生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(210)森鴎外というメタ人格

2022年05月31日 10時48分06秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(210)

TITLE: 森鴎外というメタ人格


 先日、千駄木(文京区)にある森鴎外記念館を訪ねた。
「読み継がれる鴎外」という特別展の開催中で、展示場はそれほど大きくはないのだが、多くの本と数名の作家のコメントなどの内容は、かなり充実していた。



 私は、過去に鴎外の小説をいくつか読んだのだが、短編ばかりで、彼が文豪だとは思っていなかったのだが、この展示会で全容を知り、改めて、彼のメタ人生というかメタ人格を知った。
 そこで、いくつかの文献を眺め直してみた。彼の全人生を知るうえで、最も簡潔なのは、山崎一顛著「森鴎外 国家と作家の狭間で」(日本経済新聞社[2012])と思う。



 著者は鴎外記念会会長で記念館館長をも兼ねる鴎外の第一人者で、鴎外の名を冠した著書が多数ある。その中で、この書は鴎外の一生を語り、特に軍人と医学者と作家としての葛藤を語っている。鴎外は謎の行動が多く、そのことは色々な著書を併読すると感じることができる。

 例えば、この著書にはないのだが、1909(明治42年)に、「東京方眼図」という謎めいた地図を作っている。(この地図は、千駄木の鴎外記念館で別途発売されている)秋庭 俊著「森鴎外の帝都地図」(洋泉社[2011] )には、次のようにある。
『文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、 この地図では上野公園に「上」の字がなく、「野公園」とある 。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに書かれて 、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がない。この地図には、赤丸や赤い三角、赤い×や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には存在しないもので、 しかもどこにも説明がないのである。』(pp.4)
この書は、謎解きを目的としている。なぜ、森鴎外という人物が、この地図を「森林太郎立案」と書いて発行しようとしたのかという謎だ。地図は、ほぼ現在の山手線の範囲が示されているのだが、おかしな表記や記号が散乱している。つまり、地図のルールからは、かなり外れた地図なのである。



 鴎外は、上京後に東大病院の前身の医学校を卒業し、直ちに陸軍病院に勤めたが、ドイツ語の能力を買われてドイツに留学した。ドイツでは、当時感染症の研究で有名だった数か所で、細菌の培養や、検査・分析器具、実験データの統計処理法などを勉強したとある。その間の「舞姫」との逸話は有名なのだが、オペラ通いも多かった。(後に、ドイツオペラの多くを翻訳して、日本で上演されている)

 彼の帰国当時は、東京都市改造論が盛んで、不燃都市が目指されていたのだが、鴎外は衛生学上の伝染病予防策としての、上下水道の完備を主張した。しかし、経済と交通が優先されて、彼の案は実現しなかった。その場でつくられたのが、前述の地図で、赤の線やしるしは、主に江戸時代につくられた上下水道の地図と、様々な拠点(一旦貯めて、高低差を調節する場所)を示していると記されている。つまり、ある場所で伝染病が発生した時に、その感染経路と上下水の経路の関係を知るためのもののように思われる。

 また、衛生学については、帰国後に次のような主張をしている。
『一言で云えば、人の健康を図る経済学のようなものです。身体の外に在る物を身体の中に入れ,また中のものを外へ出すに当たって、その釣合を取って健康と云ふ態度が損なわれないように、勤める法を研究するのです。』(pp.33-34)
この言葉は、アリストテレスが何度も主張している、「大いなる過度が病気を引き起こすのは何故か」との問いに対する、「過度とは過超か欠乏をもたらすものであり、過超や欠乏が病気というものである」の答えと同じことに思えるいたってメタ的な発想だと思う。

 明治32年に、当時近衛師団軍医部長兼軍医学校長だった彼は、突然に第12師団の軍医部長に転出させられる。場所は小倉で、当時の山陽本線は徳山までであり、そこから先は船便の僻地だった。位は、軍医監に昇進なのだが、師団の軍医部長職はその2つも下の役職だった。そのために、鴎外は「左遷である」との認識を公に示したが、それも謎の一つだ。
 しかし、5年後の明治37年には、日露戦争に軍医部長として戦場に向かった。彼は、ドイツ留学中に軍人として、クラウゼビッツの戦争論を始めとして、ドイツ軍の多くの戦術・戦略に関する書を読んでいた。在独中に日本からの要人にクラウゼビッツの戦争論を口頭で説明したともある。(pp.40-44)
 
 この書には無いのだが、私は日露開戦を控えて、陸軍が彼に軍略に関するドイツ語の多数の文献の翻訳を密かに命じたのではないかと思う。小倉という交通上の僻地は、その作業にはうってつけだったのではないだろうか。軍の秘密作業なので、鴎外は「左遷」を敢えて口にしたのではないのだろうか。勿論、なにを翻訳したのかは、軍の機密なので公表されていない。
 しかし、帰還後の彼は、次第に作家としての道を歩き始める。そして、多くの戯曲や歴史小説を残すことになる。
 例えば、鴎外全集第6巻(岩波書店[昭和47年])は、ほぼ全巻が劇やオペラのシナリオとして書かれている。その1作目の題名は、「負けたる人」(原作者はショルツ)となっている。  

 また、「人の一生」(原作者はアンドレイエフ)は100ページ以上の長編のシナリオになっている。それは、舞台の細かい描写から始まり『見ろ。開け。お前たちの目の前で、人の一生が開けて見せられるだろう。暗い初めにはじまり、暗い終わりにをはる人の一生だ。その人は初めにはゐない。「時」の無窮の中に不思議に隠れている。』(pp.137-138)とある。
 このようなシナリオを翻訳に選んだことにも、彼のメタ人格が偲ばれる。

メタエンジニアの眼シリーズ(208)漱石の文明論

2022年04月15日 07時37分08秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(208)
          
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:漱石の文明論

 新宿区立漱石山房記念館に手紙の特別展を見にいった。彼は、やたら手紙を書いたようで、中でも絵手紙が魅力的だった。売店の裏手の棚に、漱石本が何冊かあり、その一つが、岩波文庫の三好行雄編「漱石文明論集」だった。1986年の出版だが、既に52刷を数えている。
 漱石は、小説の中に文明論を時々表すが、この本は、彼の文明に関連する講演、日記、書簡などを集めたもののようだ。前半の講演だけでも18件だが、直接に「文明」と書いたものはない。



