生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(31) 北肥後4泊5日の路線バスの旅(その8、最終回)

2017年11月26日 14時38分57秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その8、最終回)
場所;熊本、信濃  年月日;H29.11.5

テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.18 アップロード日;H29.11.27
                                                       
TITLE: 装飾古墳のメタエンジニアリングから発想される山鹿文化

今月初めに熊本県山鹿市にある、県立装飾古墳館を訪ねた。そこには、市内を中心に付近に点在する7個所の古墳のレプリカがあった。それぞれ、古墳の入り口から奥の装飾までが、全てほゞ現物大で再現されていた。
構成する岩の形や表面の風合いは現物と見まがうほどの出来栄えで、照明も明るすぎず暗からず、奥の文様を見るにはちょうど良い明るさに感じられた。
7個所とは、チブサン、井寺、大坊、千金甲、小田良、弁慶が穴、永安寺東であり、それぞれ日本の代表的な装飾古墳である。この一連の展示を、ゆっくりと一人で見学をすると、おのずとある考えが沸き上がる。それは、なぜこれほどのものが現在まで、ほぼ無傷で残っているのだろうか、という疑問である。




日本国内と言わず、古代の古墳は完全な原型をとどめないのが通常である。遺物の盗難はもちろん、全体の破壊、絵画の一部剥ぎ取りなどもある。現場では、ある直感がひらめいたのだが、それを改めてメタエンジニアリング的に解いてみようと思う。メタエンジニアリングとは、まず疑問をほりさげ、思考範囲をできるだけ広げ、最後に一つの結論を導く思考法である。

① Mining(課題のなぜを深める)

なぜ、個々の岩に抽象的な図案を描くか。簡素な石像との関係は。巨大古墳ではなく、中小規模なのはなぜか。それらは皆、墳墓を外敵による破壊から守るための方策ではないだろうか?

② Exploring(思考範囲をできるだけ広げる)

多くの縄文関係の書籍からの諸説を列挙してみる。
・縄文土器の文様は、月と蛇と渦巻が元で次第に抽象化、
・縄文は、オスとメスの蛇が絡まった状態
・月(鏡)と蛇は、ともに死と再生を表す代表例とされ、特に蛇は直線と曲線を繰り返しながら脱皮をして再生してゆく
・土偶は、壊すことによって機能が発揮される
・中国の神仙思想の代表例に、蛇と矩形(定規)の組み合わせがある
・九州の西側は中国本土との交易の可能性が、他のどの地域よりも高い。一方で北九州は、朝鮮との距離が近い。
・古代古墳損壊理由は、侵略による王権の簒奪と破壊、金品目当ての盗掘などであり、価値ないものの盗難や破壊は起こらないで放置される



③ Converging(すべてを結合させて、結論を絞り込む)

古墳の主機能は、埋葬者に対する尊敬の念から生じる、安らかに再生の時を待つ遺体を保護し続けること、だと仮定する。
文様は、抽象的で侵入者には直ちに価値が分からない方が良い。丸は鏡(吊り下げの図もある)を表し、多重丸は渦巻もあらわす縄文からの伝統。三角文は、縄文あるいは蛇のうろこの抽象化されたもの。直弧文は、破壊された鏡と蛇の組み合わせ。

④ Implementing(実施事項)

目的を抽象的に描くことが、神秘性と秘匿性の面から賢く、うまく描く必要性は低い。周囲の岩との融合を考えれば、むしろ、自然に描かれたという感覚を表したい。
古墳の規模は、石像なども含めて簡素な方が良い。文様は、一か所ではなく分散した方が良い。





 結論としては、装飾古墳は古代日本のアミニズムの伝統を引き継ぎ、かつ古墳本来の主機能を深く考えて、合理的な形で総合的に形成されていることを強く感じる。
一見、自由に描いたように見えるのだが、実は思想がバラバラではなく、よく統一されている。これらの事柄が総合的に機能していることが、現在まで完全に近い形で残されている何よりの証拠ではないだろうか。
ヤマトを中心に全国に広がる、前方後円古墳やその巨大化は、古代日本の縄文やアミニズム文化を継承しているとはいいがたい。一方で、装飾古墳文化は、深く伝統文化に根付いているように思う。山鹿文化時代という定義があってしかるべきと思う。

山鹿文化の確立へ
この地方独特の装飾古墳に関する見聞を得る目的は、4年間にわたって大学院紀要(日本経済大学大学院)に投稿してきた「メタエンジニアリングによる優れた文化の文明化プロセスの確立」の一環のつもりでもある。古代日本の長期間に亘る縄文文化(私は、これを歴史上世界最長の文明と考える)と、そこから派生した古代文化に、将来の世界文明への貴重な文化を感じているからである。

 その記憶を「その場考学との徘徊」として記録した。ブログで発信したところ、「装飾古墳というものを初めて知りました」とのコメントがあった。かなりの識者からのものだったので、いささか驚いた。
たしかに、高松塚の絵は有名だが、九州の装飾古墳は全国区ではない。しかし、こちらはある時代に確立された文化であるが、高松塚の絵は日本文化ではない。文化は、その地域に根付いたもので、かつ他の地域には見られない独特のものである。

 同じような規模で、長野県から山梨県に広がる「井戸尻」なる遺跡群がある。
井戸尻遺跡群は、塩尻・伊那谷・諏訪湖周辺から甲府盆地の全体に至る広大な遺跡群で、井戸尻文化の名前もある、およそ5000~4000前の縄文中期を中心とする遺跡群のようだ。1000年間が13の時代区分に分けられて、それぞれに名前(例えば、九兵衛尾根Ⅰ,Ⅱなど)が付けられている。この書は、その間の700年間に栄えた220の遺跡を対象に、生活用具から始まり、土器・土偶、集落のすがたなどが詳しく述べられている。中でも、縄文土器の解析は詳しい。最大の特徴は、様々な土器を種類分けして、それぞれの用途と文様を特定したことだ。縄文土器は、決して作者の気まぐれで形や文様がつくられたものではない。
これは、井戸尻考古館編集の「井戸尻 第8集」[2006]
発行所;富士見町井戸尻考古館からのものである。 


