その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(69)
TITLE: 「全・地球学」 KMB3448
書籍名;「全・地球学」[2018]
監修者;松井孝典 発行所;ウエッジ
発行日;2018.3.31
初回作成年月日;H30.5.24 最終改定日;H30.7.31
引用先;メタエンジニアの歴史
このシリーズはメタエンジニアリングの歴史を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
本の副題は、『1996-2017フォーラム「地球学の世紀」22年、134人の知の試み』とある。A4サイズで511ページの百科事典並みのボリュームがある。年度順に、数人の識者が地球学の立場から発言をしている。残念なのは、国内の識者にとどまっていることなのだが、中身は多岐にわたっており、まさにメタエンジニアリングの世界を感じさせる。その中からいくつかを引用する。
監修者の松井孝典氏の著作については、すでにメタエンジニアの眼(19)と(27)で紹介した。地球惑星科学者を称する東京大学理学部教授で多くの著書がある。150億光年の空間スケールで地球と文明を考えようとする「アストロバイオロジー」を主張する。現代の、環境・人口・食料などの問題を、地球システムの問題として、ひとつの宇宙人の立場で新たな視点を探っている。
・1996年6月号(002)
川勝平太「脱=自然科学と脱=社会科学が交差する領域「物産複合」」
『地球の自然の多様性は どうして生まれたか
物粟学者の松井孝典さんが、宇宙の誕生から人間 社会の発達まで説き及ぶ、壮大な歴史学を提唱さ れている。ビッグバンで137億年前に宇宙が誕生し、46億年前に太陽系ができ、36億年前に生命が誕生し、600万年前に人類が誕生した。宇宙→地球→生 命→人類の歴史を貫くのは物質の冷却過程であら、物質が冷却して異質の物質を生み出す過程、すなわ ち分化の所産が自然の多様性だというのだ。松井さんの宇宙史観における因果の系列を貫くのは物質の「冷却」にともなう「分化」と「多様化] である。』(pp.18)
多様化に関しては、更に「カゲロウのような、弱い生物も生き残る「今西の棲み分けの密度」という理論を紹介して、地球的自然の多様性を強調している。
『こにはヨーロッパの文化風土というべき、人間を中心にして社会を理解しようという態度がある。人間のことしか考えていないといっても過言ではない。 既成の社会科学は物を包摂する視点を欠いている。一方、松井、 今西理論の研究対象は物だ。物質が冷却し分化してできた 物から成り、生物も物だ。 松井・今西理論こそは真の唯物史観である。それと比べれば、マルクスの唯物史観は階級闘争をする人間が担い手なのだから、偽非物にさえ見える。このままでは切り結ばない。両者をどう媒介するか。』(pp.19)
つまり、「ヒト」も自然の文化作業によって出来上がった一つのものとして扱おうというわけなのだろう。そこから、「物産複合史観」が生まれた。「物産複合」とは、自然が作り出した物と、人間が作り出した産物を、同一視しようという試みになっている。
『「物産複合」史観に立った歴史像は、旧来の人間中心の歴史像を批判的に吸収する一方、 自然学との対話にも道を開いている(拙著『日本文明と近代西洋』[NHKブックス]の参照を乞う)。』(pp.19)で結ばれている。
・1996年7月号(003)
西垣 通「インターネットが導く「新しい共同体」の誕生」
『「地球学とは何か」と問われれば、すぐに答えが出てくるわけではないが、ともかく諸学の成果を集め、文明史的スケールで研究すべき分野なのだろう。インターネットは、こういう大事な問題を討論するのに絶好のツールである。』つまり、ほぼ無料で、世界中のありとあらゆる情報を集めることができるというわけである。
『知性と善意のネットワークどころか、いまやインターネット空間は金儲けの草刈り場と化しつつあるのだ。もちろん、知性と善意のユーザーも皆無ではないのだが、むしろ私腹を肥やそうと、らんらんと目を光らせている連中のほうが、圧倒的に 多いのである。』として、現状を語っている。そのあとで、もともとは、科学技術の学術的な成果を交換するためのものが、ビジネスに使われるようになったためだとして、次のように続ける。