 漱石は、「文明」という言葉をあまり使わずに、常に「開化」という言葉を用いた(ように思う)。何故か?その答えが最初の講演「現代日本の開化」にあった。
 私流の考えなのだが、「開化」は、社会の中に突然に入り込んでくるが、「文明」はゆっくりと、じわじわ浸透してゆくという違いがあるように思う。だから、漱石は「開化」が気に入らなかったし、「文明」については、あまり語らなかったのではないだろうか。

 この講演は、明治44年8月に和歌山で行われた。前日に和歌の浦や紀伊三井寺を訪れた感想や、「現代日本の開化」なのか、「日本現代の開化」なのかなどと、かなり長い前置きの後で、突然に『開化は人間活力の発現の経路である。』(p.14)と断言をする。そして、これを開化の定義として、『時の流れを沿うて発現しつつ開化を形造って行くうちに私は根本的に性質の異なった二種類の活動を認めたい、否確かに認めるのであります。』(p.15)と発言をする。

 その二種類とは、積極的なものと消極的なものだそうだ。そして、この二つが入り乱れてこんがらかったものが開化なのだという。
 「積極的なもの」とは、外界の刺激に対して反応するもので、例えば新たな趣味とか、道楽、科学的な研究で、『自ら進んで強いられざる自分の活力を消耗して嬉しがる方』(p.17)であり、
「消極的なもの」とは、活力節約の行動であり、『どうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早く帰りたい。できるだけ身体は使いたくない。』(p.18)ということ。つまりこれは、新たな交通機関の利用を意味している。このために、人力車が自転車に、さらに自動車に汽車に、飛行器に化ける、というわけである。なお、ここで飛行器としているのは、機械ではなく、ヒトを入れる器を意味しているのだろうか。
 そこから、本題に入ってゆく。西欧社会が、長い年月をかけて、種々の工夫を凝らし智慧を絞ってようやく今日まで発展してきたものを、通常の開化とするならば、『日本の開化はそうはいかない。何故そういかないか。それを説明するのが今日の講演の主眼である。』(p.25)とした。

 結論が最初に出てくる、『西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。』(p.26)である。
 つまり、明治時代を通じて日本で行われてきたことは、諸外国と旨く付き合ってゆくための開化であり、そのために日本が曲折したというわけである。それは、『時々に押されて刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、または恐らく永久に今日の如く押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というより外に仕方がない。』(p.27)となる。
 そして、話は外発的なものの継続が、心理的にどのようなものになってゆくかを説明してゆくことになる。つまり、外発的な開化から得られる安心の度は微弱なもので、反対に、『競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうである』(p.36)が本音なってくる。
 
 なお、この開化の二面性の話は、その後大正3年に東京高等工業学校での講演でも繰り返されているので、漱石の持論の一つなのだろう。しかし、ここで残念なのは、18の講演の中身が活字化されているだけで、その前後の社会情勢や漱石自身のその時の状態が、何もわからないことで、講演内容は、それらとともにしか正確には分からない。
 
 しかし、そのことを解決するよい書がある。書籍名はずばり「漱石とその時代」で、江藤淳著
(新潮社 [1996])の全5巻である。
 この時期は、新潮選書で5分冊になる大著の4冊目になる。明治時代の最後の5年間の世間と漱石の周りの事柄が、細かく記されてある。漱石は、明治40年に大学をやめて朝日新聞に入社。文芸や小説欄を担当して、「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、「門」を立て続けに連載して、人気作家の名をほしいままにしていた。一方で、過労が重なり喀血を繰り返して、伊豆の病院での療養生活(有名な修善寺の大患)を余儀なくされた。
 
 漱石が、文芸や社会情勢について講演を重ねるようになったのは、入院生活の直後であった。朝日新聞社が、販路拡大のために連続して講演会を計画した。和歌山での「現代日本の開化」という講演会も、その一つだった。そのあたりの経緯は、この書の第23項の「朝日新聞記者招聘講演会」の項に詳しく書かれている。
 
 漱石は入院により計画していた連載小説を中断せねばならず、代わりの著者による連載が続いた。しかし、読者と新聞社内の評判は、すこぶる悪かった。漱石にも責任の一端はあったのだが、結局新聞の主筆の渡辺三山の進退問題にまでなってしまった。起死回生で計画されたのが、この一連の地方巡業の講演会で、最初は長野教育委員会のものであった。漱石の身体は万全ではなく、奥さんの鏡子さんの動向に関する逸話が書かれている。漱石は『小学校の先生が集まっている中に、女房なんか連れてゆくのはみっともないですね』(p.394)といったが、主治医に説得されて、同道することになった。
 
 長野に到着の翌日に「教育と文芸」(講演内容は漱石文明論集に収録)との題目で県会議事堂で講演し、翌日は中学校の雨天体操場であった。その後、高田、直江津、諏訪をまわって帰京した。随分と無理をしている。
 翌月には、一連の「招聘講演会」が開始された。漱石ほかが演壇に立ち、どこでも超満員だったとある。最初は、兵庫県の龍野、つづいて明石、和歌山、堺と強行軍だった。出発が、天竜川の決壊で東海道線が不通になり遅れたために、なおさらだった。
 明石での講演会の模様が翌日の朝日新聞に載っている。漱石の講演は「道楽と職業」で『極めて趣味のある講演を試みたり』(p.402)と評されている。
 漱石の和歌山での講演について、この書はたった4行しか記述していない。しかも、天気に関することのみで、当日はひどく蒸し暑く、夕方には台風の影響で宿に帰えれなかったと云うことだけである。
 
 一方で、翌々日の堺での講演「中身と形式」については、その講演内容を詳しく記してある。しかし、その晩に漱石は、嘔吐の後に吐血した。その後の様子は、妻鏡子の「漱石の思い出」に詳しく書かれており、一部が引用されている。そのまま3週間も入院生活が続いたのだった。その後、大阪の病院から東京の病院に転院し、そこから寺田寅彦に出した手紙の内容が示されている。
 
