その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(208)
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
TITLE:漱石の文明論
新宿区立漱石山房記念館に手紙の特別展を見にいった。彼は、やたら手紙を書いたようで、中でも絵手紙が魅力的だった。売店の裏手の棚に、漱石本が何冊かあり、その一つが、岩波文庫の三好行雄編「漱石文明論集」だった。1986年の出版だが、既に52刷を数えている。
漱石は、小説の中に文明論を時々表すが、この本は、彼の文明に関連する講演、日記、書簡などを集めたもののようだ。前半の講演だけでも18件だが、直接に「文明」と書いたものはない。
漱石は、「文明」という言葉をあまり使わずに、常に「開化」という言葉を用いた(ように思う)。何故か?その答えが最初の講演「現代日本の開化」にあった。
私流の考えなのだが、「開化」は、社会の中に突然に入り込んでくるが、「文明」はゆっくりと、じわじわ浸透してゆくという違いがあるように思う。だから、漱石は「開化」が気に入らなかったし、「文明」については、あまり語らなかったのではないだろうか。
この講演は、明治44年8月に和歌山で行われた。前日に和歌の浦や紀伊三井寺を訪れた感想や、「現代日本の開化」なのか、「日本現代の開化」なのかなどと、かなり長い前置きの後で、突然に『開化は人間活力の発現の経路である。』(p.14)と断言をする。そして、これを開化の定義として、『時の流れを沿うて発現しつつ開化を形造って行くうちに私は根本的に性質の異なった二種類の活動を認めたい、否確かに認めるのであります。』(p.15)と発言をする。
その二種類とは、積極的なものと消極的なものだそうだ。そして、この二つが入り乱れてこんがらかったものが開化なのだという。
「積極的なもの」とは、外界の刺激に対して反応するもので、例えば新たな趣味とか、道楽、科学的な研究で、『自ら進んで強いられざる自分の活力を消耗して嬉しがる方』(p.17)であり、
「消極的なもの」とは、活力節約の行動であり、『どうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早く帰りたい。できるだけ身体は使いたくない。』(p.18)ということ。つまりこれは、新たな交通機関の利用を意味している。このために、人力車が自転車に、さらに自動車に汽車に、飛行器に化ける、というわけである。なお、ここで飛行器としているのは、機械ではなく、ヒトを入れる器を意味しているのだろうか。
そこから、本題に入ってゆく。西欧社会が、長い年月をかけて、種々の工夫を凝らし智慧を絞ってようやく今日まで発展してきたものを、通常の開化とするならば、『日本の開化はそうはいかない。何故そういかないか。それを説明するのが今日の講演の主眼である。』(p.25)とした。
結論が最初に出てくる、『西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。』(p.26)である。
つまり、明治時代を通じて日本で行われてきたことは、諸外国と旨く付き合ってゆくための開化であり、そのために日本が曲折したというわけである。それは、『時々に押されて刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、または恐らく永久に今日の如く押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というより外に仕方がない。』(p.27)となる。
そして、話は外発的なものの継続が、心理的にどのようなものになってゆくかを説明してゆくことになる。つまり、外発的な開化から得られる安心の度は微弱なもので、反対に、『競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうである』(p.36)が本音なってくる。
なお、この開化の二面性の話は、その後大正3年に東京高等工業学校での講演でも繰り返されているので、漱石の持論の一つなのだろう。しかし、ここで残念なのは、18の講演の中身が活字化されているだけで、その前後の社会情勢や漱石自身のその時の状態が、何もわからないことで、講演内容は、それらとともにしか正確には分からない。
しかし、そのことを解決するよい書がある。書籍名はずばり「漱石とその時代」で、江藤淳著
(新潮社 [1996])の全5巻である。
この時期は、新潮選書で5分冊になる大著の4冊目になる。明治時代の最後の5年間の世間と漱石の周りの事柄が、細かく記されてある。漱石は、明治40年に大学をやめて朝日新聞に入社。文芸や小説欄を担当して、「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、「門」を立て続けに連載して、人気作家の名をほしいままにしていた。一方で、過労が重なり喀血を繰り返して、伊豆の病院での療養生活(有名な修善寺の大患)を余儀なくされた。
