生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(80)王寺駅徘徊

2025年02月02日 08時28分28秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(80)          
題名;王寺駅徘徊 場所;東京都 王寺 月日;2025.1.31

テーマ;新宿駅から王寺駅に行くには、細心の注意が必要
作成日;2025.2.2   
                                           
 北区のJR王子駅には、既に何回も行ったのだが、今回初めての経験をした。それは、なんと5回もJRでお世話になったしまったことだった。その原因は、この地図の為だった。



 私の場合の出発は新宿駅。最初は山手線で田端まで行き。そこから京浜東北線に乗り換えて王子駅へ行った。
しかし、新宿から田端までの駅の数は相当なモノだった。
 その帰りに、駅の路線図を見て、「赤羽がすぐそこだ。ここで埼京線に乗れば、途中の停車駅の数が大幅に減る」と考えた。

 そこで、今回は新宿駅で大宮行きに乗った。赤羽まで池袋のみの停車でたたったの11分だった。赤羽の駅構内は広々として、各種の店がある。店を覗くのは帰りにして、すぐに上りのホームに向かうことにした。幸い、すぐに平塚行きがあるので、それに飛び乗った。しかし、10:59の発車後すぐに車内放送で、「次は尾久です」と。「え‼ おぐっっていう駅はあったっけ?」。列車はなかなか止まらずに、王子駅の横を通過してしまった。
 尾久駅で降りたのだが、駅も周囲も閑散としている。見えるのは、おびただしい数の電車だけだった。帰宅後に地図を見ると、この通りで、京浜東北線の線路とは違うところに来ている。



 一駅戻れば良いと思ったが、それは甘かった。この線路は、王寺駅の横を通過するだけで、次の駅は赤羽との表示になっている。仕方なく、11:11発の籠原行きで、また王子駅を横に見て、11:15赤羽駅に戻った。
 11:17蒲田行きの京浜東北線に乗車、11:23やっと目的の王子駅に着くことができた。

 駅周辺のウオーキングで、「お札と切手の博物館」、「王子稲荷神社」、「名主の滝公園」を楽しんだあと、
13:03発の列車で赤羽に戻った。
幸い、13:14発の湘南新宿ラインに乗ることができ、当然十条通過と思ったら、またまた王子駅の横を通過した。ここは、なんと今日5度目だ。

 家に帰って路線図と列車の時刻表を調べた。ややこしいので、地図を色塗りしてみたのが、次の3つ。

 
 
 緑は埼京線で、新宿の次は池袋なのだが、そこからは板橋、十条などの各駅停車で、赤羽駅に至る。
 赤は、湘南新宿ラインで、赤羽から王寺方面の線路で、駒込で山手線と併走になる。だいぶ遠回りなのだが、新宿までの停車駅は池袋だけ。



 ついでに、高崎線と宇都宮線も調べたのが、この地図の緑の線。
こちらは、新宿駅で乗るときはどちらでも良いのだが、赤羽駅での乗車は、気をつけないといけない。時刻表だと、新宿経由と、上野・東京駅経由とがバラバラに来るようだ。
 間違えて、上野経由の電車に乗ると、田端で山手線に乗り換えなければならないが、田端が通過だと上野から戻ることになってしまう。



最後は京浜東北線で、この図の赤のように大宮から赤羽までは各駅停車で、田端から山手線との併走で、平日は快速電車になる。
 平日に、うっかりこれに乗ると、山手線の駅を通過してしまうので、これも注意が必要。
 最近は、どの駅もホームに時計と停車駅の表示板がない。日本の道路表示と同じで、地元の人にはわかりやすいが、他所からの訪問者にはわかりにくい。徳川・戦国時代の名残の文化なのだろう。

その場考学との徘徊(79)王寺稲荷とお札の博物館

2025年02月01日 10時31分23秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(79)          

題名;王寺稲荷とお札の博物館 場所;東京都 王寺 月日;2025.1.31
テーマ;石神井川が武蔵野台地を離れる辺りにて
作成日;2025.2.1                                            

 冬晴れで比較的風も穏やかな日に、三度目の王寺に向かった。駅前から始まる断崖の坂道は、ウオーキングには最適だ。今回の目的地は、駅の東にある「お札と切手の博物館」と西北にある「王寺稲荷」。
 
 先ずは、駅前の大通りに面している「お札と切手の博物館」正式には「国立印刷局博物館」。この場所は、お札等を印刷する国立印刷局の工場の一部で、かつて、この辺りは製紙工場が多く、良質の紙が入手しやすかったようだ。ちなみに、近くを流れる石神井川は、ここから1km足らずで隅田川に合流する。