 巻末には、「漱石の病状は身ぐるみ朝日に買い取られた」とある。まさに、そのような状態での講演だったわけである。汽車による旅行が可能になったために、過密日程での講演をこなさざるを得ず、病状が著しく悪化した。汽車が無ければ、このようなことは起こらなかったのだ。
 



 


メタエンジニアの眼シリーズ(206)日航123便 墜落の原因

2022年01月09日 07時04分26秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(206)
TITLE: 日航123便 墜落の新事実


初回作成日;2022.1.6 最終改定日; 
 有名な御巣鷹山の事故に関する著書がある。青山透子著(河出書房新社「日航123便 墜落の新事実」[2017] )である。
 著者は元日本航空国際線客室乗務員だが、事故当時は国内線担当で、事故機の生存者の一人の客室乗務員と乗務員女子寮で同じフロアーだったと記されている。しかし、内容から読み取れることは、ノンフィクション作家のそれである。



 事故は、1985年8月に起こったが、この書の発行は、その28年後で、既に細かい事実は忘れられている。事故調査の過程で、一部隔壁板の修理ミスに疑問を呈する記事も見かけたが、それは間もなく消えた。しかし、この書を読むと、また当時の記憶が蘇ってくる。
 内容は、著者の疑問が、年月を経ても消えないことから始まっている。
 ① 現場で事故に直接に携わった人たちには、腑に落ちないことが多数あり、心の奥底で渦巻いていた。
 ② 墜落現場の上野村に出向き、当時の村長と、地元消防団、遺体の監察医の話を、直接に聞いた。
 ③ 他の類似する航空機事故の事故原因と、辻褄の合わない部分が多いことに気づかされた。
 ④ 墜落原因に関する裁判が一切行われなかったことへの疑問。
 ⑤ 事故時に吹飛んだ垂直尾翼の海底調査が、早々に打ち切られた。しかし、他の部品が、2015年に、それほど調査困難ではない海底から、あっさりと発見された。
 ⑥ 国際民間航空条約上は、新発見があった場合には、調査を再開するとの期待があったが、それが行われなかった。再発防止の観点から、時効はないことになっているのも拘わらず。

 以上の観点から、本格的な検討を始めると、過去に葬られた事実が沢山出てきた。
A;墜落現場一面にガソリンとタールが混ざり合う臭いがあったが、そのようなものは民間航空機では使われない。(p.20)
B;本格的な事故調査が始まる前に、隔壁板が大型自動カッターで、5分割されてしまった。(p.20)
C;事故機の頽落現場を上空から視認した人達の事実は隠されて、事故現場の特定は、その10時間後だった。(p.21)
D;当日20時に「ただ今現地救助に向かった自衛隊員数名が何者かに銃撃され、死者負傷者が出た模様」との緊急ニュースがあった。数分後に「誤報」が出たが、2010年まではネット上にあり、その後削除された。(pp.71-72)
E;事故直後の遺体荼毘が早すぎることに、遺族が日航本社で高木社長と面談、その後抗議の為に首相官邸に向かおうとすると、「高木さんはぶるぶると震えだして、そうしたら私は殺される、といった」(p.82)
F;その後、向かった先は、知らぬ間に運輸省になり、「僕は、東大法学部出身です」という人に会わされた。遺体のとり違いも含めて、「一切、法律上の問題はない」と切り捨てられた。(pp.83-85)
G;元自衛隊員に確認すると、ガソリンとタールの混合燃料は、陸上自衛隊の携帯放射器として装備されていることが分かった。(p.158)
H;当日の夕暮れ時には、ファントム2機が、事故機を追尾していることが、地上から確認されているが、墜落現場は不明とされていた。(p.160)
J;その後、大型のC130輸送機が加わり、その機にはアントヌッチ氏が搭乗していたが、間もなくその機体は埼玉方面に飛び去った。(pp.160-161)
K;事故機は、当初横田基地へ向かっていたようだが、ファントム機が接近後に、進路を群馬県方向に変更したことが、視認されていた。(p.162)
L;搭乗中の乗客が寫した写真を解析すると、「円錐もしくは円筒状の物体が、オレンジ帯の方向から、機体に向かって飛んでいる」との画像解析結果だった。
M;新聞報道者と地元の子供の証言から、「ジャンボ機の腹部左側に付着して見える赤色のだ円、または円筒状のもの」が視認されている。(pp.165-166)
N;検視された遺体は、全員、異常な炭化状態だったとの、検視した医師の証言。(p.187)
P;当夜、東京消防庁が出動可能な準備が整っても、出動要請はされなかった。(p.188)
Q;習志野駐屯地の空挺部隊も、同じ状態に置かれた。(p.189)

 このような記述の読後感は、第一には、昨今も安倍政権下では、事件の握り潰しが行われたと思われていることで、当時は中曽根政権の最中だったこと。(文中には、このほかにも、当日軽井沢に滞在中の中曽根総理が、急報で総理官邸に戻る間に、空白の数十分があったことも記されている。)
 第2は、この書が、きちんとしたマスコミ会社(例えば、大手の新聞社)ではなく、一女性の名前で発行されていることへの疑問。
 この書は、偶然に図書館の書棚で目に入ったが、発行当時に評判になった記憶はない。

メタエンジニアの眼 204 アーリア人の侵入

2021年12月19日 15時37分46秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼 204

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:アーリア人の侵入

初回作成年月日;2021.12.19 最終改定日;

 ゾロアスター教について、すでに多くの著書を発行している青木 健著の「新ゾロアスター教史」刀水書房(2019)では、その起源が紀元前2500年頃のアーリア人の大移動から始められている。



 私は世界の文明の始まりのうち、インダス文明に最も興味がある。文献や資料が少ないのだが、最近はいくつか新たな知見を述べる書が出てきた。大河に拠らず、東西南北に広がり、アーリア人の侵入と共に海洋に消えた文明である。南北の気候差が大きく、季節ごとに作物の交易が盛んに行われていたと云われている。
 ゾロアスター教は、その地にアーリア人が侵入した後に起こったのだが、日本の古代の神々との繋がりを感じることがある。一部が、東南アジア経由で超古代の日本にたどり着いたのではないだろうか。日本の古代人は、長距離航海をいとわない海人だった。

