生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(21) 古代の天皇陵

2017年03月31日 08時23分06秒 | その場考学との徘徊
題名今城塚古墳 場所;大阪府 年月日;H29.3.22

テーマ;古代の天皇陵

 大津の琵琶湖湖畔に建つ琵琶湖プリンスホテルの18階で朝を迎えた。朝日に輝く湖面が美しかった。この景色は、古代も今も変わりがないのだろう。




大津から京都を経て大阪に向かう東海道線の途中に摂津富田という駅がある。そこに今日の一番目の訪問地がある。

「いましろ 大王の杜」がそれで、具体的には、今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳だ。今城塚古墳は、学説では真の継体陵とされているそうだ。しかし、宮内庁の比定は近くにある太田茶臼山古墳となっているので、ここは自由に出入りができる公園になっている。当日は、常設展のほかに、この第26代継体天皇の陵に治定されている三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)の特別展ももようされており、絶好の機会だった。



Wikipediaには次の記述があった。
『この太田茶臼山古墳は、出土埴輪から古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第26代継体天皇の陵に治定されている。ただし、築造年代は継体天皇の没年(継体天皇25年〔531年?〕)に合わず、所在地も史書の記述と食い違うことから、現在では真の継体陵については今城塚古墳(高槻市郡家新町)とする説が有力視される。』




お目当ては、古墳のわきに並べられている実物大の膨大な埴輪なのだが、入場してすぐに、今城塚古代歴史館のすばらしさに圧倒されてしまった。あわてて二つの展示の小冊子を買ってにわか勉強をしながらの見学になった。




先ずは特別展から。三島と呼ばれるこの地は、淀川に向かって幾筋もの川があり、弥生時代からの遺跡が散在していた。

幾筋もの曲がれのある南面した台地は、八ヶ岳南麓に似ている。小冊子の記述にはこのようにある。
『芥川と安威川に挟まれた東西約3km、南北約2.5kmの富田台地にはいくつもの灌漑用水路がひかれ、稔り豊かな土地柄として格段に発展していった。開発の端緒を拓いた集団は台地の東北部に盤居していた、のちに三島県主一族として一括りされる地元の豪族である。』



この用水路の一つは、「三島大溝」と名付けられて、今も健在する。さらに、名神高速道路の工事中に見つかった「埴輪道」により、全行程900メートルの埴輪の運搬路が確定されて、「新地埴輪窯跡」の研究が進んだようだ。二つの巨大前方後円墳の埴輪は、ここで作られたと証明がされている。
面白いのは、2kmも離れていない二つの古墳の方向だ。大体150°くらいずれている。近くには、中臣鎌足の墓と推定されている古墳もある。興味深い地域だった。



天皇陵からの発掘物は、宮内庁と大阪府が過去に行ったもので、平凡な埴輪が多く、むしろ説明文に興味をひかれた。それは、地元のボランティアの女性の説明が見事だったせいもある。どのパネルの説明も懇切丁寧で分かりやすかった。

帰宅して、改めて冊子を読むと「三島と初期ヤマト王権」、「新池の埴輪作り」、「倭の五王と三島」、「古墳時代の終焉」など当時の一連の歴史が、それぞれ数ページにわたって豊かな写真付きで纏められている。書店で求められる一般の歴史書よりは、はるかに面白かった。






歴史館の建物を出ると、目の前に前方公園古墳の側面が広がっている。目の高さが埴輪列と同じなので、全体を見渡すことができる。それにしても、長い埴輪列が、側面のほんの一部なのだから、古墳の大きさには圧倒された。柵に囲まれた奈良の天皇陵を眺めるのとは大違いだった。




長さ65メートルの形象埴輪の列は、塀で4区画に仕切られており、明らかに古代の祭祀を表している。関東地方の同じような埴輪群は、高崎市の保渡田古墳のもので、確か榛名山の噴火により、ポンペイと同じように火山灰に埋まり、当時の配列が保たれていると聞いた。しかし、王様が幾人もいたりして、全体のストーリー性は不明のようだ。一方で、こちらには4区画の詳しい説明がなされており、前後の区画の説明は、以下の通りだ。