館内は、広くはないが1階の展示物は面白かった。新Ⅰ万円、五千円、千円のゼロが全部並ぶ試作品に始り、一億円の札束がある。10kgとは覚えやすい。



 色々な仕掛けがあり、自分のお札の部分的な拡大を自由に視ることができる。
五千円札の津田梅子の右眼を拡大したのは、この写真。細かい文様も確認できる。



 ちなみに、一角では「お札の模様、流線が描くArt、工芸官作品展」があり、多くの模様の原画
が展示されていた。どれも超細密画で驚かされる。
 世界の最初のお札は、やはり中国だった。ヨーロッパよりも600年も早い。


 
 明治時代の初期には、細密印刷ができずに、アメリカンに委託して印刷をしてもらったとか、関東大震災でお札の印刷ができなくなり、その間取り付け騒ぎを警戒して、大阪で臨時のお札を大量に刷った。裏が白紙のままだったのだが、幸い流通する機会はなかったとのことなど、初耳のことが多い説明書きがいくつもあった。偽札防止対策の歴史も概略してある。
 この写真は、新札を紫外線で視たモノ。



ゆっくりと廻っても30分ほどで、無料なのだが観客は皆無だった。

 駅へ戻って、石神井川の流れをみる。この公園は前回歩いたのだが、歴史を感じて面白かった。今回は、下に降りずに坂を上り始めた。



 王寺稲荷は、思ったよりも立派な拝殿だった。




 他に参拝者は無く、ゆっくりと拝むことができた。社務所に人影はなく、お守りが並んでいたので、干支の小さい絵馬(¥350)を買うことにして呼び鈴を押した。奥から女性の返事があったのだが、出てくるまで1分以上かかっただろうか、のんびりしたところだ。
 縁台があって、みたらし団子が食べられるかと期待していたのだが、聴くと「すぐ近くに、老舗の葛餅屋さんがあります」とのことで、そちらに向かうことにした。
 その前に、まだ歩き足りないので、近くの「名主の滝公園」に向かった。ここもひと気が無く、狭い階段の連続だったが、案内図が正確で、滝や池を満喫することができた。





 件の葛餅屋さんは、稲荷神社の階段下の道を駅方向に歩いた途中にあった。店内での飲食も可能なのだが、お客がまるでいない。お土産に二人用の小さな箱入りを買った。



 お稲荷さんには狐が付きのもなのだが、ここは特別で、由緒ある狐行列が今でも行われているようだ。ネットには、次の記事がある。
 『源頼義より“関東稲荷総司”の称号が与えられた、王子稲荷神社(東京都北区岸町)。大みそかの晩に、東国一円の神様のお使い狐が集まり、近くの榎のもとで身なりを整え、この神社に初詣をしたという伝説から、毎年大みそかに大祭“狐の行列”が行われ、冬の風物詩となっている。
 柴田是真作の「額面著色鬼女図」、谷文晁作の「龍図」を所蔵。境内にある狐の穴跡は落語“王子の狐”の舞台にもなっている。
王子稲荷神社の参道にある甘味処が、石鍋商店。創業は1887(明治20)年。4代目の石鍋和夫さんが、今もなお研鑽(けんさん)を重ね、新しい和菓子づくりに挑戦している。
 一番人気は「久寿餅」(500円、みやげ用は590円~)。原料の小麦デンプンは、90年前から茨城県の老舗の焼麩屋で1年間、発酵させたものを使う。さらに、店で半年から1年発酵し、それに独自のブレンドで配合した小麦デンプンを加え、何度もさらして蒸して作る。手間をかけて無添加で作り上げる逸品だ。』
 https://www.zakzak.co.jp/article/20181215-QVUUKJ7NGFMNDEKPF6WA4N5U5M/より



 帰宅後に、早速に味わったのだが、歴史を感じる深みがあった。歩数は約8000歩。1時間半のウオーキングだった。
 ちなにに、浅見光彦シリーズのTVドラマでおなじみの、みたらし団子の「平塚亭」は、駅前から都電(今の呼称は?)で一駅先にある様なのだが、また次の機会に味わってみよう。





その場考学との徘徊(77)淡路島での4日間(その2)

2024年05月12日 15時50分37秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(77)        
題名;淡路島での4日間(その2) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存                                               

・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第2日目の詳細

 二日目は、終日レンタカーで、路線バスでは行けないところを廻ることにした。島のレンタカーは豊富で、ホテルからバスセンターへの道筋にも一件あり、そこまでホテルの送迎バスで送ってもらった。
私は齢78歳なので、知らない土地でのレンタカーには、少し戸惑いがあったが、先日免許更新をしたばかりで、島内の交通が複雑でないことを願っての借用だった。


 
 9時に借用して、海岸を北上し「淡路ワールドパークONOKORO」の駐車場に止めた。平日なのでガラガラ。古事記の「おのころ島」が、あちこちで借用されていることは、神社巡りに期待が持たれる。



 若い人向けには、様々な乗り物と体験があるのだが、当方は世界の名所のミニチュアと観覧車がお目当てだった。ミニチュアは、思いのほか精巧で、現地では見ることのできない、教会の尖塔の飾りや、寺院の壁面の彫刻の詳細をじっくりと眺めることができ、満足だった。







