生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(104) 「最近の日本全史の傾向とメタエンジニアリング思考」 

2019年01月27日 08時28分49秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(104) 「最近の日本全史の傾向とメタエンジニアリング思考」 
                                                                    
メタエンジニアリング式の思考法を使って、最近の日本全史シリーズの傾向探ってみた。そこで、次の3冊を参考とすることにした。
① 「日本通史 第1巻 日本列島と人類社会」岩波書店 [1993]
② 「網野善彦著作集 第5巻」岩波書店 [2008] 
③ 「日本の歴史 第00巻」講談社 [2008] 

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
                                               
書籍名;「日本通史 第1巻 日本列島と人類社会」 [1993] 
著者;網野善彦 他9名 発行所;岩波書店
発行日; 1993.9.22
初回作成日;H31.1.25 最終改定日;H31.1.27
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



 この書は、「岩波講座 日本通史」として1993年から始まった全21巻・別巻4の全集の第1回配本になっている。第1巻なので全体を通しての編集方針が日本歴史の大家によって書かれているのだが、10人の著者の内、網野善彦だけに肩書がない。しかし、彼は冒頭の「総論」を40ページにわたって書いている。内容は、「日本論の現在」である。
 
私が彼に注目したのは、別途2000年から講談社が発行した「日本の歴史」全26巻の第00巻(この巻は、網野善彦氏が取り組んだ課題の集大成として、彼一人が全文を書いている)の初回配本時の栞(月報00)を読んでのことだった。彼の「日本論の現在」として書かれた日本史への取り組み方は、正に「メタエンジニアリング」の手法そのものに思えたからである。
 
つまり、彼は過去の日本史全体を「メタエンジニアリングのMECI手法」で根本から見直してこれらの大全集を纏めている。概要はこのようだ。
Mining; 何故、従来の日本史は単一民族、単一文化という枠にはまってしまったのか、理由を掘り下げる
Exploring; 支配層や主流経済から離れた、一般国民や様々な職業人、文化活動などに視野を広げる
Converging; それらを、それぞれの時代にあて嵌めて、それぞれの時代の全体像を作り直す
Implementing; 日本の歴史全集として、纏めあげる。
 といった具合に見ることができる。しかも、岩波書店と講談社がそれに乗っているのは、驚きだった。

 この書の冒頭の「総論」は、次の文章で始まっている。
 『「日本論」の現状と問題点
二一世紀をまもなく迎えようとしている現代が、文字通り激動の時代に入ったことは、いまやすべての人々の共通認識になりつつある。この激動の根底には、人類が自らを滅亡させうるだけの恐るべき力を持つにいたったという現実、自然と、自らもその一部である人類社会との関係の重大な変化があり、その中で、これまでの人類社会を なんらかの意味で規制・区分してきた国家のあり方、民族の実体が根本から問い直されようとしているのである。』(pp.5)

 具体的には、戦後の日本史学会や出版本などの傾向の変化を追った後で、
 
『やはり八〇年代に入ると文献史学の状況も大きく変ってくる。すでに七〇年代後半から西欧の新しい歴史学の潮流、「社会史」の影響が日本史の分野に及びつつあり、大方の歴史学界の拒否反応にもかかわらず、次第に多くの人々の関心をひきつけていたが、その中で塚本学は「日本は単一民族国家という判断」、古代以来それがーつの国家であったとする見方を拒否し、「日本国家史、日本民族史」ではなく、「日本列島上の人類社会史」の視点に立つことを強調した。そして東アジア地域を「すでに形を成したものと想定された中国民族、朝鮮民族、日本民族等々」によって成り立つという前提で最初からとらえる見方を批判しつつ、「たとえば十五―十六世紀の五島列島と済州島と舟山列島とを包括する倭冠世界を想定したり」、大陸をもふくむ「日本海沿岸諸地域」を考えてみる必要があることを主張したのである。』(pp.7)
 つまり、従来の確立された歴史論から視野を広げて、多面的な見方を推奨している。

 そして、「日本の社会史」、「民衆生活史」、「北からの日本史」、「アジアの中の日本史」などの内容を例に挙げて、さらに視野を広げることを主張している。

 さらに続けて、次の章を設けて、具体論を展開している。
 2.列島社会の非農業的特質
 3.国家と社会
 4.民族史的・文明史的転換
 これらの内容は、いずれも従来の紋切り型の日本史を批判した内容になっている。

 『そしてこのような動向を通じて、「日本は海によって周囲の地域から隔てられた島国」という、いまなお広く行きわたっている「常識」も崩れ去り、人と人とを隔てる海の役割だけでなく、人と人とを結びつける柔軟な交通路としての海、豊富な水産物を提供する宝庫としての海の機能が新たな注目を集めるようになってきた。やはり最近完成した「海と列島文化」全二巻(小学館、一九九〇―九三年)は、こうした海の役割に視点を定め、考古学・文化 人類学・民俗学・文献史学のそれぞれの立場から、多くの論文を集成しており、これらによって、列島の社会がきわめて古い時代から、海を通じてアジアをはじめとする諸地域と緊密に結びついていた事実、ァメリカ大陸とすら関わりがあったことなどが、さまざまな角度から明らかにされたのである。そしてこのような諸研究を通して、「前近代の日本の社会は基本的に水田を中心とする農業社会であった」とする従来の「常識」もまた、覆ろうとし ている。』(pp.8)
 というわけである。

2冊目は、「蒙古襲来」                                                                       
                               
                  
書籍名;「網野善彦著作集 第5巻」 [2008] 
著者;網野善彦  発行所;岩波書店
発行日; 2008.11.26
初回作成日;H31.1.25 最終改定日;H31.1
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



網野善彦が、その独特な歴史観をもって、歴史を解きほぐす態度を、もっとも顕著に表したのもが、「蒙古襲来」であるとして有名になっている。網野善彦著作集 第5巻は、この書だけで1巻を成している大作だ。目次からだけでも、彼の態度が明確に表れている。

「まえがき」につづく「はじめに」は、「飛礫、博奕、道祖神」で17ページも費やしている。
続いて、「二つの世界、二つの政治」では、田畑を耕す人と、海に生きる人について対象的かつ公平に述べている。そして、ようやく当時のモンゴルと高麗について説明して、「文永の役」、「弘安の役」が始まる。しかし、すぐに、「百姓と町人」、「訴人雲霞の如し」、「分化する村落と都市」、「元寇前後の社会情勢」が、中身の主流になってゆく。

 例えば、当時の社会情勢についての記述はこうである。
 『親鷺の思想の歩みのなかで、この飢謹のもつ重い意味を、これは的確に指摘している、と私は思う。
目をおおわしむるほどの民衆の惨苦は、しかしそのなかから、中世日本の民衆の歩みに決定的な意味をもった思想を誕生させたのである。川崎氏が「一個の偉大な被抑圧者」と評した親鷺は、「文字のこころもしらず。あさましき愚痴きはまりなき」「いなかのひとびと」「いし 、かはら、つぶてのごとくなる」「れふし」「あき人」などのなかに「まことのこころ」を見いだし、たえさる弾圧に身をさらしつつ、みずからの得た歓喜を人々にわかつぺく、これ以後、熱烈な布教を開始してゆくのであった。』(pp.8)

 そして、「底知れぬ力」として、次のように記している。
 『悪口をさけびあい、石を投げあった。こうしたやりかたはどこでも同じだったようである。それは幼い野性にみちみちた、古くからの子供たちの遊びであった。 しかし鎌倉時代この石合戦の習俗につながる飛喋は、まだもっぱら大人たちのものだった。さきの法令にもみえるように、飛礫はたしかに祭りのときによく飛んだ。祇園御霊会・天満宮祭・ 川崎惣社祭など、都で行なわれる祭りのさい、神輿を担う駕輿丁・雑人、そして「遊手浮食の輩」などといわれた人々は、祭りの興奮が絶頂に達したとき、飛傑を打った。だが、石は祭りのときだけに飛んだのではない。』(pp.10)

 さらに、「芸能としての博奕」と題して、様々な職業について詳細に記している。
 『当時、こうした「職人」には、それぞれの道があった。「兵(つわもの)の道」もそのーつであるが、螺鈿をつくる工(たくみ)ぱ螺鈿道、漆工には漆工道、木工には木道など、手工業者はみなそれなりの「道」にたずさわる人だった。それゆえ、こうした「職人」たちは、まとめて「道々の輩」、あるいは「道々の細工」などといわれることが多かった。』(pp.15)

