生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(62)老子

2018年03月23日 08時18分44秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(62)
          
「老子」  KMM3436

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

書籍名;「老子・列子」[1996] 
訳者;奥平 卓 発行所;徳間書店
発行日;1996.5.3
初回作成年月日;H30.3.20 最終改定日;H30.3.23 
引用先;メタエンジニアの歴史



 日本では、孔子があまりにも有名で、老子の中身までを知る人は少ない。しかし、諸子百家の中で、もっとも深く自然を追求して、しかる後にそこから倫理や政治といった社会学を説く態度には、アリストテレスとの共通性を見ることができる。そこで、彼も歴史上のメタエンジニアの一人としたい。その理由は別途示す。彼の自然を優先し、しかる後に人為をなすの思想は、東洋思想の根源であり、西欧文明の後の次の文明の柱ともなる思想だと思われる。

 成立の過程は、諸説あって明確ではない。
 『老聃に対する疑惑をますます深めさせるのは「史記」(漢代の史家司馬遷の著、前90年ごろ成立)の老荘中韓国列伝である。(中略)
孔子はかつて老子と会見して、礼についての教えを請うたが、老子は、孔子の学問方法や態度に厳しい忠告を与えた。孔子は帰ってから、老子を竜にたとえて、これを讃えた。
老子の学間は、オ能を隠し、無名であることを旨とした。ながらく周に暮していたが、周の徳が衰えたのを見てそこを立ち去り、函谷関(一説に散関ともいう)に至った。そこで関令の伊喜に請われるままに上下二篇の書を著わし、道と徳の説を五千余言の文章にして立ち去った。その最期を知る者はだれもいない。』(pp.17)
 このように。孔子は老子に注意をされるような立場だったのだが、日本での評価はなぜか逆になっている。

『老子の学説は、自然哲学から認識論、倫理説、さらには政治論から軍事論に至る領域を包括する。 老子はこの広壮な体系を、圧縮できる極限まで圧縮して、僅々五千字のうちに表現した。それはいかにして可能であったか。かれはいう。
 「およそ、いかなる理論にせよ現象にせよ、それぞれに基本原理を持つものだ」(七+章) 老子は、この世界を支配している原理を徹底的に追究し、洗い出さずにはいなかった。そして極大の世界を動かす極微の法則をつかみ、簡約にして無限大な思想体系の構築に成功した。『老子』における原理とは何か。それは、自然と人間との両者に関する深刻な認識である。』(pp.25)

自然観としては、『老子の思想の根底にあるのは、冷徹な自然哲学である。かれは神の意志を信じなかった。自然は、不断に生起しては消滅していく非情な物理的自然として、把握されていた。
かれは自然を変化においてとらえようとし、宇宙間の事物の変化を通じて、そこに一定の通則を見出す。それは万物の根元、つまりあらゆる現象の背後にひそむ時空を超越した本体と、その運動法則とである。』(pp.25)

これは、アリストテレスの「自然学の後の学(すなわち形而上学)」に通じる。

 続いて、人間観については、『老子にあっては、生命も物質もひとしく道の所産と考えられた。人間とてその例外ではない。 しかしながら、あらゆる存在のなかで、入間のみが自覚的存在であり、自己と世界との根本的な成立の根拠を自覚しうる。それゆえに、人間は、道・天・地と並んで、字宙間の四大のひとつに数えられた(二+五章)。』(pp.26)

 これも、形而上学の存在論のはしりと思う。

 さらに、倫理説では、『万物は、根元たる道から本性を付与されている。老子はこれを「徳」と名づける。おのれの徳を守り、自然を全うすること、そのとき、人間は、自在な道のはたらきと一体化することができる。
それゆえ、知の最上のありかたは、徳を自覚し、道を認識することである。それは、自己の内部へ向けられ、万物に内在する道を志向すべきもので、自己の外に向かい、事物の外面にとらわれてはならないものであった。
「知識を外に求めて、駆けずり廻れば廻るほど、ますます知識はあやふやになる」(四十七章)』(pp.27)

 現代の中国においては、老子の考え方を唯物論的にとらえたり、観念論的にとらえたりされるという。しかし、その弁証論的な認識の方法については、一致して評価されているとある。いずれにせよ、老子を元とする道教は、現代中国では最大の宗教となっている。

老子の中でのもっとも有名な言葉は、「天網恢恢疎にして漏らさず」と思われる。
goo辞書には、『「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。』とある。一般的にはこう思われている。しかし、この著には、『天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、召さずしておのずから来き、繟然にして善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。』とある。第72章の漢文「天網恢恢、疎而不失」を読めば、そうなる。

Wikipediaの「老子」には、次の記述がある。『老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。』

このことから、老子は世捨て人のように思われがちなのだが、発想を変えれば、そこことは前述の「天網恢恢、疎而不失」に通じるところがある。また、このような社会は未開の社会と思われがちだが、「文徳をもって社会を明るくする」将来の理想的な文明ともいえるのではないだろうか。特に、人為よりも先ずは自然を深く考えることは、現代の西欧型文明の次の文明にとって重要なことだ。

その場考学との徘徊(39)王墓と直弧文との関係

2018年03月14日 10時56分07秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(39)         
題名;装飾古墳(15)

場所;奈良・岡山・熊本・福岡県  テーマ;古代王の墓    
作成日;H30.3.3 アップロード日;H30.3.14
                                                       
TITLE:王墓と直弧文との関係

 熊本県と福岡県で多くの装飾古墳と歴史博物館を見学した。特に、各地の歴史博物館には、最新の研究資料が豊富に置かれていた。私の目的は、文化と文明の関係について歴史をたどりながらメタエンジニアリング的に考えてゆくことにある。その中での最大の問題は、1万6千年も続いた縄文時代の文化が、現代日本の文明へと、どのように文明化していったかにある。私の定義では、1万6千年も続いた文化は、もはや「文明」である。
  
