第21章 第4世代(1990年代)の民間航空機用エンジン
この時期は、大型航空機用エンジンにとって画期的な発展時期であった。すなわち、従来は3発ないし4発であった大洋横断の大型機が、1980年代後半から2発のエンジンで可能(ETOPS)になったことである。さらに、この間に設計と製造技術の進化により十分な安全性が証明されたために、従来は長距離無着陸飛行の安全性を商業運航の実績で示さなければならなかった認可を、商業飛行の当初から得られることになり(Early-ETOPS)、エアラインの収益性向上に大いに貢献することになった。
このことは、エンジンの信頼性の向上と、大口径での軽量化構造を実現した強度設計の進歩により達成された。エアラインの直接運航費が軽減し、旅客数が一気に増加した。第4世代は、このような条件に適合するエンジンを指す。
ETOPS(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)とは、エンジン2基の旅客機で、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替の空港へ到達することが可能な航空路でのみで飛行が許されるとして、国際民間航空機関 (ICAO) が取り決めたものであり,緊急時にエンジン1基のみで飛行する場合の飛行可能な時間を定めたものである。
エンジンの信頼性が低かった時代には、双発旅客機は空港から100マイルまで、1953年からは空港より60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかった。このため、大西洋や太平洋を最短距離で横断するような航空路に双発旅客機を就航させることは事実上できなかった。東京からニューヨークまでの飛行ルートは、アリューシャン列島沿いに飛べば、中型機ならば可能であったが、緊急着陸の許可が可能ではなく実用性はなかった。各ETOPSにおける実際の飛行可能範囲を図21.1に示す。ETOPS180では、世界中のほぼすべての2都市間を最短空路で運行することが可能になった。
その条件が、1985年に120分までと大幅に緩和された。1980年代のETOPSの認定は、機体とエンジンの組み合わせにより旅客機1機ごとに個別で認可を受ける必要があり、同じ機種でもETOPS認定と未認定の機体が混在することになった。この時代、例えばロンドンのヒースロー空港では、同じ航空会社の同型機でも、コックピットの下に「ETOPS」の文字が記されている機体と、そうでない機体が混在していた。
図21.1 ETOPS 60 ,120,180での飛行可能範囲(10)
そして、大西洋線へBoeing767の航続距離延長型を導入する航空会社や路線が増加することになり、767の受注数は次第に増加し、1989年の受注機数は96機となった。その後胴体延長型の767-300ER型の開発も行われ、1989年には、Boeing767による洋上飛行制限は180分までに緩和された。
その後、エンジンの信頼性がさらに向上すると、ETOPS-207という規定が設けられ、航続距離の長い双発旅客機は、南極大陸など一部を除き地球上すべての地点間を最短距離で飛行できるまでになった。
この間、機体については767型の胴体の径を広げて、横に2通路で9~10席を配置できる、より太い真円断面を用いた大きな胴体の採用が望まれ、767-Xに対してユナイテッド航空が1990年に34機発注し、その新たな機体名がBoeing777と決定された。続いて全日本空輸、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空も発注した。このシリーズ最初のモデルは、最大航続距離は5,210海里(9,649 km)という長距離型であった。
B777機用のエンジンはP&WのPW4000シリーズ、GEのGE90シリーズ、RRのTrent900シリーズから選択でき、ローンチ・カスタマーでもあるユナイテッド航空はPW4000を選択し、1994年PW4077エンジンを搭載したボーイングの試験第1号機が初飛行に成功した。IHI他が共同開発に参加したGE90はブリティッシュ・エアウェイズに採用された。
この期間に就航を始めたBoeing777の機体とエンジンによる航続距離は以下のようになっている。
B777-200 1995年就航 5235nm PW4077エンジン
B777-200ER 1997年就航 7700nm PW4090エンジン
B777-200LR 2006年就航 9450nm GE90-110Bエンジン