 また、「職人・芸能・道」と題して、『さきに博変打ちが職人であったと述べたとき「東北院職人歌合」にふれた。この歌合せは、「鶴岡放生会職人歌合」『七十一番職人歌合』の等々、のちに多数出現する「職人歌合」「職人尽絵」のうちもっとも古いもので、いわばそのみなもとをなしている。この歌合せにも諸本あるが曼殊院旧蔵(東京国立博物館蔵)のそれが原本であろうといわれており、荻野三七彦氏によるとその筆者は後述する花園天皇であったとされている。 そこには医師・陰陽師・鍛冶・番匠・刀磨・鋳物師・巫女・博奕・海女・買人の五組一〇種の職人が描かれているが、流布本になるとこれに、仏師・経師・盲目・深草(土器造)・壁塗・紺掻・筵打・塗師・檜物師・船人・針磨・数珠引・桂女・大原人などが加わる。』(pp.259)

『もちろん手工業者だけが「道々の者」だったのではない。 建長七年(一一五五)一〇月、伊予国の国衝から免田を給されている「道々外半人等」(外半人は外才人のことか)には、経師・紙工・白革造・鞍打・笠張・続櫨師から傀儡師までがあげられ、西園寺公衡の正和四年(一三一五)四月二五日の日記に列挙された「道々の輩」には獅子舞もみえる。博打の「道」については先に述べた。狭義の芸能に「道」がそれぞれあったことはいうまでもなかろう。とすれば「道」もまた「職人」「芸能」の範囲とまったく一致する広範な内容をもっていたことは明らかといえよう。「武士道」もまた、なにも特別なものではなく、源流はここにある。「兵ノ道」はまさしく、ここでいう 「道」であった。武士が世間芸能のなかにあらわれるのはけっして偶然ではないのである。
このように、職人・芸能・道は、三位一体、切りはなしがたい関係にあった。それは、中世前期、農業以外の生業にたずさわり、特異な技術をもつ入々にかかわることばであったといえよう 。』(pp.261)

このように解説されると、「武士が世間芸能のなかにあらわれる」という発想も、自然のように思えてくる。

3冊目は、 「日本とは何か」                      
書籍名;「日本の歴史 第00巻」 [2008] 
著者;網野善彦  発行所;講談社
発行日; 2000.10.24」
初回作成日;H31.1.26 最終改定日;H31.1
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



網野善彦が、その独特な歴史観をもって歴史を解きほぐす態度は、「蒙古襲来」によって有名になった。そのためか、岩波書店と講談社で時をほぼ同じくして発行された日本史シリーズ全巻の冒頭を飾る人物に選ばれている。特にこの講談社版では、全26巻の最初の1冊を丸ごと一人で執筆している。「蒙古襲来」の執筆時に書かれた膨大な原稿に編集者が驚かされて、ページ数を減らすのに苦労をしたとの話が出ていたが、正に司馬遼太郎を上回る多筆家なのだろう。

挟まれた「栞」(月報00)には、著者と東大教授(世界の歴史シリーズの編者)の対話が示されている。そこにも、「何種類かの日本の歴史シリーズが発行されたが、このシリーズは学問の発展と、日本史に対するまなざしが大きく変わったことをひしひしと感じる」とある。つまり、「地域社会に即した時代区分」で纏めてゆくということのようだ。

最大の特徴は、「進歩史観」の変化だというわけである。
『現実のこのような展開の中で、近代以後の歴史学の根底を支えていた、人間は自らの努力で“進 歩”していくという確信が、否応なしに揺いできた。人間による自然の法則の理解に基づくその開発、そこから得られた生産力の発展こそ、社会の“進歩”の原動力であり、それに伴っておこる矛盾をこうした生産力の担い手が克服し、“進歩” を実現していく過程に、人類の歴史の基本的な筋道を見出そうとする見方は、もはやそのままでは通り得なくなった。そうした自然の開発が、自然を破壊して人類社会の存立を危うくし、そこで得られた巨大な力、あるいは極微の世界が人類を死滅させる危険を持つにいたったのである。このような事態そのものが、さきのような “進歩” 史観の持つ根本的な問題を表面化させており、それを徹底的に再検討し、人類社会の歴史をあらためて見直し、“進歩”の名の下に切り捨てられてきたものに目を向けつつ、歴史を再構成することが、必須の課題になってきたといわなくてはならない。』(pp.13)

 このことは、文明の基本である経済の根本についての考え方に拠るもののようだ。
『同じく経済史の発展段階とされてきた、狩猟・漁携・採集経済から農耕・牧畜経済、さらに工業を基盤とする産業経済へという経済の "進歩"の定式も、大きな偏りをはらんでいる。実際、商工業の発達した産業経済の段階に入っても、それ以前の生業が滅び去っているわけではなく、社会経済の中で大切な役割を果し続けているのであり 、農耕社会になると狩猟・漁携・採集が行われなくなるなどということはありえない。また、モノを生産しない流通、運輸、商業、金融などの活動は、さきにもふれた通り、人類の歴史とともに古いといってもよいのであり、それなしにこうした発展段階は考えられないといってよかろう。』(pp.14)
つまり、これまでの農業と工業を中心とした歴史の語りは、片手落ちというわけである。しかも、近代文明では、この二つが地球の環境と持続性を危うくしているのである。

 もっと極端に、歴史上の弱者の側から見た歴史を考えると、従来からの見方が違ってくる。
『切り捨てられ、無視されてきたのは、人類の生活を支えた農工業以外のさまざまな諸生業だけではない。これまでの"進歩史観“ に即してみると、農業・工業に主として携り、経済の発展を推進し のは基本的に成年男子であった。また租税を負担し、軍隊を支え、政治を動かすうえで主導的な役割を果し、社会の”進歩"を担ったのは男性であり、女性や老人・子供は、補助的な役割を果し、ときに表面に現われる場合があったとしても、それは例外とされてきた。それゆえ、従来の歴史はまさしく男性の主導する歴史として描かれてきたのである。
しかし事実に即してみると、この見方にはやはり農業と工業に主としてきたための偏りと、思いこみのあったことがただちにあきらかになってくる。日本列島の社会に即しては第四章で詳述するが、世界の諸民族の実態を見ても、桑の栽植による養蚕や苧麻の栽培による製糸、紡績、さらにそれによって織物を織るのは主として女性の仕事であり、女性は人類の生活の中で不可欠の衣料生産に、圧倒的に大きな役割を果していた。実際、糸車と織機は世界的に女性を象徴する道具ではないかと思われる。
また、こうして自ら生産した織物をはじめ、男性の採取してきた生産物、日本の場合は魚員や薪炭等を持って、市場などで売買をする商人にも女性が多く見られる。』(pp.16)

 更に地域的視野を広げると、意外な事実が浮かんでくる。アジア大陸の東側だけに注目すると、太平洋との間は、みごとに5つの内海で囲まれている。すなわち、ベーリング海、オホーツク海、日本海、東シナ海、南シナ海の5つの内海だ。これらが、歴史に大きな影響を与えていることは、想像に難くないが、従来は、国内ばかりに注目をして、重要視されていなかった。つまり、「海人」の歴史がある。

 この海域での歴史を調べると、意外なことが分かる。例えば、次の様にある。
『この「海部」「海夫」の道は、弥生時代までは確実に遡るとともに二千年以上を経た現代まで生きつづけている。
済州島の「船を以て家と為す」といわれた鮑をとる海民の末裔の海女たちは、明治以降、三宅島、伊豆半島、房総半島など列島の各地に来住し、伊豆の伊東、 とくに房総南部の勝浦、天津、和田浦、千倉、金谷、竹岡、保田などには、 現在も「チャムス」といわれる済州島から移住した海女たちがその生活を営んでいる。そのしたたかで、生き生きとした生活の実態は、金栄・梁澄子両氏の聞き書き『海を渡った朝鮮人海女―房総のチャムスを訪ねて』(新宿書房、一九八八年)に、くわしく描かれているが、まさしくこの海女たちの渡ってきた道こそ、二千年前からの海部」の道だったのである。』(pp.50)

