第12話 教養を身につけてゆく教育のあり方(古代ギリシャ人と計理工哲の関係)
その場考学の設計技術者の育成の段階は「計理工哲」と述べた。第2話の文章を引用する。
・計理工哲(設計のレベルに対するマクロ的視点)
設計者のレベルには4段階あると思う。私の造語だが「計理工哲」と示す。
「計」は、計算ができる、計算づくでやる、計算結果で設計する、などだ。これでは設計とは云えず単なる計算書つくりだ。(その前に「真似る」という段階があるが、これは設計以前。)
「理」は、計算の上に理由、理解、原理、定理、公理、などを取り入れた設計。一応形にはなり、多分 性能や機能は発揮できるであろう。しかし競争力を備えた商品にはならない。
「工」は、人間が作り、人間が使うことを前提として「計」と「理」にプラスした設計。製造者にも使用者にもメリット(利益)が出るもの。通常の設計はこの段階である。CS(顧客満足)もこの範疇に入る。
「哲」は、更に哲学的な要素が加わった設計。どのようなものが人類または地球や生物に本当に良いものか。芸術的な要素もこの段階から入ってくると思われる。人工物の世界遺産などがそれにあたると思われる。
これは、10代の「計」を学ぶことから始まり、ほぼ10年のサイクルを想定している。期間が長いのは、真にその意味を知るにはその間の経験が必要だからであり、このことは私自身の記憶にもとづいている。10年刻みの教育で思い当たるのは、論語の「われ十有五にして学に志し・・・」なのだが、その前に面白い著書にであった。
廣川洋一著、「ギリシャ人の教育、教養とは何か」岩波新書110、岩波書店(1990)、である。
・ギリシャ人の教養教育
古代ギリシャ人にとって教育の目的とは、一人ひとりが教養を身につけることであった。それは専門知識の集積ではなく、市民としてより良く生きるための知恵の獲得を意味した。
教育に関する多くのことが、例えばプラトン等の著書でも、政治とか国家とかといったことを語る中で示されていることは、当時の全員参加型の民主主義の為であろう。21世紀になって本格的なインターネット時代になり、個人の意見が瞬く間に世界中に広がるウエブ時代にあっては、一人ひとりが身につけておくべき教養の意味が、大きく変わったと考えるべきであろう。そのような観点からは、古代ギリシャや、古代ローマの教養教育の方法が見直されるべきだと考える。
廣川氏の著書から少し長い引用をする。
プラトンが「国家」(6.503C-7.541B)で哲人統治者はいかなる教育をうけるべきかという議論とその為の詳細なプログラムを提示した。(中略)この教育案の内容はほぼ次のようであった。先ず、準備科目、いわば前奏曲として、教論、平面幾何学、立体幾何学、天文学そして理論音楽からなる数学的諸学科の学習が必須とさていれる。これらの前奏曲を十分演奏しうるにいたった者だけが、はじめて本曲としての哲学的問答術の学習と研究をなすことができる。(7.532A)。これらの学習をいつどのように課すべきか、その具体的プログラムを省みておこう。
まず17,8歳までの少年期に、右の修学的諸学科を、強制的にだはなく自由に学習する(7.536DE)。また、20歳までに2,3年の強制的体育訓練が課せられる。ついで20歳から30歳の期間に、それまでばらばらに雑然と学習した数学的諸学科を総合的にみることのできる視点と視力を、つまりそれら数学的諸学相互の内的結びつきを全体的立場から総観するちからを獲得するよう努めなければならない(7.537C)。さらに30歳から35歳の期間に、選ばれたものたちのみが、哲学的問答術の学習と研究を許される(7.537D,539DE)。そして50歳にいたるまでの15年間は公務について経験を積む(539E)。最後に50歳以降は、少数の最優秀者たちが全存在の窮極原理である「善のイデア」の認識に到達し、このあと交代に哲学研究と国政の任にあたる(7.540AB)。
ここで、音楽とか理論音楽、前奏曲という言葉が使われているが、その意味は、音楽が持つ全体的な調和感とリズムを身を持って習得する必要性を重要視したためである。音楽と簡潔にまとめられた物語(文学)は、全ての教育のスタートとされているのである。
このプラトンの「国家」の記述と「計・理・工・哲」の段階的な設計技術者の育成方法との間の共通的な考え方に驚きを感じざるを得なかった。