『4区 南側に白鳥の列や牛・馬の列、北側には武人や鷹飼人が並べられ、東側の塀の近くには、門をまもるかのように盾や力士が配置されています。』とある。

東側は、3区に繋がる門があり、そこを盾や力士が守っているというのは面白い。
最後部の1区の説明文は、『東端に位置し、南側に器台と蓋の列、片流れの家が、また北側には魚と鳥の絵のある祭殿風の家と鶏が配置されています。亡き大王が安置されている空間を暗示し、2区との間の塀には門がありました。』とある。


「片流れの家」はもがりに使われたとの説明もあった。



前方部の端まで歩いて、バス停に向かった。後円部ははるか先で見ることはできなかった。



JR摂津富田駅間との循環バス停留所



一時間とちょっとの短い滞在だったが、十分に楽しみ、かつ勉強をすることができた。

その場考学との徘徊(20)梅と桜の共演

2017年03月29日 13時43分21秒 | その場考学との徘徊
近江の国の石山寺 場所;滋賀県  年月日;H29.3.20

テーマ梅と桜の共演

 春の気分に誘われて、近江・摂津・河内へ3泊4日で出かけました。目的は、古寺と縄文・古墳時代の遺物の博物館めぐりなのですが、この季節には東京23区内ではめったに見られない梅と桜の共演が見られるかもしれない、との期待があった。

それは、現役時代に経験した関越自動車道の横川SAの梅と桜の共演だった。妙義山を裏から眺められるこのサービスエリアは、お気に入りの一つで毎回小休憩をすることにしていた。東京では梅は1か月も前に散ってしまい、桜の季節も終わりかけているときに、梅と桜の共演が見られるのは嬉しい。

旅の第1の訪問地に「石山寺」を選んだ。3月20日は「梅まつり」の最終日で、「紫式部像 三筆同時公開特別展」の表示もあった。石山寺のホームページは、次の紹介文がある。

『紫式部が参籠して『源氏物語』を書きはじめたという石山寺。各時代にわたり、石山寺に『源氏物語』起筆の跡を訪ねて、その心寄せを歌や文章にとどめた人々が絶えることはありませんでした。 このような『源氏物語』にちなんだ作品は石山寺に収蔵され、その一部を石山寺の宝物とともに、毎年春と秋に開催される「石山寺と紫式部」展でご紹介しています。 石山寺と『源氏物語』が紡ぎ出した歴史と文化をお楽しみください。』

HPの「歴史と文化」では、

『さざなみが煌めく琵琶の湖水が、やがて穏やかな流れとなる瀬田川、石山寺はその西岸の伽藍山の麓の景勝地にあります。その創立は、東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた寺院です。また、本尊の秘仏如意輪観音像は、安産、厄除け、縁結び、福徳などに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めています。
 石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めました。その後も、源頼朝、足利尊氏、淀殿などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音 霊場として著名となり、今日まで参詣者が絶えません。』とある。

東京人には意外なのだが、京都駅からJRと京阪電車を乗り継げば、25分で瀬田川の川岸の石山寺駅に到着する。
駅から、川沿いに10分ほど歩くと山門がある。そこからかなり長い参道になる。




入るとすぐに、「特別公開」の看板があり、先ずはそこを見学した。勿論、撮影禁止なのだが、3筆は、看板で確認できる。



ちなみに、この中の中央の絵が、なぜ源氏物語の発想の場面と考えられているかは、宿泊したホテルに置いあった書物序文から知ることができた。




ここで、「水相観」というのは、水が熱せられると水蒸気になる。また温度が下がると水に戻り、更に温度が下がると氷になるというように無常、常に変化するという意味のようだ。式部の机の下に壺があり、そこから水蒸気のようなものが立ち上り、ゆらゆらと流れているのだが、それは実物の絵を肉眼でよく見ないと分からない。

紫式部像を目指して坂道を上ると、そこには、梅ならぬ桜が満開だった。関西の開花宣言は未だなのだが、ソメイヨシノよりはだいぶ早い開花の品種だった。





一方で、梅の花は、本堂にあった。すべて見事な盆栽で、その鉢は本堂から前庭まで延々と続いていた。





社務所で、「干支の土鈴」を尋ねると、ここでも倉庫から出してくださった。ここの「鳥」はなんと孔雀だった。近江六札所では、それぞれに異なる「鳥」を土鈴にしている。驚いたのは、次に訪れる予定の三井寺では「オウム」だそうだ。前回徘徊の川越の氷川神社の鶏と並べて、今年一年間玄関に置くことにした。



