生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(41) 文明は見えない世界がつくる

2017年07月29日 10時15分32秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(41)
          
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
                                                                    TITLE: 文明は見えない世界がつくる   KMB3318

書籍名;「文明は見えない世界がつくる」[2017] 
著者;松井孝典  発行所;岩波新書 
発行日;2017.1.20
初回作成年月日;H29.7.14 最終改定日:H29.7.29 
引用先;文化の文明化のプロセスImplementing 

 

 惑星探査などの宇宙論から人類の文明のあり方を模索している何冊かの著書の中での、最新刊の本書はその纏めのように思える。
 それは、第4章の「宇宙論における人間原理と文明」に記されている。

 『21世紀を前後して、我々の見えない世界の解明は飛躍的に拡大を遂げました。それはとりもなおさず、人間圏に蓄積される情報量が、爆発的に増加したということを意味します。果たして、我々が作り出すこの膨大な情報が今後、人間圏をどのように変化させてゆくのか。フラーの言う通り、我々がその生来の「包括的能力」を復旧することで、その情報を使いこなし宇宙船地球号を無事に水平飛行に戻すことは可能なのか?21世紀の人間圏はまさに、そのことが問われていることになります。』(pp.240)
 
 『現在の人間圏は、IT技術をベースとした高度なネットワーク社会です。この情報ネットワークの発展が21世紀人間圏の最大の特徴です。その結果人間圏の構成要素は、組織から個人へと変化しつつあります。このネットワーク社会の発展が我々の文明にどのような未来をもたらすか、それを知る鍵を握っているのがネットワーク理論です。』(pp.241)

 確かに、現在のホワイトハウスとトランプ大統領、日本の閣議と安倍首相の関係などを見ると、「人間圏の構成要素は、組織から個人へと変化しつつある」は、あちこちにその傾向を見ることができる。
 その後、「ランダム・ネットワーク理論」、「スモール・ワールド・モデル」、「ベキ乗則」、「パレートの法則」、「ジッブの法則」などの説明が続く。
 そして、ビックデータサイエンスとしての、新たな動きを独特な表現で記している。

 『人文科学はこれまで、二元論と要素還元主義、あるいは仮説を観察やデータに基づいて検証するということを基本とする、いわゆる「科学」とは、ほど遠いものでした。しかしそれが今や、自然科学と同じ「科学」になろうとしているのです。
それは人間の行為が、デジタル化したデータとして蓄積され始めたことと関係しています。不特定多数が利用するウェブページ、ブログ、オンライン・ニュース、あるいは私的な連絡手段であるeメールやスカイプ、ショートメッセージにしても、すべてはオンライン上でやり取りされるようになっています。そうしたものの多くは、何らかの形で電子的に保存され、原理的には保存期間は半永久的です。これはまさに、人間圏についての分析可能なデータなのです。今やそれぞれの人に関して、その過去の驚くほど多様で詳細なデータが、蓄積され始めています。』(pp.248)

 この考え方は、いかにも自然科学の専門家の意見だ。人文科学は、もともと立派な科学で、例えば「Why」を深く考える姿勢に関しては、自然科学は及ばない。自然科学者のタスクは、現象を数値化するか数式化するかでほぼ終わるが、人文科学はそこからが始まりになる。科学者=通常よりも論理を深く考えるヒト、とすると人文科学者のほうがよほど科学者らしいと思う。また、「原理的には保存期間は半永久的です」についても、現代の電子データが半永久的とは思えない。その保存に莫大な費用がかかるはずであり、例えば、ロゼッタストーンに刻まれたデータは無料で永久保存が可能になっている。全体最適の世界では、不要なデータは消去されると思う。

・人文を科学する

 かなり以前に、グーグルが世界中の図書館の蔵書をデジタル化する計画を発表した。その結果、『デジタル化された歴史的記録によって、集団としての人間を定量的に考察できる環境が実現しつつある。』(pp.251)という。

 そして、著者が考えている結論は、『人間圏のネットワークは成長を続けています。そのネットワークが最終的に意味を持つとすれば、それは秩序でなければなりません。しかし現代の人間圏にはまさに、その秩序が姿を現す直前の、臨界的な現象が現れていると考えられるのです。しかしその後に起きることは相転移です。そのとき人間圏は全く異なる様相を示すことになります。果たしてそれはどのような姿なのか。それはまだだれにもわかりません。』(pp.251)

 臨界点を超えると相転移が起こるとは限らない。確かに、シンギュラリティーという技術上の臨界点には、いずれ到達をするのだが、そこでの相転移は起こらないと思う。現在も起こっているコンピュータ頼りの生活が、より一層進むだけではないだろうか。

 私はむしろ、「人間圏」に拘る自然科学者の態度に歴史観の立場からの違和感を覚える。人文科学者の多くは生物圏からの人間圏の独立が、現代の文明上の多くの問題を引き起こしていると考えている。ビックデータは、人間圏の事象だけではなく、生物圏全体の事象を解明してほしいものだと思ってしまう。そうでなければ、人類の文明は長続きしない。

メタエンジニアの眼シリーズ(40)AIが神になる日 

2017年07月26日 09時29分21秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(40)
       