 文明とは、英語で言う都市化でも市民化でも、ましてや文字文化でもない。文明とは「文徳(武徳ではない)をもって、人間の社会生活を明るくしてゆくもの」と考えている。つまり、古代中国の易経のそれである。そのように考えると、大航海時代から産業革命を経て成長した現代の西欧科学文明は、文徳と武徳が半々であり、「半文明」となる。
 
ローマ帝国や唐帝国は、武徳により成立したが、繁栄期のそれは、ほぼ文明といえると思う。それでは、100%の文明は、過去にあったのだろうか。あった、それは日本の縄文文明であり、世界最長の文明だった。

 また、「文字文化」が文明の最大要素との考え方が一般的なのだが、私はそれについても疑問視している。現代の最新のコンピューター技術でも解読できない文字はもとより、現代においても世界中でお互いに読むことも理解することもできないの字が氾濫している。この状態は「文をもって、世の中を明らかにする」とは遠い状態だと思う。ちなみに、「漢字」だけは、読むことができなくても、理解することは可能なので、文明の一要素といえる。英語などは、宇宙人から見れば単なる記号の一つとなるだろう。

 世界文明には、必ず宗教がひっついている。それは、人類が他の動物との違いを明らかにする、ほとんど唯一のよすがになっていると思う。例え、人間の脳よりも優れた人工頭脳でも、宗教を持つことはできない。縄文時代の宗教は、アニミズムとよばれ、先祖崇拝、輪廻転生、精霊の宿る巨大な自然物崇拝などであろう。大きく分ければ、多神教ということになるのだが、現代社会では一神教よりは多神教のほうが、進んでいると考えた方が都合が良いことが多くなりつつある。一神教のほうが優れているという西欧的な考え方は、文徳ではなく武徳である。
 
このような考え方を前提として、「王墓と直弧文との関係」を考えてゆこうと思う。

 縄文土器の文様は、「縄文」である。現在でも土器を作り続けているニューギニアの部族は、「土器に描かれる文様には、宗教的な意味がある」と明言している。縄文は、二つの縄を色々なやり方で捩ったものと考えられている。それは、輪廻転生の代表の「蛇の絡みあい」を示しているとの学説が、多くの支持を得ている。私もそう考える。輪廻転生のもう一つの代表は、「お月さま」であり、満ち欠けの形や軌跡が、様々な文様となって、土器に記されている。勾玉は、その変形だともいわれている。つまり、新月から満月へ、満月がだんだん欠けてやがて闇夜になる変化は、連続的に示すと大空に描かれた勾玉形になる。この説明は、長野県富士見の井戸尻郷土館に、その地で発見された多くの縄文土器や土偶の展示とともにある。

土器は入れ物であり、土器の表面に描かれた文様は、中身を守るためと考えるのが自然であろう。いつまでも、そのままの質を保つ。あるいは、もっと素晴らしいもの(例えば酒)に転生してゆく、といった考えがあると思う。火炎土器が特殊だといわれるが、私には、火炎が中身を守るという意味において、特殊性は感じられない。

 もう一つ、中身を守ること、あるいは素晴らしいものに転生してゆくことを願うものがある。それが王墓だ。石棺の中や周囲には、本人が使用したり愛でたものが納められるが、その周りは「守るもの」に囲まれなければならない。その時には、1万数千年間伝わってきた縄文の思想が伝わっていると考えるのが自然な発想だと思う。墓ほど伝統文化が守られるべきものはない、といっても過言ではないと思う。現代でも、そのことは世界各地で保たれている。

 言葉や文様は、世代とともに変化をしてゆくのが常である。3世代も経てば、言葉が通じにくくなることもある。5世代前の言葉や文様は、かなりの変化を経ていると考えた方が自然だ。縄文と月も、三角の鱗や円や勾玉、メビウスの輪のように変化を続けた。

 直弧文は、部分的には直線と弧の組み合わせだが、全体としてみると、線の入った帯が複雑に絡み合っているが、帯は繋がっている。つまり、縄文文様が進化したものと考えることができるのではないだろうか。勿論、その目的は石棺の中身を守ることにある。

 そのことは、直弧文の塗り絵をすると一目瞭然となる。縄文をシンプル化した帯が、お月様の象徴である円を巻いている。まるで、蛇が絡みついているように。そして、ある部分は勾玉形のようにも見えてくる。



 通常の石棺の蓋には文様がない。しかし、石人山古墳の有名な石棺の蓋の文様は、明らかに埋葬された人物を守ることと、輪廻転生を願う心が示されている。それは、輪廻転生の原型である月(満月)と直弧文である。その上ご丁寧に、この直弧文には、上から×状の柵がある。浮き彫りになっているので、この×文は、直弧文が外れないようにしてある。だから浮き彫りにする必要があった。

 伝統文化の神髄は、周辺部に残るという学説がある。日本各地の廃村やさびれた神社には、古い思想や神像(仏像)が残されている。中央部や、人口密度の高い所での存続は不可能だ。磐井の乱のあと、吉備や大和は栄えたが、磐井の支配地域は取り残された。だから、伝統文化が残ったと考える。

 それでは中央部、すなわちヤマトや吉備ではどうであろうか。その時代の九州よりも古い時代にその証はあった。二つの著書に明言されているので、その部分を引用する。第1は、吉備の楯築神社のご神体の巨石である。

福本 明著「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」新泉社[2007]



『御神体との初めての対面である。近藤は、しばらくの間動けなかった。 「物をみて息をのむというようなことはそう滅多にあるものではない。帯を返し潜らせ巻きつけたような弧状の文様が線彫りで全面をおおっ ている。それは文旬なしに弥生後期の特殊器台の装飾を想起させた。驚くべき品だ」
このときのことを後に近藤はこう書き記している。御神体の不思議な文様を見た近藤は、即座に以前から埴輪の起源として研究を進めていた弥生時代後期の特殊器台の文様との類似を直感したという。ただ、後に述べるように、特殊器台は円筒形の周囲に帯状に描かれた平面的な文様であるのに対し、この御神体の文様はひとかかえ以上もある大きな石の表面全体に立体的に描かれており、ダイナミックさにおいてくらべものにならないものがあった。』(pp.7)とある。