 また、日本国内においても、東日本と西日本の違いがはっきり解ってくる。それは、歴史的な「職能民」の世界で明確に知ることができる、というわけである。
『十五、六世紀の「日本国」の社会は、きわめて活発な商品・貨幣流通の展開する社会であったが、十二、三世紀の荘園公領制の形成期についても、前述したように年貢納入にあたって交易が前提とされ、米や絹・布が流通手段となっていたことからも知られるように、けっして自給自足の社会などではなかった。
実際、後述するように、百姓たちの営む多様な生業を背景として、市場における交易も活発であり、そこにはさまざまな職能民が自らの製品をはじめ、 多くの商品を持って訪れていたが、こうした手工業者・商人・芸能民などの専業の職能民のあり方、これに対する国家の制度もまた、東国と西国では大きく異っていたのである。』(pp.185)

 具体的な違いについては、次のように記している。
『畿内を中心とした西国では、「日本国」の確立当初、政府の諸官司に品部・雑戸などとして所属しぞれの職能を通じて朝廷に奉仕していたさまざまな職能民たちは、 国家の弛緩、弱体化とともに自立した職能民集団として独自に活動するようになっていった。』
『 そして十一世紀後半以降になると、こうしたさまざまな職能民の集団は、それまでの歴史を背景にそれぞれ天皇家、神社、寺院と結びつき、職能に即して神としての天皇に奉仕する供御人、神仏に直属してその活動の「初尾」「上分」を奉る神人、寄人などの称号を与えられ、課役免除、関渡津泊での関料・津料の免除など、平民百姓と区別された特権を保証され、それぞれの「芸能」を営み、なかには広域的に遍歴して交易に従事する集団もあった。』(pp.186)

一方で、東日本では、このようになる。
『 とはいえこうした職能民たちが、神としての天皇はもとより、神や仏と結びつきを持った形跡を東国では見出すことができない。 鎌倉幕府の追加法によって見ると、幕府はこのように 「芸能」を身につけた「道々の輩」や「町人」を、「権門」が「所従」などとして召仕うことを停止し、職能民が自由な立場で幕府の細工所、御厨子所、贄殿、釜殿などの機関の必要に応じて活動することを保証しいる。実際、幕府の相撲奉行は左右に分れ、長に率いられた相撲人を統轄は、(『金子文書』)、源頼朝は・・・』(pp.189)
というように、幕府や御家人の庇護を受けており、世俗的な関係のなかで活躍をしていた。

 神仏の捉え方も、京都や奈良を中心とする天皇・公家信仰と、鎌倉・徳川幕府を支えた信仰の違いは歴然としているというわけである。

そして、最後の結論としては、独特な「進歩史観」や「文明史観」になる。

『「歴史は人間の努力によって進歩する」、あるいは「生産力の発展こそ社会の進歩の原動力」とする見方は、川北氏の指摘する「ヨーロッパ中心史観・生産重視・農村主義」と不可分の関わりを持ちつつ「近代歴史学の精髄」である「戦後歴史学」の最も重要な支柱であったことは間違いない。それがいま、まさしく音を立てて崩れつつあるのである。
その原動力のーつが、前にもふれた近年の考古学のめざましい発掘成果をはじめとする新たな研究の進展にあることはいうまでもない。』(pp.339)

『また移動・遍歴と定住・定着は、前者から後者への「進歩」などではなく、人間の生活自体の中に本来、不可欠の要素としてうめこまれていると考えなくてはならない。それゆえ、鎌倉期の「農村」 を「目然経済=自給経済の社会」と規定し、そうした「社会においては、理論的にいって人は移動困難であって、社会的にも移動の自由が問題となることはない」というかつて安良城盛昭氏の強調した 「理論」は、残念ながらまったく事実からかけはなれた観念的な「理論」と私は考えているが、この 「理論」はいまもなお、多くの歴史家の「常識」として生きつづけているのではなかろうか。
しかしいまふれた通り、縄文時代の社会はすでに人々の移動を前提としなくては成り立ちえなかったことがあきらかにされており、謙倉後期、十三世紀後半以降の社会は十貫文の額面の為替が自在に流通するほどに全国的な河海の交通の展開を前提とする安定した信用・流通経済が軌道にのっていたことも、最近の研究によって証明されている。』(pp.340)

 この3冊をとおして感じることは、伝統的な日本の歴史に関する固定観念に関しても、視野を思い切って広げれば、新たな知見がいくらでも生じるということだ。そのことは、次の言葉に象徴されている。
 『日本列島の社会において山野河海の世界、そこで主として生きる人々を、本気で調査・研究しようともせず、ー言の下で「少数派」「基本的な生産に関わりない」として切って捨てたうえで構成された社会のとらえ方がまったく事実に基づいたものにならないことだけは、強調しておきたい。
しかしこうしたさまざまな弱点を克服し、広い視野に立った新しい歴史像がいかに豊かな姿をわれわれの前に現すのか、大変に楽しみな課題が無限にひろがっているということができよう。』(pp.15)
 これはまさに、「メタエンジニアリング」の世界と思う。

メタエンジニアの眼シリーズ(103) 「文学部廃止の衝撃」

2019年01月19日 12時25分18秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(103) TITLE: 「文学部廃止の衝撃」

書籍名;「文学部廃止の衝撃」 [2016] 
著者;吉見俊哉 発行所;集英社
発行日;2016.2.22
初回作成日;H31.1.18 最終改定日;H31.1.19
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 著者は東大副学長を務めた社会学者で都市論、メディア論が有名。2015.6.8に出された「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」が巻き起こした「文学部廃止論」についての内外の反応と著者の意見を記しているのだが、この考えは、正に「メタエンジニアリング」そのものだった。

 先ずは、経済界を含むメディアの過剰反応例を挙げている。
 『比較的産業界寄りの立場にある日経新聞も、七月二九日付けの社説「大学を衰弱させる『文系廃止』通知の非」で、通知を「『すぐに役に立たない分野は廃止を』と解釈できる不用意なものだ」とし、「撤回すべき」と迫りました。この社説でもうーつ着目すべき点は、見出しで通知を「文系廃止」と要約しており、八月二三日付けの産経新聞の「国立大学改革の一環として通知された『文系学部廃止』は是か非か」という記事同様、当初の報道と違い、「文系学部 廃止」がさも既定の路線であるかのようにみなしていることです。つまり、メディアにおいて 火のないところに煙が立ち、煙が本当の火になっていくかのような現象が起こったと言えます。』(pp.16)

 さらに、海外メディアについても、
 『自然科学や職業訓練といった産業界寄りの教育プログラムを強化するために、日本のリベラルアーツ教育は縮小されていく運命にある、として、さらに安倍政権における日本の経済成長プランを推進するための重要な政策の一部である、と続けています。このような海外メディアの報道により、「日本政府は『文系学部廃止』という、大学に対する一種の『焚書坑儒』をしようとしている」という情報が世界的に広がっていくことになりました。』(pp.17)
 つまり、海外では「リベラルアーツ」という言葉に置き換えている。これは日本の教育に対する根本的な批判だと思う。なぜ日本では、大学院教育で「リベラルアーツ」が軽視され続けるのだろうか。

 文学部廃止論は、すぐに収まったが、もっと大きな問題があるのだが、そのことは日本国内では無視され続けている。それは、次のようなデータが示されているが、他の先進国との歴然とした差には驚かされた。

 『日本の大学における二十五歳以上の入学者が占める割合はわずか二%、世界の先進諸国でこれほど年長者の割合が低い国はありません。たとえば、スウェーデン、フィンランド、 ノルウェー、スイス、ォーストラリア、それに 米国は、二五%前後、およそ大学生の四人に一人が二五歳以上です。イギリスは約二〇%、ドイツは約十五%が二五歳以上ですから、どんな少人数クラスでも数人は年長の学生がいるわけです。韓国でも、約十八%の大学生が二五歳以上で、学生の年齢構成は日本よりもずっと多様です。』(pp.190)
つまり、「日本の大学生は年齢的に異様なほど同質的で、この同質性が多くの慣習をつくっている」、というわけである。

