その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(62)
「老子」 KMM3436
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
書籍名;「老子・列子」[1996]
訳者;奥平 卓 発行所;徳間書店
発行日;1996.5.3
初回作成年月日;H30.3.20 最終改定日;H30.3.23
引用先;メタエンジニアの歴史
日本では、孔子があまりにも有名で、老子の中身までを知る人は少ない。しかし、諸子百家の中で、もっとも深く自然を追求して、しかる後にそこから倫理や政治といった社会学を説く態度には、アリストテレスとの共通性を見ることができる。そこで、彼も歴史上のメタエンジニアの一人としたい。その理由は別途示す。彼の自然を優先し、しかる後に人為をなすの思想は、東洋思想の根源であり、西欧文明の後の次の文明の柱ともなる思想だと思われる。
成立の過程は、諸説あって明確ではない。
『老聃に対する疑惑をますます深めさせるのは「史記」(漢代の史家司馬遷の著、前90年ごろ成立)の老荘中韓国列伝である。(中略)
孔子はかつて老子と会見して、礼についての教えを請うたが、老子は、孔子の学問方法や態度に厳しい忠告を与えた。孔子は帰ってから、老子を竜にたとえて、これを讃えた。
老子の学間は、オ能を隠し、無名であることを旨とした。ながらく周に暮していたが、周の徳が衰えたのを見てそこを立ち去り、函谷関(一説に散関ともいう)に至った。そこで関令の伊喜に請われるままに上下二篇の書を著わし、道と徳の説を五千余言の文章にして立ち去った。その最期を知る者はだれもいない。』(pp.17)
このように。孔子は老子に注意をされるような立場だったのだが、日本での評価はなぜか逆になっている。
『老子の学説は、自然哲学から認識論、倫理説、さらには政治論から軍事論に至る領域を包括する。 老子はこの広壮な体系を、圧縮できる極限まで圧縮して、僅々五千字のうちに表現した。それはいかにして可能であったか。かれはいう。
「およそ、いかなる理論にせよ現象にせよ、それぞれに基本原理を持つものだ」(七+章) 老子は、この世界を支配している原理を徹底的に追究し、洗い出さずにはいなかった。そして極大の世界を動かす極微の法則をつかみ、簡約にして無限大な思想体系の構築に成功した。『老子』における原理とは何か。それは、自然と人間との両者に関する深刻な認識である。』(pp.25)
自然観としては、『老子の思想の根底にあるのは、冷徹な自然哲学である。かれは神の意志を信じなかった。自然は、不断に生起しては消滅していく非情な物理的自然として、把握されていた。
かれは自然を変化においてとらえようとし、宇宙間の事物の変化を通じて、そこに一定の通則を見出す。それは万物の根元、つまりあらゆる現象の背後にひそむ時空を超越した本体と、その運動法則とである。』(pp.25)
これは、アリストテレスの「自然学の後の学(すなわち形而上学)」に通じる。
続いて、人間観については、『老子にあっては、生命も物質もひとしく道の所産と考えられた。人間とてその例外ではない。 しかしながら、あらゆる存在のなかで、入間のみが自覚的存在であり、自己と世界との根本的な成立の根拠を自覚しうる。それゆえに、人間は、道・天・地と並んで、字宙間の四大のひとつに数えられた(二+五章)。』(pp.26)
これも、形而上学の存在論のはしりと思う。
さらに、倫理説では、『万物は、根元たる道から本性を付与されている。老子はこれを「徳」と名づける。おのれの徳を守り、自然を全うすること、そのとき、人間は、自在な道のはたらきと一体化することができる。
それゆえ、知の最上のありかたは、徳を自覚し、道を認識することである。それは、自己の内部へ向けられ、万物に内在する道を志向すべきもので、自己の外に向かい、事物の外面にとらわれてはならないものであった。
「知識を外に求めて、駆けずり廻れば廻るほど、ますます知識はあやふやになる」(四十七章)』(pp.27)
現代の中国においては、老子の考え方を唯物論的にとらえたり、観念論的にとらえたりされるという。しかし、その弁証論的な認識の方法については、一致して評価されているとある。いずれにせよ、老子を元とする道教は、現代中国では最大の宗教となっている。
老子の中でのもっとも有名な言葉は、「天網恢恢疎にして漏らさず」と思われる。
goo辞書には、『「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。』とある。一般的にはこう思われている。しかし、この著には、『天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、召さずしておのずから来き、繟然にして善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。』とある。第72章の漢文「天網恢恢、疎而不失」を読めば、そうなる。
Wikipediaの「老子」には、次の記述がある。『老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。』
このことから、老子は世捨て人のように思われがちなのだが、発想を変えれば、そこことは前述の「天網恢恢、疎而不失」に通じるところがある。また、このような社会は未開の社会と思われがちだが、「文徳をもって社会を明るくする」将来の理想的な文明ともいえるのではないだろうか。特に、人為よりも先ずは自然を深く考えることは、現代の西欧型文明の次の文明にとって重要なことだ。