また、「童話の森」では、世界童話の8作品のジオラマがあり、物語の概要も示されていたので、改めて昔を思い出した。「ヘンゼルとグレーテル」や「ジャックと豆の木」など、忘れていた経緯や結末もあった。



「遺跡の世界」も一巡したのだが、間近でゆっくりと見られるのは、年寄り向きなのかも知れない。



 観覧車は、勿論貸切り。ゆっくりと、公園全体と周辺の町並みを見物した。歩き疲れを癒やすには、こ




 公園での軽い昼食の後に、「伊弉諾神宮」へ向かった。道路は比較的広く、走りやすい。
ここは、伊弉諾の尊が、すべての国産みを終えた後での隠居所とされている。
 お目当ては、「ひのわかみやと陽の道しるべ」という大きな石碑だ。いくつかの古代史の書籍に引用されている。
 この地点から、太陽に関する8つの方向には、それぞれいわれのある神社が存在する。例えば、真東が伊勢神宮、夏至の日の出は熊野大社といった具合だ。






 淡路島を横断して、西の海岸に「幸せのパンケーキ淡路島テラス」という、若者に人気の店がある。そこのパンケーキを楽しんだ。若者のお目当ては、スイーツよりも、海に突き出た二つのモニュメントで、そこでは、撮影のための行列ができていた。




 最後は、「おのころ島神社」で「自凝島神社」と書く。




 レンタカーは、無事夕刻に返却をすることができた。

その場考学との徘徊(76)淡路島での4日間(その1)

2024年05月12日 10時13分20秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(76)         

題名;淡路島での4日間(その1) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存
                                               
・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第1日目の詳細

 羽田からの飛行は、AirbusA350-900という大型の最新機種。下は曇りで見えないのだが、3次元画像で、どこを飛んでいるかはよく分かる。しかし、雲の上の富士山と南アルプスは、実物がよく見えた。



 伊丹空港で驚いたのは、淡路島へのバスだった。通常のリムジンバス乗り場に、そのバスは来ない。案内所で聞くと、空港ビルの外れの別のビルに停留所があるという。かなり歩いて、そこまで行くと、看板があるだけ。バス会社に連絡をすると、予約がないと、乗れないかも知れない。つまり、満員でなくても、そこから乗る人の予約がないと、通過するそうだ。
 幸い、二組が乗車したので、なんとか乗ることができた。最悪は、淡路島までレンタカーを考えた。



 車内は、結構混んでいた。夕方の通勤時間帯ならばともかく、日曜日の昼下がりでは、通常の空港リムジンでは考えられない混雑だ。

 しばらくして、原因が分かった。いくつものトンネルを抜け、明石海峡大橋を渡ると、「ニジゲンノモリ」という停留所がある。そこで、大部分の乗客が降りてしまった。
 子供ずれ、外人客など色々だ。そこは最新のテーマパークで、ドラゴンクエストや、ゴジラの実物大のアトラクションがある。「ゴジラが淡路島に上陸」との宣伝文があった。
 後にTV番組の「Youは何しに日本へ」で、アメリカ人が「ゴジラに食べられるために来た」といっていた。最近のゴジラは海外での人気が高い。
 そこから淡路島縦断は、ガラガラ。終点の「淡路バスセンター」で降りたのは我々だけだった。バスは何と「ニジゲンノモリ」のラッピングカーだった。日曜日の昼前という、とんだ時間に混んでいたのを、納得した。



 洲本バスセンター内の観光案内所は、なんでも親切に教えてくださった。島内の南北へ向かう路線バスも、時刻表が数種類あるのだが、目的地を決めれば、計画は立てやすいし、本数もかなりある。
 近くのレストランで昼食を摂り、ホテルに向かうことにした。ホテルには、別途送迎バスの時刻表があるのだが、連絡をすれば、いつでも臨時に迎えを出して貰える。これは年寄には大変ありがたい。

 チェックイン時刻には間があるので、城山に登ることにした。登山道が二つあり、山道と普通の路だという。
せっかくなので、山道を選んだ。木々の間から、時々海が見える。
 頂上らしき処は二つあって、一つは城の天守閣がある。しかし、私が登ったところは、公園で、数組が幼児を遊ばせながら花見をしていた。桜の木は大きくないのだが、記念樹に見えた。どうも、北海道のどこかと姉妹都市のようだ。


 
 この疑問は、すぐに分かったのだが、先ずは、下におりてホテルにチェックインをした。部屋は、一人なのだが、ツインになっている。淡路島は、土地が広い。



後で知ったのだが、どうやら特別フロアーだったようで、エレベータ横にラウンジがあり、飲み物と新聞が置いてある。
 翌朝の朝刊は、5時からの朝風呂の後には、もう4紙置いてあった。東京の我が家よりは、早いのでびっくりだ。