B777-300 1998年就航 5940nm PW4098エンジン
B777-300ER 2004年就航 7930nm GE90-115Bエンジン
これらのことによって、長距離の洋上飛行の経済性は、著しく向上することになった。
また、この期間には次世代のエンジンの研究が盛んに進められた。V2500の母体であるIAEは、1994年に、ADP(Advanced Ducted Prop)エンジン構想を発表した。このエンジンは、その前に設計されていたSuper Fanエンジン(ファンを大口径にするためにLPタービンとの間に減速ギアーを設置する)の派生型で、次世代のターボプロップ機のエンジンとして有望視されていた。
21.1 日本の産業育成政策
V2500開発の成功を確認して、日本が参入すべき次の目標は、100席以下の小型機であるとの見解が纏められ、1996年4月に、JAECはIHI,KHIと共にGEとCF34-8Cの国際共同開発の基本契約書に調印した。日本のシェアーは30%で、部品製造とモジュール組立てまでであり、全体組立ては全てGEで行われた。このエンジンは、ボンバルディアCRJ700等に搭載された。
図21.2 小型輸送機用エンジン(CF34-8)担当部位(9)
また、将来の超音速旅客機に備えて、「超音速輸送機用推進システム研究開発」(HYPRプロジェクト)が通産省工業技術院の産業科学技術研究開発制度により1989年から10年計画で開始された。飛行速度マッハ5までをカバー可能な推進機関で、亜音速からマッハ3までは通常のターボファンエンジンだが、超音速では空気吸入口に設けられたモードバルブの切り替えによりラムジェットエンジンになるという画期的なアイデアによるエンジンの試作と試験運転を行うものであった。
さらに、超音速飛行時の騒音対策を研究するための「環境適合型超音速推進システムの研究開発」(ESPRプロジェクト)が1999~2004年にかけて継続された。低騒音、低NOXの要素技術に関する研究計画は順調に推移したが、実機適用のプロジェクトは、その後20年たった現在でも、まだ立ち上がっていない。
一方で、Post-V2500の民間エンジン開発として小型エンジンやIAEの新エンジン開発への参加を踏まえて、「環境適応型航空機用エンジン研究開発プジェクト(通称エコエンジンプロジェクト)」が2003年から環境適応技術開発を中核に経済産業省の支援を受けてNEDOプロジェクトとして立上げられた。しかし、これらの研究開発事業はすべて完了し、超音速輸送機用推進システム技術研究組合は2012年に解散された。
このような、各界の一連の努力により、エンジン全体設計の技術面については、かろうじて系統化を保つ努力が続けられた。
国際エンジン開発から得られた教訓(その2)競合他社とのヒトの異動
V2500エンジンの開発が佳境に入った199X年に、突然GEからGE90エンジンの共同開発の話が持ち込まれた。当時、欧米のビック3社はそれぞれ日本のエンジン3社(IHI,KHI,MHI)と個別にアライアンスを組む戦略を進行中で、P&WがドイツのMTUと日本のMHIの3社連合を設立してしまった。
当時のMTUはGE90のLPタービン担当で、GEはMTUのシェアー分を丸ごとIHIへ移管することを試みたのであった。その時点で、基本設計は終了しており、詳細設計が始まったばかりのタイミングであったが、MTUの技術は一切継承されなかった。
GEとのアライアンスは、IHIにとって好都合で早速に合意が成立したが、問題は設計のスピードだった。既に、試験用の初号機の部品製造にかかっていた他社に追い付かなくてはならない。しかし、設計技術者の総数は、当時佳境を迎えていたV2500と、このプロジェクトの二つを同時進行は全く無理な状態だった。
私は、当時V2500エンジンの日本チームのチーフデザイナーだったのだが、突然にGE90のチーフエンジニアを兼ねることになった。V2500の設計拠点は英国中部のRR工場と、米国コネチカット州のP&W工場であった。GE90の拠点はオハイオ州のシンシナティーにあり、この3か所を巡る旅を続けることになった。
このGEの工場を始めて訪問した時に驚くことがあった。事務所の入り口で鉢合わせしたのは、なんとRRでV2500の設計を担当していたかつての仲間だった。彼らは、GEに引き抜かれたのだが、「一時GEで勉強をするが、やがてRRに帰るつもりだ」と話してくれた。民間航空機用エンジンの設計技術者の世界は狭く、このような偶然の出会いは、その後も何回かあった。やはり、エンジン技術の系統化は、ヒトから人へと云うことができる。