また、この石には顔が描かれており、『顔だけを出し、体全体を帯で幾重にもまかれている姿にみえる人物が、はたして楯築弥生墳丘墓に葬られた首長自身であるのか・・・。』(pp.65)とある。

 この石の文様は、弧状をなす帯が複雑に絡み合っているとして、「弧帯文石」と命名された。ご神体の時代推定は難しかったが、その場所に80メートルの古墳があり、発掘調査で同様の文様の石が発見されて、弥生時代後期のものと比定された。その古墳にある祠は、いくつもの巨石で囲まれている。

 また、森浩一編集「日本の遺跡発掘物語4 弥生時代」社会思想社 [1984]には次の記述がある。



『纏向遺跡は大和平野の東南部で、ちょうど神体山の三輪山の西北方に広がる微高地に営まれた古墳時代前期を盛期とする集落跡である。 この地域には古墳時代前期の巨大前方後円墳として知られる箸墓古墳をはじめ西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳などが東辺に群集し、三輪王明ともいわれる初期ャマト政権の本拠地と考えられているところ。

この遺跡の調査はいまも断続的に続けられているが、一九七一(昭和四六)年から七五(昭和五〇)年の発掘調査で、石塚古墳から古墳時代前期初めの土器にまじって、木の円い板に弧線と直線の組み合わせで文様化した弧文円板と呼ばれる木製品が出てきた。この文様が、楯築神社のご神体にある文様と非常に似ているのである。 どちらが祖型で、どちらが影響を受けたのかによって、巨大前方後円墳成立の過程が変わってくるし、ひいては古代政治のあり方にもかかわる重大な問題である。』(pp.152)
と記されている。

 また、別の例としては、
『吉備の特殊器台土器の外周を飾る線刻文様は勾玉形(巴形)や三角形の透し孔をもつ特異なものであるが、、なぜこの文様でなければならないかがわからなかった。ところが弧文円板の文様分析によって勾玉形の孔は文様構成上、必然的に生じることが判明した。この勾玉形は弧文円板から特殊器台へ、という流れの方向が決定したとしている。 楯築神社の龍神石(亀石)の文様については、文様に一定のパターンがみられず、構図上の法則性も認められないが、細部に円板と共通するところが多い。細部の文様比較論ははぶくが、宇佐、斎藤 両氏は「亀石の作者は勾玉形の意識はなかったにしても弧文円板の趣きをイメージでとらえ、吉備において再現を試み、その間の記憶の減退を創造力で補って、吉備的直弧文をたぐいまれな石の造形にたかめたのである」とする。』(pp.154)とある。
 しかし、著者の森氏は、大和と吉備では文化が異なっており、「断定できない」としている。

 いずれにせよ、大和と吉備で一時期だか大古墳に用いられた直弧文が、その後はその地方では見られずに、ほぼ1世紀を経て、九州王朝の墳墓に見られるようになったことは、「文化の神髄は周辺部に残る」ことを示している。
 著作に載っているそれぞれの写真は、著作権がありここでは示すことができないのだが、これらの文様は明らかに同じ思想に基づいて描かれている。


八ヶ岳南麓の24節季72候 春六題(寺田寅彦随筆集より)

2018年03月13日 09時23分01秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
春六題(寺田寅彦随筆集より)
                                                            
 私のブログは、「生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました」を副題にしている。その中のカテゴリーの一つが、「八ヶ岳南麓の24節季72候」だ。このシリーズを書き始めたのは18年前で、当時はまだブロブは存在しなかった。そこで24プラス72で96項目を小冊子にまとめ、デザイン・コミュニティー・シリーズの第4巻として、平成23年3月23日に発行した。



だから、このブログのカテゴリーは正しくは、その続編になる。
https://blog.goo.ne.jp/hanroujinn67/e/23a4bc39e60204a522a7a3f465d8edc7

初版の冒頭には次の文章がある。「優れた設計者は自然に学ぶ、だから自然に親しむ心が大切だと思う。設計者の頭の中は、寝ても覚めても設計のことでいっぱいな時がある。そんなときの休養は自然の中に身を置くことが一番良い。多くのひらめきを感じることもあるが、心のリフレッシュは人生の楽しみを色々と与えてくれる。
 
私が、八ヶ岳の南麓に小さなログハウスを建てたのは、21世紀の初頭、2001年の夏であった。そこで、「一紀荘」(私と妻の名前の一文字でもあるのだが)と名付けた。標高は、1130m、唐松と白樺を主とする落葉樹の森の中なので、夏は涼しく快適であり、冬はすべての葉が落ちて富士山や甲斐駒、北岳が朝日に輝くところを楽しむことができる。

 つまり、設計(デザイン)と自然の結びつきを語ろうとしたのだが、これがなかなかに難しい。そんな時に、この書を見た。
「寺田寅彦随筆集」[1947] 岩波書店 1947.2.5発行



寺田寅彦は戦前を代表する日本の物理学者なのだが、夏目漱石との交友が密で、「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルともいわれるそうだ。
 
この随筆集は、岩波文庫として1947年に発行されているのだが、私が読んでいるのは2011年に印刷された第97版だった。物理学者の著作としては、抜群の長寿と版数だ。その中に、「春六題」と題する短文がある。春の自然と物理学の出会いが語られているので、そこから、冒頭の言葉と、結びの文章を引用する。

第1題は、『暦の上の季節はいつでも天文学者の計画したとおりに進行してゆく。』ではじまり、当時はやりだして間もない、アインシュタインの相対性理論に言及して、『だれでもわかるものでなければそれは科学ではないだろう。』で結んでいる。

第2題は、『暦の上の春と、気候の春とはある意味では没交渉である。』で始まり、平均気温論を述べたあとで、『流行あるいは最新流行という衣装や化粧品はむしろ極めて少数の人しか付けていない事を意味する。これも考えてみると妙なことである。新しい思想や学説でも、それが多少広く世間に行き渡るころにはもう「流行」はしないことになる。』で結んでいる。