ビジネスに使われるべきインターネットとして、次のことを提案している。
『これから私たちが建設していかなくてはならない国際情報スーパーハイウェイ、いわゆるGH(グローバル・インフォメーション・ インフラストラクチャー)なのである。そこでは、 適切な規制管理が行われ、たとえ暗号解読などによる事故が起きても、保険で対処できるような制度が作られることになるだろう。有料ではあるが、安心して非公開情報を送れるということが、Gil の必要 条件なのである。』として、著書の、「インターネットの5年後を読む」を推奨している。
・1997年1月号(009)
今田高俊「「文理融合」のアプローチを目指して」
『 21世紀には、科学技術と人間社会の不調和が地球的規模で発生する可能性が、今にも まして強まるだろう。こうした中で、人類が地球環境と調和して生存していけるような経済活動、生活様式およびそれらの基礎をなす倫理・価値観の形成、といった課題に取り組むことが、ますます重要性を帯びつつある。この要請に応えるためには、「文理 融合」のアプローチという新たな方法を模索することが不可欠である。』(pp.34)
現代の諸問題は、「文理分業」という専門分野体制の隙間から零れ落ちているというわけである。
『似前からこうした問題点は認識され、「学際的協力」が盛んに」謳われたが、既存の専門分化した学問領域の独立性を大前提としていたため 切り取る現実の隙間をぬって発生する問題の対処には、ほとんど功を奏していない。』(pp.35)
と断言をしている。
『また、文理融合は、一般教養人ないしジュネラリストの育成を目指すのではなく、あくまで専門知識人ないしプロフェッショナルの育成を目指すために、されるべきである。教養主義に先祖帰りするような文理融合では、何ら現状の解決にはならない。文理融合の方法として、いくつかのアィデアが考えられるが、私は「意思決定」をキーワードにするのが有力な方法だと考える。』
『文理融合のアフローチが育成する人材は、地球環境問題、生命操作の問題、技術移転と文化摩擦の問題、大規模災害など、科学技術と人間社会の不調和に対し、高度な価値判断に基づいて的確な意思決定を導き出す方法や仕組みについて造詣が深く、不確実な状況のもと、クリティカルな事態に対して速やかな意思決定を下すことのできるネオ・リーダーで ある。』としている。理想的なメタエンジニアと思われるのだが、このような能力は将来のAIにしか持てないのではないだろうか。
・2001年10月号(062)
横山俊夫「よみがえる日本文明―江戸期日本のいのちのかたちを考える」
『文明とは気高い言葉である。 社会が精密に統合されているだけでは文明と呼べない。この語は東アジアの古典、『易』に出る。ものごとが天地人にわたり文(あや)を織りなし、安定して光明をはなつことを意味する。』
私は、この言葉が「文明」の真の姿だと思っている。中国と日本のすべての古代史の研究者は、このことを知っている。
『古典的な文明観にしたがえば、産業革命以来「文明」と称する社会は、その名に値する体をまだなさない。いずれも安定より変革、礼やシヴィリテより武断をこととして勝者のみ輝き、かかわったいのちの多くを闇に置いてきている。今世紀の人類の課題は、自ら手にした強過ぎる技術も含め、いかに地球規模の文明をもたらすかにある。』
このことが、げんだいの「文明」の真実なのだろう。そして、ここから本題に移る。
『江戸期の日本の人びとのいのちのかたちが示唆をあたえるかもしれない。消費も情報も細かに統制されながら、闇-色ではなかったからである。1859年英国刊の『エルギン卿遣日使節録』の中に浅草寺群集図がある。日英条約の交渉を終えた使節一行が浅草寺に出かけると、老若男女が境内にすきまもなく詰めかけた。その群集の「礼儀正しさ」と「明るさ」に驚いて描かれた図である。エルギン卿 は妻への手紙で、ヨーロッパではそのような振る舞いは莫大な富をつぎ込まねば身につかないと評した。』