この時期は、大型航空機用エンジンにとって画期的な発展時期であった。すなわち、従来は3発ないし4発であった大洋横断の大型機が、1980年代後半から2発のエンジンで可能(ETOPS)になったことである。さらに、この間に設計と製造技術の進化により十分な安全性が証明されたために、従来は長距離無着陸飛行の安全性を商業運航の実績で示さなければならなかった認可を、商業飛行の当初から得られることになり(Early-ETOPS)、エアラインの収益性向上に大いに貢献することになった。
このことは、エンジンの信頼性の向上と、大口径での軽量化構造を実現した強度設計の進歩により達成された。エアラインの直接運航費が軽減し、旅客数が一気に増加した。第4世代は、このような条件に適合するエンジンを指す。
ETOPS(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)とは、エンジン2基の旅客機で、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替の空港へ到達することが可能な航空路でのみで飛行が許されるとして、国際民間航空機関 (ICAO) が取り決めたものであり,緊急時にエンジン1基のみで飛行する場合の飛行可能な時間を定めたものである。
エンジンの信頼性が低かった時代には、双発旅客機は空港から100マイルまで、1953年からは空港より60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかった。このため、大西洋や太平洋を最短距離で横断するような航空路に双発旅客機を就航させることは事実上できなかった。東京からニューヨークまでの飛行ルートは、アリューシャン列島沿いに飛べば、中型機ならば可能であったが、緊急着陸の許可が可能ではなく実用性はなかった。各ETOPSにおける実際の飛行可能範囲を図21.1に示す。ETOPS180では、世界中のほぼすべての2都市間を最短空路で運行することが可能になった。
その条件が、1985年に120分までと大幅に緩和された。1980年代のETOPSの認定は、機体とエンジンの組み合わせにより旅客機1機ごとに個別で認可を受ける必要があり、同じ機種でもETOPS認定と未認定の機体が混在することになった。この時代、例えばロンドンのヒースロー空港では、同じ航空会社の同型機でも、コックピットの下に「ETOPS」の文字が記されている機体と、そうでない機体が混在していた。
図21.1 ETOPS 60 ,120,180での飛行可能範囲(10)
そして、大西洋線へBoeing767の航続距離延長型を導入する航空会社や路線が増加することになり、767の受注数は次第に増加し、1989年の受注機数は96機となった。その後胴体延長型の767-300ER型の開発も行われ、1989年には、Boeing767による洋上飛行制限は180分までに緩和された。
その後、エンジンの信頼性がさらに向上すると、ETOPS-207という規定が設けられ、航続距離の長い双発旅客機は、南極大陸など一部を除き地球上すべての地点間を最短距離で飛行できるまでになった。
この間、機体については767型の胴体の径を広げて、横に2通路で9~10席を配置できる、より太い真円断面を用いた大きな胴体の採用が望まれ、767-Xに対してユナイテッド航空が1990年に34機発注し、その新たな機体名がBoeing777と決定された。続いて全日本空輸、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空も発注した。このシリーズ最初のモデルは、最大航続距離は5,210海里(9,649 km)という長距離型であった。
B777機用のエンジンはP&WのPW4000シリーズ、GEのGE90シリーズ、RRのTrent900シリーズから選択でき、ローンチ・カスタマーでもあるユナイテッド航空はPW4000を選択し、1994年PW4077エンジンを搭載したボーイングの試験第1号機が初飛行に成功した。IHI他が共同開発に参加したGE90はブリティッシュ・エアウェイズに採用された。
この期間に就航を始めたBoeing777の機体とエンジンによる航続距離は以下のようになっている。
B777-200 1995年就航 5235nm PW4077エンジン
B777-200ER 1997年就航 7700nm PW4090エンジン
B777-200LR 2006年就航 9450nm GE90-110Bエンジン
