生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジン技術(19)

2024年09月15日 07時03分01秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第22章 第5世代(2000年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の開発機種の代表例はBoeing787 Dreamlinerで、Boeing767と777の一部を後継するための次世代中型ジェット旅客機として開発がすすめられた。特徴は、機体が有する多くの機器の電動化で、大容量のリチウムイオン電池の採用により、その充電のためにエンジンからの抽出動力の割合を大幅に増したことであった。しかし、この開発は当初から難航し、商業飛行の時期が大幅に遅れるとともに、使用開始から数年後の2013年には、電池からの発火事故が複数回起こり、世界中で一時期全便飛行停止処分を受けることになってしまった。

 Boeing787は長い航続距離が可能な中型機として登場し、従来は大型機では収支の採算が厳しいとして特定空路にしか採用されなかった国際間長距離航空路線の多くが開設可能となった。2004年にローンチ・カスタマーとして全日本空輸が50機を発注して開発が始められた。開発当初のスケジュールでは2008年5月に連邦航空局(FAA)の型式証明取得を予定し、全日本空輸(ANA)に引き渡す予定であった。ANAは8月の北京オリンピック開催時に東京- 北京間のチャーター便に使用すると発表していた。
 しかし、新素材を用いた胴体や多くのシステムの電子化を採用したエンジンなどの新設計と、国際共同開発での足並みが揃わなかったことで、開発が大きく後れ、初飛行が行われたのは当初の予定から2年以上遅れた2009年12月であった。

 エンジンは、RRのトレント1000と、GEのGEnxが採用されたが、この2種類のエンジンの交換が可能で、将来も異なるメーカーのエンジンと取り替えることが可能となる設計を初めて採用した。
 GEnxは、当初からBoeing787と747-8用に開発され、1970年代から多用されていた既存のCF6を置き換えることを予定し、2008年2月に最初の運転試験が行われた。
 第1の特徴は、スタータジェネレータがエンジン始動と発電の両方を行うことで、従来スタータタービンにより行われていたエンジン始動の電動化、空調用のエアコンやアンチアイシング装置などもエンジンからのブリードエアを使わず電気化することとした。このために、エンジン圧縮機からの抽気のほとんどを廃止することが可能になり、燃費が向上した。さらに、ファンケースやファンブレードなどに複合材を使用し、大口径エンジン(787-8用ファン直径は2.82m)での軽量化に成功した。


図22.1 GEnxエンジンの先端技術要素(11)


図22.2 GEnxエンジンの各社担当部位(11)
 
 一方で、中型機用に1990年代に開発されたV2500エンジンは、派生型が次々と発表され、中型中距離機のAirbusA320の驚異的な伸びにより生産台数が大幅に予想を超えて、日本のエンジン3社の売上高に大いに貢献した。また、LCCやリース会社所有のエンジン台数が増加して、オーバーホウルのビジネス形態もめまぐるしく代わった。すなわち、エンジンメーカーが、運行時間数に対するオーバーホウル費用を受け持つことであり、このことは、運行中のエンジンデータが十分に蓄積されたことと、設計の進歩により、部品寿命が正確に見積もれるようになったことに起因すると云える。        

22.1 日本国内の状況の変化

 この時期の国内のエンジン3社の動向は、それ以前とは様変わりになってゆくことになる。それは、各社にとって赤字続きのお荷物だったエンジンビジネスが、一気に稼ぎ頭になったことである。原因は3社共通で、2000年前後からV2500エンジンのオーバーホウル台数が急激に増加し、採算性の良い交換部分の販売数が急激に伸びたことと、同エンジンの月間の新製台数の飛躍的な増加で、量産効果により製造単価が大幅に低減したためであった。
 このために、3社それぞれの将来に対する思惑から、それまでは歩調を合わせていた動きが俄かに別々の動きを始めることになっていった。新生エンジンの開発に巨額の費用が掛かり、かつその回収に少なくとも15年間がかかることには変わりはなく、国家補助を継続的に受けることのできるJAECのもとでの参加に変わりはないのだが、GEのGEnxにはIHIとMHIが参加し,RRのTrent1000にはKHIとMHIという棲み分けになった。IHIの思惑はGEとの繋がりを一層強固にすること、KHIの思惑は部品ではなく、常に特定な部位をモジュールとして基本設計から受け持つこと、MHIは燃焼器分野での最新技術を習得して、発電用ガスタービンへの応用を図ることと推察される。しかし、日本としての総合力が分散されることにより、担当するワークシェアーの割合は、V2500の23%から、それぞれ14%と15.5%に減少した。

 1970年に国の大型プロジェクトとして、巨費と10年以上の歳月をかけて、3社一致協力のもとに目指していた、世界市場に通用する新型のエンジンを日本主導で開発をするという夢は、このような分裂とシェアーの減少とともに、エンジン全体の基本設計にまで立ち入るチャンスはほぼなくなってしまった。

 この時期の世界の航空機用エンジンの国別の売上高のシェアーを図22.3に示す。


図22.3 世界の航空機用エンジンの国別の売上高のシェアー(12)
 
 この中にあって、次世代のエンジンとして更なる高バイパス比の実現に向けて、従来研究がすすめられてきた多くのコンフィギュレーションに対して、実現に向かった絞り込みが行われた。その中から、民間航空機用エンジンとしては、もっとも堅実なギアード・ターボファンが選ばれるようになった。


図22.4 高バイパス化に向けた各種のコンセプトと課題(12)

ジェットエンジンの技術(18)

2024年08月30日 08時55分10秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第21章 第4世代(1990年代)の民間航空機用エンジン

 この時期は、大型航空機用エンジンにとって画期的な発展時期であった。すなわち、従来は3発ないし4発であった大洋横断の大型機が、1980年代後半から2発のエンジンで可能(ETOPS)になったことである。さらに、この間に設計と製造技術の進化により十分な安全性が証明されたために、従来は長距離無着陸飛行の安全性を商業運航の実績で示さなければならなかった認可を、商業飛行の当初から得られることになり(Early-ETOPS)、エアラインの収益性向上に大いに貢献することになった。
 このことは、エンジンの信頼性の向上と、大口径での軽量化構造を実現した強度設計の進歩により達成された。エアラインの直接運航費が軽減し、旅客数が一気に増加した。第4世代は、このような条件に適合するエンジンを指す。

 ETOPS(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)とは、エンジン2基の旅客機で、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替の空港へ到達することが可能な航空路でのみで飛行が許されるとして、国際民間航空機関 (ICAO) が取り決めたものであり,緊急時にエンジン1基のみで飛行する場合の飛行可能な時間を定めたものである。
 エンジンの信頼性が低かった時代には、双発旅客機は空港から100マイルまで、1953年からは空港より60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかった。このため、大西洋や太平洋を最短距離で横断するような航空路に双発旅客機を就航させることは事実上できなかった。東京からニューヨークまでの飛行ルートは、アリューシャン列島沿いに飛べば、中型機ならば可能であったが、緊急着陸の許可が可能ではなく実用性はなかった。各ETOPSにおける実際の飛行可能範囲を図21.1に示す。ETOPS180では、世界中のほぼすべての2都市間を最短空路で運行することが可能になった。

 その条件が、1985年に120分までと大幅に緩和された。1980年代のETOPSの認定は、機体とエンジンの組み合わせにより旅客機1機ごとに個別で認可を受ける必要があり、同じ機種でもETOPS認定と未認定の機体が混在することになった。この時代、例えばロンドンのヒースロー空港では、同じ航空会社の同型機でも、コックピットの下に「ETOPS」の文字が記されている機体と、そうでない機体が混在していた。






図21.1 ETOPS 60 ,120,180での飛行可能範囲(10)

 そして、大西洋線へBoeing767の航続距離延長型を導入する航空会社や路線が増加することになり、767の受注数は次第に増加し、1989年の受注機数は96機となった。その後胴体延長型の767-300ER型の開発も行われ、1989年には、Boeing767による洋上飛行制限は180分までに緩和された。

 その後、エンジンの信頼性がさらに向上すると、ETOPS-207という規定が設けられ、航続距離の長い双発旅客機は、南極大陸など一部を除き地球上すべての地点間を最短距離で飛行できるまでになった。

 この間、機体については767型の胴体の径を広げて、横に2通路で9~10席を配置できる、より太い真円断面を用いた大きな胴体の採用が望まれ、767-Xに対してユナイテッド航空が1990年に34機発注し、その新たな機体名がBoeing777と決定された。続いて全日本空輸、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空も発注した。このシリーズ最初のモデルは、最大航続距離は5,210海里(9,649 km)という長距離型であった。

 B777機用のエンジンはP&WのPW4000シリーズ、GEのGE90シリーズ、RRのTrent900シリーズから選択でき、ローンチ・カスタマーでもあるユナイテッド航空はPW4000を選択し、1994年PW4077エンジンを搭載したボーイングの試験第1号機が初飛行に成功した。IHI他が共同開発に参加したGE90はブリティッシュ・エアウェイズに採用された。
 この期間に就航を始めたBoeing777の機体とエンジンによる航続距離は以下のようになっている。

B777-200   1995年就航 5235nm PW4077エンジン
B777-200ER 1997年就航 7700nm PW4090エンジン
B777-200LR 2006年就航 9450nm GE90-110Bエンジン
B777-300   1998年就航 5940nm PW4098エンジン
B777-300ER 2004年就航 7930nm GE90-115Bエンジン