寺の出口付近に「珪灰石」が露出している。石灰岩と花崗岩の接触で、通常は大理石になるものが、特殊な珪灰石になったそうで、ちょっと条件が違えば、ここは大理石の露出で有名になっていなのかもしれない。
 これも、共演の一つなのかもしれないと思った。

真の共演ではなかったのだが、桜と梅を楽しむことができた。

ちなみに、我が家では三色の梅の共演を楽しむことができる。黄色は蝋梅で、通常は早く咲き始めるのだが、年によっては同時に花を楽しむことができる。今年は、その年だった。



メタエンジニアの眼シリーズ(25)この世界が消えた後の科学文明の作り方

2017年03月24日 19時51分10秒 | メタエンジニアの眼
文化と文明への眼  KMM3286 
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

「この世界が消えた後の科学文明の作り方」
ルイス・ダートネル著,川出書房新社[2015]
引用先;文化の文明化のプロセス Converging & Implementing

 原題は「THE KNOWRAGE:HOW TO REBUILD OUR WORLD FROM SCRATCH」であり、特に科学技術に拘ったものではない。何らかの理由(例えば、感染症、核戦争、彗星の衝突など)で、現代文明が完全に滅んだ後に、生き残った人類がどのような文明を創るかを問うている。



 ヒントは、1991年のソ連崩壊後にモルドヴァ共和国で起こった自給自足生活にあったようだ。『小国であるモルドヴァ共和国は経済面で大打撃を受け、国民は自給自足を強いられ、紡ぎ車や手織り機、バター搾乳機といった、博物館で見るような技術を再び採用しなければならなかった。』(PP.9)

 しかし、著者の仮定はこれをはるかに上回る、徹底的な文明の崩壊であり、いわば猿の惑星からの出発を想定している。著者は、そのときには現代文明の複製になる可能性は、むしろ少ないと述べている。
 
『マニュアルに提示した重要な知識がすべてあっても、新しい社会が技術的に高度な段階に到達できる確証はない。歴史を通して多くの優れた社会が繫栄し、その知識の宝庫と技術力はその時代の世界の輝かしい宝石となってきたが、大半はいつの時代かで立ちゆかなくなって膠着状態に陥る。それ以上は進歩しない均衡状態だ。あるいは、まったく崩壊してしまう。それどころか、僕らの今の文明が進歩をつづけていることは、歴史的には特異な事例なのだ。』(PP.291)

 この言葉は、文明論の世界では当たり前のように思う。文明崩壊では、「過去のいかなる文明も、その当時の人々は、その文明が永遠に続くと思っていた。しかし、その文明は崩壊した。」ということが、繰り返し述べられている事実である。

 古代からの世界的な大発明の多くは、中国でなされていた。ヨーロッパが中世の暗黒時代の間に中華文明は繁栄を遂げた。しかし、それは止まってしまった。

『14世紀末には中国は、ヨーロッパでは1700年代になるまでどこにも見られなかったような技術的進歩を遂げており、独自の産業革命を始める準備が整っているかに見えた。
 
だが、意外なことに、ヨーロッパが長い暗黒時代を抜け出してルネッサンス時代にはいろうというところに、中国の進歩は揺らぎ、やがては止まってしまった。中国の経済はおおむね国内の流通によって成長しつづけたし、増え続ける人口は恒常的に高い生活水準を享受していた。しかし、重要な技術の進歩はそれ以上には起こらず、むしろ一部の新技術は後に忘れられていった。それから3世紀半後にはヨーロッパが追いつき、イギリスは産業革命に突入した。』(pp.292)

 イギリスの産業革命は、単に技術の新発見がもたらしたものではなく、繊維製品の旺盛な需要に対して、供給が間に合わずに、機械化への投資が継続的に行われたことが、主原因であるとの説が有力になっている。