そこから、江戸期の礼儀作法がいかに発達し、広まったかを、当時の文献で示している。「節用集」と「大雑書」というものだ。著者は、現在各地に残る当時の蔵書の、「手ずれ」のあとをスキャナーで調べて、どの部分が重用されていたかを克明に調べたとある。そこから、「文(あや)を織りなす」生き方が生まれてきた。
『さらにいえは、作法にせよマナーにせよ、言葉にたよる部分は各国千差万別であるものの、その基本動作の多くは人類のみならず類人猿にも共通である。 江戸期のいのちのかたちをゆるやかに整えた作法のありようを文明の核として見直すことは、人間が、 明るい安定社会への共同を、からだで表す生き物であることを確認することになるだろう。』と結んでいる。
・2006年3月(110)
森本公誠「シルクロード上の異文化間に通底する世界観について」
「グローバリゼーション」は、中国語では「全球化」と訳される」で始まる。筆者は、東大寺の別当職で、「華厳経」の世界観との一致をみる。
話は、仏教の起源から、アリーア族の宗教から、ゾロアスター教へと移り、そこからユダヤ、キリスト、イスラム教の教義の共有性に至る。そのような経緯から、世界各地に多様な神話が生まれた。
要は、世界観のながれであり、『進化のデザインは流れの効率化という観点で決まる」という指摘は、地球システムにおける安定な人間圏論の構築に向けて、試行錯誤していた筆者にとって、大いなるヒントを与えてくれた。地球における冷却と分化という進化の方向性に、その過程の具体的な意味を与えてくれるからだ。冷却とは熱というエネルギーの流れの存在を意味し、分化は物質の流れに関わる。』として、冒頭の命題に帰着している。そこから、著者独特の地球氏の流れの開設が始まっている。そして、結論的に次の言葉になる。
『冷却と分化という現象に共通するのは「流れ」である。冷却はエネルギーの流れであり、分化は物質の流れである。地球史は、最初に熱かった地球が、その熱を放出する過程で、物質の再分配を起こす流れの過程であった。分化は分岐であり、それは流れに特有な現象だ。生命も、原始的な原核細胞から、真核細胞に構造を変え、さらに多細胞化することで分化した。例えば、植物は効率よい揚水ポ ンプの形状を整え、動物は自らの運動能力を増し、エネルギー効率を高めるようにその形態を変え、現在の異なるさまざまな形態の生物種が生まれた。』単純化すれば、こうなる。(pp.485)
・2017年5月号(205)
長谷川真理子「知性の進化と科学技術文明の行方」
『この地球上で私たち入類は現在、巨大な文明を築き、地球史的に見ればほんの短い期間で、地球の環境を大きく変えるほどの影響力を手に入れた。これはみな、私たちが高度な知性を持っているかれである。では、この知性とはなんであろう。』で、総合研究大学院学長の話は始まっている。
ヒトは、社会生活への適応のために脳が発達し、「他社の状況を自分にあてはめ共感する力」を得たとしている。
『社会的知能に関して言えば 、ヒトは超好社会性である。ヒトは損得を超えて本質的に他者を助けたいと感じ、協力行動を快とする性質を備えている。その基盤にある性質のひとつが共感性である』
『ヒトは、文化を持ち、文化的環境に取り囲まれて暮らす動物である。文化とは何か? 行動生態学の定義では、遺伝子の伝達とは別に、ある行動が世代を超えて集団中に伝えられることである。この定義によれば、ヒト以外のいくつかの動物にも文化は見られる。しかし、 ヒトの文化が特徴的なのは、ある発明によって生まれたある文化が、その後に集団のメンバーによって 改良され、それが全員に共有されることにより、急速に蓄積的に発展していくことである。』
私は、このことを「文化の文明化へのプロセス」とした。メタエンジニアリングとの偶然の一致であった。
現代科学は、問題の内側では成功したが、問題の外側ではどうであったか、として
『しかし、科学技術も人間の好奇心と欲望を原動力として発展しているのであり、好奇心、と欲望はつねに「正しい」道を進むとは限らない。限定された「解ける」問題を解くことに長けた科学は、その内部では大成功だ。が、その問題の外にある問題は考慮しないので、その部分で多くの新たな不幸をもたらしている。その全貌をメタ的に考えられる人は誰もいない。』
確かに、現代の細分化された学問分野の中では、「全貌をメタ的に考えられる人は誰もいない」という結論しかありえない。メタエンジニアリングは、まだがくもんぶんやとしては認められていない。