 
 そこで提案がある。山鹿を中心とする福岡県から熊本県に広がる装飾古墳群の範囲を「山鹿文化圏」と称してはいかがであろうか。井戸尻文化のように、「古代山鹿文化との名称のもとに、弥生時代から古墳時代にいたる時代をさらに細分化して、各地の代表古墳の名を冠した時代区分を行えば、公平性を保つことも可能になる。一般には、古墳時代の文化は大和朝廷の勢力が及んだと思われる地域の前方後円墳などが代表例となっている。しかし、それらは王権を誇示するものであって、縄文文化との連続性は薄められている。すまわち、天地の結合を元とした自然との融合を重要視するアミニズム世界観である。装飾古墳には、その世界観が正しく継承されているように強く感じた。
 
アミニズム世界観は、特に一神教を信じる西欧文明からは猥雑なものとみなされている。しかし、西欧文明の没落が広範囲で叫ばれている現代では、むしろその復権を主張する文明論が沸き上がっている。安田喜憲氏は、最近の著書「人類一万年の文明論」[2017]東洋経済新報社の中で、そのことを強く主張されている。アミニズム世界観の正当な継承者としての山鹿文化を強く主張したい。

 

その場考学との徘徊(30)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その7)

2017年11月25日 20時34分48秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その7)
場所;菊池(2)  年月日;H29.11.3

テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.18 アップロード日;H29.11.25

菊池から熊本空港へ
 
5:00 起床で、すぐに朝風呂。昨日は露天風呂三昧で初めての内風呂だが、こちらも広々して気持ちが良い。山鹿の人が「菊池も同じ強アルカリでぬるぬるしますよ」といっていたが、その通りだ。

6:00 フロントに行ってみたが、まだ誰も起きていない。昨夜の客は、私以外は皆宴会だけだったらしい。人の気配が全くしない。

7:45 やっと朝食の準備ができたと電話。これでも、予定よりも15分早い。田舎の温泉旅館の朝食は、8時からとは忘れていた。おかみさんが、初めの内だけ会話に付き合ってくれたが、やはり味気ない返答だった。食事用の部屋が陰気臭いといったところ、「うちは、こんな部屋ばかりなんですよ」と。障子を開けると、庭との間の廊下は片付け物でいっぱいだった。

10:17 のバスで街の中心に向かうつもりで、10時前にチェックアウトをした。このバスを逃すと、1時間半以上待たねばならない。フロントの人に、「肥後大津行きのバス乗り場がわからないので、車で送ってもらえないか?」と聞くと、しばらく後にOK。とにかく、昨日教わったバス停の名が、バス会社の停留所の路線図には出ていないのだから、困ったものだ。

9:55 宿の若い女性が車を運転してくれて、宿を出発。彼女が向かったのは、物産館前のバスターミナル。しかし、そこは電鉄バスばかりで、産交バスの停留場のサインはなかった。

宿のフロントが言っていた「菊池温泉」という停留所に向かった。そこからすぐなのだが、細い路地を大分入ったところだ。確かに停留所はあるのだが、ポツンと柱が立っているだけで、ベンチすらない。もちろん辺りに荷物を預けられるところもない。



次に「菊池プラザ」というバス停に向かった。1kmぐらい離れた、繁華街の反対側にある。しかし、ここも同様で、産交バスの事務所らしきものはあるが、締め切られていた。近くには、電鉄バスの大きなたまり場があった。どうも菊池市内は電鉄バスの天下で、産交バスは片隅に追いやられているようだ。



10:25 仕方なく、最初の物産館にいって、観光案内所で確認をすることにして、そこで車を下ろしてもらった。あちこち30分も走り回ってしまったのだ。
観光案内所の説明は明白だった。バスは、15:10菊池温泉バス停発で、荷物は事務所で預かってくれる。コインローッカーなどはどこにもない。バス停までは100メートルほどだ。
案内所で話をしていると、地元のご婦人が声をかけてきた。「菊池神社へ行かれますか?」
「よかったら、これから包丁式があるのですが、ご覧になりますか?」、「私は、今神社で打ち合わせをしてきたのですが、これからまた神社へ戻ります。長い階段でよければ、ご一緒します」とのこと。渡りに船だ。



庖丁式は、昔よく遊んだ南房総の千倉に日本で唯一の料理の神様といわれる「高家(たかべ)神社」で何度か見学をした。そこは、全国の有名料亭や魚関係者の石碑や記念碑、絵馬でいっぱいだった。ここはどうなのだろうか。

神社の境内は、七五三でいっぱい。ここでは3歳の女の子が中心で、5歳と7歳はほとんどお祝いをしないとのこと。彼女から、神主と包丁式の世話人も紹介された。ここは、昨日聞いたように明治神宮とのつながりが強い。菊池氏が、終始南朝方に見方をしたので、明治天皇が厚遇したとのこと。



11:00-30 包丁式は無事終了したが、せっかく準備された20余りの床几の席は、数人しか集まらなかった。3歳の女の子ずれでは、座れないのだろう。さばいたのは、近くの旅館の料理長だった。





彼女に別れを告げて、先ほどの階段を下りて、繁華街(?)へ向かった。「将軍木」という名物以外には何もないそうだが、ともかくもそこへ向かった。

将軍木」の目の前に能舞台があり、数人が椅子に腰かけていた。様子を尋ねると「1時から子供たちが能を舞います」とのこと。しめた、時間がつぶせる、いそいで昼飯を済ませて戻ろう、と思った。
ちなみに、将軍木の将軍とは懐良親王のことで、後醍醐天皇の皇子。一品・征西将軍の宮と称されていた。
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点とし、九州における南朝方の全盛期を築いたそうだ。




Wikipediaに面白い話が載っていた。

『建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考え、延元元年/建武3年(1336年)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。(中略)

その後、暦応4年/興国2年(1341年)頃に薩摩に上陸。谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、貞和4年/正平3年(1348年)に隈府城に入って征西府を開き、九州攻略を開始した。この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。(中略)
ここまでは、通常の歴史だが、ここからが面白い。