TITLE: AIが神になる日   KMB3361
書籍名;「AIが神になる日」[2017] 
著者;松本徹三  発行所;SBクリアイティブ  
発行日;2017.7.21
初回作成年月日;H29.7.14 最終改定日;H29.7.26 

引用先;文化の文明化のプロセス  Inplementing 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 帯の宣伝文には、次の言葉がある。『シンギュラリティーに到達した究極のAIは、人類に何をもたらすか?今後のAIについて何かを語るとき、この本が提起する論点を無視しては語れなくなると思う。』

 表題は、聊か大げさに見えるのだが、究極の人工頭脳が、古代から信じられてきた「神」の機能の多くを代替えすることになるという論理は、否定することは難しい。そして、その結果は全く新しい人類の文明の始まりになる。
 「はじめに」には、次の言葉がある。
『AIが人間に代わって世界を支配しなければ、人類は必ず滅びる』
『究極のAIは、(中略)この世界での人類のあり方を根本的に変えます』

今世紀の人工頭脳は、「自立学習技術」と「クラウド技術」の進化によって、必ずテクノロジカル・シンギュラリティーに到達するであろう。

・AIは次々に天才を生み出す

『第一に、「あらゆる種類の膨大な量の情報がクラウドのメモリーの中に蓄積されて、それが日々増殖してゆく仕組み」ができつつあることであり、第二に、「それらの蓄積された情報を超高速で検索して、そこから一定の法則を仮説として導き出す推論能力」が確立されつつあることです。そして後者は、「次々にその仮説を多角的に検証して、採用・不採用を決める仕組み」を伴うことによって、次々に大きな技術革新を引き起こしていくことになるでしょう。』(pp.6)

・直観に頼らずあらゆる可能性を検証して、総合的に判断するAI

医者と弁護士が膨大な過去の情報量から的確な判断を下すことは、ますます難しくなり、AIの得意分野の一つになる、との説明の後で『ここまでは専門職の話ですが、政治、経済。ビジネスの分野での高度な仕事についても、当然同じことが言えます。「最適経済モデルの策定」や「民
意の最大公約数の把握」といった政治・経済の重要な課題も、AIにやってもらえば格段に質が上がり、かつ迅速にできます。(中略)
優れた政治家がいかに公正な判断をしたとしても、自分の欲求が満たされなかった人たちは「この決定は恣意的になされたもので、公正でない」と必ず抗議するでしょう。しかし、多くの実績を通じて、「AIは無私だ」という一般常識がもしその時点で確立されていたなら、「AIが最適と見なした政策」には、なんびとといえども異を唱えるのは難しくなるでしょう。
更に、現在多くの人たちが感じ始めているのは、「政治家は選挙に勝つためにポピュリズムに走り、長期的利益なんかには誰も目もくれなくなる」「結果として、民主主義体制下の人々は、間違った政治的選択をし続ける」ということではないでしょうか。』(pp.38)

このことについても「おそらくAIが唯一の解決策」と結論している。

・自己学習の対象は果てしなく広がる

『AIは人間と違って、疲れることも飽きることもなく、いったん記憶したものは決して忘れず、いつでも正確に参照しますから、どんな天才でも太刀打ちできなくなるのは当然です。』(pp.39)

 著者は、農業と牧畜を第一の産業革命、一九世紀の機械化を第二の産業革命としているが、AIによる人間社会の革命は、産業革命の域を大幅に超えると思われる。人類の文明における革命になるのではないだろうか。
 文字の発明や都市化は、常に部分最適を目指してきたが、AI革命は全体最適を目指すことが可能になる。部分最適と全体最適の選択肢から、何を選ぶかは人類にゆだねられるのだが、先の説明にある、「多くの実績を通じて、「AIは無私だ」という一般常識がもしその時点で確立されていたなら、「AIが最適と見なした政策」には、なんびとといえども異を唱えるのは難しくなるでしょう。」が、方向を示してくれるように思われる。

・「科学」が色々なことを解明しても、「宗教」はなくならなかった
  
一方で、「無神論の系譜」があり、宗教に批判的な人たちの色々な言葉が紹介されている。
(マハトマ・ガンジー、ジークムント・フロイト、マーク・トウエイン、バーナード・ショウ、アインシュタイン、ホーキンスなど)

 古代宗教から、現代人が感がる「魂」などを広く語ったうえで、「宗教」はその創設者は哲学をしたが、宗教を信じることは哲学ではないと断言をしている。そして、ヒトにとっては「考えること」すなわち「哲学」が最も重要なことになるとしている。

・人間は科学技術の領域からはしだいに退出せざるを得なくなる

『しばらくの間は、AIのやるのは、せいぜい「いろいろな措置がもたらす結果を予測し、その良い点と悪い点をできる限り定数的に読み取って、最終決定者である人間にアドバイスする」程度でしょうが、生命科学全般の発展にはこれからのAIがますます重要な役割を果たすことに
なるのは間違いないでしょうから、早晩それだけでは済まなくなるでしょう。
そうなると、「種々の措置がもたらす副次的な効果の測定などは、もはやAIでなければ分からない」という事態が起こり、そのために「人間的な見地からの可否判断」までも、AIに任せざるを得なくなる可能性も出てきます。』(pp.177)