TITLE: 「全・地球学」 KMB3448
書籍名;「全・地球学」[2018]
監修者;松井孝典 発行所;ウエッジ
発行日;2018.3.31
初回作成年月日;H30.5.24 最終改定日;H30.7.31
引用先;メタエンジニアの歴史
このシリーズはメタエンジニアリングの歴史を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
本の副題は、『1996-2017フォーラム「地球学の世紀」22年、134人の知の試み』とある。A4サイズで511ページの百科事典並みのボリュームがある。年度順に、数人の識者が地球学の立場から発言をしている。残念なのは、国内の識者にとどまっていることなのだが、中身は多岐にわたっており、まさにメタエンジニアリングの世界を感じさせる。その中からいくつかを引用する。
監修者の松井孝典氏の著作については、すでにメタエンジニアの眼(19)と(27)で紹介した。地球惑星科学者を称する東京大学理学部教授で多くの著書がある。150億光年の空間スケールで地球と文明を考えようとする「アストロバイオロジー」を主張する。現代の、環境・人口・食料などの問題を、地球システムの問題として、ひとつの宇宙人の立場で新たな視点を探っている。
・1996年6月号(002)
川勝平太「脱=自然科学と脱=社会科学が交差する領域「物産複合」」
『地球の自然の多様性は どうして生まれたか
物粟学者の松井孝典さんが、宇宙の誕生から人間 社会の発達まで説き及ぶ、壮大な歴史学を提唱さ れている。ビッグバンで137億年前に宇宙が誕生し、46億年前に太陽系ができ、36億年前に生命が誕生し、600万年前に人類が誕生した。宇宙→地球→生 命→人類の歴史を貫くのは物質の冷却過程であら、物質が冷却して異質の物質を生み出す過程、すなわ ち分化の所産が自然の多様性だというのだ。松井さんの宇宙史観における因果の系列を貫くのは物質の「冷却」にともなう「分化」と「多様化] である。』(pp.18)
多様化に関しては、更に「カゲロウのような、弱い生物も生き残る「今西の棲み分けの密度」という理論を紹介して、地球的自然の多様性を強調している。
『こにはヨーロッパの文化風土というべき、人間を中心にして社会を理解しようという態度がある。人間のことしか考えていないといっても過言ではない。 既成の社会科学は物を包摂する視点を欠いている。一方、松井、 今西理論の研究対象は物だ。物質が冷却し分化してできた 物から成り、生物も物だ。 松井・今西理論こそは真の唯物史観である。それと比べれば、マルクスの唯物史観は階級闘争をする人間が担い手なのだから、偽非物にさえ見える。このままでは切り結ばない。両者をどう媒介するか。』(pp.19)
つまり、「ヒト」も自然の文化作業によって出来上がった一つのものとして扱おうというわけなのだろう。そこから、「物産複合史観」が生まれた。「物産複合」とは、自然が作り出した物と、人間が作り出した産物を、同一視しようという試みになっている。
『「物産複合」史観に立った歴史像は、旧来の人間中心の歴史像を批判的に吸収する一方、 自然学との対話にも道を開いている(拙著『日本文明と近代西洋』[NHKブックス]の参照を乞う)。』(pp.19)で結ばれている。
・1996年7月号(003)
西垣 通「インターネットが導く「新しい共同体」の誕生」
『「地球学とは何か」と問われれば、すぐに答えが出てくるわけではないが、ともかく諸学の成果を集め、文明史的スケールで研究すべき分野なのだろう。インターネットは、こういう大事な問題を討論するのに絶好のツールである。』つまり、ほぼ無料で、世界中のありとあらゆる情報を集めることができるというわけである。
『知性と善意のネットワークどころか、いまやインターネット空間は金儲けの草刈り場と化しつつあるのだ。もちろん、知性と善意のユーザーも皆無ではないのだが、むしろ私腹を肥やそうと、らんらんと目を光らせている連中のほうが、圧倒的に 多いのである。』として、現状を語っている。そのあとで、もともとは、科学技術の学術的な成果を交換するためのものが、ビジネスに使われるようになったためだとして、次のように続ける。