ホテルを出て、街歩きを始めた。最初は、ホテルの前の松林。海風に晒されるので、独特の曲がった幹が面白い。



 すぐに、「国指定名勝 旧益習館庭園」という処に出た。観光案内所で、今日は特別公開をしているので、見に行かれたら、とおすすめのあったところだ。
 閉園5分前だったが、ゆっくりと回遊をさせていただいた。

大きな岩がほどよく配置されていた。




 江戸時代の後期に、淡路島は蜂須賀家の領地だったが、実質は城代家老の稲田氏が治めていた。
明治維新時に、蜂須賀家は将軍家と結び、稲田氏は朝廷と縁があった。そのために事変が起こり、結局両家は罰を受けたのだが、稲田氏は、明治政府から北海道の静内に移住して開拓をするとの命令が下された。先ほどの山頂の記念樹の意味が、ここでようやく分かった。
 この庭園の横には、小さな桜並木があり、奥には、山頂に向かう別の登山道の階段が見えた。



 住宅街の路地をジグザグに進むと、10分ほどで街に出る。「洲本レトロ小道」との名前が付けられた路地があり、のぞいてみた。残念ながら日曜日はどこも閉店。わずかに、「淡路島でのドラマの撮影スポット」なるパネルの展示列があり、それを楽しむくらいだった。  



その場考学との徘徊(75) 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

2023年12月13日 10時41分21秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(75)     
題名;都心部の坂道と階段(その3)  場所;信濃町~四谷三丁目 月日;2023.12.8
テーマ;迷子になりそうな町
作成日;2023.12.12                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

 今日は、信濃町駅から北に向かって歩くのだが、終点は「その1」で歩き始めた四谷三丁目の荒木町の交差点になる。つまり、新宿通りを挟んで、その1では北側、今回は南側になる。
 中央線の信濃町駅は、神宮外苑や明治記念館に行くために、何度も降りたことがあるのだが、いきなり千日谷を下るのは初めてだ。ちなみに、谷の名前は、ここの領主の法要が千日間行われたことに拠るとか。下った先の窪地で、早速に方向が解らなくなって、いきなり引き返すことに。



 坂の途中には、公明党の建物がある、中央線から看板がよく見える処だ。道なりに進むと、旧東宮御所の門の前の通りに出てしまった。神宮外苑から迎賓館に通じる道で、大学への通学によく通った。現在は、上宮御殿になっているので、かつてよりも守衛さんの数が多い。



 方向転換をして坂を下ると、中央線を潜ることになる。そこから先は一本道だ。

 次の目当ては、若葉公園ですり鉢の底のような地形だと書いてある。
途中で道を聞いてなんとかたどり着いたのだが、何もない公園だった。
しかし、公園からは、次の暗闇坂が見通せる。昼でも暗闇だったそうだ。
丁度、保育園児の一団が降りてくる処だった。




 暗闇坂を登り切って、細い路地を進むと、須賀神社の裏手に出る。そこには何故か36歌仙の絵入りの額が並んでいた。このあたりでは、四谷十八ヵ町の鎮守様として、かつては江戸の五大祭りの一つとして有名でしたとある。社名の須賀は、須佐之男命が出雲の国で八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」との故事に基づき名付けられた。





 社務所には、やはり朱印帳の列があったが、私は、鳥居のストラップを選んでだ。なぜ鳥居なのかは解らないが、外人向けなのかも知れない。赤い紐は、「叶むすび」と呼ぶそうで、丸(四角)と十字の結び目が、叶という字になっている。


 
 拝礼を済ませて、正面から出る。すぐに天王坂という長い階段がある。しかし、その先はまた上り坂になっている。 谷底を左に行けばゴールの四谷三丁目だが、反対方向へ曲がる。服部半蔵の墓がある、西念寺を目指した。



 
 西念寺への道は単純だったのだが、お寺の境内は崖の上。通りがかりの人に聞いてもどこが入り口か解らない。
崖に沿ってこのまま進むか、思い切って「観音坂」という名の急坂を登るかの選択だった。道を聞いた人が登るので、話しながら坂を登ったのが正解だった。登り切った角を更に曲がり、結局、迷った場所の対角線の位置に山門があった。
 墓所は広いのだが、境内は意外に狭く、半蔵の墓と信康の供養塔はすぐに見つかった。





 服部家は徳川以前の松平時代の譜代家臣で、2代目服部半蔵正成が徳川家康に仕えて武功立て、8千石の旗本になった。彼は、いわゆる忍者ではなく、「槍の半蔵」と呼ばれる豪傑だったらしい。なぜこの地に家康の長男で、信長から切腹を強要された信康の供養塔を建てたのかは、よく分からない。




 山門でUターンをして、四谷三丁目へ向かう。途中には「東福院」と「円通寺」が有り、それぞれが「東福院坂(別名は天王坂)」と「円通寺坂」の中程にある。坂を登ったり下ったりで、
ウオーキングにはうってつけだった。



