第2章 現代科学が生まれたとき(その2)
2 自然科学と非自然科学の関係の変化
欧州の学問体系は、キリスト教信仰のために長い中世を経験した。そして、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより変化が始まったが、自然科学の哲学からの分離は、彼ら以降さらに一世紀を要した。つまり、自然科学と人文科学の分離が起こったのは、19世紀後半で、この書の発行された1901年でさえも、上記のような状態だった。それが僅か100年足らずで完全に分離をして、お互いが結合どころか、疎遠になってしまった。
当時は、人文科学にのみ実生活への価値が認められていたわけで、その突然の価値観の逆転は、第一次、第二次世界大戦の結果であると考えてみたい。つまり、当時の自然科学を駆使して開発をした兵器なしでは、何れの国も勝利をおさめることが出来ず、航空機に始まり、遂には原子爆弾まで実用化をしてしまった。そこで、哲学までもが、かのハイデッガーの名言通りに、「技術が世界を支配することになってしまった」と主張し始めた。
しかし、この価値観の未来はいかにも危険すぎる。やはり、自然科学は、価値の如何に拘わらず、自然の中の普遍性をありのままに理解するためのものであり、社会への価値は文化科学が生みだすものと理解した方が、地球と人類の持続的文明にとっては良いように思われる。そのことは、自然科学が生みだしたものであっても、その社会への価値判断は文化科学にゆだねられるべきとの結論になる。
個性化的なものを一般的に記述することは、現代の自然科学の得意分野なのだが、彼の時代には未だ明確でなかったのかもしれない。当時は、科学に対する価値観の違いが現代とは真逆で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。そこに、新たなメタエンジニアリングという概念の価値を見出そうとも考えている。すなわち、「メタ」という感覚から、自然科学と非自然科学の関係を見直して、分離から再び統合の方向への変化を期待するものである。現代の唯物文明から抜け出す手段は、そのことによってのみ可能性が出てくるのではないだろうか。
3 百学連環からの逸脱
Encyclopediaの訳語は、百学連環から百科事典になってしまった。
西周(にし あまね)が、Encyclopediaを訳した「百学連環」は、総ての学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われている。古代ギリシャの自然学も、古代ローマのリベラルアーツも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思う。
「科学と技術」日本近代思想体系(14)、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつであろう。
その中の第1は、西周の「百学連環」である。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862年から3年間オランダに留学し、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことであろう。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。
Wikipediaには、次のような記述がある。
『西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。
石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。』
「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後に纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの正確を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。
彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。
英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまったと考えられる。
この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。
『明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。』
この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。
「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。『「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。』
(以下は次号にて)
2 自然科学と非自然科学の関係の変化
欧州の学問体系は、キリスト教信仰のために長い中世を経験した。そして、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより変化が始まったが、自然科学の哲学からの分離は、彼ら以降さらに一世紀を要した。つまり、自然科学と人文科学の分離が起こったのは、19世紀後半で、この書の発行された1901年でさえも、上記のような状態だった。それが僅か100年足らずで完全に分離をして、お互いが結合どころか、疎遠になってしまった。
当時は、人文科学にのみ実生活への価値が認められていたわけで、その突然の価値観の逆転は、第一次、第二次世界大戦の結果であると考えてみたい。つまり、当時の自然科学を駆使して開発をした兵器なしでは、何れの国も勝利をおさめることが出来ず、航空機に始まり、遂には原子爆弾まで実用化をしてしまった。そこで、哲学までもが、かのハイデッガーの名言通りに、「技術が世界を支配することになってしまった」と主張し始めた。
しかし、この価値観の未来はいかにも危険すぎる。やはり、自然科学は、価値の如何に拘わらず、自然の中の普遍性をありのままに理解するためのものであり、社会への価値は文化科学が生みだすものと理解した方が、地球と人類の持続的文明にとっては良いように思われる。そのことは、自然科学が生みだしたものであっても、その社会への価値判断は文化科学にゆだねられるべきとの結論になる。
個性化的なものを一般的に記述することは、現代の自然科学の得意分野なのだが、彼の時代には未だ明確でなかったのかもしれない。当時は、科学に対する価値観の違いが現代とは真逆で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。そこに、新たなメタエンジニアリングという概念の価値を見出そうとも考えている。すなわち、「メタ」という感覚から、自然科学と非自然科学の関係を見直して、分離から再び統合の方向への変化を期待するものである。現代の唯物文明から抜け出す手段は、そのことによってのみ可能性が出てくるのではないだろうか。
3 百学連環からの逸脱
Encyclopediaの訳語は、百学連環から百科事典になってしまった。
西周(にし あまね)が、Encyclopediaを訳した「百学連環」は、総ての学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われている。古代ギリシャの自然学も、古代ローマのリベラルアーツも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思う。
「科学と技術」日本近代思想体系(14)、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつであろう。
その中の第1は、西周の「百学連環」である。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862年から3年間オランダに留学し、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことであろう。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。
Wikipediaには、次のような記述がある。
『西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。
石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。』
「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後に纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの正確を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。
彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。
英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまったと考えられる。
この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。
『明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。』
この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。
「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。『「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。』
(以下は次号にて)