第3題は、『春が来ると自然の生物界が急ににぎやかになる。』ではじまり、桜の開花日に言及した後で、『眠っているような植物の細胞の内部に、ひそかにしかし確実に進行している春の準備を考えるとなんだか恐ろしいような気がする。』で結んでいる。この文章は、大正10年に書かれているのだが、このころも桜の開花日は話題だったことがうかがえる。

第4題は、『植物が生物であることは誰でも知っている。しかしそれが「いきもの」である事は通例だれも忘れている。』で始まる。これには大いに異論がある。八ヶ岳南麓の本格的な春の始まりは、5月初旬になる。その時の大木の芽吹きのスピードは、犬の毛が生え代わるどころの騒ぎではない。さらに短期間で花が咲き実がなり、膨大な数の子孫を増やす。私は、動物よりも植物に生きる力の強いさと、変化のスピードを感じる。彼は、『ある度以下の速度で行われる変化は変化として認める事はできない。これはまた吾人が個々の印象を把持する記憶の能力の薄弱なためとも言われよう。』としている。

第5題は、『近年急に年をとったせいか毎年春の来るのが待ち遠しくなった。』で始まる。大正10年で彼はまだ40歳だ。私は70歳を過ぎて同じ考えを持ったので、日本の健康寿命の急速な伸びに感謝。ちなみに彼は57歳で亡くなっている。ここでは、『物質と生命の間に橋のかかるのはまだいつのことかわからない。』とか、『生命の物質的説明という事からほんとうの宗教もほんとうの芸術も生まれて来なければならないような気がする。』としている。近年、遺伝子の全容が明らかになって、「生命の物質的説明」はほんの少しだけ進んだのだろう。しかし、命の解明は、まだいつのことかわからないと思う。

第6題は、『日本の春は太平洋から来る。』ではじまる。太平洋高気圧に押されて沸き上がる雲の動きを解明しようとしている。『磁石とコンパスでこれらの雲のおおよその方角と高度を測って、・・・。(中略)高層の風が空中に描き出した関東の地形図を裏から見上げるのは不思議な見物であった。』としている。

 いずれの項も、素直に発想の連続的な転換が容易に理解できるので、聊かの安心感を覚えた。


メタエンジニアの眼シリーズ(61)「寺田寅彦全集 第5巻」[1997]

2018年03月12日 10時20分03秒 | その場考学との徘徊
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(61)
          
「寺田寅彦全集 第5巻」[1997]
著者;寺田寅彦 発行所;岩波書店    1997.4.4発行
初回作成年月日;H30.3.11  最終改定日;

引用先; 「メタエンジニアの歴史」



 近代日本のメタエンジニアの第1人者は、寺田寅彦だと思う。物理学者をメタエンジニアと呼ぶことには、聊か違和感があるかもしれないのだが、それには、私なりのエンジニアの定義がある。

エンジニアとは、「エンジニアリングセンスをもって、世の中の役立つモノやことを創造する人」である。寺田寅彦は、夏目漱石の一番弟子といわれるほどの文筆家であり物理学者でもあった。その彼は、常に、現実社会を見つめ続けて、「寺田物理学」という学問を創造した広義のエンジニアだと思う。また、メタエンジニアである所以は、彼の「科学者と芸術家」の中に如実に表れている。

更に、『厳密な意味の孤立系が存在しないのに物理学は現象の予報をしようとする。「自然現象の予報」においては、関係する条件が多い上に制御は一般にできないので、主要な少数の条件を選んで他を無視するほかなく、選んだ条件も十分な測定は難しいから、予報はいきおい近似的とならざるを得ない。』と主張していることは、まさにメタエンジニアリングの出発点のMiningにおける「潜在する課題」が、物理学にとどまらずにすべての学問分野に存在することも示唆していると思う。

彼の広範囲に及ぶ著作の中から、全集第5巻のメタエンジニアリング思考がよく表れていると感じる二つの短編を選んだ、「科学者と芸術家」、「漫画と科学」である。

「科学者と芸術家は、次の文章で始まっている。
 
『芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感を抱くものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念を抱いているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉から直ぐに不道徳を聯想する潔癖家さえ稀にはあるように思われる。
科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相容れぬものであろうか、これは自分の年来の疑問
である。 夏目激石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と噌好を完全に一致させ得るという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。』(pp.239)

 この言葉は、大正10年に「電気と文芸」という書に投稿されている。現代とは多少異なる環境なのだが、専門家の中では、このような感覚が残っているように思われる発言がたまにはある。

 『衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見出し難いように思われる。(中略)
 芸術家の生命とする所は創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でなと同様に、他人の研究を繰返すのみでは科学者の研究ではない。勿論両者の取扱う対象の内容には 、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなりの共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であって、その中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見出そうとするのであるのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑もないことである。』(pp.260)

 さらに進んで、こうまでも言っている。
『科学者と芸術家とが相逢ーて肝胆相照らすべき機会があ?たら、二人はおそらく会心の握手を交すに躊躇しないであろう。二人の目差す所は同一な真の半面である。
世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いょうである。しかし科学者には科 学者以外の味わう事の出来ぬような美的生活がある事は事実である。例えば古来の数学者が建設
した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人問の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則は勿論、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺戟する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉し難いような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、・・・・。』(pp.261)

 さらにまた、科学者は客観的、芸術は主観的という紋切り型の考え方も否定して、科学者の主観性を強調している。また、観察力と想像力も両者に共通する必須の感覚であるとしている。とくに、科学者の直観力と、芸術家のインスピレーションの重要性は類似のことである。

「漫画と科学」

 この文章も、大正10年に「電気と文芸」という書に投稿されている。「漫画とは」という定義に始まっているのだが、大正時代と現代との漫画に対する根本は変わりがないように感じる。

 漫画の表現は、『一方において特異なものであると同時に他方ではその特徴を共有するーつの集団の普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する事になる。こういう対象の取扱い方は実に科学者がその科学的対象を取扱うのと著しく類似したものである。』(pp.280)として、現実社会の中の「普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する」ことにおいて同じであるとしている。