 そして、ついに地下鉄丸ノ内線が通る新宿通りとの交差点に出た。道の向こう側には、その1を歩き始めた荒木町の人力車の頭飾りがある赤い街路灯が見えた。





 全行程は7900歩、2時間強のウオーキングでした。

その場考学との徘徊(74)神楽坂はジグザグが楽しい

2023年12月12日 08時07分38秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(74)    

題名;都心部の坂道と階段(その2)  場所;神楽坂 月日;2023.11.28
テーマ;神楽坂はジグザグが楽しい
作成日;2023.12.11   
                                             
TITLE: 都心部の坂道と階段(その2)飯田橋駅東口~飯田橋駅西口

 今回は神楽坂なのだが、有名な商店街は歩かずに、ジグザグに登って、頂上にある有名な神社でUターンして下るルート。再び「東京人」の地図が頼りだ。



 神楽坂の横道は、とにかくわかりにくい。かつて、自衛隊のOBさんに誘われて、何回か飲食をしたのだが、どの店も小さく看板がなく、二度とその場所へ行くことができない。
 スタートは飯田橋駅の東口。このJRの駅は東京駅側が大きくカーブしていて、改札口まで随分と歩かされるのが特徴。
駅を出るとすぐに大きな歩道橋がある。ここで既に方向が解らなくなる。神楽坂に行くには、歩道橋に上がってはいけない。唯一の横断歩道を渡る。




 神楽小路という、外堀通りと平行の細い裏道を神楽坂に向かって歩く。ここには、昔あったといわれる期待した店はなかった。神楽坂の商店街を少しだけ上り、すぐに右に曲がって、細い路地をジグザグに進む。案内書には「路地裏ラビリンス」とある。
本田横丁を抜けると、筑土八幡町の交差点に出る。正面に神社の長い階段が見える。



階段は、男坂と呼ばれて50段。ここは、かつて牛込台地と呼ばれており、北の端が今日の目的地の赤城神社になっている。          残念なことに、両神社とも宝物殿は見当たらなかった。最近は、どこも若い女性が朱印帳を持って社務所に行列をしている。ここも、数人が並んでいた。 



 階段を一旦降りて、西に向かう。この辺にも階段があるはずなのだが、見つからないうちに、「神楽坂上」の交差点に出てしまった。

 交差点から、神楽坂を少し下って、善国寺に出る。毘沙門天で有名なのだが、像を拝むことはできなかった。七福神の小さな根付けを購入。
 少し戻って、今度は神楽坂の西側を巡る。地蔵坂と呼ばれる細長い道で、途中に光照寺がある。北条氏の出城の一つで、牛込氏の居城跡とあるのだが、看板以外に見るものがなかった。
 そこから、更に下ると、大江戸線の牛込神楽坂駅に出る。道路の反対側には、袖摺坂の狭い階段を見ることができる。すれ違うたびに、袖が摺れるそうだ。横には、マンションの土台を利用した公衆便所がある。地下鉄が開通する前からのものなのだろう。



 確かに、すれ違いが難しい階段を上りきると、住宅街に突き当たる。右に曲がって、朝日坂を下ると神楽坂の遙か上に出た。東西線の神楽坂駅がある。信号の下に、赤城神社の入り口がある。



 境内はかなり広いようで、拝殿が見えない。参拝者が出てくる方向へ進むと、いくつかの階段があり、やがて眺めの良い場所に拝殿があった。つまり、ここが台地の端のように見える。

 


 帰路は、神楽坂商店街を一気に下った。両側の商店は、さすがに飲食店が多いのだが、通常の八百屋や雑貨店もあり、上の方は普通の商店街だった。家への土産物を探したが、良い店がない。そろそろ飯田橋駅と思ったところに「陶柿園」という瀬戸物屋が有り、店先に特売品として江戸切子が並んでいた。中に、手頃なぐい飲みが有り、それを奥さんの誕生日プレゼントとして求めた。江戸切子にしては安価だったので、店の主人に聞くと「江戸切子の職人が、中国に滞在して、現地教育を行った場所で、生産されている」と。つまり、中国製なのだが、模様も、切り込みも確かなものに見えた。夕食時に早速試したのだが、握り心地が大変良かった。



 飯田橋駅の新宿よりには、江戸城の石垣の大きな名残がある。駅ビルのテラスから全体を見ることができる。



その場考学との徘徊(73)都心部の坂道と階段(その1)

2023年12月09日 07時40分26秒 | その場考学との徘徊
題名;都心部の坂道と階段(その1)  場所;荒木町 月日;2023.10.28
テーマ;四方八方階段だらけ 
作成日;2023.12.8                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その1)四谷三丁目~曙橋

 図書館のリユース本の棚で、「階段で歩く東京の凸凹」という雑誌が目に入った。「東京人」という月刊誌の2021年3月号だった。その中からいくつかを試してみることを始めた。半日ウオーキングにうってつけだ。