ついでに、実際のプラトンの発言はどのようなものだったかを、プラトン全集で確認をしてみた。
山本光雄編 「プラトン全集7」 角川書店(1973)
引用された(7.532A)には、次のような難解な言葉が並んでいる。
その、知らねばならぬことを知ることこそ、結局、言論のやり取りが奏する本曲そのものではないのか。そしてその本曲は思惟の世界にかかわるものだけれど、我々の述べた(516a以下)視覚の能力がその本曲の模倣物にあたるだろう、・・・
私にとっては、プラトンはアリストテレスよりも遥かに難解であると知った。
・論語の言葉
論語は、512の短文が全20編で構成されている。その中で「われ十有五にして学に志し・・・」は、学而編ではなく、為政編にある。この点もプラトンの考え方と同じで、古代の教養は正しい政治を行える人材を如何にして育てるかが、目的であった。
為政編の第1は「徳」について、第2は「思無邪」、第3は「礼」についてであり、4番目がこの言葉である。5項目以降は、弟子との問答が続くところも、プラトンと似ている。
・教養を積むには順番がある
これらの教育プログラムには、共通するものがある。それは、次の表から明らかにすることができる。
共通項を挙げると、以下のようになる。
① 明確な最終目的があること
② 本質的な基礎教育から始める
③ ほぼ10年ごとにステップアップしてゆく
④ 老成期の姿が示されている
・本質的な基礎教育は何か
本質を理解せずに詰め込みの知識を強要する教育は論外としても、現代の教育論では基礎教育の本質的な要素が何であるかが明確でないとの印象を受けることは多い。古代ギリシャの文学と音楽は意外であったが、文学は物事に対して、一つのストーリー性を正しく理解することであろう。また音楽については、リズム感と調和を理解するためと記されている。
エンジニアにとっての基礎は、なんといっても算数と数学である。ここがきちんとしていないと、様々な理論を正しく理解することは出来ない。そして、理論を正しく応用しなければ、正しいものを設計して作りだすことはできない。Design on Liberal Arts Engineeringの実現には、長い道のりと育ってゆく順番がある。
その場考学の設計技術者の育成の段階は「計理工哲」と述べた。第2話の文章を引用する。
・計理工哲(設計のレベルに対するマクロ的視点)
設計者のレベルには4段階あると思う。私の造語だが「計理工哲」と示す。
「計」は、計算ができる、計算づくでやる、計算結果で設計する、などだ。これでは設計とは云えず単なる計算書つくりだ。(その前に「真似る」という段階があるが、これは設計以前。)
「理」は、計算の上に理由、理解、原理、定理、公理、などを取り入れた設計。一応形にはなり、多分 性能や機能は発揮できるであろう。しかし競争力を備えた商品にはならない。
「工」は、人間が作り、人間が使うことを前提として「計」と「理」にプラスした設計。製造者にも使用者にもメリット(利益)が出るもの。通常の設計はこの段階である。CS(顧客満足)もこの範疇に入る。
「哲」は、更に哲学的な要素が加わった設計。どのようなものが人類または地球や生物に本当に良いものか。芸術的な要素もこの段階から入ってくると思われる。人工物の世界遺産などがそれにあたると思われる。
これは、10代の「計」を学ぶことから始まり、ほぼ10年のサイクルを想定している。期間が長いのは、真にその意味を知るにはその間の経験が必要だからであり、このことは私自身の記憶にもとづいている。10年刻みの教育で思い当たるのは、論語の「われ十有五にして学に志し・・・」なのだが、その前に面白い著書にであった。
廣川洋一著、「ギリシャ人の教育、教養とは何か」岩波新書110、岩波書店(1990)、である。
・ギリシャ人の教養教育
古代ギリシャ人にとって教育の目的とは、一人ひとりが教養を身につけることであった。それは専門知識の集積ではなく、市民としてより良く生きるための知恵の獲得を意味した。
教育に関する多くのことが、例えばプラトン等の著書でも、政治とか国家とかといったことを語る中で示されていることは、当時の全員参加型の民主主義の為であろう。21世紀になって本格的なインターネット時代になり、個人の意見が瞬く間に世界中に広がるウエブ時代にあっては、一人ひとりが身につけておくべき教養の意味が、大きく変わったと考えるべきであろう。そのような観点からは、古代ギリシャや、古代ローマの教養教育の方法が見直されるべきだと考える。