 また、『例えば物理学者があらゆる物体の複雑な運動を観察して、これを求心運動、等加速運動、正弦運動などに分解してその中のーつを抽出し他を捨象する事によって、そこに普遍的な方則を設定する。物理学教利書にある落体運動は日常生活において目撃するあらゆる物体の落下にそのまま適用するものではない。空気の抵抗や、風の横圧や、 周囲の物体より起る不定な影響を除去した時に始めて厳密に適用さるべきものである。そしてこれらの第二次的影響の微少なる限り近似的に適用するものである。それでこの種の方則は具体的事象の中から抽象によって取り出された 「真」の宣言であって、それが真なるにもかかわらず、実際に日常目撃する現象その物の表示ではない。
優れた観察力をもった漫画家が街路や電車の中で十人十色の世相を見る時には、複雑な箇体が 分析されて、その中のある型の普遍的要素が自ずから見出される。そしてその要素だけを抽象し、 それを主として表現するために最も有効な手段を選ぶのであろう。その表現の方法は「術」であ るかもしれないが、この要素をつかみ出す方法は「学」の方法に近いものである。』(pp.260)
 さらに文末では、一般的に、「絵画に対する漫画の位置」と、「文学に対する落語や俳句の位置」を「にたところがないでもない」としている。

解説;

 「寺田物理学」という言葉を用いて、
『寺田の考察は、誤差のない測定はないこと、バネの弾性が過去の扱いによるなどの履歴現象があること、気体の圧力が分子の衝突に起因して常に揺らぐことへと広がって、再び「厳密な意味において普遍的な正確な方則が可能であろうか」と問うことになる。

厳密な意味の孤立系が存在しないのに物理学は現象の予報をしようとする。「自然現象の予報」においては、関係する条件が多い上に制御は一般にできないので、主要な少数の条件を選んで他を無視するほかなく、選んだ条件も十分な測定は難しいから、予報はいきおい近似的とならざるを得ない。』と書かれている。


その場考学との徘徊(38)博多から東西南北へ(その6)再び北へ

2018年03月09日 12時45分33秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(14)
場所;福岡県  テーマ;古代王の墓    

作成日;H30.3.7 アップロード日;H30.3.9
                                                       
TITLE:博多から東西南北へ(その6)再び北へ

 熊本県と福岡県の各4日間の一人旅で、多くの装飾古墳と歴史博物館を見学した。今日は最終日で福岡空奥から羽田へ帰るだけだ。しかし、歳よりは朝が早い。5:30に起床をして、午前中の計画を練った。
JRで数駅北へ行くと、香椎の宮と筥崎宮がある。両方の歴史を比べると、内容はかなり異なり、先ずは香椎の宮へ行くことにした。
6:30からの朝食、今回ロビーに新聞があったのは二日市のみ。最近のビジネスホテルは安値競争なので仕方ない。フロントで新聞を買った。

 博多駅前のこのホテルは一昨晩泊まった1号館は高級感が売りらしくフレンチ風だったが、今朝の2号館のバイキングは一転して居酒屋風。客質も当然異なって見えた。




7:52 博多発鹿児島本線で、8:05 香椎着。ここで香椎線(宇美行)への乗り換え時間がたっぷりだったが、なんとその間電車は駅に止まっていた。どうも増結車両を外しているようだ。久しぶりののんびり気動車だ。
  香椎線の地図が車内にあった。反対方向は「海の中道」まで行っている。帰りに寄ってみよう。



香椎神宮は、無人駅だったのは意外。駅より徒歩約4分で大鳥居がある。わかりやすい場所だ。



     


駅は質素だったが、神宮の境内はやはり立派だった。池があり、石橋を渡り、階段を上ってゆくと全貌が彰隆になって来る。早朝なので、人気はない。神主が一人、ご神木の横で。四方まいりをしていた。このご神木には、新古今和歌集の歌碑が添えられている。






ご神木のわきには「武内の宿祢の像」がある。赤ん坊を抱いているのは、神功皇后がこの地で懐妊し、船団
を率いて三韓征伐を行い、帰国後に誕生したという「応神天皇」なのだろう。





拝礼を済ませて奥へ向かう。かなり離れたところに昔の痕跡があるようだ。
この神宮は、他の神社とは異なり天皇を祭る「廟」であるという。云われは,谷川健一編
「日本の神々-神社と聖地-1」白水社[2000]の文にこのようにある。

『香椎宮は『古事記』では「詞志比宮」、『日本書紀』では「橿日宮」として、神功皇后伝説とともに記録に登場する。神功皇后伝説は北九州の海神信仰に由来すると思われるが、北九州沿岸一帯にこの伝説が多いのは、海女たちの定住を物語るものであろう。香椎宮から博多湾をへだてた西方海上には志賀島があり、『三代実録』の貞観十八年(八七六)には「香椎廟宮毎年春秋祭日志賀嶋日水郎男十人女十人奏風俗楽」とみえて、香椎宮の祭に古くから志賀島の海女(白水郎)が参加していたことが知られる。この地もまたこうした海人族をつうじて、海外と深いつながりをもっていたと推定されるが、このことは香椎宮の起源や性格を考えるうえでとくに重要であろう。

香椎宮は、記紀によれば、盤征伐のために九州におもむいた仲哀天皇、神功皇后が仮宮(本営)を置いたところであり、仲哀天皇が新羅を討てとの神託を受けながらそれを信じなかったため急死したとう、新羅征討伝説の発端をなす場所である。社伝によれば、養老七年(七二三)の神託により、九国に課役して大廟を香椎の地に造営し、よって香椎廟と称したという。』(pp.128)
とある。その仮宮跡が神宮の裏手にある。




更に、住宅地の中を進むと「武内宿祢の不老水」がある。彼は300歳の長寿だったと云われている。





一廻りをして香椎神宮駅へ戻る。



列車先ほどのJR香椎駅を超えて、海の中道駅に着く。
ここでは、一転して若いカップルが多く、皆水族館に入っていった。こちらは海と対岸の博多を眺めて
  



玄界灘を見るつもりが、広大な遊園地に阻まれて、入場料を払わなければみることができない。仕方なく反対方向の対岸の博多の街並みを見ることにした。
 
春霞に少しかすんで肉眼ではよくわからない。こんな時にデジカメは便利だ。眺望遠で寫してコントラストを上げるだけでよい。学生時代の旅を思い出した。一眼レフの本体を2つ持ち、一方にASA100のフィルム、もう一方は、使用期限の短い赤外線フィルムを入れて、レンズも数本持ち歩いた。しかし、歳をとるとその方が趣があって、数倍楽しみがあるように考え込んでしまう。