 初回は、新宿区荒木町で昔は花街だったそうだ。「東西南北の四方が塞がれたすり鉢」と云われている狭い地域のようだ。確かに、地図を見ただけで、そのすごさが歴然としている。



 1から6番までの階段すべてを効率的に廻るルートの作成から始めた。
出発地の地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅は飲食店が多く、友人と居酒屋やそば屋を楽しんだ記憶があるが、昔の花街の路地に入るのは初めてだ。入り口の赤い柱の街灯の上には、人力車の飾りがついている。これが目印になっている。やはり、細い道の両側には、小さな飲食店が並んでいる。



 最初の階段からやけに狭そう。あたりには車はなく、もっぱら自転車が放置されている。車が入ってこないせいだろうか。



路地は複雑で、方向が解らなくなり易い。うっかり登ると、上の道に出てしまう。

 しばらく行くと、小さな池がある。「笞の池」とある。
昔、徳川家康が鷹狩りの途中に寄って、ムチを洗ったと書いてある。
実際このあたりには湧き水があり、相当な広さだったとある。鯉が寄ってくるのは、餌やりの人がいるからなのだろう。




池の畔には弁財天がまつられている。



そこからUターンをして、別の階段に向かった。とにかく、狭い場所なので、あっという間に6つを制覇することができる。



 最後の、曙橋の通りに上る階段の先には、防衛庁の電波塔を真正面に見ることができる。これで、方向が確認できるので、安心だ。

 曙橋の陸橋からの眺めは、下の通りまでの高さを実感できる。
そこから、一旦坂を下りて、近くの新宿区歴史博物館へ向かった。

 この博物館には、一度来たことがあるのだが、今回は林芙美子展が行われている。マスコミに騒がれた作家程度の認識しかなく、作品も読んだ覚えがないのだが、その独特の人生には興味があった。周辺の、淀橋浄水場の絵が描かれた四角いマンホールの蓋が面白い。



 生誕120年記念展なのだが、中身は充実していた。シベリア鉄道経由でヨーロッパを回り、パリに在住。帰国後は、大戦中に従軍作家として中国大陸を巡り、奥地の占領時には、第一陣とともに行動したとある。


 入り口にあるジオラマが素晴らしい。現在の新宿駅周辺が克明に表されている。鉄道の線路、駅舎、周辺のビルの屋上の機器や配管類まで再現されているのは面白い。



 また、内藤新宿時代の町並みも見事だ。私の母校の都立新宿高校の位置も、甲州街道と玉川上水の関係からはっきりと解る。現代のジオラマでは、3代目の校舎の屋上プールの形まで再現されている。新たに開通した明治通りのバイパスを挟んで、新宿御苑の木々の一本一本や建物まで正確なのには驚かされる。




飛行中のモニター画面の楽しみ方(その2)

2023年09月01日 13時16分47秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(72)         
題名;JALの旅  場所;機内にて 月日;2023.8.24
テーマ;向かい風 作成日;2021.11.24                                                

TITLE: 飛行中のモニター画面の楽しみ方(その2)

 昨年の11月に続いて、奈良での3泊4日の一人旅を終えて、伊丹空港から羽田空港までの空旅を楽しみました。今回の機体はBoeing787-8ですが、機内は満席。午後5時台のフライトでしたが、奈良からの空港リムジンの都合で、3時前に伊丹に着いてしまいました。途中、猛烈な雷雨に遭ったのですが、空港も「雷警報のために全作業を中断します」でした。そのために、3時台は1時間以上のおくれ。4時台は15分遅れのペースでしたが、搭乗者の一人が行方不明で、結局5時台の15分前に、やっとゲートを離れました。

 前回(2022.11.17)と同様に、帰路ではもっぱらモニター画面とにらめっこをすることにしました。ジェットエンジン屋としては、雷雲が散在する中での機速と高度の関係に興味が湧きます。
あるタイミング毎に目的地からの距離、機速、高度、それと風向きが表示されるので、それを記録してみました。昔、米国大陸を南北に飛んだ時に、飛行高度を遙かに超える雷雲の柱を、何本も避けながら飛んだ記憶が蘇ってのことです。

帰宅後に、グラフ用紙にプロットをしてみると、色々なことが分かりました。


 
 グラフから、結構色々なことが読み取れます。
① 飛行高度(当日は6400mですが、前回は8839m)は、1メートルの上下もなく、ほぼ200kmの間保たれている。
② そのためには、機速は結構大幅に上下している。
③ 上昇中は、スピードもどんどん上がるが、前回は、水平飛行の直前から、スピードを下げて高度がオーバーしないように調整していたが、今回は最高速度と、最高高度が一致。AirBus機とBoeing機の違いなのか、機長の好みなのかは不明。
④ 向かい風では、機速は大幅に落ちる。落ちる分の、約半分をエンジンの出力を上げて、大幅な遅れを避ける。
⑤ 当日のフライト中では、Max.38m/sの向かい風で、これは時速137km/hなので、その時の機速の17~21%に相当する。
などでした。実数のデジタル数字の表示なので、結構楽しむことができました。