1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。

しかし、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している。』
あの、足利義満が明国に対しては、ある期間懐良親王を日本国王と認めていたとは、かなり痛快な話ではないか。昨日のMr.菊池はご存じなのだろうか。

昼食は、観光案内所で聞いた2か所のうちの一つで、伝統的な地元食堂。結構にぎわっていた。食事を済ませて能舞台に戻った。しばらくして、子供たちが隣の建物からぞろぞろ出てきた。

13:00-14:00 子供たちの能の舞は見事だった。謡の最初の句を自分で発声し、あとは後ろの大人が続ける。それに合わせて、舞台を1周して元の位置に戻る。発声は皆しっかりとしていた。舞台の前後は、指導者が襟元や袴を治すことで大忙し。1時間をすっかり楽しんだ。





14:15 「菊池温泉」バス停をチェック。キャリーバックを引っ張るルートも決めた。これで落ち着いたので、隣で開催中の菊人形をじっくりと観察することができた。南北朝時代の菊池氏の興味深い歴史も書かれていて面白い。




案内所で、お土産と途中での腹ごしらえの地元産スコーン(?)を買って、足湯で休憩。

14:50 観光案内所で荷物を受け取り、ベンチで休憩の後にバス停へ。
15:10 菊池温泉発 これを逃すと、次は18:30発で、東京に帰れなくなる。路線バスの旅の厳しいところだ。
15:55 肥後大野駅着、駅構内は、改札で紙(特別通行証)を渡されて、反対側の改札でそれを渡す。
16:00 熊本空港行きのリムジンバスには、すでに先客2人が乗り込み済で,すぐに発車。街を見る機会がなくなった。

初めての路線バスの旅を十分に味わうことができた5日間の旅だった。

その場考学との徘徊(29)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その6)

2017年11月24日 10時09分05秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その6)
場所;菊池(1)  年月日;H29.11.2

テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.18 アップロード日;H29.11.24

12:39 昨日と同じ山鹿バスセンターの④乗り場から、菊池に向かって出発。相変わらずの貸し切りバス。
バス路線は、ひろい国道や県道を通るのはごく一部。すぐに細い横道に入り、小さな内の細い道をグネグネと走る。やはり、なが~い一人旅だ。しかし、細い田舎のの路地を曲がりくねっては走るのは楽しい。これも、レンタカーではあまりやらないことだ。



13:05 松尾神社
途中で、時間調整のため停車。横の神社が素敵だったので、カメラを構えると、運転手がバスのドアを開けてくれて、「ゆっくりと写真を撮ってください」と。路線バスは、スローライフだ。




13:30 桜が丘住宅前という停留所で下車。そのすぐ手前に「清流荘」の看板があった。目の前は、珍しくコンビニだった。バスの運ちゃんが「コンビニの前の停留所ですね」といっていたのに、ようやく納得。ここが今夜の宿だ。
 
13:35 チェックインには時間があるので、荷物を預けて「歩いて行ける観光地」を訪ねた。おかみは、「近くに物産館があるが、ほかには特にない」とのつれない返事。東京から、わざわざ路線バスで物産館を見に来たと思うのだろうか。

菊池と山鹿は、地図で見るとほぼ同じだが、山鹿は交通量も多く、活気に満ちていた。(玉三郎の公演中だけかもしれないが?)一方の菊池は、さびれた感がした。一つの市にまとまってもよいと思うのだが、お互いに伝統文化を誇っているので、そうはいかないのだろう。

すぐに、宿を出て物産館がある街とは反対方向に向かった。街はずれなので、すぐに畑に出る。川が流れており、きれいな石の橋と滝が見える。



なぜ、ここが歩いて行ける観光地ではないのか、不思議。「名勝・遺跡、xxと眼鏡橋」との説明の看板もあり、名所の一つのようだ。






ゆっくりと写真を撮り、一つ手前のバス停を目指した。そこは、多くのしゃちほこ瓦を誇示する大きな住宅が何軒も固まって見えたところだ。




どこの家も人気が感じられなかったが、1件だけ庭のほうから大声で話している人がいた。
中へ入ると、老人が二人縁側で話をしている。一人は、背広にネクタイだ。



話しかけると、「そんなに遠くちゃきこえないよ。もっと入ってきなさい」という。ここは、30年ほど前に上流で作られた「竜門ダム」からの移住者が集まったところだそうで、一軒あたり数億円の立ち退き料をもらった。そして、当時の村会議員が同じ境遇の日本全国の移住先を訪ねて、どのような移住が将来にわたって幸せかを調べた。訪問者は、「まだ、たっぷりお金を思っているから、金をせびりに来た」などと軽口をたたいている。


「東京から観光に来た。歴史に興味がある」というと、「これから菊池神社を案内しよう」とさっさとトヨペットクラウンに乗り込んでしまった。話の途中だが、素早い動きだ。


菊地神社へは、裏道を通ってすぐに到着。巫女さんに「親戚が来たから、ちょっと宝物館を案内する」とすべてフリーパス。胸のバッチを聞くと「親の代から伝わる、菊池一族の記章」だそうだ。彼の親の代までは、全国組織が活発だったそうだ。いまでも年一回の集会はあるが、若い人の興味はほとんどなくなっていると、嘆いていた。




彼のいろいろな話の中で、「菊池千本槍」の話は面白かった。建武の中興当時の話で、武器が足りずに手ごろな竹を切って、短刀をその先に付けて、インスタント薙刀を千本作った。従って、長さも先端の刃もバラバラだ。しかし、短刀だったので、切れ味は抜群だったと思う。

生まれは同じ戌年で、彼は12月生まれだった。3日続きの、奇跡の出会いだった。これらすべては、レンタカーでは味わうことのできない路線バスのご利益なのだ。

15:50 ここも終始貸し切りの広い露天風呂でやっと一服。かなりくたびれた一日だった。
16:20-40 コンビニまで散歩。翌朝の市の中心部へのバスの時刻を確認。
10:17,11:37,13:17と、このあたりとしては本数がある。しかし、初発の10時過ぎまでは足止めだ。