 「プロローグ」として、紀元前2500から約2000年間の原始アーリア人の移動の様子が、インドからトルコに至る地図で表されている。先ずは、アラル海周辺から、気候変動期に大移動が始まった。西へのグループは、ドイツ・北欧に達して、金髪碧眼の祖となった。南へのグループは、一旦イラン高原に定着したのだが、このグループに注目する。
 
 イラン高原グループは、その約1000年後に再び移動を開始した。西へのグループは、メソポタミア文明国家に阻まれて、イラン高原の西地区に定住することになった。この地域の国々の興亡は、古代ギリシア人の記録に詳しいと書かれている。最終的には、ペルシア人の祖になったようだ。

 東南へのグループは、インダス文明圏に侵入し、そこに定住した。インダス文明の衰亡とアーリア人の侵入との関係は、まだ明らかにされていない。微妙に時代がずれているというのだが、縄文文化から弥生文化への変動も、いまだに時代が特定されていないのだから、多少の時代のずれに拘るのは、どういうことなのだろう。

 この書の目的は、ゾロアスター教史なので、民族移動の話は、そこだけで終わっている。イラン高原のアーリア人が遺した「アベスターグ」と、インド亜大陸のアーリア人が遺した「リグ・ベーダ」とが、元になっているらしい。原始アーリア人には厳格な階級制度があった。神官階級・軍人貴族階級・庶民階級の3階級で、現在のインド社会にまで続いている。

 ついでなので、ゾロアスター教についても、少し触れることにする。その教祖は、ザラスシュトラ・スピターマ(白色家の老いたラクダの持ち主)という。紀元前6~7世紀の人だ。この教義は、何人かのギリシアの哲学者に影響を与えた。
 
 ヘラクレイトスへの影響は、「万物は流転する」と「火を世界秩序の要」と見なしたことが挙げられている。また、プラトンについては、実際にゾロアスター教の神官がアテネに滞在した際に行われた交流について書かれている。晩年のプラトン哲学は、その影響が強かったと記されている。特に、イデア界と現実界の二元論は、ザラスシュトラ思想との関係が指摘されている。また、ユダヤ教もバビロン幽囚中に影響を受け、バビロン解放後に大きく変容したとある。旧約聖書の中には、いくつかの類似点が指摘されている。

 第3章は、「サーサーン王朝ペルシア帝国での国家宗教としての発展」と題して、3~10世紀の間の興隆が示されている。実際に、アーリア人の神官が皇帝になっており、即位の年は、「皇帝の火の年」といわれている。

 その後のゾロアスター教は、特にインドの西海岸で隆盛を極めた。ボンベイから北は、いくつかの教区に分けられていて、それぞれの教区長は、絶大な権力と財力を保っている。

 原始アーリア人は、この歴史の過程で多くの民族に分化した。この書の付録には、それらの民族の名称と歴史、言語が一覧表で表されている。全部で11の民族で、その中には、ソグド人、パルティア人、ペルシア人、サカ族などがある。サカ族は、仏陀の釈迦族との関係が指摘されている。
 いずれにせよ、インド・アーリア語族の歴史は、途轍もなく広範に影響している。
 

 


 

メタエンジニアの眼 203 土偶の眼の謎

2021年12月17日 09時30分22秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼 203
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:土偶の眼の謎


初回作成年月日;2021.12.17 最終改定日;

梅原猛編「東洋思想の知恵」PHP研究所(1997)には、興味深い記述が多数あった。副題は「地球と人類を救う」で、日本と中国の古代からの思想に関するそうそうたるメンバーが一節ずつ書いている。

 

 これは、1996年に上海で行われた「東方思想研究会」とういシンポジウムの講演記録でもある。そのテーマは、『行き詰った工業文明を立て直すため、また地球環境問題を解決するためには、稲作農業を基礎として発展してきた「東方思想」に基づく発想の転換がどうしても必要だということである。』(まえがきより)としている。それから20年以上経過したのだが、まだ日本では「行き詰った工業文明を立て直す」顕著な動きはみあたらない。

 この中で、安田喜憲の「森の心の新しい文明」に興味が湧く。前著「日本人の自然観」で、北緯35度を境として、約五千年前に世界中の自然環境が反転したというもので、それが日本列島でも起こっていた。土偶の数が一斉に増え始めた時期と一致する、とされた方だ。

 日本の土偶の中で、突出して不思議に思われているものがある。縄文時代晩期に東北地方でつくられた遮光器土偶である。「エスキモーの雪眼鏡」などと云われている。しかし、これは全くの間違えで、「目の信仰」の表れと主張している。

 話は、中国の長江文明から始まっている。近年では、それは黄河文明よりも古く、土木工事、都市の建設、玉器の製造に優れていたといわれている。この文明の信仰の対象は、揚子江のワニをデフォルメした怪獣で、特に目が常に強調されている。その時代は3500年前で、日本の遮光器土偶の時期と一致している。

 また、当時の三星堆遺跡からは、多くの青銅製マスクが発掘されているが、いずれも目が強調、または突出している。ヒトは、死ぬと先ず目の力が無くなる。意識がなくなったヒトは、目を開くと生気を取り戻す。つまり、『目こそ人間の命の窓』(p.63)といえる。

 当時はアニミズムの時代で、『人々は自分たちをじっと見つめる大地の神々の視線を感じ、その目を持った像をつくったのである。』(p.66)その一つが、森の文化だった。

 三内丸山遺跡で有名なのが、巨大な柱で、それは長期間育成された森から生まれた。つまり、「森の文化」と云える。弥生時代になって、大規模な森林破壊が始まった。それと同時に、目を崇拝する文化が終焉した。

 日本の神社には、必ず森がある。神社は森に囲まれている。そこが、仏教やイスラム教の寺院や教会との違いだ。私は、八ヶ岳南麓の森の中で、毎年数十日間を過ごしているのだが、森の力には毎年驚かされる。森と眼の文化には共感を覚えざるを得ない。