 奈良では、今回は、学生時代(1960年代)に何度も泊めていただいた禅宗のお寺で、当時の娘さんに60年ぶりにお会いできました。女性3代で寺を継いでおられるそうです。当時は、ジャンボ機が初めて飛び始めた頃でした。

その場考学との徘徊(71)奈良からの帰途にて

2022年11月25日 14時56分39秒 | その場考学との徘徊
TITLE: 飛行中のモニター画面の楽しみ方

 先日、奈良での4泊5日の一人旅を終えて、伊丹空港から羽田空港までの空旅を楽しみました。機体はAirbusA350で比較的大型機なのですが、機内は満席。座席からは窓が望めない場所でした。
 
 A350機はAirbusの新型機で、色々な工夫が備えられていますが、その一つが、機体に取り付けた二か所のモニターカメラの画像を、リアルタイムで各座席で見ることができることでした。
 往路も同じ機体で、羽田から伊丹に行きましたが、その際には映画を見ていました。しかし、時間が短く、しかも頻繁に社内アナウンスで中断させるので、楽しめるほどのことではありませんでした。これがヨーロッパや米国への長時間飛行なら良いのでしょうが。

 そこで、帰路ではもっぱらモニター画面を楽しむことにしました。乗機時から、足元で地上作業員がしきりに前輪をチェックしている姿が写っています。ちなみに、カメラは2台あり、地上用と尾翼から機体の上部を映すものの2個のようです。こちらは、空の状態や、フラップの動きなどが分かりますが、興味はもっぱら地上を映す方です。これならば、窓側の必要はなく、曇りの時は、3次元の詳細な地形図画面で飛行位置が分かります。伊豆大島上空を通過するのが、通常のルートですが、大島の火口の詳細までがはっきりとわかりました。

 ところで、ジェットエンジン屋としては、機速と高度の関係に興味が湧きます。あるタイミング毎に目的地からの距離、機速、高度が表示されるので、それを記録してみました。帰宅後に、グラフ用紙にプロットをしてみると、意外なことが分かりました。まあ、パイロットに直接に聞いてみないと分からないのですが、国内の飛行ではコックピット入りは無理でしょう。
 ちなみに、日英を頻繁に往復していた1980年代では、British Airwayのジャンボ機では、コックピットの入り口はカーテンのみの時もあり、勝手に飛行中のコックピット内で、エンジンの様子などについて、パイロットとの会話を楽しんでいたものでした。



 グラフから、結構色々なことが読み取れます。
① 飛行高度(当日は8839m)は、1メートルの上下もなく、ほぼ100kmの間保たれている。
② そのためには、機速は結構大幅に上下している。
③ 上昇中は、スピードもどんどん上がるが、水平飛行の直前から、スピードを下げて、高度がオーバーしないように調整している。
④ 下降態勢は、随分と前から始まる。スピードと高度は、直線的に下降する。
などでした。実数のデジタル数字の表示なので、結構楽しむことができました。

 奈良、とくに明日香地方は、学生時代(1960年代)に何度も通った。脇道に入ると、人通りは全くなく、まだ昔の雰囲気が残っていて、ほっとしました。

その場考学との徘徊(70) 東京みなと丸での海上徘徊

2021年12月25日 12時52分44秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(70)  

題名;東京みなと丸での海上徘徊 

場所;東京港 
月日;2021.12.23
テーマ;コンテナ埠頭の有様 
作成日;2021.12.25                              
                 
TITLE: 東京みなと丸での海上徘徊

 新視察船「東京みなと丸」という船がある。全長35m、幅7.78m、満載喫水1.3m、巡航速度13ノット、
総トン数215トンだそうだ。竹芝小型船船着場の発着で、毎日、午前と午後の2回、ネットで登録をすれば、誰でも70分の東京港巡りができる。

 この船は、一時期週刊誌を賑わした。週刊ポスト2017年6月2日号の記事をネットで見ることができる。
あらましは、この様になっている。
 『小池百合子・都知事の頭を悩ませているのは、「20億円豪華クルーザー建造」に都民の批判が巻き起こっていることだ。東京都が発注した五輪のVIP接待用の豪華クルーザーについて、都庁港湾局幹部に立腹した。』という話だ。私は、生まれながらの都民だが、新聞紙上で陸上競技場の問題は読んだが、この船の記事の記憶はない。
 
 この船は、『名目は都が保有する視察船「新東京丸」の老朽化に伴う代替船ということになっているのだが、
中身は、「メガヨット」と呼ばれる全長35メートルの外洋タイプのクルーザーだ。イタリアの大手造船会社「アジムット-ベネッティ社」に約20億円で発注され、1階甲板に同時通訳設備付きの大会議室、2階の貴賓室には京都の織物の絨毯など日本の伝統工芸の調度品が備えられ、3階が展望デッキでエレベータまで備える豪華仕様になっている。』と書かれている。東京五輪の際、VIPを羽田空港から浜離宮の迎賓館まで船で送迎する構想だったそうだ。
 その後、内装の京都の織物などを木目調のシンプルなものに変更等、予算削減で、最終的には約15億円で造られた。それが、現在は一般向けの東京港の観光船になっている。