その場考学との徘徊(37) 博多から東西南北の古代遺跡へ(その5)西へ

2018年03月07日 15時36分25秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(13)
場所;福岡県  年月日;H30.2.18

テーマ;古代九州王国     作成日;H30.3.2 アップロード日;H30.3.7                                                       
TITLE:博多から東西南北の古代遺跡へ(その5)西へ
 
博多から西へは、地下鉄の延長で唐津までのローカル線を楽しんだことがあるのだが、今回は波多江という駅で下車した。そこは、海辺のリゾート地となってしまった糸島半島の付け根の中央部で、全体が伊都国ブームになっているという。伊都国は魏志倭人伝の国の一つとしての認識しかなかったのだが、どうやら邪馬台国よりも重要な国だった、との話に興味をそそられ出かけることにした。

目的は翌日に伊都文化会館で終日おこなわれる「第4回伊都国シンポジウム、伊都国人と文字」というシンポジウムを聞くためなのだが、今日はその予習として、この地の「伊都国歴史博物館」を訪ねることにした。
 昼食後に出発して2時過ぎに波多江着。やはり、バス便は当分なく、仕方なくタクシーに乗った。運ちゃんは親切で終始観光案内に夢中。途中に古墳やら名所があり、そこへ寄りたいようだったが、こちらは歴史博物館で少しでも多くの時間を過ごしたい。乗車前に聞いたとおりに¥1500で到着。



歴史博物館は、予想通りに田舎の畑の中にしては規模が大きく、見所が多くあった。しかし、何よりも、帰りのバスが心配で先ずはそれを確認。幸い、少し歩けば丁度良い便があった。




受付には、多くの関係冊子があり、目移りがするほどだったが、中の一冊「伊都国の王都を探る」という記念特別展のかなり厚い冊子を求めた。中身は4章に分かれており、古代の地形と地政学から始まり、発掘物から、かなり豊富な推論が示されていた。つまり、魏志倭人伝当時の海外交流の中心地だったというわけである。古代伊都国の交易の場としての繁栄は、どうやら現在とは地形が違ったらしい。海面が今よりの高く、入り江が沢山ある。
 残念ながら、ここでもすべての展示物も説明も撮影禁止。仕方なく、最上階の休憩所に併設の図書置き場の本を眺めた。




2時間弱のゆっくりとした見学の後で、博物館を出て歩き始めた。学校のわきを抜け、橋を二つ渡る。「高祖」というバス停はすぐに見つかった。




目の前に神社と城跡があるので覗いた。看板を見て驚いた。続日本記によれば、この城は天平勝宝時代に大宰府の長官だった吉備真備が作った山城だそうだ。当時はかなりの規模だったことが書かれているが、今は面影がない。




1日5本のコミュニティーバスは時刻通りに来たが、案の定他に客は無し。先ほどの波多江をとおり、
肥前前原の駅前までの道中、地元が長い運ちゃんはいろいろと教えてくれた。糸島半島から博多までの帰路はこの道しかなく、土曜日の夕方の反対車線は延々と大渋滞だった。夏のシーズンにはさぞ大変なのだろう。




 翌日は10時からのシンポジウムだ。参加者は地元の超お年寄りが90%だろうか。市長さんの地元自慢から話が始まった。
 講演は大学教授(元、現、準)が数名、交代での発表で話は面白かった。
・伊都国から日本の古代を考える
・伊都国の外交
・対外交渉における文字使用
・博多湾沿岸における文字資料
・最近の邪馬台国研究と文字文化
といった題名であった。




今日のメインテーマは、最近発掘された当時の硯の半分の欠片から始まったようなのだが、果たしてそれが文字使用にどうつながるのかは、正直分からなかった。通過した中国か朝鮮人が割れたので置いていったとも考えられる。いや、その方が自然だ。彼らが旅の途中で日記などを書くには、硯の携行が必須だったはずだ。一方で、当時の伊都国人が本当に文字を使用していたのならば、鏡の文様だけではなく、当時の土器や古墳にも書き残されているのではないだろうか。文字は記録を残すためのものなのだから。硯硯の数も、一人に一つ必要であり、相当なくてはならない。



地元のお年寄りには大うけなのだが、私にとっては、なんとなく、しっくりといかないシンポジウムの講演であった。

その場考学との徘徊(36)博多から東西南北の古代遺跡へ(その5)北へ

2018年03月04日 05時43分58秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(12)
場所;福岡県  年月日;H30.2.17

テーマ;古代九州王国     作成日;H30.3.2 アップロード日;H30.3.5
                                                       
TITLE:博多から東西南北の古代遺跡へ(その5)北へ
 
博多から北の古代遺跡とは、言わずと知れた三女神をまつる世界遺産の宗像大社になる。総社である辺津宮、沖合7kmの大島にある中津宮、そして沖合60kmの沖ノ島なのだが、今回は足の便がなく辺津宮のみとした。
 博多から宗像大社への交通機関は二通りある。天神からの直通バスとJR東郷駅からの路線バス。土曜日の前者は7:50発で8:47着の便がある。当初はこれを計画したが、前の晩に計画を変更した。

 宿泊したホテルは、博多駅前。朝食のバイキングはフランス人と思しき若い女性が一人ずつ席に案内するという本格的なレストランだった。まだ暗いうちからの通勤の車を眺めながらの朝食だった。




 直通バスの出発は、天神にある日銀の前の停留場とある。つまり、地下鉄で3駅行き、そこから道路わきで待たなければならない。JR快速の博多発は7:28なので、この方が余裕をもって朝食を楽しむことができる。若いフランス人女性も、客案内とテーブルセッテッングをごく自然に繰り返していた。



