生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンの技術(18)

2024年08月30日 08時55分10秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第21章 第4世代(1990年代)の民間航空機用エンジン

 この時期は、大型航空機用エンジンにとって画期的な発展時期であった。すなわち、従来は3発ないし4発であった大洋横断の大型機が、1980年代後半から2発のエンジンで可能(ETOPS)になったことである。さらに、この間に設計と製造技術の進化により十分な安全性が証明されたために、従来は長距離無着陸飛行の安全性を商業運航の実績で示さなければならなかった認可を、商業飛行の当初から得られることになり(Early-ETOPS)、エアラインの収益性向上に大いに貢献することになった。
 このことは、エンジンの信頼性の向上と、大口径での軽量化構造を実現した強度設計の進歩により達成された。エアラインの直接運航費が軽減し、旅客数が一気に増加した。第4世代は、このような条件に適合するエンジンを指す。

 ETOPS(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)とは、エンジン2基の旅客機で、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替の空港へ到達することが可能な航空路でのみで飛行が許されるとして、国際民間航空機関 (ICAO) が取り決めたものであり,緊急時にエンジン1基のみで飛行する場合の飛行可能な時間を定めたものである。
 エンジンの信頼性が低かった時代には、双発旅客機は空港から100マイルまで、1953年からは空港より60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかった。このため、大西洋や太平洋を最短距離で横断するような航空路に双発旅客機を就航させることは事実上できなかった。東京からニューヨークまでの飛行ルートは、アリューシャン列島沿いに飛べば、中型機ならば可能であったが、緊急着陸の許可が可能ではなく実用性はなかった。各ETOPSにおける実際の飛行可能範囲を図21.1に示す。ETOPS180では、世界中のほぼすべての2都市間を最短空路で運行することが可能になった。

 その条件が、1985年に120分までと大幅に緩和された。1980年代のETOPSの認定は、機体とエンジンの組み合わせにより旅客機1機ごとに個別で認可を受ける必要があり、同じ機種でもETOPS認定と未認定の機体が混在することになった。この時代、例えばロンドンのヒースロー空港では、同じ航空会社の同型機でも、コックピットの下に「ETOPS」の文字が記されている機体と、そうでない機体が混在していた。






図21.1 ETOPS 60 ,120,180での飛行可能範囲(10)

 そして、大西洋線へBoeing767の航続距離延長型を導入する航空会社や路線が増加することになり、767の受注数は次第に増加し、1989年の受注機数は96機となった。その後胴体延長型の767-300ER型の開発も行われ、1989年には、Boeing767による洋上飛行制限は180分までに緩和された。

 その後、エンジンの信頼性がさらに向上すると、ETOPS-207という規定が設けられ、航続距離の長い双発旅客機は、南極大陸など一部を除き地球上すべての地点間を最短距離で飛行できるまでになった。

 この間、機体については767型の胴体の径を広げて、横に2通路で9~10席を配置できる、より太い真円断面を用いた大きな胴体の採用が望まれ、767-Xに対してユナイテッド航空が1990年に34機発注し、その新たな機体名がBoeing777と決定された。続いて全日本空輸、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空も発注した。このシリーズ最初のモデルは、最大航続距離は5,210海里(9,649 km)という長距離型であった。

 B777機用のエンジンはP&WのPW4000シリーズ、GEのGE90シリーズ、RRのTrent900シリーズから選択でき、ローンチ・カスタマーでもあるユナイテッド航空はPW4000を選択し、1994年PW4077エンジンを搭載したボーイングの試験第1号機が初飛行に成功した。IHI他が共同開発に参加したGE90はブリティッシュ・エアウェイズに採用された。
 この期間に就航を始めたBoeing777の機体とエンジンによる航続距離は以下のようになっている。

B777-200   1995年就航 5235nm PW4077エンジン
B777-200ER 1997年就航 7700nm PW4090エンジン
B777-200LR 2006年就航 9450nm GE90-110Bエンジン
B777-300   1998年就航 5940nm PW4098エンジン
B777-300ER 2004年就航 7930nm GE90-115Bエンジン


 これらのことによって、長距離の洋上飛行の経済性は、著しく向上することになった。
また、この期間には次世代のエンジンの研究が盛んに進められた。V2500の母体であるIAEは、1994年に、ADP(Advanced Ducted Prop)エンジン構想を発表した。このエンジンは、その前に設計されていたSuper Fanエンジン(ファンを大口径にするためにLPタービンとの間に減速ギアーを設置する)の派生型で、次世代のターボプロップ機のエンジンとして有望視されていた。

21.1 日本の産業育成政策
 V2500開発の成功を確認して、日本が参入すべき次の目標は、100席以下の小型機であるとの見解が纏められ、1996年4月に、JAECはIHI,KHIと共にGEとCF34-8Cの国際共同開発の基本契約書に調印した。日本のシェアーは30%で、部品製造とモジュール組立てまでであり、全体組立ては全てGEで行われた。このエンジンは、ボンバルディアCRJ700等に搭載された。