・人間に最後まで残る領域は「哲学」と「芸術」

・AIへの政権移譲に至る現実的な手順

 理想的なかたちで民主主義を実現するには、次のようなステップがあるとしている。
『まずはAIを「顧問]として使い、最終的な決定は人間が行う形にするのが良いでしょう。そして、その「実績」と、それに基づく「人々の信頼のレベル」を慎重に見極めながら、徐々に人間の関与を薄めていって、究極の姿に近づけてゆくのがよいと思います。
「AIをフルに使って、まずは民意(現状に対する不満など)を汲み上げ、それから、さまざまな政策上の選択肢が持つ「長期的な利害」を検証し、分かりやすい形でそれを示すことによって大衆を啓蒙したうえで、再び民意を問い、それに基づいて政策を決定して実行する。』(pp.206)



メタエンジニアの眼(39)「ヒトと文明」

2017年07月23日 07時38分58秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(39)

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE: ヒトと文明   KMB3357
書籍名;「ヒトと文明」[2016] 
著者;尾本恵市  発行所;ちくま新書  発行日;2016.12.10
初回作成年月日;H29.7.18 最終改定日;H29.7.22 
引用先;文化の文明化のプロセス  Implementing



 人類学、とくに人類遺伝学の立場から、狩猟採集民と現代を比較する。「はじめに」では、自然人類学と文化人類学が独立の立場になっており、ほとんど会話がないことを述べている。そのことを音楽に例えて、専門研究は特定の楽器の演奏技術、学際研究は三重奏や四重奏であり、オーケストラにはならないと指摘している。

 前半では、人類学に関する多くの歴史や逸話が述べられている。例えば、最大の特徴である言語の能力ついては、『ジュウシマツとかカナリアなどの歌には文法があり、チンパンジーの言語よりもずっと複雑だという。』や、『系統が近縁ならすべての特徴が似ているとはいえない。これは多くの研究者の陥る落とし穴の一つである。系統的にはヒトとはあまり近縁でないテナガザルの仲間が非常に発達した音声コミュニケーションをもつ。』(pp.55)といった具合である。結論は、「文明は人類の進化ではない」との断言。

・価値判断とヒトの文化

『価値判断は、ヒトの文化の重要な基盤である。さまざまな民族集団を特徴づける文化多様性の多くは、自然条件ではなく価値判断によって歴史的に出現したものである。人類は文化を持ち、それによって進化した動物であると言われる、(中略)私は便宜上ヒトの文化を「遺伝によらず、学習によって伝えられる生活様式(伝統)およびその産物」であると理解している。価値判断こそがヒトの文化の重要な基礎ではなかろうか。』(pp.59)

DNA研究の進展によって、人類学は急速な進化を遂げつつある。例えば、弥生人は中国の春秋戦国時代からの渡来人と考えられているが、それが侵入ではなく難民に近いということが、ミトコンドリアなどから男系だけでなく女系の遺伝子が多いことから推測されている。(pp.90)確かに、アレキサンダーの例に見るように、民族の侵入ならば、男系の遺伝子が多く残されるはずである。

 また、遺伝子の大規模な統計的な研究から、アフリカからの人類の民族移動は、陸路よりは海路のほうが盛んであったようにも思わせる記述が多い。例えば、ユーラシアからアメリカ大陸への移動は、ベーリング海峡が陸続きになった氷河期よりもはるか古いとか、南アメリカの南端までに、たった1000年で到達するのは、海路によると考えざるを得ない、といったことがある。(pp.99)

・ヒトにとって文明とは何か

 ここでは、文化と文明の根本的な違いを説明している。
『生物科学としての人類学では、文化と文明を明確に区別し、いずれもヒトの特徴と歴史に深く関係する重要な概念と考える。』(pp.119)

『意外に思われるかも知れないが、文化とは違い文明はヒトの普遍的特徴とは言えない。なぜなら、現代でもごく少数ではあるが農耕・牧畜にもとづく文明を採用しなかった「資料採集民」(ハンター・ギャザラー)が世界中に存在しているからである。もしチャイルド流の文明をヒトの普遍性と考えるなら、これらの人々はヒトではないことになる。』(pp.123)

ちなみに、チャイルド流の文明とは、農耕と都市化の文化を指す。即ち、文明人とは「都市化した農耕人」と云うことになる。私は、この説には反対である。農耕と都市化は、全体最適から、部分最適への逸脱であって、真の持続的文明とは云えないと考える。その逸脱の影響は、短期間(1千年以下)では正の価値が勝るが、それ以上の長期になると、負の価値が勝ってくる。その始まりが21世紀だと思う。人類の文明は、人類学的にも社会学的にも全体最適でなければならない。そうでなければ、人類は早期に絶滅の危機に襲われるであろう。