私は、このことが日本の大学教育とそれに続く企業の新卒者優遇慣行に繋がる悪しき慣習と、現役時代から思い続けている。GE,PWA,RRの技術者の採用方法や社内教育制度を見ての上だった。
 
『大学に入学すると、まるで双六のように一年生から二年生、三年生、四年生へと順番に進み、卒業に至る。ですから、たった一年の差でも「先輩」「後輩」関係が比較的はっきりしており、先の段階に進めなかった者は「留年」扱いとなる。 このように「学年」で壁を作る仕組みは、社会にあっても「年齢」と「立場」を対応させる思考に結びつき、年功序列的な傾向を助長します。』(pp.191)
 このことに関連して、著者は、「時間差での宮本武蔵の二刀流を育てる」ことを勧めている。つまり、異分野の成人教育である。
 『その二回目以降に学ぶ分野で選ばれるのは、純粋な理系よりも文系、または文理融合系の分野のほうが多いだろうと想像できます。最初に工学を学び、二度目に法学を学ぶ。最初に生物学を学び、二度目にアジアの地域研究を学んでいく。最初にコンピュータ・サイエンスを学び、二度目に経済学を学び、最後に哲学を学ぶ―』(pp.213)

 このことは、まさにメタエンジニアリングの推奨に思えるので、下記に引用する。
 『理系で生まれた技術を生かしながらも、社会的な価値とは何かを見極め、将来のビジネスや社会のデザイン、地域から国家、世界までを視野に入れて思考を深めていくのは文系の役割です。職場での経験を経て、長期的な視点で物事を見つめてみようとなったとき、現場での経験知として信じるようになったことをもう一度学間的に基礎づける、あるいはその経験知が 本当は正しくないのではないかと疑ってみるために役立つのが文系の学問なのです。』(pp214.)

 「メタエンジニアリング」の「メタ」は、「ナニナニの後で」の意味であり、私の考えるメタエンジニアリングと完全に一致した考え方になっている。 

メタエンジニアの眼シリーズ(102) 「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」  

2019年01月17日 14時31分43秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(102)TITLE:  「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」  
                   
書籍名;「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」 [2016] 
著者;レナード・シュレイン 発行所;ブックマン社
発行日;2016.4.11
初回作成日;H31.1.16 最終改定日;H31.1
引用先;文化の文明化のプロセス Converging


 
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

表紙の後に、17枚のカラーの図が並んでいる。「モナリザ」からはじまり、「アルノ川に副水路を設けるための運河計画図」で終わっている。
 第1章は「芸術/科学」で始まる。「芸術と科学の流れは、時代とともに遠ざかり、・・・。」なのだが、レオナルドによって、完全にひとつの流れになった。この流れが、人類の将来でどうなってゆくのだろうか、それを「科学する」のであろう。

 『レオナルドの特異な書法は、彼の脳の二つの半球が桁外れに緊密に結びついていたことを強く示唆する。片方の半球がもう片方に君臨するという従来の優位パターンは、レオナルドの脳には当てはまらないようだ。レオナルドと同じく鏡文字が書ける人々の脳を調べてわかったことから推定すると、それぞれの半球が他方のやっていることを十分に知っているようにしておく、太い脳梁が存 在したことは明らかだ。』(pp.24)で、始まっている。
 
 さらに続けて、『レオナルドの脳梁が、半球同士を結びつける過剰なニューロンでかなり膨れ上がっていたことを示す証拠がもうーつある。彼が芸術と科学に焼きを入れ、切れ目なく繋ぎ合わせたことだ。 おびただしい数の神経科学の研究によって、主に芸術、音楽、イメージ、暗験、感情、調和、美、それに比率に対する審美眼に関係するユニットが、右利きの人では一般に右半球にあるとされている。 右利きの人の左半球にあるのが、論理的かつ線型に順序よく分析するのに必要なスキルで、文法や構文、推理、数学などに欠かせない。』(pp.24)
 この現象は、「並外れて頑丈な脳梁を持っている」としている。
 
レオナルドの幼少期からの様子と、当時のルネッサンスを概説した後で、第9章は「創造性」について記している。そこまでは、レオナルドの成長を示す歴史だ。レオナルドは、史上最も想像力の豊かな人間に成長した。
『レオナルドが史上最も創造力豊かな人物であることは、疑う余地がない。 ところで「創造カがある」とはどういう意味だろうか。それはどこで生まれるのだろうか。どのようにして発揮されるのだろうか。
ギリシャ神話では、アポロは太陽神であり、光と理性と論理の輝かしい代表者だった。彼は知的な探求の神の具現だった。彼の神殿の入り口は、「汝自身を知れ」とか「中庸を知れ」といった簡潔な格言が掲げられていた。しかし彼はまた、ユーモアを解さず慢でもあった。』(pp.150)

ここから、「ヒト」と他の動物との違いの説明が始まる。
『あらゆる脊椎動物には脳がある。しかし、たったーつの種だけが、ほかの全脊椎動物とは大幅に異なるレベルの創造力を持つようになった。人間の脳が異なる機能を持つ二つの半球に分割されたことは、決定的に重要な意味を持つ適応だった。そのせいで人間は、自然界の他のすべての生き物から遠ざかる方向へ自らを押しやることになったのだ。二十世紀社会学の始祖の一人であるエミール・デュルケームは、頭蓋の両側からそれぞれ異なる二つの性質が生まれることを事実として認め、 人間を「ホモ・デュプレックス」と呼んだ。』(pp.150)

左脳と右脳の話が続く。
『左半球の最も高度な機能、すなわち批判的思考の核となっているのは論理を支える三段論法的公式化である。正しい答えにたどりつくには規則に従わなければならず、逸脱は許されない。それほどまでに規則に依存しているため、初期の分離脳患者の多くを手術した神経外科医のジョセフ・ボーゲンは左脳を「命題脳」と呼んでいる。情報を一連の基本命題に従って処理するのだ。これに対して、右脳は全く逆のことをするため、彼は右脳を「同格脳」と呼んだ。情報を非線形かつ規則に基つかないやり方で処理し、互いに異なる収束する決定因子を、首尾一貫した思考に組み込む。』(pp.152)

 具体的な「創造」の始まりについては、このように記している。
『創造的なプロセスの最初の段階では、何らかの出来事、正体不明の物体、いつもと違うパターン、奇妙な取り合わせなどが右脳の注意を喚起する。すると、実態のまだよくわからない謎めいたプロセスで、右脳が左脳をつついて質間を発する。正しい質問をすることが、創造力の核心に達する鍵となる。質間こそが、ホモ・サピエンスの強みだ。』(pp.153)
この「左脳へ質問」というプロセスの発想は面白い。日本人は、西欧人よりも多くのことを左脳で認識してしまう。ということは、「左脳へ質問」というプロセスが働かないことになってしまう。これは、困ったことだ。日本人が、世界的な変化に鈍感なのは、このためではないだろうか。

そして、レオナルドの多くの業績を説明した後で、最後の第19章は「進化/絶滅」となっている。つまり、「ヒト」は、進化に向かっているのか、絶滅に向かっていくのかである。そこには、「芸術と科学」の関係が係わっている。
『アルベルト・アインシュタインが次のような見解を述べている
この「宇宙に対する信仰心のような」感情を、全くそれを持たない人に説明するのはきわめて 難しい…
あらゆる時代の敬虚な天才は、教義を持たない種類の信仰心によって、それと認められる…わたしの考えでは、この感情を目覚めさせ、それを受け入れる力のある人のなかに生かし続けることが、芸術と科学の最も大事な役割である。』(pp.315)

「進化/絶滅」には、いずれにせよ「変化」がある。
 『高等な種が絶滅、または新しい種への移行を経験する前に過ごす生存期間は百万年から百二十万年である。 ホモ・サピエンスは十五万歳で、種としての寿命からすれば、わたしたちはおよそ十二歳から十五歳に当たる。これはほぼ正しい。わたしたちはより強くなりつつあり、より致命的なやり方で互いに傷つけ合うことが可能になっている。 それでも、自らの強さと、それを抑えたいという願望にもっとよく気づくようになっている。これはまた思春期が始まる年齢でもあり、わたしたちには生理機能の急速な変化が起こる。』(pp.316)というわけである。