図21.2 小型輸送機用エンジン(CF34-8)担当部位(9)

 また、将来の超音速旅客機に備えて、「超音速輸送機用推進システム研究開発」(HYPRプロジェクト)が通産省工業技術院の産業科学技術研究開発制度により1989年から10年計画で開始された。飛行速度マッハ5までをカバー可能な推進機関で、亜音速からマッハ3までは通常のターボファンエンジンだが、超音速では空気吸入口に設けられたモードバルブの切り替えによりラムジェットエンジンになるという画期的なアイデアによるエンジンの試作と試験運転を行うものであった。
 さらに、超音速飛行時の騒音対策を研究するための「環境適合型超音速推進システムの研究開発」(ESPRプロジェクト)が1999~2004年にかけて継続された。低騒音、低NOXの要素技術に関する研究計画は順調に推移したが、実機適用のプロジェクトは、その後20年たった現在でも、まだ立ち上がっていない。

 一方で、Post-V2500の民間エンジン開発として小型エンジンやIAEの新エンジン開発への参加を踏まえて、「環境適応型航空機用エンジン研究開発プジェクト(通称エコエンジンプロジェクト)」が2003年から環境適応技術開発を中核に経済産業省の支援を受けてNEDOプロジェクトとして立上げられた。しかし、これらの研究開発事業はすべて完了し、超音速輸送機用推進システム技術研究組合は2012年に解散された。
 このような、各界の一連の努力により、エンジン全体設計の技術面については、かろうじて系統化を保つ努力が続けられた。

国際エンジン開発から得られた教訓(その2)競合他社とのヒトの異動

 V2500エンジンの開発が佳境に入った199X年に、突然GEからGE90エンジンの共同開発の話が持ち込まれた。当時、欧米のビック3社はそれぞれ日本のエンジン3社(IHI,KHI,MHI)と個別にアライアンスを組む戦略を進行中で、P&WがドイツのMTUと日本のMHIの3社連合を設立してしまった。
 当時のMTUはGE90のLPタービン担当で、GEはMTUのシェアー分を丸ごとIHIへ移管することを試みたのであった。その時点で、基本設計は終了しており、詳細設計が始まったばかりのタイミングであったが、MTUの技術は一切継承されなかった。

 GEとのアライアンスは、IHIにとって好都合で早速に合意が成立したが、問題は設計のスピードだった。既に、試験用の初号機の部品製造にかかっていた他社に追い付かなくてはならない。しかし、設計技術者の総数は、当時佳境を迎えていたV2500と、このプロジェクトの二つを同時進行は全く無理な状態だった。 
 私は、当時V2500エンジンの日本チームのチーフデザイナーだったのだが、突然にGE90のチーフエンジニアを兼ねることになった。V2500の設計拠点は英国中部のRR工場と、米国コネチカット州のP&W工場であった。GE90の拠点はオハイオ州のシンシナティーにあり、この3か所を巡る旅を続けることになった。
 このGEの工場を始めて訪問した時に驚くことがあった。事務所の入り口で鉢合わせしたのは、なんとRRでV2500の設計を担当していたかつての仲間だった。彼らは、GEに引き抜かれたのだが、「一時GEで勉強をするが、やがてRRに帰るつもりだ」と話してくれた。民間航空機用エンジンの設計技術者の世界は狭く、このような偶然の出会いは、その後も何回かあった。やはり、エンジン技術の系統化は、ヒトから人へと云うことができる。


ジェットエンジンの技術(17)技術の伝承について

2024年08月28日 08時01分34秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(17)
第20章 ヒトから人への伝承

 技術の系統化すなわち伝承の方法は、大きく二つに分けられる。それらは、人から人への直接伝承と、書籍や実物などのモノを介する伝承になる。人類が文明を築き始めてから延々と続くこの現象の歴史について、P.F.ドラッカーは、大きく3段階に分けている。(1)
 人類の文明は、農耕と灌漑技術の伝承から始まり、そこから都市化、政治、軍事などの社会イノベーションが始まった。この時代は1400年間も続き、その間は徒弟制度などによる人から人への直接伝承だった。そして、次の社会イノベーションは印刷機の発明による大量の印刷物による技術の伝承で、この時から技術が社会と経済の中心に据えられて、近代技術革命の時代になった。現代は3回目の社会イノベーションがSNSにより始まっている。つまり、再び人から人への伝承の時代に戻ったことになる。現代の様々な科学技術の系統化を見ると、多くの場合にはモノ(印刷物もモノの一つ)を介する伝承が多い。

 ジェットエンジンの場合にはどうであろうか。私の経験では、それは圧倒的に人から人への伝承だった。それは、設計、製造、調達、保守の全技術領域にわたって共通しているように思われる。スマホなどの電子製品は、初期の製品の市場投入後に、その機能もハードも大きく進化する。それは、世界中の多くの人がモノを介して得た知識と知恵の進歩によって成されている。それは、ジェットエンジンとは大きく異なる。
 戦後の日本には「空白の7年間」という期間があったが、人から人への技術の伝承は、確実に行われた。それは、大学教育の場と、社内外におけるman to manの会話からであった。ここでは、当時海軍航空技術廠に在籍したIHIの永野副社長と、中島飛行機で誉のエンジン設計の一部を担当した今井専務取締役との思い出の一端を記す。