 これらのことによって、長距離の洋上飛行の経済性は、著しく向上することになった。
また、この期間には次世代のエンジンの研究が盛んに進められた。V2500の母体であるIAEは、1994年に、ADP(Advanced Ducted Prop)エンジン構想を発表した。このエンジンは、その前に設計されていたSuper Fanエンジン(ファンを大口径にするためにLPタービンとの間に減速ギアーを設置する)の派生型で、次世代のターボプロップ機のエンジンとして有望視されていた。

21.1 日本の産業育成政策
 V2500開発の成功を確認して、日本が参入すべき次の目標は、100席以下の小型機であるとの見解が纏められ、1996年4月に、JAECはIHI,KHIと共にGEとCF34-8Cの国際共同開発の基本契約書に調印した。日本のシェアーは30%で、部品製造とモジュール組立てまでであり、全体組立ては全てGEで行われた。このエンジンは、ボンバルディアCRJ700等に搭載された。


図21.2 小型輸送機用エンジン(CF34-8)担当部位(9)

 また、将来の超音速旅客機に備えて、「超音速輸送機用推進システム研究開発」(HYPRプロジェクト)が通産省工業技術院の産業科学技術研究開発制度により1989年から10年計画で開始された。飛行速度マッハ5までをカバー可能な推進機関で、亜音速からマッハ3までは通常のターボファンエンジンだが、超音速では空気吸入口に設けられたモードバルブの切り替えによりラムジェットエンジンになるという画期的なアイデアによるエンジンの試作と試験運転を行うものであった。
 さらに、超音速飛行時の騒音対策を研究するための「環境適合型超音速推進システムの研究開発」(ESPRプロジェクト)が1999~2004年にかけて継続された。低騒音、低NOXの要素技術に関する研究計画は順調に推移したが、実機適用のプロジェクトは、その後20年たった現在でも、まだ立ち上がっていない。

 一方で、Post-V2500の民間エンジン開発として小型エンジンやIAEの新エンジン開発への参加を踏まえて、「環境適応型航空機用エンジン研究開発プジェクト(通称エコエンジンプロジェクト)」が2003年から環境適応技術開発を中核に経済産業省の支援を受けてNEDOプロジェクトとして立上げられた。しかし、これらの研究開発事業はすべて完了し、超音速輸送機用推進システム技術研究組合は2012年に解散された。
 このような、各界の一連の努力により、エンジン全体設計の技術面については、かろうじて系統化を保つ努力が続けられた。

国際エンジン開発から得られた教訓(その2)競合他社とのヒトの異動

 V2500エンジンの開発が佳境に入った199X年に、突然GEからGE90エンジンの共同開発の話が持ち込まれた。当時、欧米のビック3社はそれぞれ日本のエンジン3社(IHI,KHI,MHI)と個別にアライアンスを組む戦略を進行中で、P&WがドイツのMTUと日本のMHIの3社連合を設立してしまった。
 当時のMTUはGE90のLPタービン担当で、GEはMTUのシェアー分を丸ごとIHIへ移管することを試みたのであった。その時点で、基本設計は終了しており、詳細設計が始まったばかりのタイミングであったが、MTUの技術は一切継承されなかった。

 GEとのアライアンスは、IHIにとって好都合で早速に合意が成立したが、問題は設計のスピードだった。既に、試験用の初号機の部品製造にかかっていた他社に追い付かなくてはならない。しかし、設計技術者の総数は、当時佳境を迎えていたV2500と、このプロジェクトの二つを同時進行は全く無理な状態だった。 
 私は、当時V2500エンジンの日本チームのチーフデザイナーだったのだが、突然にGE90のチーフエンジニアを兼ねることになった。V2500の設計拠点は英国中部のRR工場と、米国コネチカット州のP&W工場であった。GE90の拠点はオハイオ州のシンシナティーにあり、この3か所を巡る旅を続けることになった。
 このGEの工場を始めて訪問した時に驚くことがあった。事務所の入り口で鉢合わせしたのは、なんとRRでV2500の設計を担当していたかつての仲間だった。彼らは、GEに引き抜かれたのだが、「一時GEで勉強をするが、やがてRRに帰るつもりだ」と話してくれた。民間航空機用エンジンの設計技術者の世界は狭く、このような偶然の出会いは、その後も何回かあった。やはり、エンジン技術の系統化は、ヒトから人へと云うことができる。


ジェットエンジンの技術(17)技術の伝承について

2024年08月28日 08時01分34秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(17)
第20章 ヒトから人への伝承

 技術の系統化すなわち伝承の方法は、大きく二つに分けられる。それらは、人から人への直接伝承と、書籍や実物などのモノを介する伝承になる。人類が文明を築き始めてから延々と続くこの現象の歴史について、P.F.ドラッカーは、大きく3段階に分けている。(1)
 人類の文明は、農耕と灌漑技術の伝承から始まり、そこから都市化、政治、軍事などの社会イノベーションが始まった。この時代は1400年間も続き、その間は徒弟制度などによる人から人への直接伝承だった。そして、次の社会イノベーションは印刷機の発明による大量の印刷物による技術の伝承で、この時から技術が社会と経済の中心に据えられて、近代技術革命の時代になった。現代は3回目の社会イノベーションがSNSにより始まっている。つまり、再び人から人への伝承の時代に戻ったことになる。現代の様々な科学技術の系統化を見ると、多くの場合にはモノ(印刷物もモノの一つ)を介する伝承が多い。

 ジェットエンジンの場合にはどうであろうか。私の経験では、それは圧倒的に人から人への伝承だった。それは、設計、製造、調達、保守の全技術領域にわたって共通しているように思われる。スマホなどの電子製品は、初期の製品の市場投入後に、その機能もハードも大きく進化する。それは、世界中の多くの人がモノを介して得た知識と知恵の進歩によって成されている。それは、ジェットエンジンとは大きく異なる。
 戦後の日本には「空白の7年間」という期間があったが、人から人への技術の伝承は、確実に行われた。それは、大学教育の場と、社内外におけるman to manの会話からであった。ここでは、当時海軍航空技術廠に在籍したIHIの永野副社長と、中島飛行機で誉のエンジン設計の一部を担当した今井専務取締役との思い出の一端を記す。

20.1 永野副社長との思い出

・空技廠でネ20の開発に携わった永野少佐から25年後の私へ、

 私は1970年に石川島播磨重工に入社し、当初から民間エンジンの研究と開発に従事した。FJR710の設計システム班長となった私は、1971年に永野副社長と岡崎教授(東大航空学科)から月例の指導を受けることになった。エンジン設計の進捗を説明して、過去の経験と現代航空工学からの指摘を受けるためであった。そこでは、当時の開発作業のスピードの話を何度も聞かされた。「なぜ、お前たちは初号機の設計と開発に3年間もかかるのだ、やれば半年でできるはずだ」というわけである。「やればできるはずだ」の言葉は、その後の開発プロジェクトで何度も役に立った。

・昼食時の会話

 毎回の指導会の後は、ゲストハウスでの昼食だった。個々の話は忘れてしまったが、仏教関係の話が多かった。唯一覚えているのは、通勤の途中でいくら長距離を歩いても運動にはならない。心臓がドキドキする早さでなければ疲れるだけだ、でした。
 飲食を伴う際の会話は特別の意味がある。私は、この時以来そのことを実行し続けていた。最近は、Zoomなどによる遠隔会議が多いようだが、それでは、ヒトから人への伝承は、半分も充たされないと推察する。

20.2 今井専務取締役との思い出

・入社を決めたひとこと

 私が今井さんに最初にお会いしたのは、修士2年生のリクルートで当時の石川島播磨の田無工場に見学に行った時だった。私に入社の意志は全くなく、友人に誘われてのことだった。しかし、その時話をしてくださった当時の今井副事業部長の、「ジェットエンジンの研究と開発は技術者にとって、これほど面白いものはない」が、気持ちを一転させ、友人を押しのけて入社を決めてしまった。ロシア語のジェットエンジンに関する本を翻訳された工学博士が身近に感じられたからであった。

・さんざん政府の補助金にお世話になったのだから、

 私が陸海空のミサイルに用いられる個体ロケットを得意とする新会社(当時、C.ゴーンがCEOになった日産自動車の独占生産だったが、IHIが営業譲渡を受けて、私は新会社設立の準備室長から続けて、初代の代表取締役を担った)に移ってからは、今井さんから頻繁にメールが来るようになり、年に数回のペースでお宅へ伺うことになった。最初の言葉は,「ミサイルとジェットエンジンは防衛庁にとって全く違う製品になる。一旦国際間の緊張が高まった時に、どうするかを常に考えておきなさい」だった。
 そして、十数年後の定年間近になった時には、「さんざん政府のお世話になったのだから、これからは社会に還元することを考えなさい」との再三の会話から、デザイン・コミュニティー・シリーズという名の小冊子の作成(前月には、第24巻を発行)と、博士号の取得を目指すことになった。「博士の資格は、会社では全く役に立たないが、退社後には、JRのグリーン切符のように、使い勝手が良いので、絶対に取っておきなさい」だった。