旅館の一番奥の部屋なので、宴会の声はもちろん、物音や人の気配は一切ない。夕食後は静かな夜を過ごすことができた。本日の歩数 13925歩



地始凍(立冬の次候で、11月12日から16日まで)冬支度

2017年11月23日 09時46分03秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
冬支度

 このころになると、ここ八ヶ岳南麓の陽当たりでも寒い朝には零度を下回る日が続くことがある。一旦地面が凍てしまうと、木陰では4月までは容易に溶けることはない。冬のゴルフ場でよく味わう、尖ったものでも刺さらない、あの感覚である。
 朝日に照らされた紅葉が、青空をバックに映える眺めは、毎年同じだ。今年の違いは、焚き火だった。17年間、花壇のしきりに使っていた丸太や鉄道用の枕木をそのまま燃やした。



枕木は、17年間で地中部分の半分は腐ってなくなっている。形状を留めているのは、地上の5cmほどだった。丸太もよく乾燥しているので、1時間もすれば炭になって、最後は灰になってしまった。



焚き火のわきでは、昔のBBQ炉を改造した、にわか花壇にチューリップの球根を植えた。5年ほど前にイノシシに食べつくされた際に、残った微小の球根が、毎年の植えなおしで、今年はやっと花を咲かせて、子供の球根ができるまでになった。



花の終わった枯れ枝も根元から切って燃やした。アジサイの枝を切ってゆくと、何やら枯れ葉の塊があった。落ち葉が積もったのだろうとそのまま燃やそうとしたが、あまりにも固くなっている。開いてみると、中に見事な卵が一つ残っていた。この色の卵は初めてだ。我が家の庭では、「コガラ」が子育てをするのが普通なのだが、今年は見かけなかった。何が原因で途中で放棄したのか、気になる。以前にも、ブルーベリーの茂みの中で同じことがあった。その時の卵は白かった。




焚き火と並行して、落ち葉を集めてブルーベリーの根元に盛り上げる。昔は知り合いから藁を分けてもらったが、落ち葉のほうが合理的だ。春になって焚き火をすれば、見事な焼き芋がいくつもできる。




冬支度の仕上げは、ベランダから庭に降りる階段にブルーシートをかける作業だ。一旦雪が降ると、雪は階段に凍り付いてしまい、階段は春まで少しずつ解ける水で湿ったままになる。この覆いはかなりの効果がある。
 


これだけの作業を一日すると、外気温1℃でもびっしょりと汗をかいてしまう。歩数も3千歩を超えた。





その場考学との徘徊(28)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その5)

2017年11月17日 09時52分56秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その5)
場所;山鹿2 年月日;H29.11.2
テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.17  
 
7:00 ホテルで朝食
ちょうど、付近の工場へ出かける外国人研修生が食事を終えて、出かけるところだった。10人ほどの若い男女。聞くとインドネシア、タイなどからで、来た時期もバラバラ。礼儀正しく、挨拶はしっかりとした日本語だった。

朝食後に、荷物をそのままで、「さくら湯」に向かった。松山には何度も行ったが、「ぼっちゃん湯」に入ったことはない。ここは大衆的な¥300で入ることができる。時間に余裕があるので、その前に昨日聞いた、灯篭祭りの「大宮神社」まで行くことにした。朝日を浴びて、かなりの道のりだった。



参拝を済ませて社務所へ向かう。早朝だが、神主に聞くと、「灯篭殿」もあけてあるとのこと。ここにもかなりの数の灯篭が収められていた。どうやら、各町内でひとつづつ納めているようだ。毎年のことなので、大変だ。




灯篭と呼ばれているが、じつは女性が頭にのせる以外に、宮づくり、座敷づくり、お城、鳥かごなどいろいろある。由来は、12代景行天皇が行幸の際、霧の中を行宮であるこの地まで案内するのに用いられた松明の灯りとのこと。展示品が新品ばかりなのは、奉納された「とうろう」を、毎年希望者に一つ数十万円で払い下げるとか、かなりの収入になることだろう。



脇に、教育勅語の石碑があった。朱文字で書かれているのは、なぜなのだろうか。早朝で、尋ねる人もいない。画像を検索すると、阿蘇神社をはじめこの地方独特のもののようだ。




8:26 大宮神社出発で、さくら湯へ向かう(3200歩)

朝風呂を楽しんでいるのは、超老人ばかりだ。私が、入ってから出るまで、ずーと湯船の端にもたれて、眠りこけている人もいた。むかし、三沢に泊まった時に、やはり歩いてゆける距離に温泉があった。そこでの朝風呂は、若い自衛隊員がたくさんいて、私と同じように酔い覚ましをしていた。由緒には、「旦那衆(起業家たち)が一日の仕事前の清めの場として、」とある。受付場が広く、多くの記念品を売っていた。



9:30 温泉にたっぷりと浸かって、部屋に戻った。朝は冷え込むと聞いて、ダウンを着ていったので、汗びっしょりになってしまった。
10:04 チェックアウトして、荷物は預けてバスセンターから乗車。
10:14 市立博物館入口で下車。ここから坂道を10分ほど登る。



博物館の入り口には、またも西南戦争の絵図があった。ほかのところならば、日露戦争の絵図と思うだろう。入口に、二人の先客がいた。博物館の人が「これから二人をチブサン古墳まで案内するが、よかったら私の車に乗ってゆきますか?」とのこと。まさに奇跡的なタイミングだった。彼の車で、チブサン、オブサン古墳を見学。なんと鍵を開けて、中まで入れてくれた。




古墳内部は、薄暗くてよくわからなかった。やはり、レプリカと両方見るのが良い。しかし、現地での説明は丁寧で、よく理解できたと思う。




再び車で少し離れた「オブサン古墳」へ。突堤付き円墳という変わった形の古墳だが、規模が小さいので特徴的な形状が良くわかる。水たまりを避けて、かなりかがんで入ったが、中は暗くてよく見えなかった。やはり、図柄はレプリカ出ないとわからないようだ。