20.1 永野副社長との思い出

・空技廠でネ20の開発に携わった永野少佐から25年後の私へ、

 私は1970年に石川島播磨重工に入社し、当初から民間エンジンの研究と開発に従事した。FJR710の設計システム班長となった私は、1971年に永野副社長と岡崎教授(東大航空学科)から月例の指導を受けることになった。エンジン設計の進捗を説明して、過去の経験と現代航空工学からの指摘を受けるためであった。そこでは、当時の開発作業のスピードの話を何度も聞かされた。「なぜ、お前たちは初号機の設計と開発に3年間もかかるのだ、やれば半年でできるはずだ」というわけである。「やればできるはずだ」の言葉は、その後の開発プロジェクトで何度も役に立った。

・昼食時の会話

 毎回の指導会の後は、ゲストハウスでの昼食だった。個々の話は忘れてしまったが、仏教関係の話が多かった。唯一覚えているのは、通勤の途中でいくら長距離を歩いても運動にはならない。心臓がドキドキする早さでなければ疲れるだけだ、でした。
 飲食を伴う際の会話は特別の意味がある。私は、この時以来そのことを実行し続けていた。最近は、Zoomなどによる遠隔会議が多いようだが、それでは、ヒトから人への伝承は、半分も充たされないと推察する。

20.2 今井専務取締役との思い出

・入社を決めたひとこと

 私が今井さんに最初にお会いしたのは、修士2年生のリクルートで当時の石川島播磨の田無工場に見学に行った時だった。私に入社の意志は全くなく、友人に誘われてのことだった。しかし、その時話をしてくださった当時の今井副事業部長の、「ジェットエンジンの研究と開発は技術者にとって、これほど面白いものはない」が、気持ちを一転させ、友人を押しのけて入社を決めてしまった。ロシア語のジェットエンジンに関する本を翻訳された工学博士が身近に感じられたからであった。

・さんざん政府の補助金にお世話になったのだから、

 私が陸海空のミサイルに用いられる個体ロケットを得意とする新会社(当時、C.ゴーンがCEOになった日産自動車の独占生産だったが、IHIが営業譲渡を受けて、私は新会社設立の準備室長から続けて、初代の代表取締役を担った)に移ってからは、今井さんから頻繁にメールが来るようになり、年に数回のペースでお宅へ伺うことになった。最初の言葉は,「ミサイルとジェットエンジンは防衛庁にとって全く違う製品になる。一旦国際間の緊張が高まった時に、どうするかを常に考えておきなさい」だった。
 そして、十数年後の定年間近になった時には、「さんざん政府のお世話になったのだから、これからは社会に還元することを考えなさい」との再三の会話から、デザイン・コミュニティー・シリーズという名の小冊子の作成(前月には、第24巻を発行)と、博士号の取得を目指すことになった。「博士の資格は、会社では全く役に立たないが、退社後には、JRのグリーン切符のように、使い勝手が良いので、絶対に取っておきなさい」だった。

「やればできるはずだ」、「これほど面白いものは無い」、「これからは社会に還元することを考えなさい」の三つの言葉は、何年経っても忘れることはない。

参考文献
(1)P.F. ドラッカー「テクノロジストの条件―ものづ くりが文明をつくる」ダイヤモンド社(2005)

八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(38)標高1130mでのブルーベリーの収穫(その2)

2024年08月01日 09時29分22秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(38)         その場考学レポート番号 #XX

場所;一紀荘 2024.7.31                                                
TITLE: 標高1130mでのブルーベリーの収穫(その2)

 標高1130mの我が家(一紀荘)では、建築当初の2000年に外房の千倉から、ブルーベリーの苗を二本移植した。多分レッドアイ系と思い、地元の植木屋でハイブッシュ系の苗を2本買って、一緒に植えることにした。結果的には、これが大成功で、先ずは収穫時期が7月から10月まで続くことになる。

 その時から25年が経った。収穫は毎年続けているが、年によって収穫量はかなりの増減がある。現在までの最高値は、H28の23.3kgで、最小値はH30年の1.1kgだった。



 何故、これほどの差が出るのだろうか。私の推定では、花が満開の時期の気候だ。低温で雨が続くと受粉がうまくいかないのではないだろうか。一時は、受粉してくれる蜂や小さな虫が減った為と思ったのだが、蜂の数は過去に比べて大幅に減ったのだが、昨年などは結構な収穫量だった。

 今年は、とにかく猛暑で、標高1130mでも昼間は結構暑い。しかし、朝晩は20℃以下にさがるので、このログハウスにはエアコンはない。しかし、そろそろそれも考えなくてはならないようだ。



 ちなみに、この写真は前回の7月後半のもので、まだ一本だけが数粒のブルーなになったばかりで、他の木の実は、緑のままで小さい。夕方の水まき時で、毎回小さな虹ができる。