漱石が、文芸や社会情勢について講演を重ねるようになったのは、入院生活の直後であった。朝日新聞社が、販路拡大のために連続して講演会を計画した。和歌山での「現代日本の開化」という講演会も、その一つだった。そのあたりの経緯は、この書の第23項の「朝日新聞記者招聘講演会」の項に詳しく書かれている。
漱石は入院により計画していた連載小説を中断せねばならず、代わりの著者による連載が続いた。しかし、読者と新聞社内の評判は、すこぶる悪かった。漱石にも責任の一端はあったのだが、結局新聞の主筆の渡辺三山の進退問題にまでなってしまった。起死回生で計画されたのが、この一連の地方巡業の講演会で、最初は長野教育委員会のものであった。漱石の身体は万全ではなく、奥さんの鏡子さんの動向に関する逸話が書かれている。漱石は『小学校の先生が集まっている中に、女房なんか連れてゆくのはみっともないですね』(p.394)といったが、主治医に説得されて、同道することになった。
長野に到着の翌日に「教育と文芸」(講演内容は漱石文明論集に収録)との題目で県会議事堂で講演し、翌日は中学校の雨天体操場であった。その後、高田、直江津、諏訪をまわって帰京した。随分と無理をしている。
翌月には、一連の「招聘講演会」が開始された。漱石ほかが演壇に立ち、どこでも超満員だったとある。最初は、兵庫県の龍野、つづいて明石、和歌山、堺と強行軍だった。出発が、天竜川の決壊で東海道線が不通になり遅れたために、なおさらだった。
明石での講演会の模様が翌日の朝日新聞に載っている。漱石の講演は「道楽と職業」で『極めて趣味のある講演を試みたり』(p.402)と評されている。
漱石の和歌山での講演について、この書はたった4行しか記述していない。しかも、天気に関することのみで、当日はひどく蒸し暑く、夕方には台風の影響で宿に帰えれなかったと云うことだけである。
一方で、翌々日の堺での講演「中身と形式」については、その講演内容を詳しく記してある。しかし、その晩に漱石は、嘔吐の後に吐血した。その後の様子は、妻鏡子の「漱石の思い出」に詳しく書かれており、一部が引用されている。そのまま3週間も入院生活が続いたのだった。その後、大阪の病院から東京の病院に転院し、そこから寺田寅彦に出した手紙の内容が示されている。
巻末には、「漱石の病状は身ぐるみ朝日に買い取られた」とある。まさに、そのような状態での講演だったわけである。汽車による旅行が可能になったために、過密日程での講演をこなさざるを得ず、病状が著しく悪化した。汽車が無ければ、このようなことは起こらなかったのだ。
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
TITLE:漱石の文明論
新宿区立漱石山房記念館に手紙の特別展を見にいった。彼は、やたら手紙を書いたようで、中でも絵手紙が魅力的だった。売店の裏手の棚に、漱石本が何冊かあり、その一つが、岩波文庫の三好行雄編「漱石文明論集」だった。1986年の出版だが、既に52刷を数えている。
漱石は、小説の中に文明論を時々表すが、この本は、彼の文明に関連する講演、日記、書簡などを集めたもののようだ。前半の講演だけでも18件だが、直接に「文明」と書いたものはない。
漱石は、「文明」という言葉をあまり使わずに、常に「開化」という言葉を用いた(ように思う)。何故か?その答えが最初の講演「現代日本の開化」にあった。
私流の考えなのだが、「開化」は、社会の中に突然に入り込んでくるが、「文明」はゆっくりと、じわじわ浸透してゆくという違いがあるように思う。だから、漱石は「開化」が気に入らなかったし、「文明」については、あまり語らなかったのではないだろうか。
この講演は、明治44年8月に和歌山で行われた。前日に和歌の浦や紀伊三井寺を訪れた感想や、「現代日本の開化」なのか、「日本現代の開化」なのかなどと、かなり長い前置きの後で、突然に『開化は人間活力の発現の経路である。』(p.14)と断言をする。そして、これを開化の定義として、『時の流れを沿うて発現しつつ開化を形造って行くうちに私は根本的に性質の異なった二種類の活動を認めたい、否確かに認めるのであります。』(p.15)と発言をする。
その二種類とは、積極的なものと消極的なものだそうだ。そして、この二つが入り乱れてこんがらかったものが開化なのだという。
「積極的なもの」とは、外界の刺激に対して反応するもので、例えば新たな趣味とか、道楽、科学的な研究で、『自ら進んで強いられざる自分の活力を消耗して嬉しがる方』(p.17)であり、
「消極的なもの」とは、活力節約の行動であり、『どうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早く帰りたい。できるだけ身体は使いたくない。』(p.18)ということ。つまりこれは、新たな交通機関の利用を意味している。このために、人力車が自転車に、さらに自動車に汽車に、飛行器に化ける、というわけである。なお、ここで飛行器としているのは、機械ではなく、ヒトを入れる器を意味しているのだろうか。