「都市の条件」としては、G. Childe(1950)による10の項目が挙げられている。(pp.130) また、「農耕の開始があった6地域」の条件としては、P. Bellwood(2013)による6つの条件が挙げられている。(pp.131)
 それに対して、著者は「狩猟採集民の特徴」として次の10項目を挙げている。(pp.145)
 ① 子供の出生間隔が比較的長い
 ② 広い地域に展開して居住する
 ③ 土地所有の概念がない
 ④ 主食がない
 ⑤ 食物の保存は一般的でない
 ⑥ 食物の公平な分配
 ⑦ 男女の役割分担
 ⑧ リーダーはいるが、原則として身分・階級制・貧富の差はない
 ⑨ 正確な自然知識と畏敬の念に基づく「アニミズム」 
 ⑩ 散発的暴力行為・殺人はあるが、「戦争」はない
 
 これらのどこが、非文明的なのであろうか。むしろ、人類の永続的な文明の必須要素の

ように思われるのだが、いかがであろうか。

・文明は「もろ刃の剣」

『文明以前、「動物と人間は同じ世界に暮らし、単に肉体あるいは精神だけでなく、存在全てにおいてたがいにかかわりあっていた。人間と動物とは対等であって、支配と服従の役割にあったのではない。後者のような事態は、あらゆる種類の動物を人びとが家畜化し始めたときに起こったことだ。」(ブライアン・フェイガン)
ここでも旧約聖書の「創世記」が思い起こされる。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、地の上を這う生き物すべて支配せよ」。この言明こそ、中近東発の一神教文明の本質的な原理をよく表している。ヒトによる支配は野生動物だけでなくヒト自身にも及んだ。』(pp.174)
 これは、古代から続く奴隷制や身分制度、植民地主義などを指している。そして、それらは現在も続いている。つまり、現代文明は「反自然の文明」と云える。

 以下、「不都合な真実」、「沈黙の春」、「成長の限界」、「八つの大罪」の具体例を説明している。
 『コンラート・ローレンツ(1903~1989)は、オーストリアの動物学者で「刷り込み」理論などでノーベル賞を受賞した。著書「文明化した人間の八つの大罪」で、彼は文明化でヒトが生物としていかに矛盾した存在になっているかを、キリスト教でいう「七つの大罪」になぞらえて述べた。彼の言う「八つの大罪」とは、人口過剰、生活空間の荒廃、人間同士の競争、感性の衰減、遺伝的な頽廃、伝統の破壊、教化されやすさ、核兵器である。なお、参考までに延べれば、カトリック教会が定めた七つの大罪とは、傲慢、憤怒、嫉妬、怠情、強欲、大食、色欲である。』(pp.181)

 その後、先住民族と植民地主義についての持論を述べたうえで、「おわりに」には次のようにある。
 『本書で私は、文明を宇宙という「自然」の実験と考えた。数十億年の地球の歴史の中で、文明はまさに「刹那」(仏教でいう時間の最小単位)というべき一万年の間に起きた新しい現象である。ヒトは、遺伝子進化の結果極めて高い文化依存性をもつ存在となったが、文化が創り出した文明は、遺伝子変化を伴わず進化したとはいえない文化の変化である。遺伝学の比喩をもちいれば、進化は「遺伝子型」、文明は「表現型」の変化に相当する。進化は、主として負のフィードバックによる自己制御を受けながら、ゆっくりと遺伝子を変化させた。しかし、文化の変化である文明の場合は、正のフィードバックが働いて、人口増大と階級や戦争という自然とは矛盾する特徴が顕著になった。』(pp.280)

 結局、著者は現代文明の出発点を旧約聖書の創世記に求めて、それ以前の動物との調和の中で生きてきた人類が、「自然とは矛盾する特徴が顕著」になってしまったのが、現代の問題であるとしている。回答は文明が進化するには、「負のフィードバックによる自己制御を受けながら、ゆっくりと遺伝子を変化させる」が、必要条件となる。

メタエンジニアの眼シリーズ(38)古代のインドーヤマト文化圏(その9)

2017年07月22日 08時48分24秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(38)         

このシリーズはメタエンジニアリングで「優れた文化の文明化へのプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
                                                
TITLE: インドの時代   KMB3359
書籍名;「インドの時代」[2006] 
著者;中島岳志  発行所;新潮社  発行日;2006.7.25
初回作成年月日;H29.7.14 最終改定日;H29.7.22 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 現役の若い日本人とインド人が、どのような見方をしているかを知るための著書がある。在日のインド人、サワジーヴ・スインバ「インドと日本は最強コンビ」講談社α新書[2016]は、題名の通りの中身なので、詳細は省略する。ここでは、外語大学でヒンドウー語を専攻し、アジア・アフリカ研究が専門の日本人の著書を紹介する。少し古いが、現代のインドから絶対的真理を模索している。





 冒頭では、『以上のような急激な都市社会の変化は、』(pp.50)に続けて、インドにおける急激な経済的な発展の結果生じた様々な社会問題について、詳細に述べている。特に、高学歴の若者の数が急激に増えたが、その能力に見合う職業が不足して、深刻な社会問題化しているのだが、インド特有の問題は、その人数の多さで数千万人に上っているということで、そのことは人口減少の日本にとっては、羨ましい話だ。