「やればできるはずだ」、「これほど面白いものは無い」、「これからは社会に還元することを考えなさい」の三つの言葉は、何年経っても忘れることはない。

参考文献
(1)P.F. ドラッカー「テクノロジストの条件―ものづ くりが文明をつくる」ダイヤモンド社(2005)

ジェットエンジンの技術(16)第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジ

2024年05月19日 06時51分25秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第19章 第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の特徴は、高効率の高バイパス・ファンエンジンの設計手法が確立し、多くの改良型と新型が国際共同開発の資金をもとに盛んに行われたことと言えよう。また、主要都市間を頻繁に運行するために、超大型航空機と比べて中小型機の市場の開拓が進み、そのためのエンジンの開発競争も盛んに行われた。
 大型エンジンとしては、GEのCF6-80シリーズ、P&WのPW4000シリーズ、RRのRB211-524シリーズが挙げられる。また、中型としては、V2500シリーズとCFM56シリーズが世界市場を二分して激しい競争を展開した。このように新規開発機種が目白押しとなったために、エンジン各社は、資金と市場の確保のために、国際共同開発を行うことが常態化した。その代表例が、日米英独伊の5か国が参加したV2500で、この事業と技術については第32章で詳述する。

19.1 航空自由化と国際共同開発

 このような傾向は、この時期に始まった航空自由化の政策によるところが大きい。この動きは米国で始まり、すぐにヨーロッパに広がっていった。例えば、サウスウエスト航空は設立後十年間以上もテキサス州内だけの弱小エアラインだったが、カーター政権が航空自由化政策を行ったことで、全米に路線網を持つ大手航空会社にまで成長した。それまでは、アメリカ国内では、CAB(民間航空委員会)が設立以来40年もの間各種の規制を行ってきたが、1978年に「航空企業規制廃止法」(Airline Deregulation Act) が成立。これにより、CABの規制は廃止され、さらに1985年にはCAB自体が廃止された。その結果、サウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」が大成功をおさめ、1988年には米国運輸省が発表する定時運航率の高さ・手荷物の紛失件数の少なさ・利用者からの苦情の少なさの3部門について米国の全航空会社中でトップとなった。その後、1989年11月からは3か月連続して3部門とも首位となったことから、サウスウエスト航空では1990年に “Triple Triple Crown”(3か月連続の三冠王)と呼ばれるまでに成長した。一方で、大手航空会社はこれに対抗するために、「ハブ&スポークス戦略」を展開した。これらの動向により、130~150席クラスの中小型機用のエンジンの市場が米国及び中近東を含む
 欧州で急激に伸びることが予測された。(Wikipediaの記事を参照して編集)
このことから、航空事業にとって、いかに自由化政策が重要であるかが分かる。これ以降、国際間でも様々な規制(これは主に環境関係)と自由化が揃って行われ続けられたことが、技術の系統化に大いに役立った。

19.2 国内の状況


 この期間に、日本の航空機用エンジン技術は、研究から実用機種の開発へと大きく変遷した。英国での高空性能試験を大成功裏に終了したFJR710エンジンは、試験機(航空自衛隊の輸送機C-1を改造し飛鳥「あすか」と命名)に搭載するための設計変更を行い、1985年10月に初飛行に成功した。独特の高揚力型のエンジンの配置で、機体側面の空気の流れを可視化するための装置を付けた飛行時の写真を図19.1に示す。


図8.1 スイープ試験中の実験機「飛鳥」

 このようなエンジンの特殊な搭載の方法は、国土の狭い日本での地方と離島の短い滑走路での離着陸を可能とするためのもので、STOL (Short Takeoff & Landing)機と呼ばれる。実際に、試験飛行では通常の滑走距離の半分にあたる800mで十分であることを実証した。

 しかし、高度成長時代にあった日本では、地方でも大型の空港が続々と誕生し、「飛鳥に明日はない」との迷言と共に、姿を消すことになった。この挫折は、純国産技術に対するエンジンビジネスはもとより、民間航空機産業全体に、大きな影響を与えることとなり、以降国際共同開発一本に絞ることになってしまった。この流れは現在まで続いており、今後も大きく変化する見込みはない。それは、独自の新規エンジンに関する国内での技術の系統化が途切れたためである。国際共同開発では、マーケティングから始まる全体の構想設計と、基本設計中に行われる大手エアラインとの綿密な交渉に関する技術を維持することができない。

 しかし、この成功の実証は無駄ではなかった。イギリスの国立ガスタービン研究所 (National Gas Turbine Establishment : NGTE)でのエンジン試験成功の事実を高く評価したRRは、1978年初頭、推力 10トン・ クラスのターボファンエンジンの共同開発を呼びかけ、直ちにこれに応じた日本との共同作業で1982年には日英両国で各1機の試験用エンジンRJ500を完成し、試験運転が行われた。
 
 エンジンの技術の系統化と伝承は、モノではなくヒトが主であると述べた。第2次世界大戦中に始まったジェットエンジン技術のそれは、イギリスではサー・スタンレイ、日本では永野治によって行われたといっても過言ではない。両国における系統化は、1980年代まで続いた。サー・スタンレイ・フッカー(彼については、第34章で詳細を述べる)は、1977年に日本への共同開発の提案を旧知の永野治に伝えた。私が、共同開発の先遣隊としてブリストルにあるホイットルハウスと名付けられたメインオフィスに一室を構えたとき、彼のオフィスは正面玄関に最も近い位置にあった。
 
 永野治(当時はIHIの副社長)は、直ちにサー・スタンレイの話を社内と関係官庁に熱心に伝えて、国内合意の成立に奔走した。私は、FJR710プロジェクト初期の設計システム班長時代に、毎月の個人指導会で多くの知見を頂いたことは、前章で述べた。


図19.2 ホイットルの業績を示すWhittle House の正面 (RR提供) 

 RJ500エンジンでのワークシェアーは、日本が低圧系のすべて、RR社が高圧系のすべてを担当し、外装やその他の部分で、50対50の関係を保つこととなった。部位によって、開発時の必要投資額と量産時の回収額が異なるので、量産時には相手側に移すことが比較的容易な部分で、50対50の関係を保つことになる。
 契約に関する主な進捗は次のとおり。(15)

 1979年1月 RRと日本側3社(IHI,KHI,MHI)でMOU(了解覚書)の締結、需要予測、エンジン仕様書の策定、事業性の検討、契約書草案の作成
 1979年12月 共同事業計画の調印、Boeing737-300,FokkerF29への搭載を目的として、推力9トン(21,000ポンド)のエンジンを1985年春の型式承認取得を目標に費用負担50:50で行う。協定期間は30年間とし、その間は同クラスのエンジンの開発は、双方とも単独では行わずに、この協定の下で行う。
 1980年4月 RR-JAEL社の設立。日英同数の役員、会長は日英で1年交代、運営委員会の下に6つの作業部会(設計・技術、営業・販売、業務、経理・財務、生産、プロダクト・サポート)
 1983年3月 5か国共同開発の発足により、実質的に失効(以降も技術提供等については継続)


図19.3 RJ500エンジンの担当部位(9)

 しかし、この RJ500 エンジンは、ボーイング社がBoeing737-300のエンジンとしてCFM56-3を選定してしまったため、それ以上の開発は進められない事態になった。また、同時期にすすめられていたP&WのPW2000エンジンも、このGEとフランスのスネクマ社の共同開発エンジンに負け、日英連合に共同開発を提案した。僅かに先行したCFMエンジンに対抗するためには、推力を130席用から150席用に増す必要があり、日英はそれに同意した。
この合意により、P&WグループのMTU(当時の西ドイツ)およびFIAT(イタリア)が加わり、1983年スイスにIAE(International Aero Engines AG) という名称のエンジン製造会社が5か国間で設立され、V2500エンジンの開発を開始した。名称は、五か国を表すVと、PW2000とRJ500の足し算をも意味する。V2500のワークシェアーは、当初は次の通りであった。
P&W ; 燃焼器と高圧タービン、RR; 高圧圧縮機
JAEC(日本航空機エンジン協会);ファンと低圧圧縮機
MTU;低圧タービン、 FIAT;ギアーボックス


図19.4 V2500断面図(担当部位色分け)(9)

 この国際共同開発エンジンはエアバス A320 やマクドネル・ダグラス MD-90 等に採用され、2019年度末までに7,737台を納入する大成功を収めることになる。
しかし、この間に詳細設計と製造技術に関しては、国際競争に伍するだけの技術を取得したが、シェアーが50%から19.9 %に減ったために、エンジン全体の構想設計と基本設計に参加するチャンスを失った。さらに、もっとも重要であるマーケティングについても機会を失い、以降は民間航空機産業の分野では、エンジン製造会社からエンジン部品製造会社への道を辿ることになる。(最終的には、シェアーが23%、FIATとRRが撤退した)

 RJ500からV2500への乗り換えは、当時の資金と人員などの事情からはやむを得ないことであった。しかし、歴史上唯一無二の対等な関係を捨てることの重大さが正しく認識されていたとは言い難い。RJ500は、RR-JAEL(Rolls Royce & Japanese Aeroengines Ltd.)という名前の会社の下で行われ、将来もこのクラスのエンジン開発は共同で行うとの合意ができていた。V2500に参加する際に、JAEC単独ではなくもしこの組織として参加をしていれば、全体の50%のシェアーを保つことができたはずである。しかし、自国の利益を優先するためのシェアー争いの中では、将来にわたってエンジン全体の計画や基本設計に留まるいう戦略はむなしく消えてしまった。 

