生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(12)天竜川を挟んだ古代の戦争のあと

2016年11月17日 08時07分47秒 | その場考学との徘徊
題名;天竜川を挟んだ古代の戦争のあと
場所;諏訪 H28.11.13

その場考学との徘徊(10)では、「諏訪大社の神様」と題して、諏訪大社の筆頭神主の館である前宮と本宮の中間にある、「神長官守矢資料館」を訪ねた話を記した。そこには、次のように書いた。

『驚いたのはこの写真。



場所は、諏訪湖から出た直後の天竜川の両岸。「洩矢神社」は守矢家の先祖神、「藤島神社」は諏訪の神で、この場所は出雲から落ちのびて来たタケミナカタの尊が諏訪盆地に侵入した際に戦ったところだそうだ。この話は、古事記には語られているが、日本書紀にはないと云う有名な話だ。勝利した『建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のちの神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。』(神長官守矢資料館のしおりより)
 場所は、長野道のほぼ真下だそうで、分かりにくいそうだが是非お参りをしてみたいところだ。

(この写真は、守矢神社直前の道路から撮った中央道と長野道の分岐)



そして、昨日そこを訪ね歩いた。思わぬ収穫は以下の通りです。先ずは神社の境内の様子。立派な杉林が完全に整備されている。門前の神社の由緒書き。かなり詳しく「洩矢神の娘の多満留姫が、建御名方命の子に嫁ぎ、その子孫が神長官を代々世襲した」とある。



拝殿への道も立派な石畳で完璧。
鳥居左に手水があり、紋所は「丸にひとつ柏」
これは、「物部守屋神社の分社」の意味もあるそうだ。





絵馬が沢山かかっている。どれも新しいのだが、内容や絵を見てびっくり。先を急ぐので「なぜここに。こんな絵ばかりが?」の疑問はお預けに。



拝殿と本殿は、完全に屋根で覆われており、本殿は、正式な春日造りと言われているようだ。ガラス窓の外から、屋根の具合をわずかに見ることができる。
ぐるりと一周りをすると、摂社が2つあったが、これも壇上にあり、小さな石段がきちんと造られていた。



それにしても、予想をはるかに上回る神社だった。不合理な戦いに負けた神を祀る、日本の伝統のためなのだろうか。

天竜川を渡って、1本目の道に相手方の「藤島神社」があるので、そこへ向かった。
しかし、藤島の社はなかなか見つからなかった。

仕方ないので、道路わきの休診日の歯医者の駐車場に車を止めて、近所の人を探した。
ようやく、道路掃除をしている年寄りに尋ねても、「藤島神社?」。
そこで、持参の写真を見せると、「ああ、このレンガ造りの建物は、すぐそこにある。あの小さな社だろう」どうやらすぐ近くらしい。




話をしているうちに、「ここにも遺跡がありますよ」と言われて、建物の玄関口に案内をされた。
そこは、この地に生糸産業をもたらした、「片倉なにがしの生家」だった。市の文化財だが公開はしていないそうだ。



車に戻ると、なんと道路を隔てた真向かいにそれはあった。意外に小さくて、目に入らなかったのだ。





これでは、神社とは名ばかりで、社(やしろ)とも言えそうにない。
あたりを見回しても、柱が1本だけで、「諏訪明神の入諏訪の伝承地」として、簡単な説明書きがあるだけでした。





この二つの神社は、「対」として語られているのだが、この極端な違いには驚かされる。
見るべきものが何もないので、先ほどの庭掃きおじさん(実は、この建屋の管理人さん)のところへ向かった。





今度は、奥さんと先ほどのところにもどって、建物の外観、蔵、庭などを案内してもらった。

立派な分厚いかやぶき屋根、3つの蔵が長屋風に並んでいる。中味は、とうの昔になくなっているそうだ。内部は、庭先から覗くだけなのだが、部屋はすべて、わたり廊下で囲われている。
庭は、こじんまりとはしているが、一応の体裁は整っていた。地所は奥に広がっているそうだが、すでに他人の家々が建てられている。







「洩谷神社と藤島神社は対になっているが、ここと富岡製糸所も対なのだが」と残念そうに話してくれた。

『片倉製糸紡績は明治6年に長野県の村で片倉市助が10人繰りの製糸を始め、 これが順調に成長し、国内生産 1 位にまで上りつめた。官営の富岡製糸場が公売の つど参加したが落札できず、半世紀がかりでやっと手に入れた。昭和 14 年に「片倉 製糸紡績株式会社富岡製糸場」となり、その後昭和 18 年には「片倉工業株式会社」 と改称した。』とWikipediaにある。


以前、富岡の事業所に通ったころには、文化遺産登録活動の前だったが、何度も来客を案内した富岡製糸所は、営業をやめてから長期間にわたって、片倉工業が維持管理をしていた。その努力は、遺産登録で大いに報われたのだが、その創業者の生家は、見捨てられているようだ。
富岡製糸所の世界文化遺産に、ここも追加できないものかと、つい思ってしまった。

中央道と長野道の分岐工事のために、両神社とも随分と影響を受けたそうですが、その時の対応が随分と違ったのでしょうか。思わず、ふたつの「対」を目の前にした、面白い徘徊でした。






地始凍 晩秋の二つの風情(立冬の次候で、11月12日から16日まで)

2016年11月16日 16時59分13秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
晩秋の二つの風情

この季節になると、秋は一気に深まる。所々にある、最近始まったブルーベリー畑の紅葉も ほとんど北風で吹き飛ばされたようだ。道沿いに点々とある道の八百屋も台の上には何も載っていない。
 
そんな中でも、僅かに畑に残っているのは、白菜である。自家用なのか、どの畑でも作付面積は小さい。野沢菜といっしょのところもあるが、それは一層自家用を思わせる。

散歩をしている時に二人の孫を連れたおばあさんに出会った。畑から野沢菜を少しだけ収穫していた。きっと孫に漬物の作り方を教えるのだろう。天気の良い風の無い日に30分ほど散歩をしたが、この人達にしか出会うことはなかった。
ちなみに、この季節には、我が家でも野沢菜漬けは自家製になる。



富士山から始まり、南アルプスの北岳、甲斐駒、八ヶ岳と360度の眺めは冬の晴れた日には最高の気分を味わうことができる。豊かな清流が無数に流れていることと合わせて、比較的暖かかった縄文時代にこの辺りに多数の人々が定住していたことは、大いに納得がゆく。
 
これは、数年前のこの日の記録なのだが、今年はちょっと違った。新聞記事にもあるように、今月の満月は、68年ぶりの地球最接近。残念ながら満月の日の予報は曇天だが、その2日前はきれいに晴れ渡っていた。





最近購入したカメラの眺望遠を使っての試し撮りをしたのが、この写真。
すべて、ベランダから手持ちで撮ったものなのだが、月の凸凹までがくっきりと写っていて驚きだった。





場所が、標高1130mのせいなのか、東京でも同じ写真が撮れるのかは、今後試してみたい。
それにしても、一本のズームレンズで花や虫の接写から、このような眺望遠までお任せで撮れるとは、
日本の技術も、まだまだたいしたものだ。