『経済発展を至上命題としてきた1990年代以降のインドは、経済の自由化によって多くのものを手に入れてきた。しかし、その反面で、多くの大切なものを失ってしまったのではないかという喪失感と虚脱感が多くの人の間で共有されている。そして、彼らの多くが、経済的豊かさの獲得を至上命題とするような生き方を見つめなおし、「如何に生きるべきか」「私の存在とは何か」といった根源的なアイデンティティーを問い始めている。』(pp.56)

この辺りまでは、いかにも東洋的で日本にも当てはまるのだが、その後の展開が大いに異なってくる。
その結果が、「ヒンドウー・ナショナリズム」として現れて、さまざまな形に分裂をして活動されている具体的な内容が示されている。穏健なもの、過激なもの様々である。

やや過激な例としては、『インド固有の科学こそが、世界の最先端の知や技術を生み出してきたことを強調する。(中略)英語の起源はサンスクリット語であるとするシャルマの著書、(中略)ヒンドウー・ナシナリストは、「サンスクリット語を使用するアーリア人によって担われた古代のインド」を至上の価値と措定し、サンスクリット的ヒンドウー教こそがインドの問題をすべて解決すると主張する。』(pp.62)などである。

・新しいヒンドウー教

ここでは、インドの先端社会の変化の速さが強調されている。それは、宗教の世界でも例外ではなく、拙速を忌み嫌う日本とは好対照に思える。しかし、どちらにも長所と欠点があるのだから、両者のハイブリッド化ができれば、有力な力となり得る。
新しいヒンドウー教では、「デザイン化される神々、電飾寺院、ハイテク寺院」などが紹介されているが、どれも相当な規模であるところが日本とは異なる。

『このような寺院のハイテク化は、一見、反伝統的で歪な現象のように見えるが、彼らは概ねそのようなシステムの導入を、伝統的な寺院のありかたと矛盾しないものとして捉えている。多くの寺院の壁には「ラーマーヤナ」をはじめとした神話の場面が描かれ、僧侶が人々に絵解きをしながらダルマのあり方などを語ってきた伝統がある。このような宗教伝統が電化され、ヒンドウーの宇宙観や神話世界をよりリアルに体験できるように工夫されたのが、ハイテク寺院の姿なのである。』(pp.122)

 日本各地にも同様なものが多々あるが、それらはいずれもハイテクではない。そこがインドと異なる。

・単一論的宗教復興の問題

 ここではS・ハンチントンの「文明の衝突」を引き合いに出して、文明の構成原理を各種キリスト教、イスラーム教、儒教、ヒンドウー教などのベースで成り立っている現代文明が、必然的に衝突をするという論理を紹介し、現在はそのような流れの中にあることを認めている。
しかし、『インドにおけるヒンドウー・ナショナリズムとイスラーム過激派の対立も同様の見方をすることができよう。しかし、ここでハンチントンが言うように、現代世界における宗教復興運動は、必然的に宗教対立を生み出してしまうのであろうか。私は断じて「否」と言いたい。』(pp.198)と述べている。

・多一論的宗教復興の可能性

『多一論とは、地球世界という相対レベルにおける多様な個物は、絶対レベルにおいてはすべて同一同根のものであり、地球世界における「多なるもの」は、その「一なるもの」の形をかえた具体的現れであるという概念である。つまり、真理は絶対的で唯一のものであるが、地球世界における現れ方は、各宗教によってそれぞれ異なるという考え方である。』(pp.198)

『地球世界における個別的な宗教体系やそれぞれの差異は、あくまでも言語や物質を伴った相対的なもので、超越的な真理そのものだはない。それぞれの宗教は、あくまでも真理に至るための「道」であるに過ぎず、その「道」自体が真理なのではない。しかし、相対世界に現れた「多なる宗教」は、「一なる真理」へと誘う確かな道である。宗教の違いは、歩む道の違いに過ぎず、すべての道は「一なる真理」へと向かっている。このような絶対レベルにおける唯一性と、相対レベルにおける多様性を認め、世界に存在する宗教的差異を、「一なる真理に至るためのアプローチの違い」と認識することが多一論である。』(pp.199)

『このような多一論はなにも現代社会の宗教対立を乗り越えるために編み出された新しい考え方ではない。これまで、世界中の歴史的な宗教思想家たちが、言語や表現方法を変えつつ主張してきた宗教哲学である。』(pp.199)

その事例として、般若心教の言葉や、西田幾多郎、鈴木大拙和はじめとして、各国の有名宗教家の例を挙げている。このことは、確かなことではあるが、メタエンジニアリング的に考えると、ひどく単純である。つまり、「手段の目的化」がここでも起こっているということに過ぎない。手段の目的化は、通常の社会で頻繁に起こる。そして、一旦起こると、本来の目的を忘れて、手段の達成を目的として突っ走る。つまり、部分最適の世界に入り込む。そして、部分最適は、進めば進むほど、全体最適とは矛盾する結果を引き起こす確率が高くなる。

多一論は、観念論としては正しい。しかし、歴史から考えると、多くの高名な学者が主張してきた有名な理論であっても、グローバル化された世界での実現は、ますます実現が困難な方向に進んでいると思っている。