参考・引用文献
(1)Wikipedia「ジョン・ストリングフェロー」https://ja.wikipedia.org/wiki/ (2020.4.5)
(2)黒田光彦「プロペラ飛行機の興亡」NTT出版(1998)
(3)吉中 司「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」日本ガスタービン学会誌(2008)p.169-175
(4)Wikipedia「航空に関する年表」https://ja.wikipedia.org/wiki/A8(2020.4.5) (2020.4.5)
(5)Wikipedia「スピリットオブセントルイス号」https://ja.wikipedia.org/wiki/(2020.4.5)
(6)Wikipedia「Boeing247」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pratt_and_Whitney_Wasp.jpg (2020.4.5)
(7)Wikipedia「J57エンジン」https://ja.wikipedia.org/wiki/BC_J57 (2020.4.10)
(8)T.J.ピーターズ、R.H.ウオ-タマン「エクセレント・カンパニー」講談社(1983)
(9)「航空機エンジン国際共同開発20年の歩み」日本航空機エンジン協会(2001)

ジェットエンジンの技術(15)第2世代(1970年代)の民間航空機用エンジン

2024年05月14日 07時19分21秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第18章 第2世代(1970年代)の民間航空機用エンジン

この時代の民間航空機は超大型の全盛期でジャンボジェットと呼ばれたボーイング747、ロッキード L-1011 トライスターとマクドネル・ダグラスDC-10 の三つ巴の競争の時代であった。それらの機体への搭載エンジンは、米国のGEとP&W、英国のRRに限られ、その3社独占体制は、これ以降現在も続いている。エンジンは、それぞれCF6、JT9D,RB211シリーズで、頻繁に改造型や推力増強、または敢えて推力を下げたエンジンなどが開発された。ここでは、CF6シリーズに限って述べることにする。後述するように、民間航空機用エンジンは、その競争の激しさから、最終的には同じ性能のエンジンになってしまう宿命なのだからである。

18.1 大型エンジンのシリーズ化

 TF39の民間用として開発されたCF6-6は、マクドネル・ダグラスDC-10に最初に搭載され、1971年8月にサービスを始めた。単段のファンとブースター段を5段の低圧タービンが駆動、16段の高圧軸流圧縮機を2段の高圧タービンで駆動する形式で、圧縮比は24.3であった。ファンの直径は86.4in(2.19m)で、41500lbの推力を発揮した。さらに後年、後継としてCF6-50シリーズを、推力を46,000-54,000lb(205 to 240kN)に増強して開発を続けた。

 また、エアバスA300にも採用され、1971年にエールフランスがローンチ・カスタマーになり、さらに1975年にはKLMが最初のCF6-50エンジンを搭載したボーイング機の発注を行った。さらにCF6ファミリーは、CF6-80へと発展することになった。高圧圧縮機は14段となり、2段減らすことに成功した。CF6シリーズの寿命は飛び抜けて長く、2000年代になっても、なお改良型が開発された。それらの中には、全日本空輸がボーイング747SR(国内便のショートレンジ)専用として推力を落としたCF6-45も含まれる。また、他の派生型として産業用と船舶用に開発され、LM6000シリーズと称して高速船舶や艦船に多く搭載されている。

 このように、一旦開発された新型エンジンは、その後数十年間に亘って改造がすすめられることが常態化した時期でもある。このことから、以後のエンジンでは、派生型への変更が容易になる工夫が、設計当初から基本設計に盛り込まれることになった。エンジンの開発費を単独エンジンだけで回収することは、ほとんど不可能であり、エンジン会社は派生型で資金回収を図るビジネスモデルを構築せざるを得なかった。そのために、新規開発エンジンの受注を、大きなエアラインから得ることへの競争が、ますます激しくなった。
 
 最も多く使われたCF6シリーズのエンジンの例を以下に示す。
CF6-6 の搭載機;DC10-10
CF6-50の搭載機;AirbusA300B、DC10-15/-30、KC-10、Boeing747-200、747-300
CF6-80Aの搭載機;AirbusA310-200、Boeing 767-200
CF6-80C2の搭載機;AirbusA300-600/R/F、A310-200/-300、
Boeing 767-200/200ER、767-300/-300ER、767-400ER、E-767/KC-767、747-300、747-400/-400ER、MD-11、C-5M 、
川崎 C-2
CF6-80E1の搭載機;AirbusA330-200/-300、A330
最大出力(Lb.);41,500~72,000。高圧圧縮機の段数;14段~16段、バイパス比;4.24~5.92。これらのエンジン仕様は幅広く変化をしており、50年以上にわたって派生型が使われ続けている。

18.2 国内の状況


 一方、日本では純国産エンジンの研究の機運がたかまり、政府主導の大型プロジェクトとして進められることになった。FJR710は、日本の独自技術のみによって研究された高性能ターボファンエンジンである。1971年から2期に分け合計10年間をかけて、旧通商産業省(経済産業省)工業技術院の大型プロジェクト制度の下に研究開発され、推力5トン(12000lb)、燃料消費率0.34、バイパス比6を目指した。
 この研究は、第一期1971-75年度で総開発費67億円、第二期1976-81年度で、総開発費185億円(当初、その後減額されて130億円)として行われた。技術面の詳細については、後に述べる。


図18.1  FJR710 / 20 (IHI提供)

ジェットエンジンの技術(13)第16章 ターボジェットの時代(1950年代)

2024年05月01日 16時13分27秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第16章 ターボジェットの時代(1950年代)の民間航空機用エンジン

 この期間には、設計と生産技術の急速な進歩により、航空機の実用化が一気に進んだ。それは、このことが軍事面と民間面の双方で国力を左右するほどの産業と見なされ、特に英米で精力的に投資が続けられたことによる。大きな技術変化としては、 当初は、遠心圧縮機が簡潔・高信頼性の両面での優位性で用いられていたが、高速化に伴い、前面面積の小さい軸流圧縮機に変化していったことが挙げられる。また、アメリカではアフターバーナーを取り付けたジェットエンジンを戦闘機に搭載し1953年には音速の壁を破ることに成功した。

16.1 大洋横断用の大型エンジンの開発 

 ガスタービンは、間欠燃焼のピストン機関と比べて連続燃焼のために、小型・軽量で高出力が可能になる。つまり、ガスタービンは当初から航空用としての申し子の特質を備えていたと云うことができる。また、大量の空気流を必要とするが、高空では空気が清浄で圧縮機内の汚れが起こらず、出力逓減がほとんどない。さらにこの時代ではジェットの排気処理も気にせず、また騒音も上空では問題にならなかった。このような要因により、航空機用として、20世紀後半は航空用のガスタービンが全盛となった時代ということができる。
 しかし、発明当初からの問題であった熱効率の向上のためには,高温連続燃焼に耐える新材料の開発と高温部の効率的な冷却設計技術が必須となる。さらに、その双方に対して、超合金の精密鋳造と難削材の精密加工が高い信頼性により保証されなければならない。このために、エンジンの技術的な進歩は、その後約10年刻みで、段階的に進むことになった。

 圧縮機とタービンの空力性能が向上すると、主要エアラインからは、より大きな推力のエンジンが求められるようになった。しかし、圧縮機の段数が多くなると、低回転状態での低圧側と高圧側での流れが安定せずに、エンジンの始動が困難になった。そこで、圧縮機を二分割して、低圧圧縮機を低圧タービンで、高圧圧縮機を高圧タービンで駆動するという、2軸ターボエンジンが開発された。この発明によりP&W社は圧縮比13.1のJT3エンジンの開発に成功した。当時のRRのエイヴォンは6.5、GEのJ47エンジンでは5.1であった。


図16.1 アメリカ空軍のJ57 (JT3の米軍用識別番号)(9)

 1950年代の民間航空機の開発競争は、デハビラント社のコメットにより始まった。1949年に初飛行に成功後、改良を重ねて1951年1月に最初の量産型が英国海外航空に納入された。速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機は、航路開拓も兼ねて2年間の準備期間を設け、その間に2機の試作機が世界各地に飛来し大評判になった。
1952年5月には初の商用運航が英国海外航空により実現し、ヒースロー-ヨハネスブルグ(ローマ、カイロ、ハルツーム、エンテベ、リビングストン経由)間での所要時間を一気に半減させた。 エンジンは、DHエンジンズ社のゴースト4機であったが、1953年にRR Avon503に換装された。

 コメット機は、従来のプロペラ機と航続距離が同様であり、大西洋横断路線の無着陸横断は不可能であった。しかし、従来の2倍の速度と定時発着率の高が実証され、ピストンエンジンと違い振動も少ないなどの快適性もあり、初年度だけで3万人が搭乗する人気であった。就航から1年の間に高速機に不慣れなパイロットの操縦ミスにより3機が離着陸時の事故で失われたが、乗客に死者は出なかった。

 しかし1954年1月に、イタリア近海を飛行中の英国海外航空機が墜落し、乗客乗員35人が全員死亡した。回収された残骸の状況などより空中分解が疑われ、英国海外航空はコメット全機の運航を停止した。
その後耐空証明を取り消されたが、問題部分と思われた個所を改修後に運航が再開された。しかし運航再開後の同年4月にも、イタリア近海を飛行中の南アフリカ航空機が墜落し、乗客乗員21名が全員死亡した。この二度目の空中分解を受けてコメットは再び耐空証明を取り消され、全機運航停止処分になり、そのまま姿を消した。空中における事故は、直ちに全員の死亡事故に繋がるために、特に民間航空機用エンジンの空中停止(in flight shut down)には、十分な配慮が加えられることとなっていった。