「老子」 KMM3436
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
書籍名;「老子・列子」[1996]
訳者;奥平 卓 発行所;徳間書店
発行日;1996.5.3
初回作成年月日;H30.3.20 最終改定日;H30.3.23
引用先;メタエンジニアの歴史
日本では、孔子があまりにも有名で、老子の中身までを知る人は少ない。しかし、諸子百家の中で、もっとも深く自然を追求して、しかる後にそこから倫理や政治といった社会学を説く態度には、アリストテレスとの共通性を見ることができる。そこで、彼も歴史上のメタエンジニアの一人としたい。その理由は別途示す。彼の自然を優先し、しかる後に人為をなすの思想は、東洋思想の根源であり、西欧文明の後の次の文明の柱ともなる思想だと思われる。
成立の過程は、諸説あって明確ではない。
『老聃に対する疑惑をますます深めさせるのは「史記」(漢代の史家司馬遷の著、前90年ごろ成立)の老荘中韓国列伝である。(中略)
孔子はかつて老子と会見して、礼についての教えを請うたが、老子は、孔子の学問方法や態度に厳しい忠告を与えた。孔子は帰ってから、老子を竜にたとえて、これを讃えた。
老子の学間は、オ能を隠し、無名であることを旨とした。ながらく周に暮していたが、周の徳が衰えたのを見てそこを立ち去り、函谷関(一説に散関ともいう)に至った。そこで関令の伊喜に請われるままに上下二篇の書を著わし、道と徳の説を五千余言の文章にして立ち去った。その最期を知る者はだれもいない。』(pp.17)
このように。孔子は老子に注意をされるような立場だったのだが、日本での評価はなぜか逆になっている。
『老子の学説は、自然哲学から認識論、倫理説、さらには政治論から軍事論に至る領域を包括する。 老子はこの広壮な体系を、圧縮できる極限まで圧縮して、僅々五千字のうちに表現した。それはいかにして可能であったか。かれはいう。
「およそ、いかなる理論にせよ現象にせよ、それぞれに基本原理を持つものだ」(七+章) 老子は、この世界を支配している原理を徹底的に追究し、洗い出さずにはいなかった。そして極大の世界を動かす極微の法則をつかみ、簡約にして無限大な思想体系の構築に成功した。『老子』における原理とは何か。それは、自然と人間との両者に関する深刻な認識である。』(pp.25)
自然観としては、『老子の思想の根底にあるのは、冷徹な自然哲学である。かれは神の意志を信じなかった。自然は、不断に生起しては消滅していく非情な物理的自然として、把握されていた。
かれは自然を変化においてとらえようとし、宇宙間の事物の変化を通じて、そこに一定の通則を見出す。それは万物の根元、つまりあらゆる現象の背後にひそむ時空を超越した本体と、その運動法則とである。』(pp.25)
これは、アリストテレスの「自然学の後の学(すなわち形而上学)」に通じる。
続いて、人間観については、『老子にあっては、生命も物質もひとしく道の所産と考えられた。人間とてその例外ではない。 しかしながら、あらゆる存在のなかで、入間のみが自覚的存在であり、自己と世界との根本的な成立の根拠を自覚しうる。それゆえに、人間は、道・天・地と並んで、字宙間の四大のひとつに数えられた(二+五章)。』(pp.26)
これも、形而上学の存在論のはしりと思う。
さらに、倫理説では、『万物は、根元たる道から本性を付与されている。老子はこれを「徳」と名づける。おのれの徳を守り、自然を全うすること、そのとき、人間は、自在な道のはたらきと一体化することができる。
それゆえ、知の最上のありかたは、徳を自覚し、道を認識することである。それは、自己の内部へ向けられ、万物に内在する道を志向すべきもので、自己の外に向かい、事物の外面にとらわれてはならないものであった。
「知識を外に求めて、駆けずり廻れば廻るほど、ますます知識はあやふやになる」(四十七章)』(pp.27)
現代の中国においては、老子の考え方を唯物論的にとらえたり、観念論的にとらえたりされるという。しかし、その弁証論的な認識の方法については、一致して評価されているとある。いずれにせよ、老子を元とする道教は、現代中国では最大の宗教となっている。
老子の中でのもっとも有名な言葉は、「天網恢恢疎にして漏らさず」と思われる。
goo辞書には、『「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。』とある。一般的にはこう思われている。しかし、この著には、『天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、召さずしておのずから来き、繟然にして善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。』とある。第72章の漢文「天網恢恢、疎而不失」を読めば、そうなる。
Wikipediaの「老子」には、次の記述がある。『老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。』
このことから、老子は世捨て人のように思われがちなのだが、発想を変えれば、そこことは前述の「天網恢恢、疎而不失」に通じるところがある。また、このような社会は未開の社会と思われがちだが、「文徳をもって社会を明るくする」将来の理想的な文明ともいえるのではないだろうか。特に、人為よりも先ずは自然を深く考えることは、現代の西欧型文明の次の文明にとって重要なことだ。