そこから、本題に入ってゆく。西欧社会が、長い年月をかけて、種々の工夫を凝らし智慧を絞ってようやく今日まで発展してきたものを、通常の開化とするならば、『日本の開化はそうはいかない。何故そういかないか。それを説明するのが今日の講演の主眼である。』(p.25)とした。
結論が最初に出てくる、『西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。』(p.26)である。
つまり、明治時代を通じて日本で行われてきたことは、諸外国と旨く付き合ってゆくための開化であり、そのために日本が曲折したというわけである。それは、『時々に押されて刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、または恐らく永久に今日の如く押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というより外に仕方がない。』(p.27)となる。
そして、話は外発的なものの継続が、心理的にどのようなものになってゆくかを説明してゆくことになる。つまり、外発的な開化から得られる安心の度は微弱なもので、反対に、『競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうである』(p.36)が本音なってくる。
なお、この開化の二面性の話は、その後大正3年に東京高等工業学校での講演でも繰り返されているので、漱石の持論の一つなのだろう。しかし、ここで残念なのは、18の講演の中身が活字化されているだけで、その前後の社会情勢や漱石自身のその時の状態が、何もわからないことで、講演内容は、それらとともにしか正確には分からない。
しかし、そのことを解決するよい書がある。書籍名はずばり「漱石とその時代」で、江藤淳著
(新潮社 [1996])の全5巻である。
この時期は、新潮選書で5分冊になる大著の4冊目になる。明治時代の最後の5年間の世間と漱石の周りの事柄が、細かく記されてある。漱石は、明治40年に大学をやめて朝日新聞に入社。文芸や小説欄を担当して、「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、「門」を立て続けに連載して、人気作家の名をほしいままにしていた。一方で、過労が重なり喀血を繰り返して、伊豆の病院での療養生活(有名な修善寺の大患)を余儀なくされた。
漱石が、文芸や社会情勢について講演を重ねるようになったのは、入院生活の直後であった。朝日新聞社が、販路拡大のために連続して講演会を計画した。和歌山での「現代日本の開化」という講演会も、その一つだった。そのあたりの経緯は、この書の第23項の「朝日新聞記者招聘講演会」の項に詳しく書かれている。
漱石は入院により計画していた連載小説を中断せねばならず、代わりの著者による連載が続いた。しかし、読者と新聞社内の評判は、すこぶる悪かった。漱石にも責任の一端はあったのだが、結局新聞の主筆の渡辺三山の進退問題にまでなってしまった。起死回生で計画されたのが、この一連の地方巡業の講演会で、最初は長野教育委員会のものであった。漱石の身体は万全ではなく、奥さんの鏡子さんの動向に関する逸話が書かれている。漱石は『小学校の先生が集まっている中に、女房なんか連れてゆくのはみっともないですね』(p.394)といったが、主治医に説得されて、同道することになった。
長野に到着の翌日に「教育と文芸」(講演内容は漱石文明論集に収録)との題目で県会議事堂で講演し、翌日は中学校の雨天体操場であった。その後、高田、直江津、諏訪をまわって帰京した。随分と無理をしている。
翌月には、一連の「招聘講演会」が開始された。漱石ほかが演壇に立ち、どこでも超満員だったとある。最初は、兵庫県の龍野、つづいて明石、和歌山、堺と強行軍だった。出発が、天竜川の決壊で東海道線が不通になり遅れたために、なおさらだった。
明石での講演会の模様が翌日の朝日新聞に載っている。漱石の講演は「道楽と職業」で『極めて趣味のある講演を試みたり』(p.402)と評されている。
漱石の和歌山での講演について、この書はたった4行しか記述していない。しかも、天気に関することのみで、当日はひどく蒸し暑く、夕方には台風の影響で宿に帰えれなかったと云うことだけである。
一方で、翌々日の堺での講演「中身と形式」については、その講演内容を詳しく記してある。しかし、その晩に漱石は、嘔吐の後に吐血した。その後の様子は、妻鏡子の「漱石の思い出」に詳しく書かれており、一部が引用されている。そのまま3週間も入院生活が続いたのだった。その後、大阪の病院から東京の病院に転院し、そこから寺田寅彦に出した手紙の内容が示されている。
巻末には、「漱石の病状は身ぐるみ朝日に買い取られた」とある。まさに、そのような状態での講演だったわけである。汽車による旅行が可能になったために、過密日程での講演をこなさざるを得ず、病状が著しく悪化した。汽車が無ければ、このようなことは起こらなかったのだ。