 その間に、米国ではボーイング社が大陸横断を可能にする大型の旅客機(Boeing707)を開発するために、大推力のエンジンを必要としていた。採用されたのは、P&WのJT3エンジンであった。これにより米大陸横断飛行時間は、半分以下にすることができた。
 さらに、パンアメリカン航空がニューヨーク-ロンドン間の飛行計画を実現するために、更なる大推力エンジンを要求し、P&W によってJT4エンジンが開発された。両エンジンの比較を(図16.2)に示す。



図16.2  JT3とJT4エンジン諸元の比較(3)

 JT4エンジンを搭載したパンナム機は、ニューヨーク-ロンドン間のコメット機の市場を完全に奪うことに成功した。新型の大型のエンジンを搭載した大型の航空機が、市場優位になる基礎が出来上がった時代となった。


図16.3  JT4エンジンのカットモデル(JAL提供)

このエンジンは、DC8機に搭載されFUJI号(識別番号JA001)として日本で活躍した。成田の整備工場にカットモデルが展示されている。

16.2 ターボファンエンジンの開発
 しかし大型化されたエンジンが排出する高速の排気ガスは、騒音問題を引き起こした。そこで、エンジンからの排気ジェットの速度を落とす対策が考えられた。ターボファンエンジンである。この理論は、1936年にホイットルが特許を取得していたが、エジンの要素効率が悪く実現はしていなかった。P&Wは、先に開発されたJT3エンジンの改良型のJT3Cエンジンにこの改良を加えて、JT3Dターボファンエンジンの開発に1958年に成功した。このエンジンを搭載した新型機は、離陸時の騒音を10デシベルも低減することに成功した。このエンジンは、20年間に亘り軍用機用も含めて8000機以上が生産された。この成功により、ターボジェットからターボファンへの変更が急激に進むことになった。

 DC8機は1958年に初飛行し、JALを含む太平洋横断飛行に多く投入された。1972年に生産が終了したが、多くの機体はまだ世界中で活躍している。例えば、機齢50年超の機体は国際ボランティア医療団の所有機として非常時の緊急輸送に従事し、新型コロナでも医療用機器を輸送した。大量の貨物と人員の安全輸送は、健全なエンジンのお蔭である。


図16.4 JALのDC8に装備搭載されたJT3D-3B
(JAL工場にて筆者が撮影)

 一方で、英国では異なる動きが続けられていた。ターボジェットエンジンの分野で独走状態にあったドイツの技術者は、敗戦と同時に米ソが招聘していたため、彼らの経験は使えずに、英仏は独自開発を余儀なくされていた。ロールスロイス社は、独自にエイボン・シリーズエンジンを開発した。このエンジンは、堅牢な設計のために多くの転用型も開発され、航空機用の生産は1950年から1974年までの間に11000台以上が生産された。また、RRはこの技術を用いて、船舶・産業動力向ガスタービンエンジンの分野への進出も盛んに行なった。

 世界の民間航空業界における大型ジェット旅客機の優位性は1950年代後期に完成された。従来の大型レシプロ旅客機を遥かに超える定員100名超の輸送力と、高空におけるマッハ0.8クラスの巡航速度を両立させた。この二つは、21世紀の今日もなお踏襲されている。また、この期間に開発されたターボファンエンジンは、これ以降の大型エンジンの主流となり、燃焼器を通過しないファン流量と燃焼器を通過する流量の比を表すバイパス比は次第に向上するものの、基本構造としては今日まで踏襲されている。また、JT3やエイボン・エンジンに見られるごとく、民間機用エンジンを軍用機用に改造、またはその反対に軍用機用を民間機用改造する手法も、それ以降踏襲されている。

ジェットエンジンの技術(12)第15章 実用化初期(その2)

2024年01月29日 08時07分14秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第15章 実用化初期 1940年代までの歴史(その2)

 1919年から1930年前半は、15世紀の大航海時代になぞらえて、大飛行時代ともいわれる。コロンブス等と同じく、大西洋横断やアジアへの空路の開発が各国により競われた時代だからである。多くの飛行記録が達成され、主要国は、航空会社を設立した。その多くは、現在も存続している。その結果、航空機を持たなかったスペインとポルトガルは、中南米での権益に大きな打撃を受けることになった。
 
 速度の問題が解消されると、長距離飛行への課題はもっぱらエンジンの信頼性であった。つまり、IFSD (in Flight Shut Down、飛行中のエンジン停止) が最大の問題であった。特に点火系と冷却系に問題があったと云われているが、私の経験では、それは1950年代の乗用車と全く同じといえる。電解質である水が、銅製のラジエターと鉄製のエンジンを高温で巡るので、問題の解決には冷却液を変更する必要があった。航空機の運航会社にとっては、安全性と信頼性の確保は最重要課題であり、このための技術が次々と開発された。
 
 転機となったのは、1927年5月のC.リンドバーグのニューヨーク・パリ間の33時間5810kmの無着陸飛行の成功であった。この飛行は第1次世界大戦前に提案された「オーディグ賞」の獲得が目的で、それ以前に何人もの死者を出していたが、彼はその賞金25,000ドルと世界的
な名声を得た。

 この飛行の成功には、いくつもの理由付けがある。諸説は、彼の若さと勇気、翼型を始めとする飛行機の性能向上を挙げているが、やはり、エンジンの信頼性の進化が最大の理由であった。この機体の搭載エンジンはライト・ホワールウィンドエンジンと呼ばれ、1923年に米国のカーチス・ライト社が開発した航空用エンジンであり、一連のワールウィンドシリーズの始祖となった。1920年代のアメリカやオランダ等の多くの航空機に使用された。(5)


図15.4 リンドバーグによる大西洋横断飛行の成功(5)

 一般の旅客機としては、1933年には乗客10名を乗せることのできるBoeing247が運航を始めた。さらに、1938年には客室の与圧を行ったBoeing307が運航を始めた。このBoeingの機体はユナイテッド航空が一手に引き受けたために、TWAとアメリカン航空は、ダグラス社に依頼してDC2型機の開発を依頼して、これを導入した。

 P&W R-1340が機体に搭載されたP&Wの最初のエンジンであり、その後ワスプシリーズとして合計34,966台のエンジンが生産された。ちなみに、P&W社は1925年にF.B.Rentschlerの発案により設立された。同社が配布しているカタログの冒頭には、次の言葉が述べられている。「the best aircraft could only be built around the best engine」。また、「aviation could progress beyond a one-man show only through larger aircraft, capable of greater speed and range」として、その後のエンジン技術の発展に貢献した。
                          

図15.5 Boeing247に搭載されたP&W R-1340エンジン(Wikipedia)

 第2次世界大戦中に軍用機用に大型化されたレシプロエンジンは、終戦直前から民間機用に転用が始まった。ボーイングB-29爆撃機(太平洋戦争末期の日本本土空襲に多数導入された)を原型としてC-97ストラトフレイター輸送機が開発され、1944年11月に初飛行した。エンジンはP&W R-4360エンジンに換装された。
 さらに、大型・長距離旅客機Boeing377がC-97を基に開発、大戦後の1947年7月に初飛行し、パンアメリカン航空のニューヨーク― ロンドン線に就航した。この機体は、日米路線にも多く投入され、映画評論家の淀川長治が黒澤明の代理としてアカデミー賞授賞式に出席する際や、マリリン・モンローとジョー・ディマジオが新婚旅行で日本を訪れた際にも使用された。
また、同年初飛行のダグラスDC-6は、客室を与圧して700機を超すベストセラー機になった。この機体は日本航空にも採用されて、ジェットエンジンを搭載して1958年初飛行に成功したDC-8の登場まで長距離機として多くのエアラインに採用された。一方で、これらの登場によりクイーンメリー号などの豪華大型客船による大西洋横断航路は急激に衰退した。
このように、軍用機として開発された航空機を、直後に民間機に改修することは、新型機の開発のコストを軽減するために頻繁に行われた。この手法は、機体では続かなかったが、エンジンでは20世紀末まで行われていた。

15.2 ピストンエンジンからジェットエンジンへの切り替え

 1940年代後半では、運行中の旅客機はレシプロエンジンが主流であったが、エンジン製造会社は、次第に大型のジェットエンジンの開発に集中していった。
 P&Wは、1947年にすべてのピストンエンジン関連事業をカナダのP&Wに移管し、ジェットエンジン専門会社となった。海軍との契約で、PT2ターボプロップエンジン(出力6000hp, 4.2MW)、更に翌年にはJT3ターボジェットエンジン(出力3.7ton, 36.5kN)の開発を始めた。また、量産としては、1947年から海軍用にJ42ターボジェットエンジンを生産したが、これはホイットルのW2エンジンの発展型をRolls-Royce社から技術導入したものであった。
他方、GEはRolls-Royce社の技術を全面的に導入した。第2次世界大戦末期における、英国政府とRRの決断については、第12章で述べたが、具体的にはこのようであった。
 