B777-300 1998年就航 5940nm PW4098エンジン
B777-300ER 2004年就航 7930nm GE90-115Bエンジン
これらのことによって、長距離の洋上飛行の経済性は、著しく向上することになった。
また、この期間には次世代のエンジンの研究が盛んに進められた。V2500の母体であるIAEは、1994年に、ADP(Advanced Ducted Prop)エンジン構想を発表した。このエンジンは、その前に設計されていたSuper Fanエンジン(ファンを大口径にするためにLPタービンとの間に減速ギアーを設置する)の派生型で、次世代のターボプロップ機のエンジンとして有望視されていた。
21.1 日本の産業育成政策
V2500開発の成功を確認して、日本が参入すべき次の目標は、100席以下の小型機であるとの見解が纏められ、1996年4月に、JAECはIHI,KHIと共にGEとCF34-8Cの国際共同開発の基本契約書に調印した。日本のシェアーは30%で、部品製造とモジュール組立てまでであり、全体組立ては全てGEで行われた。このエンジンは、ボンバルディアCRJ700等に搭載された。
図21.2 小型輸送機用エンジン(CF34-8)担当部位(9)
また、将来の超音速旅客機に備えて、「超音速輸送機用推進システム研究開発」(HYPRプロジェクト)が通産省工業技術院の産業科学技術研究開発制度により1989年から10年計画で開始された。飛行速度マッハ5までをカバー可能な推進機関で、亜音速からマッハ3までは通常のターボファンエンジンだが、超音速では空気吸入口に設けられたモードバルブの切り替えによりラムジェットエンジンになるという画期的なアイデアによるエンジンの試作と試験運転を行うものであった。
さらに、超音速飛行時の騒音対策を研究するための「環境適合型超音速推進システムの研究開発」(ESPRプロジェクト)が1999~2004年にかけて継続された。低騒音、低NOXの要素技術に関する研究計画は順調に推移したが、実機適用のプロジェクトは、その後20年たった現在でも、まだ立ち上がっていない。
一方で、Post-V2500の民間エンジン開発として小型エンジンやIAEの新エンジン開発への参加を踏まえて、「環境適応型航空機用エンジン研究開発プジェクト(通称エコエンジンプロジェクト)」が2003年から環境適応技術開発を中核に経済産業省の支援を受けてNEDOプロジェクトとして立上げられた。しかし、これらの研究開発事業はすべて完了し、超音速輸送機用推進システム技術研究組合は2012年に解散された。
このような、各界の一連の努力により、エンジン全体設計の技術面については、かろうじて系統化を保つ努力が続けられた。
国際エンジン開発から得られた教訓(その2)競合他社とのヒトの異動
V2500エンジンの開発が佳境に入った199X年に、突然GEからGE90エンジンの共同開発の話が持ち込まれた。当時、欧米のビック3社はそれぞれ日本のエンジン3社(IHI,KHI,MHI)と個別にアライアンスを組む戦略を進行中で、P&WがドイツのMTUと日本のMHIの3社連合を設立してしまった。
当時のMTUはGE90のLPタービン担当で、GEはMTUのシェアー分を丸ごとIHIへ移管することを試みたのであった。その時点で、基本設計は終了しており、詳細設計が始まったばかりのタイミングであったが、MTUの技術は一切継承されなかった。
GEとのアライアンスは、IHIにとって好都合で早速に合意が成立したが、問題は設計のスピードだった。既に、試験用の初号機の部品製造にかかっていた他社に追い付かなくてはならない。しかし、設計技術者の総数は、当時佳境を迎えていたV2500と、このプロジェクトの二つを同時進行は全く無理な状態だった。
私は、当時V2500エンジンの日本チームのチーフデザイナーだったのだが、突然にGE90のチーフエンジニアを兼ねることになった。V2500の設計拠点は英国中部のRR工場と、米国コネチカット州のP&W工場であった。GE90の拠点はオハイオ州のシンシナティーにあり、この3か所を巡る旅を続けることになった。
このGEの工場を始めて訪問した時に驚くことがあった。事務所の入り口で鉢合わせしたのは、なんとRRでV2500の設計を担当していたかつての仲間だった。彼らは、GEに引き抜かれたのだが、「一時GEで勉強をするが、やがてRRに帰るつもりだ」と話してくれた。民間航空機用エンジンの設計技術者の世界は狭く、このような偶然の出会いは、その後も何回かあった。やはり、エンジン技術の系統化は、ヒトから人へと云うことができる。