 そして、21世紀の現代はこのような状態にある。
『地球の混雑ぶりは、脳の左側に宿る自我と超自我の不安を掻き立てている。右半球に対する左半球の優位は、サバイバリストモードの持続を確実にする。
人口過剰にこの二つの特質、すなわち武力に訴えたがる傾向と自然破壊が加わると、思ったより早く人類の絶滅が起こりかねない。わたしたちが変わらない限り、そうなってしまうだろう。では、 変化はどこから来るのだろう? レオナルドが遺伝子プールに現れたことが、希望を与えてくれる。 彼は戦争が是認されていた時代に生きた。それでも晩年には戦争を認めず、真実と美の追求に集中した。自分は自然の一部であると信じ、自然を支配するのではなく、理解し、描くことを望んだ。』(pp.318)

さらに続けて、
『いま、二一世紀前半に入ったわたしたちは、テクノロジーと生命体の改良に没頭している。次に何が来るか、誰に予測できるだろうか? 歴史上や先史時代の驚くべき発展を予測できなったように、この先何がわたしたちを待っているか、わたしたちにはわからない。ひょっとすると、権カにそれほど関心を持たず、心の問題にもっと関心を持つ人が増えるにつれ、ホモ・サピエンスの改良版に進化するのかもしれない。』(pp.318)

つまり、「ヒト」の身体と脳は、確実に変化の時を迎えているというわけである。
『体内で炭素の量に対してケイ素の量が増え、人間がいわゆる「サイボーグ」(sybernetics十Organic) になるにつれ、ダーウィンの自然選択説は再び見直しを迫られる可能性がある。
一部は無生物、―部は生物となった人類は、すでに全く新しい生命体となり始めているのだ。
コンピュータの性能が向上し 、どこにでも見られるようになったのも、二酸化ケイ素のおかげである。新たな進歩が起こるスピードには目を見張るものがある。携帯電話やコンピュータ、インターネットのおかげで、人類はますます生産的な人生を送れるようになっている。』(pp.320)

最期は、「最後の晩餐」で次のように終えている。
『レオナルドの「最後の晩餐」において、遠近法の始点はイエスの額の中心にあるのではないか。そう思うかもしれないが、違う。レオナルドはイエスの右脳の上にある一点に遠近法の中心を置くことを選んだ。彼はわたしたちに何かを告げようとしていたのだろうか。それともただの偶然だろうか。しかし、この絵には「偶然」などーつも含まれていない。この非凡な天才、この並外れたホモ・サピエンスは、一体何をわたしたちに告げようとしていたのだろう。 書かれた言葉より、右脳によって処理されるイメージ・ゲシュタルトのほうが優れていることを、 レオナルドは直観的に悟っていた。「君の舌は麻庫するだろう……画家が一瞬で示すものを言葉で表現する前に」と彼は書いている。ほかの多くの事柄同様に、この発言についても、彼は先見の明があった。この新しい時代では画像が優位を占める。多くの言葉を費やしても描写できないことを、 画像は一瞬で、はっきり示すことができる。』(pp.323)

この書のテーマは、「右脳と左脳を科学する」であって、その好例としてダ・ヴィンチを想定した。ダ・ヴィンチの業績が科学と言っているわけではない。ダ・ヴィンチの業績は芸術と技術(この場合は工学ではなく具体的なエンジニアリング)と思う。著書のあちこちで、ここは「芸術と技術」とするべきと思った箇所がある。人類を戦争に導いたり、自然破壊をするのは、科学ではなく技術なのだから。

私はメタエンジニアリングは、通常のエンジニアリング、すなわち技術的な活動の後で、その成否を問うために「右脳と左脳の合体」によって行う行為と考えている。右脳と左脳を同時に働かせることを身に着けること。だから、ダ・ヴィンチは最高のメタエンジニアなのだ。彼の生き方をこのように科学されると、人類の将来のためには、「芸術 ⇒技術 ⇒芸術」というプロセスが必要に思えてくる。

私は、日本人の脳に関する角田理論を信じる。モネやルノワールが興奮したジャポニズム絵画は、平安時代の蒔絵や障壁画にもあった日本固有の絵画形式で、すでに多くのエンジニアリング的なセンスが盛り込まれている。ヨーロッパ絵画は、人物も風景もいかに現実と一致させるか、現実以上に美しく見せるかに拘っているように思う。一方で、近代以前の日本の絵画は影を書かないなど、現実にはこだわっていない。それでも、おかしいと思わないのは、技術が大きくかかわっている。
 日本では、はるか昔から「工芸」という分野があり、高く評価されていた。そこも、西洋との違いだ。だから、本書の内容は受け入れやすいし、むしろ自然で当たり前なことに受け取ることができる。著者が、角田理論に通じていれば、更に展開された議論になっていたと思う。

すべての創造的なタスクに係る人は、真の芸術の理解からスタートしなければならない時代が来るのかもしれない。




メタエンジニアの眼シリーズ(101) 「人類文明の黎明と暮れ方」 

2019年01月15日 08時54分02秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(101)TITLE:  「人類文明の黎明と暮れ方」 
                     
書籍名;「人類文明の黎明と暮れ方」 [2009] 
著者;青柳正規 発行所;講談社 発行日;2009.11.20
初回作成日;H31.1.13 最終改定日;H31.1
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この書は、「興亡の世界史」(講談社が、創業100年を記念して、2007~2010に発行した全21巻)の「00巻」として発行されている。世界史全体を俯瞰しようというわけだ。そこで、その全体像を示すものとして、文化と文明、その興亡について述べている。ここでは、文化と文明の双方について多様性に重点を置いている。例えば、従来の古代世界の4大文明の農耕説に対して、インダス文明とそれと隣り合う「トランス・エラム文明」の存在を挙げて、「交易を中心とした非農耕文明」を挙げている。

 最大の興味は、「現代文明に欠けているもの」だ。個別の科学と技術の発展により、「全体をうまくコントロールできない状態にある」としている。全体を俯瞰して調和をとる機能が存在しないというわけである。そのような状態では、後進国は先進国を目標に将来への希望が持てるが、先進国では、もはや将来への希望は持てなくなる、というわけである。そして、『過去のある時期と空間を充満させていた文明の様相を知ることが、(中略)現代文明を考えるときにも、より多くの示唆をあたえてくれる・・・。』(pp.18)と。

 その原因を以下のように説明している。
 『ある物事を構成する小さな要素に還元すればするほど、全体を見ていたときにはわからなかった本質的なものが見えてくる。現在の科学技術の基盤になっているこの要素還元主義を唱えたのは、一七世紀フランスの哲学者デカルトである。 デカルトは、ある総体を、構成している根源的な要素に分解していき、その最小の要素から全体を再構築することによって本当の姿が見えてくるとした。しかし、その最小の要素に分解したときも、つねに全体を忘れてはならないと『方法序説」の中で強調している。』(pp.19)

このために、「そもそも人類がどこへ向かっているのか」の指標すら見えない状態だとしている。
現代は、世界的なイノベーション競争の真っただ中に置かれている。そのために、過去のどの時代よりも全体を疎かにする傾向が強くなっていると思う。その原因については、
『これは要素還元主義が科学技術のみならず社会全体に浸透した結果、思想さえも還元論となり、われわれが近未来の像をとらえることができなくなっているからであろう。 本来ならば、大きな世界観というものがあって初めてわれわれはどう生きるべきか、いま自分たちは幸せなのかそうでないのかが判断できるが、それができなくなっている』(pp.20) というわけである。

現代は多様性の時代ともいえるほどなのだが、その根本を生物の生存原則にあるとしている。
『生物の多様性とは、生態系の多様性、種の多様性、遺伝子の多様性から構成されている。自然界には食物連鎖という生物の維持・生存システムがあるが、これはさまざまな種類の生物が 同時に存在しているからこそ機能することができる。また、熱帯の湿地帯で見られるマングローブは、海水につかるような厳しい環境の中で、いろいろな種類の植物が群生して相互に助け合って生きており、さらにそのマングローブを舞台に、じつに多様な動物が生息している。つまり個々の生物はそれ自体では弱くとも、その多様性ゆえに、自然環境に適応できる強さ、しぶとさをもちえているのである。』(pp.22)
 つまり、生物としての人類は、「多様性の維持」が生存条件の一つである。そして、文化における多様性の維持は、近年の「世界遺産」の認定などにより保たれているとしている。