 さて、当日の朝から始めると、下車駅は山手線の浜松町。昔からの跨線橋を進むと、窓から「芝離宮恩賜庭園」を見ることができる。階段を降りて、まっすぐに海岸へ向かう。高速道路をくぐると、景色は一変し、ホテルと海のコントラストが眼に入る。右が日の出桟橋、左が竹芝桟橋になっているが、今日は左の「竹芝小型船船着き場」へ向かう。目の前には、聊か似合わないイタリア製のクルーザーらしきものが停泊している。


    芝離宮恩賜庭園         


   インターコンチ・ホテルと東京丸

 予約はネットで簡単にでき、正面の待合室で名前を告げると、それでおしまい。乗船券も何もない。



 コロナ期間中は、定員の半分の15名のみなので、ゆっくりと楽しめる。しかし、乗船前に記念写真を撮っている間に、他の客は乗船を終えて、右側の窓際はすっかり満席になっていた。「基本的には右側の建造物を解説してゆくので、右側の席に座ることをおすすめします。」という書きものは見逃していた。だが、基本的にはどちらも変わらない。今回は、1階部分のみの使用で、この船室には左右の窓しかない。正面は、飛行機と同じで、画面が映し出されている。今はコロナ中ということで、後部のドアーが空け放されているので、そこからだけが、ガラス越しでない写真を撮ることができる。窓からの写真は、走り出して間もなく、水しぶきで、撮影には向かない。
 
 出航は、えらく静かで、走り出したことがわからないくらいだ。さすがに、イタリア製のクルーザーを感じる。日の出埠頭沿いを南へ進むと、直ぐにレインボーブリッジをくぐる。
 直ぐに、品川のコンテナ埠頭が見えてくる。続けて、大井埠頭のガントリークレーンへとつながる。この辺りまでは、赤色のクレーンがレインボーブリッジからよく見る景色だ。


 

 直ぐに、羽田空港を遠景だが確認することができる。着陸時に目安となる滑走路の延長橋で、それとわかるのだが、望遠で見ると、余剰の機体が並んでいるのが確認できる。フル稼働はいつになるのだろう。




 コンテナ埠頭でいつも感じるのは、東京港の寂しさだ。シンガポールは例外としても、アジアやアメリカでは、どの港もずら~と見渡す限りの列になっているのだが、ここでは、小さな埠頭毎に数基のクレーンがあるのみで、隣接する倉庫群も小さくて頼りない。コンテナ船も小型のものばかりで、古びた船が多い。
 ここで、大西洋から日本に運ばれるエビやアジの過半数が荷揚げされるとの説明だった。「アジ」には驚いたが、説明員の方はこの分野のベテランで、「近海のアジと、大西洋のアジは一目見ればすぐにわかる。大西洋育ちは、目がパッチリで可愛い」とか、環境決定論的には人間と同じなのだろうか。




 やがて、左舷に富士山が見えてくるのだが、写真を撮るのは旋回中に後部から見える瞬間を待たねばならない。一瞬だったが、何とか望遠で捉えることができた。ここから富士山が見えるのは、冬の午前中に限るのだろう。「今日も、午後の便では見えませんよ」と案内の人に言われた。



 
 入港する日本丸とすれ違った。富山港で見た見事な帆船だが、湾内では総ての帆が禁止だそうだ。



 折り返し点は、東京ゲートブリッジの手前。この橋のお蔭で、豊洲のIHIの造船工場は横浜に移転をさせられた。同時に、私が入社時にガスタービンの基礎試験を行った研究所の総ての施設も移転をして、今はマンションと買い物銀座になっている。この橋は、歩けるのだが、まだ一度も行ったことがない。
  この船の推進力は、高価なジェット推進で、後ろの波立ちが凄まじい。水深が浅い羽田に着岸できるように、船の喫水も1.2メートルと浅く設計されているのだそうだ。




 やがて、お台場沖を通過して、築地市場とオリンピック村の建物を見ることができる。このビル群の住宅への改造も、当初からの設計とは云え、かなり大変なようで、人が住めるにはまだ2年近くかかるようだ。先ごろ、マンションを買った客と建設会社間で裁判沙汰になっているようだ。





再びレインボーブリッジをくぐると、そろそろ終点になる。ジェット船なので、停船後に向きを180度変えている。その様子は、正面の画面で見ることができる。






 70分間、説明員の方は終始しゃべり通しだったのには驚かされた。分厚い原稿が目の前にあった。オリンピックの時には、実際にどのような活躍をしたのかは、まったく触れられなかったのは、少し残念に思う。