メタエンジニアリングの眼シリーズ (37);インドーヤマト文化圏(その8)

2017年07月21日 07時55分01秒 | メタエンジニアの眼
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化のプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE: インダス文明の興亡   KMB3354
書籍名;「古代インドの思想」[2014] 
著者;山下博司  発行所;ちくま新書 

発行日;2014.11.10
初回作成年月日;H29.6.10 最終改定日;H29.7.21 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「自然・文化・宗教」として、インダス文明の特徴を自然・文化・宗教の面から述べている。知識の羅列の感があるが、多方面から全体像を理解するには役立つ。

 表紙カバーの裏面には、次の言葉がある。

 『緻密な哲学思想や洗練された文学理論など、高度に発達した「知の体系」は、いかに生まれたか。厳しくも豊かな自然環境がインド人に与えた影響とは。外の世界から多くを受け入れながら矛盾なく深化・発展させることで、独自の文化や思想を生み出し、世界中に波及させてきた。ヒンドウー教、仏教、ジャイナ教・・・。すべてを包み込むモザイク国家「インド」の源流を古代世界に探る。』

 「独自の文化や思想を生み出し」までは、日本を表現しているといってもおかしくないが、「世界中に波及させてきた」は異なる。大陸と島国の違いなのだろう。

主な論点は、以下だった。
・地球規模の寒冷化、乾燥化の中で文明として芽生えた。
・乾燥化がより進んだことで衰亡した。その間千数百年間
・乾燥と湿潤のせめぎ合いの中で多様性文化が発生
・氾濫灌漑農業
・英国による鉄道施設時に遺跡を破壊した
・世界4大文明の中で、最も広範囲に広がっていた
・印象文字は、文字か記号か
・民族移動の玉突き現象
・アーリア人が牛を大切にした
・火は供物を天に運ぶ
・「リグ・ヴエーダ」はBC1000頃完成
   1000の賛歌、1万以上の詩

インダス文明は、地理的には『乾燥アジアの東端にあり、インド・パキスタン国境以東に始まる「モンスーン・アジア」との接点に位置する。気候区分でいえば、砂漠気候と熱帯モンスーン気候の境目あたりである。乾燥と湿潤がせめぎ合う気候風土の微妙な陰影が、広大なインダス文明圏内の文化的多様性を織りなしていたのである。』(pp.68)

「氾濫灌漑農業」という点では、他の古代文明と同じだが、気候区分は独特のものになっている。当時は、四季の変化も比較的はっきりしていたのだろう。
 問題は、彼らが文字文化を持っていたかどうかだった。多くの印章が発見されているのだが、それらが文字か記号かが判然としていない。
 多くの学者が、解読結果を発表してきたが、どれも定説には程遠いと言われている。
 
『2000年代に入り、これらの「文字」が自然言語(日常の意思疎通のために自然に発生し発展してきた言語)を反映したものではないという仮説が、アメリカの研究者たちによって表明され波紋を呼んだ。印章に刻まれた諸文字の出現頻度などを統計学的に分析すると、自然言語とは考えにくい諸特徴を示したという。』(pp.75)

 私は、古代における文字文化が文明の条件であることには納得がいかない。漢字やヒエログリフに見られるように、古代の文字の使用は、権威者の威光を、異なる言語社会にまで広く浸透させることが目的だったと思う。日本の縄文時代や、インダス文明のような絶対王権を持たずに、民主的な文化を保った文明は、「文字」を必要としない。簡単な、記号などで十分だったと思う。

『気候の大規模な変動が文明の衰微や民族の南下・移動を促し、他の民族の更なる移動や勢力の再編を導いたのである。(中略)
中国大陸でも、4000年前に始まる北方民系漢族の黄河中流域から長江流域への南下、およびそれにともなう中国奥地や東南アジアへも波及する民族移動の連鎖も指摘されている。その一部が江南から日本に渡来し、稲作をもたらしたと言われる。マレー・ポリネシア系の言語を話す人々を海洋へと追いやったのも、こうした「民族の玉突き現象」の一環である。陸地での大規模な民族移動が、太平洋上にまで及んでいたことになる。』(pp.102)

『「リグ・ヴェーダ」の言語は、(中略)そこから垣間見られるインド・イラン人の宗教では、家庭祭祀を行い、祖霊を供物で慰撫して福にあずかろうとした。天空の神々を崇拝し、ソーマ(ハオマ)を水盤に盛って神に奉納し、動物を供犠し、穀物や牛乳を祭火に投じた。火は供物を天に運ぶと信じられていたのである。』(pp.105)

 「リグ・ヴエーダ」はBC1000頃に完成し、1000の賛歌と1万以上の詩が不含まれている。それらから推定される国家のあり様は、次のように説明がされている。
『社会全体に君臨する者の存在は確認されておらず、政治的には統合されていなかったとみられる。その後しばらく、統一的な権威なしに推移し、地域ごとに小国家が分立してゆくことになる。』
このことも、卑弥呼の時代のヤマトに共通する。

 欧米の文化や文明論に多く出てくる、「日本は独特で、親類の文化を持たない」との主張に対しては、少なくとも、インダス文明を起源とするインドとは親戚関係があるように思う。