メタエンジニアの眼(202) 日本人の自然観

2021年12月13日 11時02分40秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(202)
日本人の自然観

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
初回作成年月日;2021.12.12最終改定日;

 日本人の自然観については、多数の書物が発行されているが、なかでも、伊東俊太郎編「日本人の自然観」河出書房新社(1995)ほど纏まったものは少ない。



 副題は「縄文から現代科学まで」で、そうそうたるメンバーが一節ずつ20項目近くに分けて書いている。縄文・古代・中世・近世・近代それぞれで、序論は梅原 猛による「循環の世界観」だ。つまり、「メタ日本人の自然観」に相応しい。

 冒頭の、安田喜憲の「縄文時代の時代区分と自然環境の変動」も有名な論説で興味が湧く。北緯35度を境として、約五千年前に世界中の自然環境が反転したというもので、それが日本列島でも起こっていた。土偶の数が一斉に増え始めた時期と一致する。

 ここで述べたいのは、最終章の伊東俊太郎による「湯川秀樹の自然観」だ。あの中間子理論に日本人の自然観が大いに関係するという。

 湯川の発言が載っている。『20世紀になりますと原子論といってもデモクリトス流のアトミズムではなくなり、素粒子というものは、できたり消えたりするものですね。これはむしろ“諸行無常”という言葉がピッタリするものですね。あるものがなくなったり、あらわれたり、また姿を変えるということが自然のありかたですね。』(p.475)という。
 そして、原子核理論でノーベル賞をとったハイゼルベルクも、『日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的存在様式との間に、何らかの関係があることを示しているのではあるまいか。今世紀初めの頃にヨーロッパでは未だ広く行われていた素朴な唯物論的思想を辿ってこなかった人たちの方が、量子的リアリティーの概念に適応することが、かえって容易だったのかもしれない。』(p.476)と述べている。

 これらの発言が、なにを意味しているのかは明白だ。原子核が陽子と中性子から成るということが明確になると、その結び付ける力は何か、が大問題になった。しかし、欧米の物理学者が到達した理論では、大いに不足する力しか出てこなかった。
 湯川は、そこに中間子の存在を主張した。当初は、見向きもされなかったが、『今、私がここに提起するような理論で実際に核力が働くならば、電子の200倍の粒子がどこかで見つかるはずだ。』(p.469)と1934年に主張した。
 そして、1937年にアメリカで電子の100倍から250倍の質量の粒子が発見され、湯川は、「それこそが、私の主張する中間子だ」という論文を発表した。

 「なぜ」の答えはこうである。ハイゼルベルクやボーアには、陽子と電子の間で光量子がやり取りされても、陽子は陽子にとどまり、実体は変わらないとの哲学があった。それは、古代ギリシアの『デモクリトスの原子論以来、実在の根底には不変な「実体」があるとする考え方の伝統があります。ちょうどヨーロッパの建築物は石の積み重ねによってできており、これがバラバラになれば不変な構成要素としての個々の石になるように、世界は一定不変の実体から成り立っていると考えているわけです。』(p.474)
 つまり、一切が「諸行無常」との考え方は、20世紀以前のヨーロッパには無かったからだ、というわけである。近代科学が始まった西欧でも、ルネ・デカルト(1596 - 1650)の機械論が唯一の世界観だった。

 ここで著者は、「グノーモン的構造問題」を提起してる。グノーモンとは、ギリシア語の「かねざし」(大工さんが使う、L型の物差し)で、問題を2次元のそれぞれの軸からアプローチをするということに思える。ダーウインの進化論や、波動力学はこの手法(gnomonic structure of creation)によって新たな着想が生まれたそうで、そのことは『拙著「科学と現実」(中公新書 1981年)に収めた論文「科学的発見の論理」で扱っている』(p.467)とある。

 なお、「グノーモン」とは、起源的には、古代エジプトで地面に垂直に棒を立て、その地点における南中の時刻と太陽の高度を測定するために用いられていた柱だった。
 それが、ギリシアにわたり、日時計用の柱となり、さらに、直角を引くために用いるL字型をした道具に対して使われるようになった。だとすると、「グノーモン的構造問題」という言葉には、聊か違和感を感じる。

メタエンジニアの眼シリーズ(201)名画は語る

2021年12月11日 07時39分00秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(201)
TITLE: 名画は語る
初回作成日;2021.12.10

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 名画について、特に西洋画については色々な解説本を見かける。この本も、その一つなのだが、著名な日本画家が西欧画について書いているので、ページをめくってみた。千住 博著「名画は語る」キノブックス[2015]。
 著者は、日本画家(芸大日本画専攻の博士、京都造形芸術大学学長)で、ルネッサンス以降の数枚の名画の解釈が記されている。他に「芸術とは何か」、「美術の核心」などの著作がある。しかし、私がこの書を選んだのは、そのことではない。ターナーの「雨、蒸気、スピード」という絵に関する記述を見つけたからである。
 
 ターナーとは、Joseph Mallord William Turner(1775 – 1851)イギリスのロマン主義の画家。写実的な風景画家として、同時代のコンスタンブルと並び称せられることが多い。コンスタンブル展は、Covit-19の合間の昨年春に、三菱一号館で行われたが、その時もターナーの絵が、比較対象物として展示されていた。
 この展覧会では、ターナーが並んでいるコンスタンブルの絵と比べて、物足りなさを感じて、その場で一筆(確か、赤だったと思う)加えたという逸話が述べられていたから、相当なライバルだったのだろう)

 私が、ターナーに初めて出会ったのは、多分開館間もない上野の西洋美術館の展覧会で、学生時代のことだった(半世紀も前のことなので、記憶が曖昧で間違えかもしれない)。宗教や貴族社会とまったく関係ないイギリスの風絵画が、ヨーロッパの自然主義への回帰を思わせた。
 
 Rolls Royceとの新型エンジンの共同開発中には、毎年数回ロンドンで過ごす日があったが、必ず訪れるのは、大英博物館とテート美術館だった。テート美術館は、おそらく半分はターナーの絵で、当時はターナー専門の建物を建設中で、訪問の度に新たな部屋に、数枚が移動されていた。
 また、美術館の目の前にはテムズ川の船着き場があり、そこからボートに乗ると、ロンドンの中心部の好きなところで降ろしてもらえるのも、魅力だった。
 