廣川氏の著書から少し長い引用をする。
プラトンが「国家」(6.503C-7.541B)で哲人統治者はいかなる教育をうけるべきかという議論とその為の詳細なプログラムを提示した。(中略)この教育案の内容はほぼ次のようであった。先ず、準備科目、いわば前奏曲として、教論、平面幾何学、立体幾何学、天文学そして理論音楽からなる数学的諸学科の学習が必須とさていれる。これらの前奏曲を十分演奏しうるにいたった者だけが、はじめて本曲としての哲学的問答術の学習と研究をなすことができる。(7.532A)。これらの学習をいつどのように課すべきか、その具体的プログラムを省みておこう。
まず17,8歳までの少年期に、右の修学的諸学科を、強制的にだはなく自由に学習する(7.536DE)。また、20歳までに2,3年の強制的体育訓練が課せられる。ついで20歳から30歳の期間に、それまでばらばらに雑然と学習した数学的諸学科を総合的にみることのできる視点と視力を、つまりそれら数学的諸学相互の内的結びつきを全体的立場から総観するちからを獲得するよう努めなければならない(7.537C)。さらに30歳から35歳の期間に、選ばれたものたちのみが、哲学的問答術の学習と研究を許される(7.537D,539DE)。そして50歳にいたるまでの15年間は公務について経験を積む(539E)。最後に50歳以降は、少数の最優秀者たちが全存在の窮極原理である「善のイデア」の認識に到達し、このあと交代に哲学研究と国政の任にあたる(7.540AB)。
ここで、音楽とか理論音楽、前奏曲という言葉が使われているが、その意味は、音楽が持つ全体的な調和感とリズムを身を持って習得する必要性を重要視したためである。音楽と簡潔にまとめられた物語(文学)は、全ての教育のスタートとされているのである。
このプラトンの「国家」の記述と「計・理・工・哲」の段階的な設計技術者の育成方法との間の共通的な考え方に驚きを感じざるを得なかった。
ついでに、実際のプラトンの発言はどのようなものだったかを、プラトン全集で確認をしてみた。
山本光雄編 「プラトン全集7」 角川書店(1973)
引用された(7.532A)には、次のような難解な言葉が並んでいる。
その、知らねばならぬことを知ることこそ、結局、言論のやり取りが奏する本曲そのものではないのか。そしてその本曲は思惟の世界にかかわるものだけれど、我々の述べた(516a以下)視覚の能力がその本曲の模倣物にあたるだろう、・・・
私にとっては、プラトンはアリストテレスよりも遥かに難解であると知った。
・論語の言葉
論語は、512の短文が全20編で構成されている。その中で「われ十有五にして学に志し・・・」は、学而編ではなく、為政編にある。この点もプラトンの考え方と同じで、古代の教養は正しい政治を行える人材を如何にして育てるかが、目的であった。
為政編の第1は「徳」について、第2は「思無邪」、第3は「礼」についてであり、4番目がこの言葉である。5項目以降は、弟子との問答が続くところも、プラトンと似ている。
・教養を積むには順番がある
これらの教育プログラムには、共通するものがある。それは、次の表から明らかにすることができる。
共通項を挙げると、以下のようになる。
① 明確な最終目的があること
② 本質的な基礎教育から始める
③ ほぼ10年ごとにステップアップしてゆく
④ 老成期の姿が示されている
・本質的な基礎教育は何か
本質を理解せずに詰め込みの知識を強要する教育は論外としても、現代の教育論では基礎教育の本質的な要素が何であるかが明確でないとの印象を受けることは多い。古代ギリシャの文学と音楽は意外であったが、文学は物事に対して、一つのストーリー性を正しく理解することであろう。また音楽については、リズム感と調和を理解するためと記されている。
エンジニアにとっての基礎は、なんといっても算数と数学である。ここがきちんとしていないと、様々な理論を正しく理解することは出来ない。そして、理論を正しく応用しなければ、正しいものを設計して作りだすことはできない。Design on Liberal Arts Engineeringの実現には、長い道のりと育ってゆく順番がある。