メタエンジニアの眼シリーズ(36) 古代のインド―ヤマト文化圏(その7)

2017年07月10日 14時16分01秒 | メタエンジニアの眼
「古代のインド―ヤマト文化圏(その7)」KMM3355 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:インドの聖と俗  KMB3355

書籍名;「ヒンドウー教」[2003] 
著者;森本達雄  発行所;中央公論社 中公新書
発行年月日;2003.7.25



 副題を「インドの聖と俗」として、この両面を強調している。そして、この傾向は日本とまったく同じことが多いことを、
実例で示している。

・ヒンドウー教と日本の神々

 『私たち日本人は、遠く父祖の代から、知らず知らずのうちに、日常の信仰や思想、思考方法などにヒンドウー教から少なからぬ影響を受けてきているのである。すなわち、古来日本の精神文化の核であり、支えであった仏教、とりわけ密教へのヒンドウー教(バラモン教)の影響をとおして、いつしか私たちの祖先はヒンドウー教の神々や教えを受容し、したしんできたのである。たとえば、今日ではすっかり日本の民間信仰の神様のように思われている弁財天信仰などは、その好例の一つであろう。』(pp.5)

 ここでは、「弁天様とサラスヴァティー」、「大黒様とシヴァ神」について写真を交えて同一性を説明している。

・日本の生活習慣にとけこんだヒンドウー教

 『私たちの生活習慣の中には、ずいぶんとヒンドウー教の儀礼や慣習が入り込んでいるようである。思いつくままに二、三、例をあげると、仏教(真言密教)の重要な儀礼として、加持祈祷のさいに焚かれる「護摩」がある。あれはインドでは、いまから三千年以上も前の「ヴェーダ時代」と呼ばれている最初期の儀礼で、サンスクリットの「火中に献げる」「献げものをする」といった意味の「ホーマ」が漢訳されて「護摩」となったものである。』
(pp.10)

・日本文化の底流に息づくヒンドウー思想

『我が国の古代からの中世、近世の文字・絵画・建築や造園、能や歌舞伎から、日常の生活様式に至るまで、その底流にさまざまな形で無常観、輪廻や業(ごう)の思想、あるいは浄土への憧れ(欣求浄土)など、仏教的世界・人生観が深く流れていることは、誰もが認めるところである。勿論その源流はといえば、仏教オリジナルなものもあれば、ヒンドウー教の影響によるものもあろう。そこで、明らかにヒンドウー教に起源をもつ輪廻転生について、少し考えてみたい。』(pp.14)

 このことは、輪廻転生を信じていようが信じまいが、それには関係なく、日本人は平家物語や、方丈記、徒然草などの古典や、能のストーリーの作者の意図を理解することができるので、輪廻転生が文化として浸透しているとしている。

・ヒンドウー教の特徴

『ヒンドウー教の定義はむずかしくなる。なぜならヒンドウー教には、まず第一に、キリストやマホメットに相当する特定の開祖は存在しない。それゆえ、成立の年代もいつごろか漠として特定できない。ヒンドウー教は ーある高名な宗教学者の言葉を借りればー 「この宗教には初めも終わりもなく、われわれの地球が存在する以前から、未来永劫、消滅を繰り返すどの世界思貫いておもつらぬいて存在する」ものとして、時間を超越し、歴史を拒否するといった側面すら見受けられるのである。』(pp.24)

 この特徴は、日本における神道とまったく同じである。

・インダス文明へ

ヒンドウー教の起源は、インドでのアーリア人の登場からか、それ以前のドラヴィダ族やムンダ族などの先住民族かも分かっていない。「ヒンドウーイズム」はヒンドウーの土地に住む人々の宗教であって、教義や組織を持たない。「ヒンドウー」の語源は、サンスクリット語の「流れ・川」を意味する「シンドウ」と云われており、この川はインダス川を示しているそうだ。

 インダス文明が、同時代の他の文明と比較して基本的に異なる点を、モヘンジョ・ダーロの発掘者であるイギリス人の考古学者は次のように発言している。

『同時代のエジプトやメソポタミヤでは、「莫大な金と知識が、神々のための壮大な寺院の建物や、王たちの宮殿や墓の造営に浪費され、一般市民はどうやら泥で造った粗末な住居で満足しなければならなかった。」のにたいして、「インダス文明では状況は逆である。そしていちばん立派な建造物は、市民の便宜のために建てられたもの」であった。』(pp.71)
 この傾向は、日本の縄文時代と古墳時代の差を思わせる。やはり、この二つの時代の文化は、根本的に異なっているので、独立した民族による支配と思う。

 また、ネルーの著書「インドの発見」[1946]からの引用として、次の言葉がある。
『ひじょうに驚くべきことは、それ[インダス文明]がなによりもまず、世俗の文明だったということであり、宗教的な要素はあるにはあるが、舞台全体を支配してはいなかった』(pp.72)

以下は、次のような表題での説明が続いている。
・ハラッパー人、先住民たちの信仰
・アーリア人の出現と英雄神インドラ
・アーリア人はどこから来たのか
・「ヴェーダ」の成立とアーリア人の神々
・「ヴェーダ」は口承聖典