「文化」の定義については、 『その地域や時代の環境に人々が適応するための方法もしくは戦略である。』(pp.25)
「文明」については、『その環境適応への努力から解放された段階』(pp.26) というわけである。

主文においては、様々な文明の詳細と興亡について述べているが、ここでは省略する。
 最後に、日本の文明と将来について、「均質社会の強さと弱さ」として、
『その発展を実現させた均質性がこんどは低迷の一因になるという文明衰亡の法則を、わが日本にも見いだすことができるのかもしれない』(pp.355)で結んでいる。

多様性の存在する文明下での進歩は、多くのベクトルがあらゆる方向に延びることを意味する。しかし、ベクトルがあらゆる方向を向いているということは、全体は「ゼロ」に留まるということで、全体としての進歩は極小になり、全体として進むべき方向も定まらないことになる。
つまり、多様性を維持しながらベクトルの方向を揃える指標なりシステムが必要というわけであり、イノベーション万能時代の現代社会において、それはメタエンジニアリングによって見出すしかないように思えるのだが。

メタエンジニアの眼シリーズ(100) 「文明の大逆転」  

2019年01月13日 18時25分28秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(100) TITLE:  「文明の大逆転」    
                     
書籍名;「文明の大逆転」 [2002] 
著者;岸根卓郎 発行所;東洋経済新報社 発行日;2002.4.5
初回作成日;H31.1.10 最終改定日;H31.1.13
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分

 著者は、京都大学名誉教授だが、統計学、情報論、文明論、環境論、農林経済論、国土政策学などの多彩な分野での実績を残している。この著書発行時には75歳。内容は、一読して文明転換論の寄せ集めのようにも見えるのは、経歴のためと思われるのだが、主張の一貫性は保たれている。
 宇宙から始まり、生物、サイクル論、エネルギー保存則、陰陽説などなど多様な面へ議論を展開し、そこからConvergeさせてゆくスタイルは、まさにメタエンジニアリング的な文明転換論とも云える。

 「はしがき」に詳しく全体像が語られているので、そこのみの引用で充分なように思える。
 『本書の日的は、「東西文明の興亡」を「宇宙の法則」(宇宙のエネルギーリズム)としてとらえ、それを理論的、実証的に解明することにある。
 周知のように、宇宙はすべてリズム(周期)によって動かされている。地球の公転や自転をはじめとする
「天体リズム」や、その影響を受けた 「生体リズム」などがそれである。その証拠に、地球上でリズムを刻まないものは何ひとつない。 なぜなら、リズムが止まれば、 それは即、死(消滅)を意味するからである。加えて重要なことは、この世の「万物」はすべて「宇宙エネルギーの変形」にすぎないということである。事実、万物を分けて分け尽くせば、すべてエネルギーに還る。
 とすれば、以上を総じていえることは、宇宙のエネルギーリズムが、たまたま「生体」に形を変えたのが「生体リズム」(バイオリズム)であり、「文明」に姿を変えたものが「文明リズム」(カルチャーリズム)であるということになる。』(pp.1)

 ・文明もリズムを刻んでいる
 ・人類文明は「東西文明」の二極に分かれており、「800年リズム」に支配されている。
 ・21世紀は、「西洋文明の落日期」で、「東洋文明の黎明期」にあたる
 
『これまで昼間の活動期にあってエネルギーを発散し続けてきた西洋文明も20世紀の後半から21世紀の前半の約100年間に、そのエネルギーを使い果たし、これからは東洋文明と交代して800年間の夜間のエネルギーの蓄積期に突入し、逆に、これまで800年間の夜間の休止期にあってエネルギーを蓄積してきた東洋文明が、これからは西洋文明と交代し、今後800年間の昼間の活動期に入るということである』(pp.17)
 800年周期説については、既に何人かの人が挙げている。

『生物にとって、どのように不利な環境変化が起こっても、「種」としては決して消滅しないように、互いの「遺伝子」が違って創られているということである。つまり、生物の遺伝子は、「種の保存」(種の永存)のために、互いに同質化を拒否するように違って創られているということである。同様に、種についても「生物全体の保存」(生物の永存)のために、種ごとに互いに違って創られているということである 。
とすれば、私は、同じことは「文明」についてもいえると考える。その意味は、地域文明(民族文明、個体に相当)についても東西文明(世界文明、種に相当)についても各文明の遺伝子は、「人類文明全体の保存」(人類文明全体の永存)のために互いに同質化を拒否するように違って創られているということである。』(pp.20)
 
 異質の文明の原因を「種の保存」に求めるのはおかしい。気候とか歴史とか、周辺民族との関係とか、様々な要素から別々の文化が生まれて、文明に発展してゆく。むしろ、結果論のようにも思えてしまう。

著者は、更に「文明の寿命説」と称して、エントロピー増大の法則を適用して説明をしている。
『「破壊のエネルギー法則」の「エントロピー増大の宇宙法則」が、人間社会に姿を変えた 一つの「発現形態」 にほかならない。その意味は、宇宙であれ、人間社会であれ、人類文明であれ、この世の万物はその中心に「核」があって「求心力」(重力)が働き「安定」が保たれているが、それが「ある時間」たって「寿命」がくれば、「破壊のエネルギー法則」 によって破壊されて「求心力」が働かなくなるから必ず自壊するということである。
私見では、現代酉洋文明もまた800年たって寿命がきて「エントロピーが増大」し、今まさにそのような状態に陥りつつあるかにおもえる。事実、現代西洋文明にみられる、道徳の乱れや、政治の腐敗、芸術の奇形化や宗教の異様化など、総じて「文明の低俗化現象」にしよる混沌化がそれである。』(pp.30)
 確かに、何事によらず均質化してしまうと、発展や拡大のエネルギーは失われる。

 しかし、ここから、話は急に現実的になる。
 ・前回の東洋文明期に4大発明(羅針盤、火薬、印刷技術、製本技術)が中国でおこった。
 ・イギリスは、そのすべてを利用して、大英帝国を築いた
 ・西欧は、五浦無文化から民主主義、自由主義を学んだ

そして、文明の交代については、具体的に次のようになっている。
『私見では、新東洋文明は、現在の「物心二元論の西洋文明」(物を造って心を入れない文明)から、「物心一尤論の東洋文明」(物を造って心を入れる文明)へと進化するであろう、そのさい、私は、そのような新しい東洋精神文明においてとくに中心的な役割を果たすのが、ほかならぬインドと中国であろうと予見する。なぜなら、両国とも「見えない精神世界」の宗教や哲学や思想に強い「文明遺伝子」をもった国であるからである。』(pp.38)
これらは、諸宗教のほか、インドで発明された「ゼロ」と、中国で発明された「無限大」が含まれている。

しかし、人類はいつまでこの交代劇を繰り返すのだろうか。一つの答えが、日本人の脳の構造から発生する「曖昧文明」にあるとして、次のように推論している。
『左脳と右脳に「回路」があるため論理と非論理が峻別できず物事を「暖味」にしか処理できない「左右脳融合型の日本入」は、左脳と右脳に回路がないため論理と非論が峻別できる「左右脳分離型の西洋人」に比べて「非常に不利」なようにおもわれてきたし、今もなおそのようにおもわれてそうであろうか。私はそうは思わない。 なぜなら、左右脳に回路がないため、可視の物質世界(左脳で認知する世界)と不可視の精神世界(右脳で認知する世界)を「峻別」し、両者を二者択一的にしか処理できない「左右脳分離型の西洋人」に比べ、左右脳に回路があるおかげで、可視の物質世界(左脳で認知する世界)と不司視の精神世界(右脳で認知する世界)を峻別せず、両者を同時かつ多肢選択的に処理できる「左右脳融合型の日本人」は、それだけ「融通無碍な対応」と「複雑さの処理」に、向いているからであるる。』(pp.44)