 先週、今年最後の大学院の授業(演題は、環境・エネルギービジネスにおける企業の進化)を行ったが、こんな画面を示して、西欧が環境倫理に目覚めて、ESGやSDGsへ発展してゆく、そもそもの始まりとして話をした。
 


 本題に戻る。なぜ、「雨、蒸気、スピード」なのか。その答えがこの書にあった。たった7ページの文章なのだが、よくまとまっている。話は、ターナーと思しき画家が、ロンドンのパディントン駅からグレート・ウエスタン鉄道(ヒースロー空港からロンドンに向かうには、必ずこの鉄道を利用する)で、西(つまりウエールズ)に向かって、当時走り始めたばかりの蒸気機関車に引っ張られる、あのイギリス独特の客車に乗って出発するところから始まる。

 それまでは、馬車で写生旅行をしていた画家は、そのスピードに驚かされる。『巨大な茹で窯の外側に大きな車輪がついているような、実に滑稽で奇妙な形をしていたのです。』(p.158)として、加速されるに従って、死への恐怖まで感じ始める。それが、「蒸気とスピード」だ。
 あまりのスピードに、終には景色が全く目に入らなくなり、スケッチどころではなくなるが、そのうちに雨模様になる。『窓の外を見る私の顔を、雨と蒸気が一緒くたになって容赦なく叩きつけます。私は目も開けられないくらいです。それでも頑張って薄く目を開けてみると、午前の光は拡散され、視界全体に光る湯気となり、形はあいまいで大気と光がごちゃごちゃになっています。』(p.161)この時の情景全体が、風景画の体で描かれているのだ。画面のほぼ中央にあるはずの列車は、蒸気機関車の先頭部分しか見えない。あとの風景は全く「大気と光がごちゃごちゃになっている」。
 左端には、わずかにイングランドとウエールズの境界にあるセヴァーン・ブリッジの一部と思しき橋が描かれていて、これでGWR鉄道であることが分かる。

 ちなみに、この書には、この橋についての記述はないのだが、私はダヴィンチのモナリザと同じで、背景の意味を探りたい。ロンドンという、当時では世界一の文明の場から、未開のウエールズに向かう道が、わずかに一部だけ、かすかに残されているのだ。それが、ターナーの希望への光のように思える。
 
 ターナーがこの絵で示したのは、『非人間的スピードで進む文明に翻弄される人間の哀れさ』であり、『動き出した巨大な文明の中、それは誰にも止められないし、もう後戻りもできないのです。自然を象徴する雨、そして科学技術を象徴する蒸気は、速度を増す文明のスピードの中、そのどちらも不鮮明になり、混濁し、ただただ終焉へと向かって、私達を乗せたまま自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかないのです。』(p.262)で結ばれている。
 彼が、この絵を描いてからそろそろ200年近くになるのだが、この「自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかない」状態は、いつまで続くのだろうか。
 
 この書には、他にムンクの「叫び」について書かれており、この絵も文明にたいする不安から、耳をふさいでいるとの解釈が示されているのだが、詳細は割愛する。
 


メタエンジニアの目(200)科学と技術と哲学, 原子力時代における哲学

2021年12月05日 08時18分04秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの目(200)
TITLE:科学と技術と哲学
初回作成年月日;2021.12.5 最終改定日;

 今朝(2021.12.5)の読売新聞の書評に、「世界は関係でできている」という書の紹介があった。著者はイタリア人の理論物理学者で、書評は日本の生命科学者が書いている。この組み合わせから、中身は想像に難くないが、量子論の誕生と、その解釈についての後の第3部について、3か所が直接の引用文になっている。
 『心的世界と物理的世界は根本的に違う、という神話を一掃することができる』、『わたしたちが観察しているこの世界は、絶えず相互作用の網なのだ』、『わたしたちは科学に哲学を順応させるべきなのであって、その逆ではない』

 今の時代、劣勢にある哲学が、科学に近づこうとしているようだが、それは真逆であると、最先端の理論物理学者が言っているのは頼もしい。ここで紹介する、國分巧一朗著「原子力時代における哲学、(2019)晶文社は、まさにその一端だ。福島原発事故から大分たった3年前の発行なのだが、もし、原発に関する科学者が、事故前に、いや原発建設前に、この哲学者を学んでいれば、事故は防げたかもしれない。



 この書は、厄介な書だ。確かに表題は正しいのだが、内容は「放下」の解説書になっている。「放下」とは、理解することが極端に難しい。つまり、「この語は、副詞であり、名詞でもある」、「この語は、能動態でも受動態でもない、中動態である」、「放下とは、意志によるコントロールを離れて、しかし思惟することである」ということなのだ。

 昭和30年代に理想社から出版された、「ハイデガー選集」の第15巻が、「放下」という題名で、主文はたったの31ページで、残りは注釈と、3者(研究者、学者、教師)の対話が延々と書かれている。その本の解説書と見るのが妥当なように思える。

 カバーの裏には、短い文章が書かれている。『哲学者でただ一人、原子力の本質的な危険性を早くから指摘した人がいる。それが、マルティン・ハイデッガー。並みいる知識人たちが原子力の平和利用に傾いてゆく中で、なぜハイデッガーだけが原子力の危険性を指摘で来たのか。』とある。
 「放下」は、英国に最初の原子力発電所が稼働する直前の1955年に、ハイデッガーが、ある著名な作曲家にたいする記念講演会で語ったことの講演録になっている。第2次世界大戦後の米ソの冷戦の中で、世間は原爆への驚異を語っていたが、彼は、原爆よりも原子力の平和利用の方が危険であると明言した。
 確かに、戦後に発生した大事故や大災害は、原爆ではなく、世界中の原子炉だった。

 しかし、哲学者の彼が指摘する危険性はそれではない。人類が、常に管理をし続けなければならない、新たな技術について、深く考えることを放棄していることが、最大の危険だとしている。例え、原爆や原子力の平和利用が、反対運動により放棄されても、人類は新たに、それに代わるものを発明するというわけである。これは、新たな技術に対して、深く思惟することを放下している、というわけである。ここで何故、中動態である「放下」という言葉を持ち出したのか。その解説書になっている。
 このことを、通常のページ順に追っていったのでは、訳が分からなくなりそうなので、逆から追うことにする。
 