 当時、レシプロエンジンで大成功を収めていた米国のエンジンメーカーは、ジェットエンジンの旅客機への採用には消極的だった。吉中 司は「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」の中で次のように述べている。
 『1941年10月1日 , 分解されたホイットルW1-X型エンジンとPJ社の技術陣が 、イギリスから空路アメリカに到着する。アメリカ陸軍航空隊は,すでにターボ過給機でずいぶん経験のあるゼネラルエレクトック(General Electric)社をジェットエンジン製作会社として選んでおり, PJ社技術陣の助けを得てW1-X型エンジンのコピーを、GE1-Aという名称で製作し、1942年3月18日、GEのマサチュセッツ州リン市の工場で地上試験を開始している。』(p.58)(3)
 これにより、米国でのジェットエンジンの開発・製造が開始されることになった。さらに、敗戦国ドイツからはフォン・オハイン博士を始めとする大人数の科学者と技術者が米国に移住することになり、米国産のエンジンは急速な発展を遂げることができた。
 一方で、日本では空白の7年間の期間中であり、一切の航空機用エンジンに関する活動は行われなかった。

ジェットエンジンの技術(11)第15章 実用化初期(その1)

2024年01月21日 12時21分23秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第15章 実用化初期 1940年代までの歴史

 1903年のライト兄弟による動力有人飛行の成功以前にも、動力飛行機は存在した。ウィリアム・サミュエル・ヘンソン(William Samuel Henson, 1812- 1888)はイギリス生まれの発明家で、彼が1840年代に構想した「空中蒸気車」は固定翼、推進力、降着装置、尾翼など後世の飛行機の特徴の大方を備えた先駆的なものであった。この、固定翼と動力を組み合わせたのはヘンソンが史上初とされているが、実機は製作されず構想のみに留まった。

 しかし、彼の協力者であったジョン・ストリングフェロー(John Stringfellow, 1799 - 1883)は、ヘンソンが飛行機械開発を断念した後も独自に研究を続け、1848年に蒸気機関を積んだ単葉の模型飛行機(図6.1)をわずか10 ft(3 m)だが飛ばすことに成功したとされる。

 その後約20年間は飛行機開発から遠ざかるが、1馬力の蒸気機関で動く三葉の模型飛行機を製作した。これは総重量が16 lb.(約7 kg)という軽量さを実現しており、1868年にロンドンの水晶宮における航空博覧会で公開飛行に供せられた。固定翼の動力模型による、史上初の公開飛行とされている。(1)


図15.1 ストリングフェローの単葉飛行機(ロンドン科学博物館)(1)

 ヘンソンとストリングフェローは、ことにあたって国際企業「空中輸送株式会社」を起業しており、世界初の民間航空会社ということができる。これ以降、英・米・仏では膨大な数の民間航空事業への試みが行われたが、いずれも膨大な資金の調達に苦労をした。当時の技術は、現代のものとはかけ離れているので、本稿では省略をして、第2次世界大戦後の進化の歴史を10年刻みで辿ることにする。それは、エンジンの性能が、ほぼ10年刻みで飛躍的に向上したためで、その歴史を図15.2に示す。


図15.2 第1世代から第6世代までのエンジン性能の進化

 20世紀に入ると、航空機開発熱は欧米で急速に高まり、毎年多くの起業や飛行が行われた。そのすべてを列挙することはできないが、特に第1次世界大戦では、偵察機、戦闘機、爆撃機など多くの軍用機が開発された。それを受けての大戦直後の1919年と1920年の2年間の、民間航空機分野では激しい動きは、欧米の主要国間でのフラッグ・キャリアーの育成と、国際間の主要航空路の争奪戦が開始されたことを示している。
 
 それは、これ以降延々と続く国家の威信をかけた競争の前触れであった。また、様々な競技会の開催などにより、軍用機よりも民間航空用の方に圧倒的な開発熱が喚起されて急速な発展を遂げ時代でもあった。欧米各国のこのような経験の積み重ねにより、民間航空機用エンジンは製造技術と信頼性を次第に獲得し、1930年代には大型旅客機による定期航空路の開発が始められるまでに発展した。

15.1 レシプロエンジンの旅客機
 
 飛行機の開発熱は急激に高まったが、動力源としてのジェットエンジンの開発は容易には進まなかった。一方で、技術的に着実なレシプロエンジンの進化は急激に進んだ。特に1920年から1939年の間は航空機の「熟成の季節」とも云われている。現代でもそうであるが、航空機とエンジンは製造面での裾野が広い。二つの大戦に挟まれたこの期間は、鉄工業を始めとして多くの産業が育った時代であった。その中にあって、旅客機の定期航空路の成否は安定した飛行速度の獲得であった。当時の飛行機はエンジン性能が十分でなく、向かい風では大幅に速度が落ちてしまい、例えばパリ・ロンドン間でも向かい風では途中で燃料切れを起こす始末であった。そのために先ず行われたのは、エンジンの出力を増すことであった。
初期に適用された技術は、既存のエンジンを改造するもので次のものがある。(2)

① ピストン頭部を加工して、シリンダー内の圧力をあげる
② 出力上昇に合わせて、燃料の混合比をあげる
③ 過給機を装備する

 しかし、このような改善ではまだ定期航空路の開設には適しておらず、もっぱら当時盛んに行われていたスピード競争に優勝するためのものであった。その一つに「シュナイダー杯」がある。あのアニメ映画「紅の豚」に出てくる水上飛行艇による速度競争で、長期間継続された。その優勝者の記録を図15.3に示す。


図15.3 シュナイダー杯の勝者の記録(2)

 この間に行われた技術の革新は、エンジンの水冷方法と過給機(エンジンの場合には、スーパーチャージャーと呼ばれる)の改善であった。通常のラジエターでは空気抵抗が増すために、翼面に多数の真鍮や銅管を流れに沿って這わす加工が行われた。また、エンジン軸の後端に増速ギアーを介してターボ式の過給機を付けて、そこから気化器をとおしてシリンダーに燃料と圧縮された空気を送り込む過給機も開発された。(2)

続く

第14章 日本での実用化と7年間の空白(その3)

2023年12月31日 07時19分58秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
14.2.3 日本ジェットエンジンという会社

 禁止期間が終了すると、直ちに1953年に石川島重工、三菱重工、富士重工、富士精密、後に川崎航空機が出資による日本ジェットエンジン㈱(以後,NJE)が設立された。通産省の補助金を受けて、J01, J1, J2などのエンジン試作と試験が続けられたが、搭載する機体の具体的な計画までは進められなかった。会社の設立当時の状況について、プリンス自動車の社史には、次のような言葉が記されている。
 『ジエット機、とくにそのエンジンの試作研究については、ばく大な費用を要するものである。欧米における研究も、各国政府の多大な援助によってそれぞれ達成せられたものであり、更にその性能向上のために、引続きあらゆる援助を与えているのが実状であった。
 これに反し、わが国においては、航空機工業再開直後のことでもあり、ジエット・エンジンの研究開発に対する政府の基本方針も確立されておらず、加うるに、敗戦による復興経済の途上にあって、企業はいまだ資本蓄積も充分でなく、個々の企業が独力でこの研究にたずさわる程の体制には、到底達してはいなかったのである。いわんや、こうした新事業の開発にみられ勝ちな、排他的研究態度をとられるにおいては、ジエット・エンジンの早期開発は望むべくもなかったのである。
こうした情勢の中で、通産当局は、航空機生産審議会の答申もあって、政府出資の国策会社設立を計画し、関係機関協議の結果、とりあえず第1 段階として、石川島重工業株式会社、富士重工業株式会社、富士精密工業株式会社、新三菱重工業株式会社4社の共同出資によりジエット・エンジンの研究開発会社を設立することになった。』(pp.231)(11)
 
 日本ジェットエンジン㈱が1967.8に関係者に配布した「社史」がある。この書には、発行日も発行社名もない。私の手元にあるのは、今井兼一郎氏に送られた1冊であり、添付の送り状の日付は昭和42年8月となっているので、それを発行日とした。
 内容は、本文が41ページで、そのあとに全従業員の名簿が続いている。先ずは、その中から我々がお世話になった方々を拾ってみる。ちなみに、社長は植村甲午郎である。



 取締役 土光敏夫
 研究部長 永野 治
 第1研究課員 石田一男
 第2研究課員 飯島 孝
 第2設計課長 今井兼一郎
 第2設計課員 土光陽一郎、杉山佐太郎、関根正信、村島完治
 工作技術課 榎本喜一  試作部次長 板垣乙吉
まだまだ数名おられるが、いずれも「ひとから、ひとへの技術の伝承」でお世話になった方々だった。

年表によると次のような経緯を辿っている。
 昭和28年7月23日創立 資本金 4000万円(その後、毎年増資)
 昭和29年7月31日 JO-1組立完了 同年12月15日 運転開始
 同年10月1日 J1 試作着手見合わせ、同日 J2設計着手
 昭和30年4月1日 J2設計中止
 同年6月11日 本社田無に移転
 同年12月25日 JO-1 運転実験打切
 昭和31年3月31日 防衛庁よりJ3エンジン3基受注
 同年11月16日 J3 第1号機(#31)組立完了
これ以降、順次試運転が行われたが、圧縮機破損、サージング発生、ベアリング破損、タービン翼破損などが、連続して発生している。
昭和34年10月1日 設計業務石川島に移管(前日に、多くの技術者は退社)
同年12月31日 技術関係残留社員全員退社
昭和35年4月30日 残務整理残留社員全員退社

