合は、大いに複雑なようだ。他の動物に比べて、脳が異常に発達して大きくなってしまったために、脳が完成する前に、生まれ出なければならなくなった。完成まで待つと,子宮を出られなくなるそうだ。だから、本来は本能だった行動の一部は、生まれてからの環境によって付加される。
 有史以来の人間社会の有様を概観すると、この中途半端な本能は悪いことばかりに影響しているように思われる。例えば、もし倫理的なものが本脳だとするならば、もっと平和な社会になっていたはずである。

様々なメタシリーズ(84)メタ・メティエ(異次元の技巧)

2022年07月01日 07時29分01秒 | 様々な「メタ」、メタとは何か(公開)
その場考学研究所 様々なメタシリーズ(84)人文系 #21

TITLE:メタ・メティエ(異次元の技巧)
書籍名;「ダ・ヴィンチ・システム」[2022]
著者;河本英夫
発行所;学芸みらい社 発行日;2022.4.25
初回作成日;2022.7.1 最終改定日;

 「メティエ」とは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説にはつぎのようにある。
métier美術・芸術用語。 (1) 手先を用いる職業。 (2) 画家,彫刻家などが当然修得すべき基礎的な技巧。 (3) 特にすぐれた技巧,手腕,腕の冴え。

 著者は、科学論、システム論、哲学の分野で多くの著作を発表している。この書は、その中の最新刊
になる。並行して,「諸科学の解体」[1987]、「経験をリセットする」[2017]も通読してみた。どれも、以って回った論理構成がなされているのだが、主張は明確に示されているように思う。


 
  この書は、主にダ・ヴィンチの「手稿」について書かれているのだが、読売新聞の書評欄で、西成活裕東大教授が紹介をしている。
『対象を素描と言語という二重の方法で表現することで、言語の力を借りつつ、同時にその制約から逃れることもできる。これが対象をより自然に記述しようとする彼のメチエ(技法)だ。』
 
  更に、『対象の人が笑っているのをそのまま描いているのではなく、時間軸の中で一連の動きを一枚の静止画に盛り込んで表現しているらしい。そのためには、対象の力学的なしくみをきちんと理解していなければならない。』確かに、本文の要旨はそのようになっている。
 
 「はじめに」では、世界中で、毎年何冊ものダ・ヴィンチ本が出版されるが、「誰であっても、幾分かこんわくする」とある。著者は、『この言葉による届かなさの印象は、ダ・ヴィンチ自身の「異次元性」に由来すると、言い訳がましく語ることもできる。そうした異次元性にそれとして触れることも、たしかに貴重な経験なのである。』(p.7)

 異次元性は、すなわち「メタ」と云うことになる。
 異次元性の一つは、『ダ・ヴィンチの構想には、ルネッサンスの「人文主義」の影響は、ほとんどない。』(p.7)と云うことで、同時代の文化的環境と文化的手段を離れたところから出発をしているというわけである。

 ダ・ヴィンチは「私は言葉からではなく、自然から学ぶ」と何度も繰り返し述べている。例えば、色についての言葉は、赤、黄、青などせいぜい50~80程度(中世からの日本語の表現では、もっと多いように思う)だが、色合いの区別は3万5000種程度できる、とある。(p.9)
 人類は、様々な方面で進化を遂げている。しかし著者は、「進化の閉回路」として、『進化枝は先端では分岐してゆく。そしてどんどん細い道筋に入って行く。(中略)進化とは気が付いたときにはおのずと自分自身の選択肢が減っていく仕組みのことである。』(pp.14-15)という。そこから抜け出すには、「能力の発現」即ち、異次元への脱皮が必要になる。

 「動きを描く」については、いくつかの「手稿」示されている。
『空中を降下する水滴の各側面は水滴の運動と反対に運動して、各末端からその上部の中心に向う円形で、連続的な波をつくりだす。こういう波は周辺の中心に打ちかえさないで、その円の中心に 沈んで底深く入り、下側から出て、さきにそこから降ったところ、すなわちもっとも高い個所にふたたびたちかえり、ここであらためて円形の波を再び生じて、あらためてその中心に沈むのである。(「手記 下、一〇九頁」』(p.54)が、その一例だが、通常では見えないものを描写している。
 
 激しく動く馬の絵がある。馬の動作は、歩くときも走るときも、特有の反復がある。しかし、その反復は完全には同じではない。『どの運動の変化の局面(変化率)を切り取れば、最も馬らしいのか』(p.60)
ダ・ヴィンチは、「変化率と個体性との内的かかわり」を探るために、多くの馬の素描を残している。

 『ある意味で、ダ・ヴィンチの膨大なデッサンはAI的なのである。』(p.65)という。これは、AIが膨大なデータから答えを出すことが、人間の数学的規則や言語的判断とは全く別物になっていることと同じこととしている。

 また、アリストテレスの考え方との対比を示している。アリストテレスの「自然学」では、同時代の多くの議論を検討し、整理して一つの答えを導いている。
 『ダ、ヴィンチの構想とアリストテレスの議論は、本当は小さな変更をかければ、十分に連動しながらやっていける局面がある。それはアリストテレスが、個物の認識のさいに取り出している、「質料ー形相」の二つ一組の概念対にある。この概念対は、アリストテレスの仕組みの中でも、最も重要なものの一つである。質料は素材であり、形相は形である。個物の認識には、形の認定がつねにともなっている。だからアリストテレスは、個物の認識の最も標準形を取り出しているように見える。だが個物の成立そのものに立ち入ってみると、まったく別のことが起きている。たとえば同じ素材を用いても、異なる形の建築物を作ることはできる。逆に異なる素材を用いても同じ建築物を作ることはできる。たしかにそうなのだが、これは質料と形相の間にマトリックス的な対応関係があるという指摘に留まっている。』(p.91)
 
 そして、『ダ・ヴィンチは、アリストテレスの議論の枠の中で、四元素説(土、水、空気、火)はほぽ継承しており、重さを運動にとっての要因であるとする点も継承している。ただしダ・ヴィンチにとって最も重要な事柄は、(一)物の直接的な相互作用の仕組み、(二)運動の継続の仕組み、(三)事象の出現の仕組みであり、概念的な分析に代えて、自然事象を徹底的に観察、記述することである。こうした事態の記述に、言葉や文章ではなく、デッサ ンを持ちいたのである。』(p.95)
 聊か難しい論理だが、結論としてはダ・ヴィンチの自然学はアリストテレスとも近代科学とも異なる、まったく別のものであるとしている。

西成教授の書評の最後は、こんな言葉で結ばれている。
『自然を見る事をすっかり忘れてしまっている自分に気がついた。もはや現代科学を勉強してしまった我々は、その色眼鏡でしか自然を見られなくなっている。読後、一度すべての理論を忘れて、ダ・ヴィンチの視座で自然を追ってみたくなった。』