 研究者、学者、教師の3者による会話が延々と続いた後に、『放下を巡っては、意志によるコントロールの排除が徹底されている。(中略)その命名を為したのは「我々の中の誰でもない」。まさしく会話をしながら待っていることで、語そのものがその場に到達したかのように描かれているのである。』(p.304)
 つまり、始めから特定の問題意識を持って会話をするのではなく、なんとなく話しているうちに(つまり能動でも受動でもない状態)ある根本的な問題が浮かび上がってくる、ということを云っている。
 
 ハイデッガーは、『能動と受動の区別を意志と結びつける。放下が能動性と受動性の外部にあるということは、それが意志の領域の外部にあるということである。』(p.304)
 このことは、新たな技術について、その危険性を深く思惟するためには、総ての意思(つまり、賛成論と反対論)を捨てた自然の対話の中から考え始める必要がある、と言いたかったのであろう。

 『ハイデッガーが恐れていたのはそのような、「思惟からの逃走」ではないでしょうか。もしそうなら、かりに脱原発が実現したとしても、何も問題は解決していないことになります。同じような問題が繰り返されることになります。』(p.267)
 続けて、『ならば何を考えなければいけないか。既に問題は見えています。それは、なぜ我々は原子力をこれほどまでに使いたいと願ってきたのかという問題です。』(p.268)
 確かに、賛成論と反対論の議論の中からは、このような問いは生じてこないのだろう。

 『ハイデッガーは、原子力のような技術が世界を支配することも不気味だけれど、それ以上に不気味なのは我々がそのことについて全然考えていないことだと言います。』(p.255)

 このことは、現代に当てはめると納得がゆく。例えばAIが人間の知能を超えた結論を導き出すこと、スマホに拠るビックデータにより、大衆の行動が決められてしまうこと、などが当て嵌まる。不気味なのだが、専門家は考えようとしないで、先へ先へと進んでゆく。

 『重要なのは、「これを考えるぞ!」という態度で何かを考えるのではなくて、何か発信されているものを受け取ることができるような状態をつくり出すことであり、それが思惟であり放下である。』(p.223)
 『我々がものを考えるためには、放下の状態に到達しなければならない。』(p.222)

 このことは、メタエンジニアリングのMiningとExploringに相当するように思われる。能動や受動の立場からMiningを始めても、見えていない課題には出会えない。やはり、「放下」の状態からスタートしなければならない。

 能動性と受動性については、『中動態とはギリシア語などにあった動詞の態で、後の言語ではそれを捨て去って、能動態と受動態の対立に支配されるようになってしまいました。(中略)何事も「する」と「される」の対立で捉えてしまいます。』(p.219)

 3者の長い会話の中ほどの科学者の発言として、『我々は思惟の本質を規定することを試みています。』(p.221)として、ここから放下に関する会話が始まっている。
 ハイデッガーの「技術とテクネ―」について、日本語の「技術」という言葉をたどってゆくと、ギリシア語の「テクネ―」にたどり着く。『テクネ―というものはいったい何だろうという問いが、ハイデッガーが技術を考える際の出発点になっています。』(p.105)
 それについてのハイデッガーの発言は、『テクネ―において決定的なことは、作ることや道具を使って仕事をすることではないし、さまざまな手段の利用ということでもなく、既に述べたような開蔵ということなのである。』(p.106)
 ここで、「開蔵」とは、「所蔵されているものを開く」ということで、核分裂でエネルギーを取り出すことを指すのだが、それは、地下に埋もれている鉄鉱石から鉄を取り出すことにも適用される。

 そもそもの始まりは、この様に記されている。原子力エネルギーの利用は、どのような形態であれ「管理し続けなければならない」。それは、イコール「完全には管理できていない」ということで、その使用をひたすら望むのは、人間の技術に対する本性であり、『この力を制御しえない人間の行為の無能を密かに暴露しているのです。』(p.85)
 これが、一連の「ハイデガーの技術論」の本質になっている。






 
 

メタエンジニアの眼(199)マキャベリーの君主論

2021年12月03日 07時39分16秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(199)
TITLE:マキャベリーの君主論
初回作成年月日;2021.12.1 最終改定日;
『』内は、著書からの引用です。

 塩野七生著、「マキャヴェッリ語録」新潮社(2003)は、少し変わった書き方をしている。この本は、彼女のイタリアに関する本の何冊目なのだろう。奥付けの略歴を見ると、先ずは、今年の大谷翔平並みに賞を総なめしている。しかし、作家というよりは、文章家と言いたい。読んだことを直ぐに文章化しないでは気が済まないのだろう。



 生きた証をどのように残すかは、ヒトそれぞれだ。大組織に入り、社長になって勲章をもらうことは現代日本の典型に思える。ひたすら論文を書き続ける人もいる。私は、塩野派で文章に残すことがそれになっている。著者のキャベリーに対する評価もそのようだ。『マキャヴェッリにとって、書くということは、生の証し、だったのです。』(p.3)とある。

 「語録」であって、彼の思想の要約や解説ではないと、最初に断言をしている。つまり、イタリア語の原書から、忠実に翻訳をした文章を並べている。理由がいくつか述べられているのだが、その一つが「フレンツェ共和国を描くのに適切な素材」と考えたとしている。古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネチアを書いた後で、残されたフレンツェを書くのに適していると考えたようだ。その一つに「注釈が一切なかった」ことを挙げている。注釈がないということは、その時代のそこに住む人々にとって、注釈が必要にないほどに自明なことだから、がその理由になっている。言い得て妙だと思う。
 
 もう一つの理由は、彼の独創性にあるようだ。『彼と、五百年後の日本人の間に横たわる柵を取り払ってしまいたかったのです。書かれた当時にみなぎったいた生気を、何とかして読者にも味わってもらいたかった。』(p.7)とある。私は、文藝春秋にほぼ毎号掲載されている彼女の文章は、欠かさずに読んでいるつもりだが、毎回そのことを感じてしまう。
しかし、これを読んでも、今の日本の若年層に「みなぎったいた生気」が伝わるようには、中々に思えない。