ビジネスに使われるべきインターネットとして、次のことを提案している。
『これから私たちが建設していかなくてはならない国際情報スーパーハイウェイ、いわゆるGH(グローバル・インフォメーション・ インフラストラクチャー)なのである。そこでは、 適切な規制管理が行われ、たとえ暗号解読などによる事故が起きても、保険で対処できるような制度が作られることになるだろう。有料ではあるが、安心して非公開情報を送れるということが、Gil の必要 条件なのである。』として、著書の、「インターネットの5年後を読む」を推奨している。
・1997年1月号(009)
今田高俊「「文理融合」のアプローチを目指して」
『 21世紀には、科学技術と人間社会の不調和が地球的規模で発生する可能性が、今にも まして強まるだろう。こうした中で、人類が地球環境と調和して生存していけるような経済活動、生活様式およびそれらの基礎をなす倫理・価値観の形成、といった課題に取り組むことが、ますます重要性を帯びつつある。この要請に応えるためには、「文理 融合」のアプローチという新たな方法を模索することが不可欠である。』(pp.34)
現代の諸問題は、「文理分業」という専門分野体制の隙間から零れ落ちているというわけである。
『似前からこうした問題点は認識され、「学際的協力」が盛んに」謳われたが、既存の専門分化した学問領域の独立性を大前提としていたため 切り取る現実の隙間をぬって発生する問題の対処には、ほとんど功を奏していない。』(pp.35)
と断言をしている。
『また、文理融合は、一般教養人ないしジュネラリストの育成を目指すのではなく、あくまで専門知識人ないしプロフェッショナルの育成を目指すために、されるべきである。教養主義に先祖帰りするような文理融合では、何ら現状の解決にはならない。文理融合の方法として、いくつかのアィデアが考えられるが、私は「意思決定」をキーワードにするのが有力な方法だと考える。』
『文理融合のアフローチが育成する人材は、地球環境問題、生命操作の問題、技術移転と文化摩擦の問題、大規模災害など、科学技術と人間社会の不調和に対し、高度な価値判断に基づいて的確な意思決定を導き出す方法や仕組みについて造詣が深く、不確実な状況のもと、クリティカルな事態に対して速やかな意思決定を下すことのできるネオ・リーダーで ある。』としている。理想的なメタエンジニアと思われるのだが、このような能力は将来のAIにしか持てないのではないだろうか。
・2001年10月号(062)
横山俊夫「よみがえる日本文明―江戸期日本のいのちのかたちを考える」
『文明とは気高い言葉である。 社会が精密に統合されているだけでは文明と呼べない。この語は東アジアの古典、『易』に出る。ものごとが天地人にわたり文(あや)を織りなし、安定して光明をはなつことを意味する。』
私は、この言葉が「文明」の真の姿だと思っている。中国と日本のすべての古代史の研究者は、このことを知っている。
『古典的な文明観にしたがえば、産業革命以来「文明」と称する社会は、その名に値する体をまだなさない。いずれも安定より変革、礼やシヴィリテより武断をこととして勝者のみ輝き、かかわったいのちの多くを闇に置いてきている。今世紀の人類の課題は、自ら手にした強過ぎる技術も含め、いかに地球規模の文明をもたらすかにある。』
このことが、げんだいの「文明」の真実なのだろう。そして、ここから本題に移る。
『江戸期の日本の人びとのいのちのかたちが示唆をあたえるかもしれない。消費も情報も細かに統制されながら、闇-色ではなかったからである。1859年英国刊の『エルギン卿遣日使節録』の中に浅草寺群集図がある。日英条約の交渉を終えた使節一行が浅草寺に出かけると、老若男女が境内にすきまもなく詰めかけた。その群集の「礼儀正しさ」と「明るさ」に驚いて描かれた図である。エルギン卿 は妻への手紙で、ヨーロッパではそのような振る舞いは莫大な富をつぎ込まねば身につかないと評した。』
そこから、江戸期の礼儀作法がいかに発達し、広まったかを、当時の文献で示している。「節用集」と「大雑書」というものだ。著者は、現在各地に残る当時の蔵書の、「手ずれ」のあとをスキャナーで調べて、どの部分が重用されていたかを克明に調べたとある。そこから、「文(あや)を織りなす」生き方が生まれてきた。