 列車は定刻に発車し、ビル街の高架を抜け鉄橋に差し掛かった。朝日が川面を照らしていて眩しいほどだ。しかし、突然に停車をした。「この先の線路内に人が侵入しました」との放送で、10分ほど停車の後に、もよりの駅に着いた。ところがそこで、「人身事故のためしばらく停車をします」の放送。



向かい側のホームには、特急列車も止まってしまった。暫くして、「事故は7:20に発生、現場検証後の運転再開は9時の見込み」との放送。結局動き出したのは9;06。1時間46分という停車は東京ではちょっと長すぎる。



 東郷駅発の路線バスは、1時間に1本。土曜日の8,9時台のみは2本ある。予定では、8:08発だったが、運良く9:33発に間に合った。列車内に観光客が大勢乗っていたが、列車到着から1分足らずで発車してしまったので、車内はガラガラ。駅構内を走ってよかった。まだまだ観光立国には、情報網の不備が多すぎる。




 大社に到着後すぐに拝殿に向かった。そこでは、何やら巫女さんと楽師が打ち合わせや練習をしている様子がうかがえた。社務所でお守りを買うついでに、巫女さんに尋ねると、「11時から祈年祭が行われます」とのこと。それまでに、宝物館をはじめとして境内をめぐることにした。




 神宝館はガラガラだった。聞くと「団体の人は、時間がかかるのでこちらには来ません。」
おかげで、NHKの4KのVIDEOを含め、ゆっくりと見学することができた。宝物の数はすさまじい。
沖ノ島の祭祀は、はじめ磐座として岩の頂上で行われ、そこがいっぱいになると岩陰に、次にだんだん岩から離れてゆく。だから時代が良くわかるそうだ。多数の金細工が露天で千年以上も放置されたいた日本の文化に改めて、敬服する。




勅使の植えた記念樹が整然と並んでいる。遣唐使が出るたびに祭祀をやったとかで、唐が滅びると祭祀もできなくなったとか。




11:00に拝殿に戻って、「祈年祭」をじっくりと見学。宮司の拝礼時には、一般客も皆起立。祝詞言上中は目礼のまま。ちなみに、この祭礼は神社のどの説明書にも載っていない。神宝館の人も知らなかった。




巫女さんの舞も堪能できた。終わって下がるときには撮影サービスまで。



 ところで、古代日本は海洋大国だ。そのためか、摂社の数は途方もなく多く、社殿の裏には摂社の社が延々と並んでいるのだが、一つの祠に   5~7社が祭られている。神社の名前が皆違っているのが面白い。




入り口の社務所では、干支である犬の多種類の置物が並んでいた。自分の干支なので一つ買おうとしたら、なんとこれらすべては、おみくじの賞品だった。
この社のおみくじは特等から30等まで並んでいるのだから、すさまじい商魂だ。



 門前の饅頭をひとつほおばって、バス停へ。




一つ120円のよもぎ餅だが、石段の端に腰かけて、
のどかな風景を愛でながらの小腹こしらえには合っている。










その場考学との徘徊(35) 博多から東西南北の古代遺跡へ(その3)東へ

2018年03月03日 07時36分06秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(11)
場所;福岡県  年月日;H30.2.16
テーマ;古代九州王国     作成日;H30.2.28 アップロード日;H30.3.3
                                                       
TITLE:博多から東西南北の古代遺跡へ(その3)東へ

 二か所の古墳と歴史館を見て広川というICに戻る。再び九州自動車道を30分ほど走り、大宰府や博多を通り越し東へ向かう。途中のSAで昼食をとるのもよい。メニューは勿論博多ラーメンだ。




博多を過ぎると、山間部に入り若宮というICで降りる。目的地はそこから5分程度の「竹原古墳」だ。ここは、もっとも有名な装飾古墳の一つで、文様ではなく独特な絵画が描かれている。しかも、常時開放。

先ずは、事務所によって料金215円を払う。すると、市の教育委員会の説明員の話を聞くことができる。この古墳は、一部が神社の建物のために削られていて、全貌は見ることはできないが、その代わりに玄室に直接入ることができるので、石室の見学には都合が良い。






蛍光灯で照らされた石室の正面には、こんな絵が描かれている。其れぞれの図柄の解釈は、次のようにされている。



① さしば;行列時の日よけに用いる団扇状
② 波形文;左右対称なので唐草文とも
③ 馬を牽いた人物;ズボンと靴に特徴
④ 龍;口から火を噴いている



また、入り口の岩には「朱雀」と解釈されている絵があるのだが、これはなかなかに解釈が難しい。



石室から出て、隣の神社にお参りをして事務所に戻る。この建物は、若宮市身体障碍者福祉協会が経営する陶芸の場でもあった。古墳の発掘時の話などを聞きながら中を見学させていただいた。数人の方が、それぞれの作業を分業されていた。製品は数種類だが、そのなかに件の絵を映したものがあった。私が好きな織部の緑を感じる出来栄えで、300円という安価がもったいないほどだ。



その場考学との徘徊(34)装飾古墳(10)

2018年03月02日 06時50分01秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(10)
場所;福岡県  年月日;H30.2.16

テーマ;古代九州王国     作成日;H30.2.28 アップロード日;H30.3.2
                                                       
TITLE:博多から東西南北の古代遺跡へ(その2)南へ
 
大宰府から九州自動車道を30分ほど走ると広川というICがある。その両側に有名な古墳が存在する。いずれも「磐井の乱」と関係が深い有名な装飾古墳だ。

磐井の乱とは、527年(継体21年)に起こった、大和朝廷と九州王朝間の大戦争で、朝鮮半島南部へ出兵しようとしたヤマト王権軍を親新羅だった筑紫君磐井が阻もうとしたとされている。この乱を境に九州王朝が衰退して、大和朝廷が確立する。