 マキャヴェッリの特に「君主論」には、賛否両論があるのが常識になっている。彼女は、その双方に反論をして、中立を保つとしている。私は、賛成派に属するのだが、それは、冒頭の「読者に」の最後にこう書かれていることにも関係がある。
 『最後に、「君主」の原語であるプリンチペとは、現代でも、第一人者、リーダー、指導者を指す場合に用いられる表現であり、「国家」も、場合によっては、共同体とか組織とかに意訳して読んでも差し支えないというのが、西欧での読み方である、・・・。』(p.14) 、とのことで、このことは日本にはあまり伝わっていない。

 そこで、二つだけを引用する。
 第7項;『人々の頭脳をあやつることを熟知していた君主のほうが、人を信じた君主よりも、結果から見れば超えた事業を成功させている。』(p.64)とある。
 これは、「君主」を「企業経営者」と読み直すことができる。すると、現代のFaceBookやGoogleに、見事に当て嵌まる。

 第52項;『誰でも、なるべくならば容易にものごとを処理したいと願うものである。だが同じことでもたやすく実現できる人と、大変な苦労をした末にしか実現できない者に分かれるのも事実である。その原因は、あらかじめできている準備を、訪れたその機に投入すべきかまたはしないほうがよいかを見きわめる判断力にあると思う。(pp.215-216)
 これは、まさしく私がその場考学で目指していたものなので、驚いた。「あらかじめできている準備」と云われると、いかにも大変そうなのだが、実生活と会社での定型業務の中では、実は全く簡単なことが大部分なのだ。

 最近は、デジタル庁などを作って、国を挙げてのデジタル化が叫ばれている。しかし、デジタル化が目的になっていて、「容易にものごとを処理したい」という本来の目的が達成できていない。「あらかじめできている準備」が皆無のためなのだろう。


メタエンジニアの眼 198 メタ世界史論

2021年12月01日 07時25分27秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼 198

TITLE:メタ世界史論

初回作成年月日;2021.11.30 最終改定日;

 岩波講座という名の全集は色々あるが、その中で「世界歴史」は過去3回発行されている。第1回目は1969年に始まり、3年間かけて完結した。ここで取り上げたのは、第2回目の第7回配本となっている、岩波講座 世界歴史1(1998)弘文堂、である。


 
 この岩波講座は、最近3回目の配本が始まった。この3つを比べるのは、面白そうだが、それは膨大過ぎて手を出す気にはならない。岩波書店に知り合いがいれば、聞いてみたい。
 私がこの巻を選んだのは、せめてその概略でも掴もうと思ったからで、この巻の副題の「世界史へのアプローチ」でも比較しようと考えたからであった。日本の学問分野で、硬直性の筆頭が「歴史学」だと感じている。特に日本史は、大御所の過去の発言が絶対で、素人の歴史研究家の説は絶対に認められないことは有名な話だ。メタ的に考えると、それはとんでもないことなのだ。

 この巻の冒頭には、「本講座の編集方針と構成」とあり、ここに注目をする。しかし、私のメタ指向には、挟んである「栞」の村上陽一郎の文章が引っかかった。彼は、科学史の分野で色々な発言をしている。
 表題は「歴史の多元性」で、たった2頁の短文なのだが、そこにメタを感じた。彼の主張は、『「世界史」といっても結局は「西洋史」である』で始まる。その一つの根拠として、「古代、中世、近代」の時代区分を挙げている。古代が終わったのは、西ローマ帝国の終焉、近代の始まりは、デカルトやニュートンの科学時代からというわけで、このことは素人の私でも分かる。彼は、この区分を『硬直した歴史感が長くはびこってきた』と主張する。

 彼は、「学芸」の立場でこのことを考える。学芸とは、学問と芸術なので、人類の歴史にとっては、誰が支配者で、どちらの国が戦争に勝ったか、などよりはよほど重要に思う。そうすると、プラトンやアリストテレスの古代史は、東ローマ帝国に引き継がれ、さらにイスラムで開花する。つまり、西ローマ帝国の終焉とは関係がない。
 
また、「近代」は、中世ヨーロッパを支配したキリスト教の教義から学芸が離れて、独立した時期と考えると、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンは未だ近代とはいえなくなる。彼らは、キリスト教の教義から独立していたとは言い切れない面がある。科学が、完全にキリスト教の教義から独立した時に、近代は始まる。
 最後には、『歴史は歴史家の数だけある。ということは、誰でも原理的には認めている。ところが、いざ「セカイシ」となると、そんな「原理」はどこかへ消し飛んでしまって、絶対に正しい歴史が一つある、と云わんばかりに、・・・。』で結んでいる。

 つまり、世界史をメタ的に捉えると、古代・中世・近代の時代区分が大きく変化する。勿論、これが定説になることは、歴史学のなかではありえないのだが、私はこちらの時代区分を支持したい。

 本題の、この巻の冒頭「本講座の編集方針と構成」にもどる。 
 先ずは、「基本的な理念」として3つのことを挙げている。第1は「個別性と共時性」である。個々の文明圏が持つ個別性と、多数の個別史の間の相関関係の模索の双方を追求すること。
 第2は「細部と構造」とあり、歴史学も他の学問同様に「モノグラフ(個別論文)」により研究者の評価が行われてきた。つまり、細部の探求である。『しかし、無数の断片をつなぎとめるための努力として、歴史の中に、一定の構造や展開の過程を把握する可能性や課題を、はっきりと意識することは必要』としている。
 第3は、「日本からの世界史」として、従来の世界史は、日本を除外した「外国史」だったが、日本を含めた「世界」をえがくこと、としている。
 その結果、全体28巻は、通常のスタイルのA系列に加えて、『時代をこえてもつ世界史的意味を考えようとする』として、その例を第5巻の「帝国と支配」を挙げている。

 さて、このような「世界史へのアプローチ」が、今回始まった3回目の講座では、どのように変わってゆくのか、第1巻は同じ表題が付けられているようなので楽しみになってきた。