『さらにいえは、作法にせよマナーにせよ、言葉にたよる部分は各国千差万別であるものの、その基本動作の多くは人類のみならず類人猿にも共通である。 江戸期のいのちのかたちをゆるやかに整えた作法のありようを文明の核として見直すことは、人間が、 明るい安定社会への共同を、からだで表す生き物であることを確認することになるだろう。』と結んでいる。
・2006年3月(110)
森本公誠「シルクロード上の異文化間に通底する世界観について」
「グローバリゼーション」は、中国語では「全球化」と訳される」で始まる。筆者は、東大寺の別当職で、「華厳経」の世界観との一致をみる。
話は、仏教の起源から、アリーア族の宗教から、ゾロアスター教へと移り、そこからユダヤ、キリスト、イスラム教の教義の共有性に至る。そのような経緯から、世界各地に多様な神話が生まれた。
要は、世界観のながれであり、『進化のデザインは流れの効率化という観点で決まる」という指摘は、地球システムにおける安定な人間圏論の構築に向けて、試行錯誤していた筆者にとって、大いなるヒントを与えてくれた。地球における冷却と分化という進化の方向性に、その過程の具体的な意味を与えてくれるからだ。冷却とは熱というエネルギーの流れの存在を意味し、分化は物質の流れに関わる。』として、冒頭の命題に帰着している。そこから、著者独特の地球氏の流れの開設が始まっている。そして、結論的に次の言葉になる。
『冷却と分化という現象に共通するのは「流れ」である。冷却はエネルギーの流れであり、分化は物質の流れである。地球史は、最初に熱かった地球が、その熱を放出する過程で、物質の再分配を起こす流れの過程であった。分化は分岐であり、それは流れに特有な現象だ。生命も、原始的な原核細胞から、真核細胞に構造を変え、さらに多細胞化することで分化した。例えば、植物は効率よい揚水ポ ンプの形状を整え、動物は自らの運動能力を増し、エネルギー効率を高めるようにその形態を変え、現在の異なるさまざまな形態の生物種が生まれた。』単純化すれば、こうなる。(pp.485)
・2017年5月号(205)
長谷川真理子「知性の進化と科学技術文明の行方」
『この地球上で私たち入類は現在、巨大な文明を築き、地球史的に見ればほんの短い期間で、地球の環境を大きく変えるほどの影響力を手に入れた。これはみな、私たちが高度な知性を持っているかれである。では、この知性とはなんであろう。』で、総合研究大学院学長の話は始まっている。
ヒトは、社会生活への適応のために脳が発達し、「他社の状況を自分にあてはめ共感する力」を得たとしている。
『社会的知能に関して言えば 、ヒトは超好社会性である。ヒトは損得を超えて本質的に他者を助けたいと感じ、協力行動を快とする性質を備えている。その基盤にある性質のひとつが共感性である』
『ヒトは、文化を持ち、文化的環境に取り囲まれて暮らす動物である。文化とは何か? 行動生態学の定義では、遺伝子の伝達とは別に、ある行動が世代を超えて集団中に伝えられることである。この定義によれば、ヒト以外のいくつかの動物にも文化は見られる。しかし、 ヒトの文化が特徴的なのは、ある発明によって生まれたある文化が、その後に集団のメンバーによって 改良され、それが全員に共有されることにより、急速に蓄積的に発展していくことである。』
私は、このことを「文化の文明化へのプロセス」とした。メタエンジニアリングとの偶然の一致であった。
現代科学は、問題の内側では成功したが、問題の外側ではどうであったか、として
『しかし、科学技術も人間の好奇心と欲望を原動力として発展しているのであり、好奇心、と欲望はつねに「正しい」道を進むとは限らない。限定された「解ける」問題を解くことに長けた科学は、その内部では大成功だ。が、その問題の外にある問題は考慮しないので、その部分で多くの新たな不幸をもたらしている。その全貌をメタ的に考えられる人は誰もいない。』
確かに、現代の細分化された学問分野の中では、「全貌をメタ的に考えられる人は誰もいない」という結論しかありえない。メタエンジニアリングは、まだがくもんぶんやとしては認められていない。