この二か所に行く路線バスはない。仕方なく二日市でレンタカーを借りた。驚いたことに、この店のお向さんは、私とは聊か縁のある日本経済大学の本拠地だった。広大な敷地は、ゆうに天満宮と国博の敷地を上回る。English Gardenが有名なので覗いてゆくことにした。見事な白鳥の湖と典型的な英国の田舎の庭があった。







第1の目的地の「こふんピア広川」は目立った建物ですぐにわかった。客はおらずに、庭作業をしていた係の人が、仕事を中断して終始説明をしてくださった。




ここでは、いろいろな装飾文様の研究が盛んにおこなわれている。「直弧文命名100年記念行事」だそうだ。その直弧文で最も有名なのが、この石人山古墳の石棺だ。一目では複雑さは分かるのだが、どういう文様かわからない。しかし、丁寧な説明がそのことを解消してくれた。




 この文様は見事な浮き彫りになっており、美術的にも高い評価を受けているのだが、次のような塗り絵をすると、見事な幾何学模様が浮かび上がる。つまり、一本の筋の入った帯が複雑に絡み合っているのだ。
これについての定説はまだないのだが、私なりに考えてみようと思っているので、別途ご紹介する。



 この見事な浮き彫り彫刻は阿蘇山の噴火のおかげなのだ。凝灰岩の説明が続く。




ところで、ここは山ではなく、平地のど真ん中だ。それなのに,何故「山」なのか。古墳の後円部には「石人さん」という祠がある。拝まれていた主は脇腹に朱色が残っている見事な石人で、その「さん」が「山」になったとの説明があった。




 そこから東に向かって走り、高速道路を超えたところに、次の目的地の岩戸山古墳がある。ここに併設されている歴史館は広大な建物で、中の展示も充実している。全体を「いわいの郷」と称している。



先ずは、ヴィデオだ。磐井の乱そのものよりは、その後の歴史を知らしめようとしている。「九州豪族から大和の臣下へ」、「磐井の末裔たち」、「古墳時代終焉の序章」といった展示が続く。

石像の展示も一層華やかに行われている。長い年月の風雨によって、凝灰岩がどれほどの浸食を受けるのかについての説明はなかったが、いずれも埴輪に比べて力強さ、特に意志の強さを感じた。縄文文化と結びつけるのは無理なのだろうか。



建物の裏手には、巨大な前方後円墳がある。そこが石像の本来の位置なのだ。古墳全体を守っているといわれている。なさに、戦いに敗れた磐井の君の墓に相応しい雰囲気を感じた。



古墳を半周して、一旦敷地を出て住宅を数件過ぎたところに小さな円墳がある。そこは、だれでも自由に出入りができるようになっているのだが、小ぎれいに整備されている。誰気兼ねなく内部を観察することができる。我々が学生時代だった昭和40年代の前半には、こういった古墳が奈良盆地のあちこちにあったことを思い出す。




少し前に、「古墳ブーム」という言葉を聞いた。専門家が十分な学術調査を終えた古墳は、もう少し自由に接近して観察する機会を一般人に与えてもよいのではないかと思う。ただ柵に囲って立ち入り禁止にしておいても、過去の状態が正確に残り続ける可能性はない。


その場考学との徘徊(33)博多から東西南北の古代遺跡へ(その1)

2018年03月01日 08時31分46秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(9)
場所;福岡県  年月日;H30.2.15

テーマ;古代九州王国   作成日;H30.2.28 アップロード日;H30.3.1
                                                       
TITLE: 博多から東西南北の古代遺跡へ(その1)

2月初めの北九地方の雪日の合間を見計らって、福岡県の装飾古墳巡りを試みた。昨年の熊本県とのセットになる。有名な古墳と歴史館は、博多を中心に東西南北に散在する。

東;もっとも有名な絵画が現存する竹原古墳、展示館もある
西;伊都国の遺跡群と歴史博物館
南;熊本県近くの石人山古墳と岩戸山古墳、両方とも歴史館が併設
北;宗像大社の宝物館に沖ノ島の神宝が8万点
といった具合だ。

それぞれの方向に一日を費やすことにして、初日は南へ、大宰府と九州国立博物館。宿泊は、昔の風情が残る二日市温泉とした。

 この宿は、アイビーホテルといって蔦が絡まっているビジネスホテルだが、元は「糀屋」という江戸時代からの老舗旅館で古色豊かな立派な温泉が別棟にあった。




 ホテルの目の前に市内循環バスの停留所があるのも便利だ。これで、JRと西鉄の二日市駅へ行くことができる。



大宰府へ行くには、西鉄だ。駅には特別列車が停車中だった。「旅人」と名前が付けられた観光列車だ。すべての車両一面に天満宮にちなんだ絵が描かれているし、車内にはパンフレットや願い事の記入用紙まで置いてある。



駅前からの天満宮への参道は、見た目には数十年間変わりはない。昼時なので、昼食処に入った。2月なのに「お雑煮」があったのには驚いたが、昼食にはもってこいだった。京都風なのか、東京のものと大きな違いは感じられなかった。





今回は旅の全体像をイメージするための国立博物館がメインなので、天満宮はお参りだけで済ませて、奥へ向かった。小雨に濡れた梅林は、まだ開花は随分と先のようだ。



博物館への長いエスカレーターも変わりはない。



歴史ものの展示は4階だけに集められてしまったのは、残念だが展示方法は工夫が凝らされていてわかりやすかった。しかし、東京や京都の国博と違って、なぜかここは未だに一切撮影禁止。随分と時代遅れだと思った。写真が撮れるのは、入り口の政庁のモデルのみ。



写真を撮れば、いろいろと調べたくもなるし、宣伝もできる。インスタ映えに自信がないのかな。


大宰府駅前から政庁跡へ向かった。ここは街巡りバス便なのだが、たまたま乗ったのが福岡空港行きで、政庁跡の次は国際線乗り場だった。
展示館は撮影OKなのだが、こちらにある現物は少ない。




ホテルに戻って夕食が問題だ。最近の地方の町は外食処が少ない。幸いホテルに併設のレストランに良いメニュがあった。



またまた貸し切りで、給仕係の人と終始会話を楽しむことができた。昔は、博多の奥座敷のような存在だったようだ。