メタエンジニアの眼シリーズ(34) 古代のインド―ヤマト文化圏(その5)

2017年07月05日 07時30分53秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(34)     

TITLE: インダス文明の興亡   KMB3356
書籍名;「埋もれた古代都市、インダス文明とガンジス文明」[ 1979] 
著者;森本哲郎 編  発行所;集英社  発行日;1979.3.30

引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

「このシリーズはメタエンジニアリングで「優れた文化の文明化へのプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

「古代のインド―ヤマト文化圏(その5)」日本の古代文化は、中国や朝鮮半島から伝わってきたものが多いように思っていましたが、縄文時代や初期の稲作は、東アジアの海洋文化の影響の方が強いようです。中国も、揚子江の南北では文化が全くことなり、北は遊牧民の文化で、南は海洋文化なのでしょう。東アジアの海洋文化の元は、インダス文明のように思われます。そこで、少しインドの古代文化の勉強を始めました。



 この本は「NHK文化シリーズ歴史と文明」全6巻中の第5巻で、かなり古い編集だが、森本氏の文明論や対話の発言が面白い。「まえがき」には、次のように記されている。

『川のごとき特性とは、端的にいえば包摂性、すなわち平気で何もかも自分の中に取り込んでゆくという許容性である。インダス文明についてはさておき、この驚くべき包摂性は現代のインドにそのまま生きている。その最もいい例がヒンドウーの神々であろう。ヒンドウーの神々のあいだにはすべてに無差別の原理が貫徹している。ヒンドウーのパンテオンには、ウバニシャド(奥義書)できめられた最も抽象的なプラフマーという神から、象や、獅子や、イノシシや、ヘビという動物の姿をした神々、さらには仏教の始祖、それどころかガンジーといった政治家に至るまでが、そっくり受け入れられているのである。そこには抽象的な原理も、神も、聖者も、人間も、いや動物でさえ無差別に座を占めている。インドには神と人間、人間と他の動物、そのあいだにさえ、はっきりとした区別はないのだ。』

 さらに続けて、『インド亜大陸につぎつぎに流れ込んださまざまな文明を、片っ端からインド化してしまったのだ。無差別の原理によって。』(pp.2)
この許容性と、さまざまな文明を、片っ端からインド化してしまったとは、なんと日本の古代に似ているではないか。そして、その文化は現代も生き続けていることも共通している。

 本文の冒頭の「対話の初めに インダス文明の遺産」には、次のようにある。
 『4000年以上の前にインダス河畔に築かれたモヘンジョ・ダロの遺跡は、多くの古代遺跡の中でも、際立って特異な風景を見せている。風景を構成しているのは、レンガ、レンガ、ただレンガだけである。(中略)いったい、こんな都市文化を持っていたインダス文明とは、いかなる文明だったのか。』(pp25)
 
それに続く文章は、インダス文明の6つの疑問だ。
 第1、インダス文明を構成した先行文化の形跡が全くない
 第2、道路に面したどの家にも、戸口と窓が全くない
 第3、神殿や王墓が見当たらない
 第4、武器や軍隊の跡がない
 第5、印象に彫られた文字か記号かも分からない
 第6、1000年だけ栄えて、突然消滅し、行方が分からない

『私は、恐らく海上路のほうが中心であって、陸路というのはあったとしても非常にわずかではないかとおう気がするんですが。(中略)それに品物を積む量が違う。ロバやラクダの背に乗せて、あんな暑い砂漠をとぼとぼ行くよりは船のほうがずっと大量のものをはこべるわけですから。』(pp.74)

『アーリア人が残した「リグ・ヴェーダ」のなかに「プランダラの歌」というのがあって、インドラ(アーリア人の軍神)が90の砦をボロボロの着物みたいに破壊したとあるんですが、この90の砦というのが、インダス文明の都市だというわけなんでしょう。』(pp.80)

『考えてみると、高度に発達した都市文明が、なぜ一朝にして滅びたかというのは、まったく逆なんですね。むしろ高度に計画された都市だからこそ、あっさり滅びてしまうわけで、プロミティブなものだったかえって生きのびられたんじゃないですか。』(pp.84)

『いわゆる古代派時代(紀元前2~前1世紀)には、おシャカ様を人間の姿で表してはいけないとされていました。ところが、のちのギリシア文化との接触で、おシャカ様の姿が理想像として描かれるようになる。それが1~2世紀ごろのガンダーラ時代か、あるいはマトウーラ時代ですから、その間におシャカ様はすっかり神聖化されて、人間性が消えてしまったわけですね。』(pp.105)

『仏教はヒンドウー教の中に含まれているというんですね。インド人の気持ちの中には、仏教とヒンドウー教を区別するという意識は無いんでしょうね。』(pp.154)

古代の日本神道がヒンドウー教の神々とその大もとが共通しているとすれば、日本人が仏教と神道を意識的には区別しないことと、共通の意識のように思われてくる。読み飛ばしてしまえばそれまでなのだが、蘊蓄のある言葉が並べられている。