歴史的に、本来の日本文化に、隋・唐の文明、様々な外来文明、明治維新の応酬文明、戦後のアメリカ文明などを纏った現代日本文明を「十二単の融合文明」と名付けている。

更に、老子の第58章を引用して、「絶対の正もなければ、絶対の善もない」としている。正義と悪は、立場を変えれば、常に逆転しているというわけである。

更に、角田忠信氏の「日本人の脳」を引用して、これらのことを裏付けている。

『このようにして私は高い文化度は「真・善・美の三位位一体化」のための「科学と宗教と芸術の三位一体化によって達成され、それはまた「酉洋物質文明」と「東洋精神文明」が互いに協力し合ったときに実現できると考える。
さらに、次の図10-4は、 そのことを、科学への道(自然を識る道、宇宙の真を識る道)と、宗教への直(生命を識る道、宇宙の善を識る道)と、芸術への道(自然と生命の美を識る道、宇宙の美を識る道)の三位一体化(三者鼎立)としてイメージしたものである。』(pp. 260)

 以上の議論は、一見とんでもないように見えるのだが、確かに、全宇宙はエネルギーによってすべてのものが作られているし、エントロピー増大の法則も科学的に正しい。そうすると、三段論法で、この説は成り立ってしまうのかもしれない。

メタエンジニアの眼シリーズ(99)「サピエンス異変」と「ハイデガーの技術論」

2019年01月09日 14時44分46秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(99)「サピエンス異変」と「ハイデガーの技術論」
                 
書籍名;「サピエンス異変」 [2018] 
著者;ヴァイバー・クリガン=リード 発行所;飛鳥新社
発行日;2018.12.31

初回作成日;H30.12.31 最終改定日;H31.1.3
引用先;文化の文明化のプロセス Converging



このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です


この書を読んだのは、まさに発行日(H30.12.31)その日だった。平成の終わりが決定した年の年末に相応しい内容に思えて、発刊間もない書を敢えて選んだ。まさに、メタエンジニアリングの必要性を強く感じたからだ。
 発刊間もないので、敢えて本文からの引用は避けることにする。

中身は人類史を5つの時代に分けている。
紀元前800万年~紀元前3万年、紀元前3万年~西暦1700、西暦1700~1910、西暦1910~現在、未来の大区分だ。ヒト族は、この時代の区切りで、大きな技術的な変化を遂げて、現代文明を築いた。しかし、ヒト族はその99%以上の期間を狩猟・採取生活で過ごし、それに適した体になっている。従って、農耕文明も機械文明も本来の身体には適していない。体の進化は、文明の進化に追いつくことはできずに、様々な病気が蔓延しつつある、というわけだ。
 
例えば、最初の「紀元前800万年~紀元前3万年」は、このようなことになっている。
 ・1000万年前に「ヒト科」が分化。
 ・800万年前に「ヒト族」がチンパンジーやゴリラから分化。
 ・190万年前に「ホモ属」が分化、長距離二足歩行が可能に。「長距離移動」で進化が始まった。
 ・30万年前に「ホモ・サピエンス」が出現し、現在に至る。
 ・「靴」の発明は、長距離移動を可能にしたが、靴は足に目隠しをして感覚を遮断した。
 ・テクノロジーの進歩で、ヒトの骨はどんどん薄くなっている。

 おまけに現代人は、数十億年単位で代わる地層年代までも変えてしまった。新たな「人新世」という地層は、放射性同位体、リン酸塩、窒素、マイクロプラスチックなどで満たされている、というわけである。
地層年代を超えて、動物の種が生き残るのは難しい。ちなみに現代は、250万年続いた「更新生」に続く「完新世」という地層になっているそうだ。

「エピローグ」で、突然にハイデガーの技術論が出てくる。要約すると、以下のようになっている。

・マルティン・ハイデガーは、現代性と現代生活について著したもつとも重要な哲学者の一人で、私たちとテクノロジーとの関係性、テクノロジーが生み出した世界、そしてそれによる人間の変化を、かなりの精力を注いであきらかにしようとした。
・ハイデガーの関心は、テクノロジーに基づく考え方や信念が人間性に組みこまれてしまった経緯である。
・ハイデガーは、テクノロジーにより自分は世界の一部であるという考え方でなく、世界を利用しているのだという考え方が優勢になってしまったとした。
・そしてテクノロジーが私たちの思考や考え方全体に雲のように広がって、未来に入りこんでくる。
・彼は、産業革命が私たちと身の回りの世界との関係性を変えてしまったことに対しては、懸念を抱いていた。
・ハイデガーが考えるところ、産業革命後にこの世界は、いわば尽きることのないエネルギー貯蔵庫 に変わってしまった。
・テクノロジーは生きるための手段で、自然は現代的なプロジェクトにのみ費やされるエネルギーの貯蔵庫である。

しかし、これらの表現はハイデガーの技術論を軽く考えているように私には思えた。技術(すなわちテクノロジーやエンジニアリング)は、もっと人間にとって恐ろしいもので、人間自身はそこから逃れることはできない。そのことは、加藤尚武編の「ハイデガーの技術論」理想社[2003]に書かれている。 


                                                              
 加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で、日本哲学会の委員長も務められたが、同時に原子力委員会の専門委員も務められた。「災害論―安全工学への疑問」世界思想社[2011]が有名である。その中では、「ハイデッガーの技術論」に関連して、『危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ』、『合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている』などが述べられている。つまり、現代哲学者の眼から見た、ハイデガー技術論の評価になっている。

最初に、「技術論」の特徴を次のように要約している。

『① 機械にたいして、たんに人間が主体性を、個人が自立性を取り戻すだけでは不十分で、同時にその人間が本来性を取り戻すのでなければならない。
 ② 特定の人間や階級が、姿のない匿名性、非人格性を通じて、多数の人間を自分たちの利潤追求の手段とし、監視し、支配するのではなくて、その支配者もまた徴発性という形のない仕組みの奴隷となっており、一つの時代の文化、社会、人間が全体として人間存在の真実を喪失している。
 ③ 人間が自己を喪失して機械の部品となり、技術が自然の持つ奥深い真理性を破壊するのは、西洋とその影響を受けた文化全体の根本にかかわる大きな歴史的運命のなかの出来事であり、何らかの作為で解決がつく問題ではない。』(pp.23)

 そして、『これが、技術道具説、技術中立説の基本認識である。ハイデガーはこれに対して、社会文化全体が「総とりたて体制」「収奪性」「徴発性」という潜在的な集団心性にもとづく、体制化された自己忘却を作り出しているのであって、その全体的な文脈は個別的な行為のなかに、実証可能な形で内在している物ではないということを指摘する。
(中略)ところが、そこに同時に、逆転の可能性がひそんでいる。危機が危機として明らかになるとき、危機は転換期の到来をもたらすのである。自己欺瞞が自己欺瞞であることを露にすることによって、逆転が生ずる。』(pp.36)
それに続き、「3.徴発性は、歴史的なめぐりあわせのなかで、変化する宿命をもっている」として、最後に「技術論の理論的問題点」のなかで、現代の生産方法や生産体制は、ハイデガーの技術論が当てはまらないとしている。それは、「技術に対する技術的な対応」に現れているという。すなわち、地球温暖化対策としての化石燃料消費の抑制や、コンピュータ・ウイルス対策などである。
 
そして、『本当は、愚かな指導者達の手で地球が難破に導かれるという「愚者の船」の運命こそ、現在の歴史の姿ではないかと、私は恐れている。』 (pp.171)と結んでいる。しかし、この「愚者の船」の最大に危機は、第2次世界大戦中の原子爆弾開発競争であり、それはまさにハイデガーが技術論を語るきっかけになったことを思うとき、彼の時代と現代とは同じ技術論が当てはまるように、私には思える。

つまり、現代でもなお、原子爆弾に相当するような人類の文明をひっくり返すようなことが、イノベーションとして世界中に蔓延している。例えば、スマホ中毒による思考能力の減退や、遺伝子組み換えによる人造人間などは、一世紀後には、かなりな変化を人体におよぼすことになるであろう。技術革新の加速と共に、「サピエンス異変」も加速的に進んでいる。                          


その場考学との徘徊(55) 題名;正月の博物館(その2)

2019年01月08日 08時12分39秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(55) 題名;正月の博物館(その2)

場所;東京都 年月日;H31.1.6
テーマ;正月のウオーキング   作成日;H31.1.7 アップロード日;H31.1.8                                                      

TITLE: 正月の博物館(その2)