 「まえがき」には、『戦後わが国航空機工業再建の要請に応え、いち早く航空エンジンメーカーが大同団結をして、・・・。』とあるが、それが防衛庁からの受注も順調に進む中、多少の開発遅れのために、わずか数年で解散してしまったことと、それから20年ほど後に、全く同じことを繰り返した歴史の理を知ることを目的とし読み進める。

 20年後の繰り返しとは、V2500エンジンの開発作業のさなか、それまで一致団結して設計にあった設計統括班を解体するばかりか、総ての設計グループを解散して、各社に戻してしまったことを指す。ジェットエンジンの開発には、巨大な資金とリスクが伴う。特に開発資金の回収には、機体製造会社の数倍の期間を要する。従って、世界に伍する産業として成長するためには、日本の一企業では、到底勝つことはできない。さらに、エンジンの設計についていえば、それは個別システムの統合作業にあらず、全体を一つのインテグレートしたシステムとして考えなければ、一つのエンジンを完成ささることはできない。 
 バラバラになった組織下でのジェットエンジン産業は、防衛庁の要求を満足させるエンジンの設計はできても、世界市場に乗り出すエンジンの開発は不可能であると考える。なぜ、同じことを繰り返されるのか、その理由をこの社史の中に見つけたように思う。

 既知のように、昭和27年4月の解禁と共に、大宮富士重工㈱が320万円の補助金を受けて、研究試作を開始、また、石川島重工業㈱は、駐留米軍からジェットエンジンを借用して、研究調査を始めた。しかし、『欧米に著しく引き離されてしまった現実を思えば、この際むしろ各社一致協力して、これに当たるべきことは当然考えられるべきであろう・・・。』(p.5)とある。

 そして、設立時の「覚書」は、『次の各項を誠意を以って遵守し、違反しないことを約する。』(p.6)として、15の項目が述べられている。しかし、そこには官製のために、いくつかの無理があることが見受けられる。それは、第5条の「役員は4社同数とする」、「もし合併が行われた場合には、権利は1社分として再配分する」、「将来当事者間に紛議を生じた場合には、通産大臣はその指名する者の裁定によって、・・・」などであり、ある一社の独走を敢えて阻む内容になっている。困難な開発作業をすすめれば、当然主導的な役割を果たすチームが必要になるが、私には、そのことを敢えて認めない内容に思える。そのことが、新エンジンの設計上でいかに重要であるかは、私のV2500とGE90エンジンでの経験が示している。

 続いての「設立趣意書」では、復興中の日本にとっての重化学工業の振興が、いかに重要であるかが述べられている。つまり、狭い国土と人口稠密、資源不足であるが、その条件は現在もなんら変わりはない。当時は、多くの若者の命が失われて、若者不足の老齢社会であることも共通している。

4項目の「従業員」の特徴は、総務部長に通産省の役人を充てたくらいであり、後は至極普通と思われる。
7項目は「親睦会」とある。中核社員である出向者は、親会社の組合に属しており、早くから「親睦会」が発足した。このこともJAECと酷似している。もっとも、我々の場合は、単なる飲み会であったが、これが毎週のように行われた。
8項目の、「エンジン開発経過」には、多くの写真が収録されている。「大宮作業所運転場」、「富士重工の燃焼実験装置」、「富士精密の補機実験装置」、「石川島の翼回転試験装置」、「日本精工の軸受試験装置」、「田無の高速翼列実験装置、燃焼実験装置、様々な加工機械」などであり、このこともFJR710やV2500と同じである。ただし、FJR710の場合は、多くの回転実験装置は航空技術研究所にゆだねられていた。
 特筆事項としては、新明和工業が防衛庁のC46輸送機をFTBに改造して、J3エンジンを胴体下に懸吊して、機内には運転計測室を設け、高空再着火試験を行ったことが記されている。このことも、同様なことがFJR710で再現された。
 そして、最後に、本題の第12項の「事業中止」の項目が、僅か2頁で語られている。これでは、教訓を残すには不十分と言わざるを得ない。しかし、この様なことの再発防止の教訓が遺されていれば、後のJAEC設計統括班の解体は免れたかもしれない。

 冒頭は、『J3エンジンの基本的開発が完了し、その生産が石川島で行われることになったので、今後事業を継続して行くために、新たなる目標を何に置くべきか、我が社としては重大な死活問題に直面するに至った。』(p.37)で始まっている。
 どうも、散々資金を投入して完成されたエンジンの製造が石川島一社に独占されてしまい、他の4社が、追加資金の供出を拒否したことが主原因と思われる。石川島から「製造権実施料」を取って、資金に充てる案も検討されたが、防衛庁からのみの受注量に期待が持てないとのことで、沙汰止みとなった。そして、会社の解体は必然となってしまった。
 
 このような経緯を見れば、後の歴史は必然的に起ったと言えよう。要は、組織の在り方だった。実際、RJ500もV2500も同等な権利を有する開発組織では、開発中に色々な問題が生じたときの対応の調整は困難を極めるし、その時の時間と経費の浪費は膨大である。 GE,PWA,RRでの経験者は、そのことを知って、二度と同じ組織形態は望まなかった。即ち、その後は、ある一社がプライムになり、共同開発相手を募集して、個々に参加条件を決めて、単機種の開発にあたると云う組織形態である。 
 その様な中で日本の個々の会社では、プライムになるには、あまりにも力不足で、RSPに甘んじざるを得ないのは、当然と思える。やはり、歴史上唯一のチャンスは、RRとの50対50のRRJAEL社で、それは、当時の英国と日本の特殊な国情下でのことだった。そのような政治情勢の偶然は、もう二度と訪れることはない。

14.2.4 JRシリーズの研究のはじまり


 1939年に設立された東京三鷹の逓信省所管の中央航空研究所の後を受けて、1955年に改めて総理府に航空技術研究所(NAL)が設立されて、それ以降の民間航空機用エンジンの研究の中心的な拠点となった。しかし、NATO戦略の一部に組み込まれた西ドイツと比べて、防衛との関係を一切遮断した研究は、実用とは離れたものと言わざるを得ない状態だった。

 民間航空機用では、すでに欧米に大きく差をつけられており、当初この研究所が扱ったのは、垂直または短距離離着陸機用のエンジンであった。日本の狭い国土と短い滑走路に適した航空機とエンジンの研究に終始することになる。そこで必要なのは、各種の要素試験装置であった。このために研究所の設置に続けて、直ちに第1次6か年計画が実行された。主な設備は、空気源、圧縮機試験用、タービン試験用、実機燃焼器用、小型航空燃焼器用、高速翼列用、構造強度試験用、軸受試験用などの試験設備であった。(10)そして、技術的な研究を主目的とした研究用エンジンJRシリーズが始まった。幸い、全て要素に対して、試験設備が整えられていたので、多くの研究論文が発表された。また、それらを組み合わせて、要求性能を満足できるエンジンの設計も可能だった。

 一つは、垂直離着機用エンジンであり、もう一つは短距離離着陸用エンジンだったが、前者が先行した。いわゆる「リフト・ジェットエンジン」である。このエンジンに第1に要求されることは、軽量化であり、世界一の推力重量比の達成が目標とされた。
 まず、JR100エンジンで推力重量比10の実現が試みられ、既存の材料と加工法で実現するための構造設計がすすめられた。このエンジンは、垂直離着陸機VTOLのエンジンの姿勢制御の研究に用いられ、1971年に試験用テストベットの自由飛行に成功した。
 つづいて、JR200,220の設計が行われ、推力重量比15を達成した。このためには、サイクル温度の高温化技術が必須であり、各要素の性能向上の中で、特に高温タービンの研究への注力が続けられた。


図3.9 JR100エンジン(10)

第14章の参考・引用文献;
(1)「日本の航空宇宙工業戦後史」日本航空宇宙工業会(1987)
(2) 林 貞助「旧陸軍試作の補助ジェットエンジンの全貌(その2)」日本ガスタービン学会誌、5-17(1977)
(3) 「幻のジェットエンジン「ネ-230」」日立製作所、日立タービン60周年記念会(2010)
(4)八島 聰「翼列失速フラッタに関する研究」東京大学博士論文(1977)
(5)芹沢良夫「変転の日々に生きて」日本機械学会誌87-793 (1984)
(6)棚沢 泰「極限状態でのネ-20」日本ガスタービン学会誌10-40(1983)
(7)長島利夫「ガスタービンの発明と技術変遷―航空用エンジンを主テーマに」日本ガスタービン学会誌36-2(2008)
(8)大槻幸雄、「日本における発達・開発process全体像」日本ガスタービン学会誌 36-3(2008) p.180-183
(9) R.C.ミケシュ「破壊された日本軍機」石澤和彦訳、三樹書房(2014)
(10)松木正勝「国産ジェットエンジンの開発」日本ガスタービン学会誌(2000) p.346-351
(11)「プリンス自動車株式会社 社史」(1997)
(12)「IHI航空宇宙30年の歩み」石川島播磨重工業(1987)
(13)前間孝則「ジェットエンジンに取り憑かれた男」講談社 (1989)
(14)八田圭三「ジェットエンジン再開」日本航空宇宙学会誌、第33巻 第374号(1985)