博物館に戻って、展示物の見学を始めた。「帰りのバスは気にせずに、ゆっくりとみてください。」博物館の人が、BSまで車で送ってくれるそうだ。



オブサン古墳は、西南戦争時に塹壕として使用された。古墳の入り口の石には、くっきりと弾痕の跡がいくつも残っている。




このあたりでは、弥生の遺跡が多く、縄文土器は軽視されているようで残念だ。縄文 ⇒弥生 ⇒古墳時代の技術の流れは、日本独特の文化なのだから。



11:30 博物館の車で、BSまで送っていただいた。あっという間だった。
すぐわきの長崎ちゃんぽんのリンガーハットで昼食。荷物をとりにホテルへ戻った。

12:39 昨日と同じ4番乗り場から、菊池に向かって出発。この路線も2時間に1本なのだが、相変わらずの貸し切りバス。
ここまで、9390歩。午前中に、ずいぶんと歩いてしまった。





その場考学との徘徊(27)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その4)

2017年11月16日 14時20分15秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その4)
場所;山鹿  月日;H29.11.1

テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.15  
 
いよいよ、最高かつ最大の装飾古墳の宝庫といわれる山鹿に向かった。
8:45 ホテルの食堂でのんびりと朝食後、チェックアウトして、坂の下のバス停へ。
バス停のわきには小さな流れがあり、全体が足湯になっている。犬の散歩中の老人が、楽しんでいる。



9:08 新玉名駅行きのバスに乗車。4分遅れているが、新玉名駅での乗り換え時間も4分なので、運転手に時刻を告げた。幸い、信号が都合よく後れは回復した。

9:18 新玉名駅発 米の岳・菊水館行き。またも乗客は一人だけ。途中、昨日楽しんだ「菊水ロマン館」を通過した。相変わらず、乗客はいない。

バスは、常に国道や県道を避けて、の中の細い道を進む。例え軽自動車でも、すれ違う際には、どちらかが予め場所を選んで停車をする。このことは、このあたりの習慣になっているようで、いつもスムースに行われている。



山鹿市は意外に広かった。菊池川を渡ると市街地に入るのだが、そこからくねくねと町中を通って、ようやくバスセンターに着いた。ちなみに、菊池川はここまで上流になっても、川幅は広く、ゆったりと流れていた。
 後で知ったのだが、上流に大きなダムができるまでは、洪水で悩まされたそうだ。しかし、繰り返しの洪水のおかげで、ひろい川幅と河川敷が確保されたともいえる。



10:20ころ 山鹿BC(¥680)着。ちょうど1時間かったが、景色の変化が多く、短く感じた。すべてのバスは「SUICA」が使えるので便利だ。一方で、小銭はたまりすぎてしまう。

旅館は、バスセンターの目の前。荷物を預け、次のバスの便を確認。
幸い、第1目的の「県立装飾古墳館」の往復はうまくできそうだ。発車までに、1時間ほどあるので、街を見物に。
「八千代座」なる古い芝居小屋が有名なので、まずはそこへ向かった。
八千代座は、坂東玉三郎の公演中で見学はNG。小屋の前の駐車場は、観劇者の待合のテントに。皆さん弁当を買って食べていた。記念品の売店も大賑わい。毎年の行事とのことで、結構遠方からも来ている。




11:44 バスに乗車して古墳館へ。まもなく、CANONのカメラがないことに気づいた。前方の座席に置いたつもりが、バス停のベンチに置き忘れたらしい。バスの運転手が「すぐにここに電話してください。玉名の事務所ですが、そこから確認してもらいます」
電話をすると、「わかりました。調べて折り返し電話をします」
5分ほどで、電話があり「停留所にありましたが、どうしましょうか」とのこと、乗車しているのは玉名行きなのだ。「午後に山鹿に戻りますから、そのままバスセンターで預かっていただけますか」で万事無事収まった。せっかく撮った写真が無駄にならずに済んだ。バスを降りてからでは、連絡方法もわからなかった。



「県立装飾古墳館」は、「古墳館入口」のバス停から20分以上坂道を歩かされた。昼食どころが心配だったが、公園内にレストランがあり、「時間がないので、一番早くできるものをください」と注文をした。向かいの席の背広姿の人が、何やら書き始めた。
「黒米カレー」を食べ終わると、向かいの人が名刺を持ってきた。東京出身だが、山鹿市地域おこし協力隊として活動しているそうだ。鹿央地区が担当で、古代史が趣味とか。結局、彼がいろいろと説明を加えてくれ、館長さんにも紹介された。こんな時に経済大学の名刺は便利だ。バス停まで送ってくれたので、20分ほど余計に過ごせた。バスが来るまでも、話しどおし。お互いの趣味が一致したためだ。

装飾古墳館は、県立だけあってすべてが贅沢につくられたいる。園内の古墳の数も、一目ではわからない。ともかくも、館内の見学を始めた。




まもなく、地下でヴィデオの上映があるとの放送で、そちらに向かった。磐井の乱から始まる、装飾古墳作成までの一連の話が、無難にまとめられていた。



終了後に部屋を出ると、くだんの背広の人が、係の人と話をしていて、呼び止められた。「バス停までは、かなりの距離があるので、車で送りますから、その分ゆっくりと見学してください」とのことだ。1階に戻って、見学のやり直し。

それにしても、7つの装飾古墳のレプリカはよくできている。羨道の入り口の岩から、一番奥の絵図の岩まで、完全に再現をしている。出来栄えも、岩をたたかなければ、本当の岩だと思ってしまう。これだけの模型を作るだけでも大変な作業量だっただろう。




文様についても、幾分かの説明文があるが、簡単な説明で、いろいろな人の異論は表示されていない。あとでじっくりと考えてみよう。面白いアイデアが次々に生まれてくる。やはり、現地・現物の力だ。