 東京の今年の正月は、穏やかな日が続いている。雲は出やすいのだが、その分風がないのが徘徊には大いに助かる。2日に続いて、今日も博物館でのウオークングを楽しむことにした。もと渋谷にあった「塩とたばこの博物館」だ。都営地下鉄の新宿線と浅草線を乗り継げば、かなり楽に行くことができる。
 本所吾妻橋の駅の出口を上ると、目の前にスカイツリーがでーんとそびえているのには、驚かされた。全く想像をしていなかった景色で、思わず写真を撮ると、飛行機が写っていた。


 
歩いて10分ほどで博物館に着いたのだが、入り口が道路から引っ込んでいてわからず、犬の散歩中のご婦人に聞いてしまった。入口には、昔し渋谷にあった像が置いてある。





 お目当ては、開催中の「ウイーン万国博覧会」の展示物だが、これは撮影できない。入場券売り場で、午後の映画会について聞いた。整理券をくれるという。内容を尋ねると、「淀川長治さんの解説付きです」と言って、あらすじを書いたパンフレットを出してくれた。上映まで5時間もあるが、スカイツリーで時間がつぶせそうなので、早速整理券も頂くことにした。


 
1873年にウイーンで展示された実物は、どれも見ごたえがあった。
特に、当時のメアシャム製の喫煙具の作りの精巧さには、驚かされた。メアシャムとは、トルコ周辺の地中海沿岸地域で採取される「海泡石」と呼ばれる石で、柔らかくて細かい彫刻を施すことができるそうだ。(写真は絵葉書)
 


 展示は二部屋に分かれており、第2室は「博覧会後の日本での業績」が展示されていた。私は、むしろこちらに興味をひかれた。ロンドンやパリの万国博は有名だが、日本が国家として正式に参加したのは、ここが初めて。そこで、政府は多くの若い技能者を研修を兼ねて送り出した。
 
直後に、上野公園でこれに似せた博覧会を大規模に行い、その展示物などを纏めて、今の国立博物館の前身ができたそうだ。日本の作品は、ウイーンでは多くの賞とメダルを獲得した。作家は、地方在住者が多く、それぞれの自治体が日本語の賞状を作り、本人に渡していた。

 中に、意外なものがあった。大皿で「旭焼」とあり、「東京工業大学の前身となる東京職工学校の試験室でつくられた」とあった。指導したのは、ウイーン万博の参加計画にも携わった「ゴットフリード・ワグネル博士とある。少し調べてみると、2016.12の「東工大ニュース」に記事があった。

『明治初期に開発し、日本の陶磁器を美しく進化させた釉下彩陶器「旭焼7点」(東京工業大学博物館所蔵)が、3月26日に「日本化学会認定化学遺産第38号」の認定を受けました。(中略)
ワグネル博士は、スイスで数学教師を勤めました。1868年に来日し、1870年に佐賀藩の委嘱により肥前有田で製陶の新技術を指導しましたが、廃藩置県により1871年に東京大学の前身校の教師となり、またオーストリアの万国博覧会の御用掛となって出品物の選択・製作の指導や日本の職人にヨーロッパの新技術を学ばせました。(中略)ワグネル博士が、教え子で助手の植田豊橘氏と共に、今回、化学遺産に認定された「旭焼」(最初は吾妻焼)製作の実験研究を開始したのは、1883年東京大学理学部教授時代の実験室においてでした。ワグネル博士は白い素地(きじ)の上に多色の美しい日本画を描き、その上に釉薬をかけて焼き上げようとしましたが、釉薬にひびが入りました。試験体の成分をやや珪酸質にしたところ釉薬にひびが入らないことには成功しましたが、次は素地が割れてしまいました。』
 
この焼き物は、工業化されて「東京深川区東元町旭焼製造場」が設立されたが、1896年には閉鎖された、と展示の説明書きにある。旭焼が短命だったのは、なぜなのだろうか。
 
肝心の「塩とたばこ」の通常展も、なかなかに興味深いものがあった。特にたばこの起源がインカにあり、呪術師が神とのつながりを示すために、わざと煙を吐いて見せたことは、タバコの葉の原産地がその地方のこともあり、納得がゆく。



 たばこの展示は、開業以来のすべてのたばこと、その宣伝ポスターの時代順の流れが、面白かった。懐かしいパッケージが次々と並んでいる。あの「ゴールデンバット」だけは、開業直後から現在まで繋がっていた。



 2時間ほど過ごして、昼食をとりにスカイツリーに向かった。途中にこんな看板があった。金座と銀座は有名だが、ここには「銭座」があった。200メートル四方以上の広い土地だったようだ。



 「ソラマチ」は、開業当時は随分と混乱していたが、客の流れも落ち着いており、ゆっくりと昼食をとることができた。一人なので、レストランは避けて、3階のフードコートと思ったが、2階の名店街においしそうな折り詰めが、いろいろ並んでいた。その一つを買って、横のテーブルで楽しんだ。




 上の階の「墨田区の伝統工芸品」も見事だったが、どれも高価で手が出ない。8階で別のエレベータに乗り換えると、9階に「郵政博物館」がある。時間があるので覗いてみることにした。ここまでくる客はいなかった。ここは、郵政というよりは、「切手博物館」のようで、世界中の切手が整然と倉庫のように保管されている。



 その中に、一つだけ国別でないものがあった。「ダイアナ切手」だ。各国がこぞって発行したようで、一つの棚を占拠するほど大量にある。パネルを引き出すと、懐かしい切手もあった。結婚式当日にダービーの郵便局で記念切手と初日カバーを買って、東京の自宅宛てに手紙を書いた記憶が蘇った。



 その後、博物館に戻って、1934年作の「たそがれのウイーン」という映画を楽しんだ。当時の上流階級のゴシップ話だが、よくできた映画だった。

帰りに道は、運河添いの遊歩道をのんびりと歩いた。




その場考学との徘徊(54)正月は国立博物館で

2019年01月04日 08時57分18秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(54)  題名;正月は国立博物館で

場所;東京都 年月日;H31.1.2
テーマ;国宝絵画の見かた   作成日;H31.1.4 アップロード日;H31.1.4                                                      

TITLE: 正月の国立博物館
 
ここ数年、正月2日は国立博物館詣でにしている。その年の干支を色々な形で楽しむことができるからだ。しかも、国宝の中に閉じ込められている干支だから、興味は尽きない。
 9時半の開館時刻直前に正門に到着するように出かけるのだが、待ち行列は年々長くなっている。今年の入場券売り場は、外国人だけのグループが多かった。
 初打ちの太鼓は11時からなので、それまでに1時間半ゆっくりと館内の徘徊を楽しむことができる。



 先ずは特別展示の会場へ。この時刻なら空いているので、じっくりと写真を撮ることができる。イノシシなので、牧狩り関係が多い。富士の裾野で、侍がイノシシのしっぽを切り落とすところなどは、説明とその部分の矢印がなければ、通常ではわからない。写真を拡大すれば、なお分かりやすい。




牧狩り時に使う、矢入れもイノシシの毛でできている。 



別の部屋には、多くの浮世絵があった。美人画の中にも干支があった。
7つ先の干支(イノシシと蛇)を同時に描くことが縁起物と云われたそうだ。諏訪大社の御柱祭を思いだす。



 今回は、もう一つの目玉がある。昨年有名になったキャノンと京都文化協会が始めた「綴プロジェクト」の作品だ。正式名称は、「文化財未来継承プロジェクト」。超細密撮影の画像を専門家が修復して本来の作品を再現する。今年の展示は、長谷川等伯の「松林図屏風」で、東博の名物だ。この屏風にプロジェクションマッピングが行われて、うつりゆく情景が映し出されるのを、畳に座ってじっくりと楽しむのだ。

 先ずは原画のまま。すると霞が濃くなったり、薄くなったりして松の見え方が変わってくる。その中を、大ガラスが一羽、ゆうゆうと飛び去ってゆく。陽ざしが隠れると、粉雪が散り始める。それが止むと、隅の雲間から一瞬、満月が差し込む、といったストーリーだったと思う。






 すっかり堪能した後は、太鼓を楽しんでから東洋館に向かう。これも、お決まりのルートだ。お目当ては,古代中国の殷時代の饕餮文の青銅器。眼がどこで、しっ尾がどうなっているかを探す楽しみがある。ここも、外国人と若い女性が多かった。