第14章 日本での実用化と7年間の空白(その2)

2023年11月27日 12時48分51秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第14章 日本での実用化と7年間の空白

14.2 空白の7年間の影響

 日本は敗戦によって1945年から7年間、航空に関するすべての研究、開発、製造が禁止された。具体的には、昭和20年8月15日の無条件降伏後、8月24日には日本国籍のすべての航空機の飛行禁止、9月22日には「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表されて、全ての軍用機と民間機の破壊が開始された。さらに、11月18日にはGHQからの覚書が発表されて、航空機に関する生産・研究・実験を始めとする一切の行為が禁止された。それによって、中央航空研究所、東京帝大航空研究所が廃止された。(1)

 一方で、諸外国はその間に、レシプロエンジンから、ターボジェットエンジンへの大幅な切り替えが行われた。とくに米国では1950年からの朝鮮戦争用にジェットエンジンの大量生産が行われ、F100、F102戦闘機などの生産が進んだ。

 日本が終戦直前に完成させたネ-20エンジンは、4台の完成品が米国に接収されて、米国内で運転試験が行われた。合計22回で11時間46分のデータと分解検査の経過が詳細な調査報告書に纏められた。このようにジェットエンジンは、最先端の軍事技術として、その当初から期せずして国際間で技術の伝承と共有が進んでいたことになる。

14.2.1 残された日本軍機

 この間に破壊された日本製の機体とエンジンについては、米軍による詳細な記録が残され、その多くはワシントンの国立公文書館に保管されている。それらは、多くの写真を交えた大型本としてスミソニアン協会の国立航空宇宙博物館の元主席学芸員の手によって纏められた。原題は「Broken Wings of the SAMURAI」(9)
 そこには、当時の戦場を始め世界各地に保存されている機体とエンジンについての詳細な記録も含まれている。特に東南アジアでは、残された機体とエンジンをもとに、戦後直後の各国の軍用機に関する技術の伝承も行われたと記されている。
 
 「序文」には、『1945年6月末までに、8000機の体当たりがあり、4800機の陸軍機と、5900機の海軍機が特殊攻撃用に改造されていた』、と記されている。それらは、製造時は戦闘機、爆撃機、練習機および偵察機だった。このように、すべての航空機は特にエンジンの換装などにより、用途を比較的容易に代えることが可能で、このことは、現在でも広く行われている。
 戦争の終末期には、米軍は上陸を敢行しなければならない。この作戦に対して、上陸地点で、無数の特攻機が上陸用舟艇に乗り移る局面で、戦艦や輸送艦に対して用いられると考えられていた。そのような状態では、本土上陸作戦は大いに危険であると判断されたことは、容易に推測される。

 1946年末時点で、処理を終えた航空機の総数は12,735機で、そのうちの1,589機は、処分ではなく取得と記録されている。残された機体の一部は、エンジンと共に完全な状態でパナマ運河を通過して、ニューワークに送られ、オハイオ州デイトンの航空資材センターで一覧表が作成され、その際に独自の航空機識別番号が付与された。その中には飛行艇もあった。当時、米国が日本の航空機技術の系統化に、いかに熱心だったかが解る。
 
 当時、飛行艇の設計技術は米国よりも日本が優れていたようで、特に次の様に記録されている。(9)
 『アメリカに別便で輸送された、この川西H8K2 「エミリー“Emily”」(2式飛行艇12型)は、戦後入手した日本軍機の中でおそらく最も役に立った機体である。第2次世界大戦中の4発飛行艇の中で最も効率の良
いことが認識されていたので、その艇体形状は何回も滑水試験を繰り返して徹底的に評価されたのである。
貴重な調査結果は後にアメリカ海軍P5M 「マーリン」、P6M「シー・マスター」およびR3Y「トレードウインド」飛行艇に適用された。』(p.127)


図14.8 2式飛行艇12型(9)

  この飛行艇のエンジンは、三菱火星22型(1,850馬力)で、最高速度は高度5,000mで465km/h、M0.38、
航続距離 7,153km(偵察過荷)とある20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門を装備し、爆弾最大2t(60kg×16)または航空魚雷×2の爆装が可能なので、当時としては飛行性能と装備に関して世界でも有数な能力があったと思われる。
 なお、飛行艇のエンジンはレシプロ機では大きな変更は必要ないが、ターボエンジンの場合には、エンジン
前方から波しぶきを被った時の水吸い込みに拠るエンジン停止が大問題になる。

14.2.2 影響の概要

 我が国のジェットエンジンの歴史は、松木正勝により次のような5期間に纏められている(10)
第1期 第2次世界大戦終了まで(黎明期)
第2期 終戦から1952年の航空再開まで(一切の活動禁止期)
第3期 航空再開から1970年まで(基礎技術の蓄積期)
第4期 1971-1988年の通産省大型プロジェクト終了まで(発展期)
第5期 1979年からの国際共同開発期(実用期)

 当初から現在まで、航空機用エンジンの研究と開発には官用・民用を問わず国家予算からの援助が続けられている。軍用機(現在は自衛隊機)に関する諸技術の維持・向上が主目的だが、その技術の多くが民間機用エンジンの国際共同開発で維持され、さらに更新されている。このことは、自衛隊機用のエンジン開発は、よくても10年に一度なので、その間の技術者の維持・育成と新技術の取得は、民間用のエンジン開発プロジェクトに頼らざるを得ない状況から生じている。この状況は、軍用機用エンジン開発に継続して膨大な予算があてられている米英の状況とは全く異なる。

 その様な状況下にあって、1979年から始まった国際商品としての民間航空機用のジェットエンジンの開発は、既に40年間も続いているが、国際共同開発の枠組みから脱して、独自のジェットエンジンを開発できる状況にはない。僅かに、ホンダジェットがビジネス機の分野で頑張っているだけである。この状況は、空白の7年間の影響から、まだ抜け出せていないと考えられる。つまり、第5期が40年間以上も続いており、第6期への入り口は見えていない。

 第2期の一切の航空関係の研究と産業が禁止された期間中には、我が国の技術は産業用ガスタービンの分野で続けられた。それは、運輸技術研究所、機械試験場などの国立研究機関が主であった。
 
 この間の実例としては、「鉄研1号ガスタービン」が挙げられる。このエンジンは戦時中に石川島芝浦タービンで開発中だった高速魚雷艇用のものを、堀り起こして改造したとされている。戦後、航空用に従事していた海軍空技廠と中央航研の技術者約20人が、鉄道技術研究所(以下、鉄研)に入り、開発予算を獲得した。この時の石川島芝浦タービンの社長は土光敏夫で、彼はこの後も航空用の立ち上げに大いに貢献した。この時のメンバーの山内正男(後の航空宇宙技術研究所所長)は、「しかし、航空用ガスタービンの隠れ蓑というような意図は全くなかった」と語っている。(13)

 しかし、当時の鉄研の所長の中原寿一郎の「日本はいま航空の研究は禁じられているが、いつか必ず再開される日が来る。その日のために、この人たちは大切に育ててほしい。」(13)という言葉が遺されている。このガスタービンは、完成後の試験運転で何度も失敗を繰り返し、そのたびに改良が加えられた。潤沢な研究費と、実験室を長期間自由に使うことを提供した土光のお蔭であった。

 最終的には、1時間以上の定格・耐久運転に成功したが、目標の燃費には遙かに及ばず、更に騒音が都市部の機関車には不適当ということで、鉄道用の動力源としての採用には至らなかった。
このガスタービンは、後に運輸技術研究所に引き継がれ、和歌山県の興亜石油の給油所内のコンプレッサー駆動用として使用された。このように、技術の伝承は人を通じて行われていたが、基礎技術は維持できても、航空用としての実用化と運用面の技術は全く育成ができずに、その影響は今日まで続いている。

コラム

終戦直後の大学の航空学科とその学生の動向が、八田圭三「ジェトエンジン再開」(17)に詳しく書かれている。このような人脈によって日本のジェットエンジン技術は、かろうじて保たれたと云える。
 
 『それにしても 戦時中に大膨張していた各大学の工学部の航空学科としては,多数の学生をかかえているわけですから,この禁止指令は反抗できない占領軍命令とはいえ大変だったわけで,学生をそのままほうり出すわけには参りませんので,マッカーサー司令部とあれこれ交渉して,やっと在校生だけは,航空以外の教育をして卒業させるという了解(当時の大学は3年制でしたので,航空学科の学生が1学年卒業すると教,助教授の数も1/3 減らし,3年間で消滅するという条件でした)をとりつけたわけです。それでたとえば東京帝大第―工学部の卒業生のなかに内燃機関学科(航空学科原動機専修の過渡的学科名)卒業という方がおられたりすることになった次第です。私は幸い機械工学科に採用され引きつづき大学にのこれましたが,それらの結果,工学部や研究所の航空関係のかなりの数の教,助教授が退任を余儀なくされました。しかし航空機や航空原動機の設計や性能に直接結びついた講義や研究はできませんが,航空に直接的に関係のない流体力学の研究や教 育ができないわけでなく,航空原動機はいけないが陸舶用のピストンエンジンや,ガスタービンに関する研究や教育は行われたわけです。戦後私なども機械学会などで今から思うと極めて初歩的で恥ずかしくなるようなガスタービンの話を良くしたものです。』