二つ目のヴィデオの放送があり、また映像室に戻った。今度は、代表的な古墳を上空からドローンで撮影した古墳とその周りの景色だ。これはわかりやすい。無理をしてチブサン古墳の実際の場所まで行く必要性は薄れた。交通が不便なのでパスした有名な鞠智城は、全体の施設がバラバラで、行っても十分に見るだけの距離を歩く自信がない。パスしてよかった。



16:10 再出発
「山鹿灯篭民芸館」に立ち寄った。客はめったにないようで、受付嬢が詳しく案内をしてくれた。毎年、十数体がつくられるようで、どれも見事な出来栄えだ。有名な寺や神社に交じって、古今伝授の間の建屋があった。そういえば、細川家は古今伝授を受けていた記憶だ。制作の専門家の作業場も見せてもらえた。毎日交代で、実演をしているのだ。





また、昔「さくら湯」の殿様用の部屋の天井にあった竜の絵をこちらに移したとか。これも2階からだとまじかに見ることができる。



出口に「全国の伝統工芸」のパネルがあった。発行は、青山一丁目の「青山スクエア」とあった。そういえば半地下の展示室を見たことがある。その話をして外に出た。交差点を渡り終えると、先ほどの受付嬢が、なんとそのビラを探して持ってきてくれた。すごい親切心だ。

「さくら湯」は、入浴料金は¥300と安い。
明日のバスは10時過ぎまでない、早朝からやっているので、朝風呂にちょうど良い。



八千代座横で、丹後ちりめん問屋の展示会ものぞいた。「玉三郎さん好みの色」と書いてある。完全なコラボレーションの展示会のようだ。まだ夕食には時間があるので、他に訪問者もなく、じっくりと説明を聞くことができた。地元かと思ったら、丹後からわざわざの出張だった。それにしても、無地のちりめんの反物を買う人はいるのだろうか。染める前の生地では、織の文様が明確にわかる。いろいろな織り方があり、すべて穴あきの紙で制御されるそうだ。
染は、原則1回。玉三郎好みの色は、かなり地味だ。だからそれほどには売れないと言っていた。



その場考学との徘徊(26)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その3)

2017年11月14日 14時01分28秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その3)
場所;玉名  年月日;H29.10.31
テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.13  
 
熊本から玉名まではJRで8駅、途中に、あの西南の役で有名な越すに越されぬ「田原坂」がある。
西南の役の「田原坂」は、熊本城よりは南だと思っていたので、駅名を見てびっくり。しかし、ここよりも更に北の玉名と菊池が激戦地だったとは。そのことは、おいおいの歴史館で学ぶことができた。



駅を降り、市内循環バスのバス停へ。TAXIを覚悟していたが、幸いにバス便があった。
玉名温泉というバス停で降りると、ホテルの看板が目の前にあった。少し急坂を上るだけでよい。



荷物だけ預けてフロントスタッフに行き先を言うと、「これから市内へ出かけるので、一緒にどうぞ」とのことで、乗車。しかし、お目当ての「高瀬眼鏡橋」はなかなかわからずに、渡した地図を何度も確認していた。小さな川沿いにその橋はあったが、彼も興味があるらしく、車を降りて、歩き回っていた。



こんなにたくさんの石橋を連続して見られるとは思っていなかった。
どれも、自由に渡れるのがうれしい。昔も今も、生活道路なのだ。

高瀬眼鏡橋の写真を撮って、上流へ向かった。きれいな遊歩道が両岸に続いている。橋も趣のある石橋が多い。しばらく行くと遊歩道は行き止まりで、何やらお蔵の中に入ってしまった。
 



道を聞くつもりで、事務所の女性に声をかけると、「ここは古い蔵を改造して、イベント用に貸し出している。よかったら、内部をお見せします。」とのことで、中を見せてもらった。グランドピアノまであり、二つの蔵を繋いだとかで、結構広い。蔵の入り口からは、古いレールが表通りまでつながっていて、米俵を積んだトロッコがおいてあった。ここは昔、結構な規模の商品の集積地だった。




そこから歴史博物館までは、わかりやすい道だったが、どの建物がそれかがわからない。犬を散歩ちゅうのおばあさんに尋ねると、「じゃあ、ご一緒しましう」と一緒に歩き始めた。結構な足取りなのだが、年齢は80歳を超えているとか、

玉名市立歴史博物館



展示室は暗くて、パネルの字を読むのは困難だった。そこで、受付に戻ってその旨を言うと、「すみません、明かりをつけるのを忘れていました。」と。
玉名市には、馬出、大坊、永安寺(東、西)など14か所の装飾古墳が見つかっているが、歴史博物館なので、古代のことは詳しくない。代表的な古墳の外形写真と数点の古墳からの発掘物があるのみ。しかし、耳飾りなどは美しかった。一般的に、この地方の発掘物は、荒らされていないので、質が良い。

建物は大きいのだが、博物館はほんの一部。古墳関係の展示は多くはない。むしろ西南戦争の話が多かった。このあたりが勝敗を分けた激戦地だったそうだ。一般には、田原坂が有名だが、それよりも前線のここ玉名や菊池での戦いが最前線で、戦闘中に、「田原坂の戦いで敗戦中」との偽情報が入り、一部が応援にそちらへ向かったために、膠着状態が一気に崩れて、総退陣になったとある。玉名では、菊池川を挟んでの戦闘だったが、大きな橋が落とされて、両軍が上流に向かい、そこで戦いがあったそうだ。上流には「乃木希典少佐負傷の地」、下流には「西郷小兵衛戦死の地」(彼は西郷隆盛の末弟)がある。



別の部屋には、昔のマラソンランナーの特別展示があった。再来年のNHKの大河ドラマに決まっているとあるのだが?しかし、偶然にもその翌日のNHKのニュースで、主演をはじめとして、数名の配役人が紹介された。どうやら、一連のオリンピックの参加選手の話らしい。
何気なく持ち帰ったパンフレットを読むと、史上最長タイムのオリンピック・マラソン記録の持ち主で、「時間は54年8か月6日5時間32分20秒3」だそうだ。いまでは考えられない、当時の純オリンピック精神がうかがえる。NHKが、この記録をどんな演出で説明をするのか、今から楽しみになった。



受付嬢に和水(ナゴミ)町歴史民俗資料館へのバスのルートを訪ねた。一度駅前に戻らなければと思っていたのだが、なんと5分後に、この隣の市民会館前からのバスがあるという。慌てて裏口から出て、案内された細い道を下って、小走りでバス停へ。

昼食どころが心配だったが、ここはどうやら道の駅らしい。「ロマン館」という地元品売り場の奥に、立派なレストランがあった。「火の本豚」が名物とかでかつ丼や生姜焼き定食がある。



ここは、広大な歴史公園で、いくつもの古墳が並んでいる。小規模の円墳と前方後円墳だ。石像のレプリカも数体あった。「矢」の彫だけがくっきりとしている。彫った人の意図が示されているようだ。




お目当ての歴史民俗資料館は、公園の一番奥の坂の下にあり、なかなか見つからなかったが、内部は素晴らしく、国宝の鏡(すべてレプリカで本物は国立博物館所蔵)がずらーっと並んでいた。事務室には誰もいないので、質問のしようもない。
始皇帝が乗っていたような3頭立ての馬車、2頭立ての馬車には複数の戦士が乗っている。このような鏡が、なぜここに埋まっていたのであろうか。



説明文は無いが、3次元バーコードにかざすと、目の前の番号を入れれば、携帯で音声案内を聞くことができる。将来は、すべての博物館でこのような無料音声ガイドを設置してほしいものだ。



古墳の突き出しの部分に腰を下ろして、青空を眺めながらの休憩。のどかな風景で、高校時代の友人たちと、奈良の古墳でねころがって休んだ情景が蘇った。今日は、偶然も幸いして、バスの便は上々だった。

帰りのバスが心配で、着いてすぐに確認したのだが、14:29新玉名駅行きがある。新幹線の駅なので、唯一の観光案内所もある。しかし、行ってみると案内所は名ばかりで、数枚のパンフレットがあるだけで、翌日のバスの時刻も容易にわからなかった。
15:47 幸いにも、玉名温泉を通るバスがあった。それに乗れば、ともかくもホテルに戻ることができる。持参した地図は、図書館でCOPYしたもの。かなり古くて、新幹線も書いていない。しかし、昔からのバス停が書かれていて、結構役に立った。今の地図に路線バスのバス停名の表示はない。


15:57 玉名温泉着 これまでのったバスは、すべて乗客は一人だけ。運転手は暇なので、こちらが一言聞くと、三言帰ってくる。路線バスは楽しい。

夕食は、またまた一人だけ。まかないのおばさんが話し好きで、終始会話を楽しんだ。地元の人は路線バスのことは知らないそうだ。菊池川を挟んだ西南戦争も知らない。「あの戦いは、熊本に行く途中の田原坂でしょう」とすましていた。吉永小百合のファンで、「キューポラのある町」の話をしきりにする。こちらは、彼女の中学の1年後輩なのだが、まだ見たことがない映画だ。
熊本人は巨人ファンが多いそうだ。ちょっと不思議だが「だって、川上さんがいたでしょう」ときた。話に夢中で、料理を食べすぎて満腹を越してしまった。




今日は快晴で21℃、どうりで外が暑かった。13846歩

雲仙岳は意外に近く見える。道路は佐賀県を通って延々と行くが、有明海の狭いところを挟んで、目と鼻の先なのだ。



その場考学との徘徊(25)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その2)

2017年11月13日 11時23分15秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その2)
場所;熊本 年月日;H29.10.30~31
テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.13 
 
熊本行きのJAL625便は、羽田発8:00、熊本着は9:50だった。関西方面への飛行の際は、いつも右の窓際を選ぶ。海ほたるや横浜市、さらにわが家の八ヶ岳南麓と甲斐駒、北岳、諏訪湖などの様子を見ることができる。天気が良ければ、北アルプスや御岳山も。



 途中で、着陸時に阿蘇山が見える方向をCAに尋ねた。コックピットで確認をして、「下降中は左、着陸時は正面」だそうだ。そこで、席を15K ⇒17A移動させてもらった。
 
しかし、雲が広がり山は全く見えず。だが、熊本市上空で180度旋回したので、熊本城を上空からゆっくりと見ることができた。天守らしきものから巨大クレーンが突き出しており、すぐに見つけることができる。

 

熊本は3回目だが、ビジネスだったのでリムジンバスで熊本駅へ向かうのが常だったが、じつは無料バスが、最寄りのJR肥後大津駅まで30分おきに出ている。のんびり旅にはうってつけだ。バスの車窓からは、外輪山が望めた。



途中の景色に期待したが、めぼしいものは無かった。
観光案内所で市内散策地図と市電の一日乗車券(¥500)を購入。「3回以上乗らないと元が取れませんよ」と念を押された。そのまま、2Fの食堂街へ。迷わずに、郷土料理の馬刺し丼定食を選んだ。



まずは、友人から聞いていた、熊本市役所14Fに向かった。ここからの眺めが一番良いそうだ。地元の人が数人、お城と廊下に貼ってある、復興写真をかわるがわる眺めていた。




その中に、長野県伊那市の高校から贈られた,千羽鶴の貼り絵があった。これは見事な出来栄えだった。(右の写真は、石垣の右上角の部分)




 3日目の山鹿で出会ったクリエイチィブディレクターのK氏から、こんな話を聞いた。「私は、数年前に熊本城の内部の大改装の企画をした。肥後54万石にちなんで、54億円の巨大プロジェクトだったが、今回の地震で壊滅してしまった。」自身の創造物が消えてしまう気持ちはよくわかる。さぞ、残念だっただろう。

市役所から降りて、城へ向かう。 お堀端の遊歩道では、昼休みの会社員がのんびりとして、観光客はいない。
この寸劇は面白かった。座って休憩するのにも都合がよい。題名は「海を渡る大名行列」
大分にある肥後藩の飛び地の港から、百艘余りの船団が四国へ向かうCGは意外だった。
 


加藤神社へ向かう途中の茶店で休憩。のんびりとした会話の後に、寄付金付きの「タオル」をもとめた。
遊歩道から、少し突き当りの横路を入るのだが、売店の人が教えてくれた通り、ここからは、塀や壁、櫓の崩れた様子をまじかにとかにとらえることができる。
まだ、崩れたままの石垣がそこかしこにある。
どこを、地震の記憶として残すのだろうか。



夕食どころは、有名な繁華街の中。どの店も馬刺しが売り物で、目移りがする。話しかけられそうな親父がいるカウンター席を選んで、馬刺し、天草地鶏、だご汁などを堪能した。




明日からは、玉名発路線バスの旅だ。
 







その場考学との徘徊(24) 北肥後4泊5日の路線バスの旅(その1)

2017年11月12日 10時10分06秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その1)
場所;熊本・玉名・山鹿・菊池  年月日;H29.10.30~11.3
テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.12  
 
 宗像神社と福岡・熊本に点在する古代遺跡巡りを計画して4年が過ぎてしまった。台風や地震などで毎年あきらめていたのだった。今年こそはと思っていたら、奥さんが体調を崩してしまった。もう延ばせない、しかし一人でのレンタカーの僻地めぐりは気がすすまなかった。そこで思いついたのが、最近はやりの路線バスの旅だった。

 早速に、有楽町のアンテナショップに向かった。ここも3年連続である。地方都市の最新情報は、情報誌よりも頼りになる。ここの1階は「くまモングッズ」を買い求める女性でいつも混雑をしているが、2階の観光案内に上ってくる人はいない。案の定、ゆっくりと話を聞いて、バス路線と時刻表を手に入れることができた。どの路線も一日に数本だけだ。

 早速に計画にとりかかたが、レンタカーならば一日で回れるところが、お互いに離れているために、街ごとにまる一日がかかりそうだ。主な博物館も古墳の近くにあるので、街からは遠いのだ。結局、余裕を見て熊本・玉名・山鹿・菊池に各一泊することにした。範囲も、装飾古墳が集中する北肥後だけとなった。



 装飾古墳にこだわった理由は二つある。一つは、九州王朝説だ。私はインダス文明の支流の東アジアの古代史に興味があり、それが21世紀以降の新たな文明の基本になると考えている。つまり、西欧文明の次の文明だ。九州王朝説は、歴史の専門家の間では人気がないのだが、私はかってに、遣隋使は九州王朝が送り。遣唐使は大和王朝が送ったと思っている。卑弥呼が送った遣魏使も九州王朝だ。彼らは、古代中国との交流に力を注いだ。しかし、朝鮮で高句麗・新羅・百済が力を蓄えて、お互いに戦争を繰り返すと、多くの豪族や王族が渡来人としてやってきた。彼らをうまく利用したのが大和朝廷で、そのために戦力も文化も一気に増大して、ついに「磐井の乱」で九州王朝を殲滅させた、などと思っている。

 もう一つは、ある豪華本からの刺激だった。昭和52年に泰流社から発行された、A4サイズで260ページの「装飾古墳」という写真集だった。当時の定価で3万円。これを神田の古本市で千円で売っていた。全集物でもない大型本の処置に困っての安売りだったのだろう。なかの写真も大部分が鮮やかなカラーで、最近のどの写真よりもはっきりと文様の細部までを見ることができる。その中に、こんな文章があった。



『装飾古墳はどれを見てもそんなに大規模な墓ではない。小さな円墳だったり、山の斜面を利用したささやかな横穴式の石室、そこに アッと目をみはる絢欄たる彩りの宇宙がとじ込められている。 円や三角形、それに具象的な絵もいかにもプリミチーヴで、稚拙 に見える。そのため、一般にこれらの絵は下手だ、幼稚だときめつけられて、とかく評価されない。高松塚古墳が発見されたときの、あらゆるマスコミ・学者・愛好家、国をあげての大騒ぎはまだ記憶に新しい。日本にもこのような立派な、すぐれた絵画を秘めた墓があったとは、という讃美ばかりだった。だから国も早速、珍しい素早さで保護に乗り出し、彪大な 費用をかけて、模写もするし、密閉して保存につとめる等、万全の 措置を講じている。確かにそれは美女の風俗画で人目をひいたし、歴史専門家たちにとっては、貴重な資料だったかもしれない。だが 私に言わせれば、九州の装飾古墳の方がはるかに人間的に深く、芸術的に問題を含んでいると思うのだ。』(pp.10)

『高松塚など、明らかに大陸からわたってきた職人芸ではないか。 この土地の生活・思想と必然的に結びついているわけではない。大陸の巨大な権力体制の下で出来あがったパターンをそっくりここらに移してきてなぞった、手先だけの職人芸だ。 九州の装飾古墳は、その土地で、その共同体の中から、自然に、 そして切実に生まれてきた表情だ。それは今日の芸術的ポイントから言っても、より根源的な意味と、強烈なひろがりをもっているのである。 決して「うまそうーには描かれていない。どうしてか。 それは職人芸ではないからだ。職能を土台とした、手先だけの訓練、そういう、専門技術を問題にしない、無条件なしるしなのである。あれらは人間を超えた、見えない世界との直接的なコミュニケーション、呪力をもったサインである。幅ひろく、豊かな、つまり 真の存在の精神の記号であればよいのだ。』(pp.11)

 装飾古墳の全体像は、大塚初重「装飾古墳の世界を探る」祥伝社(2014)から学んだ。古墳が河川流域にあること、地下式の横穴であること、近畿の古墳と比べて、発掘物の質が良いことなどである。とにかく、全国20万余の古墳のうち、660基なのだからマイナーであることは間違えがない。そこに、おおいに興味が注がれたのである。



路線バスには、合計で11回乗車した。そのうちの大半は全道中の乗客が私一人だけ。東京では「運転中は、運転士に話しかけないでください」とあるが、最前列に座ると、向こうから話しかけてくることもあった。



以後、1日ごとの「徘徊」を書き記してゆこうと思う。路線バスの旅が、レンタカーの旅に比べて格段に面白かった記憶をとどめておくために。