一方で、『中国では労働力は安く、産業資本家になりうる人びとも効率を改善する技術革命からの利益はほとんど期待できなかった。』というわけであった。(pp.293)

 翻って現代を見ると、破壊的イノベーションによって、従来からの文化と経済が破壊されつつあるようだ。例えば、「スマホ」の出現によって、従来からの新聞・雑誌・書籍・カメラ・パソコン・TVなどの産業が衰退の時期を予想をはるかに超えたスピードで迎えようとしている。

この現象下では、すべての産業分野を総合した利益の増減は、いかがなものであろうか。そのような統計値は、まだ表されていないが、恐らくはトータルでの利益は減少しているのではないだろうか。つまり、著者が次に述べている「科学による技術の進歩と文明の関係は平衡状態」に達しつつあるのではないだろうか。

 科学による技術の進歩と文明の関係は、以下の言葉に集約されている。

『技術的に発展する文明はどこで頂点に達し、それ以上に進歩しても(投資に見合う収益がない)収穫逓減がおきるのだろうか?おそらくそのような文明は安定した経済を実現し、適度な人口で、天然資源を持続可能なかたちで利用できる能力に達したら、ある技術水準で、それ以上は進歩も後退もしない、平衡状態に達するのかもしれない。』(pp.294)

現代は、その方向に向かって進み始めたようにも感じられることが、あちこちで始まっている。しかし、数えきれないほどの民族と、2百に及ぶ独立した国家が存在する中で、平衡状態はあり得るとも思えない。

最後の、「科学とテクノロジー」の章では、
『科学的理解を実用化することが技術の基本だ。(中略)歴史の中で、科学と技術は密接に係り合ってきた。(中略)奇妙な代物を、日用の必需品に変える過程だ。』などは当然なのだが、次の言葉からはメタエンジニアリング的な発想が見受けられる。

『関連する現象が科学的に正しく理解されても、実用的な発明を生み出すには、想像力と創造力で一飛びするよりはるかに多くのことが求められる。成功につながったどんな技術革新も、長い計画期間に工作しては設計の欠陥を改善する作業を続けなければ、安全に働いて広く普及するようにはならない。

これこそ、アメリカのトマス・エディソンが、1%のひらめきのあとに言及した99%の汗水を垂らす部分なのだ。科学を働かすのと同じ厳格で秩序だった調査が、技術革新においても必要になる。この場合は、自然界でなく、僕ら自身の人工的産物を分析することだ。出現しようとしている技術を実験して、その欠陥を理解し、効果を上げるのである。』(pp.308)

このことは、航空機の発達史を考えれば当然にように思うのだが、近来のイノベーションは、果たして、「僕ら自身の人工的産物を分析することだ。出現しようとしている技術を実験して、その欠陥を理解し、効果を上げる99%の汗水を垂らす部分」を行っているだろうか。大いに疑問である。イノベーション至高主義は、あまりにも経済的な事情に偏りすぎ、かつ急ぎすぎている。
                  

メタエンジニアの眼シリーズ(24) 講座 文明と環境

2017年03月17日 09時12分21秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(24)「講座 文明と環境」 KMM3059,3300,01,02,03  

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


「講座-文明と環境」浅倉書店[1995-98]の全15巻は、次に示す刊行の言葉によって作成され出版された。

『1991年から93年まで、われわれは文部省重点領域研究「地球環境の変動と文明の盛衰」(領域代表者 伊東俊太郎)を行った。(中略)

環境の問題は決して自然科学だけの問題ではなく、実は文明の問題でもあり、人文科学の問題でもあるのである。そして環境破壊という21世紀の最大問題を解決するには、どうしても自然科学者と人文科学者の密接な連携が必要なのである。このような連携は日本の学問においてはまだ十分でないが、それは新しい、文明を作る、あるべき連携の芽を生むことになるのではないかと思う。』

 その中から、第1,2,5.11,15巻を選んで纏めた。 

このような著作を数十冊読んでも、残る印象は常に同じであった。それは、日本列島における縄文時代は、人類の歴史上で唯一の、戦争・飢饉・疫病・極端な格差などがない、平和で安定した状態が1万年間も続いた文明であった、ということである。

文明とは、西欧的なCivilization、すなわち都市化とか文字化、ましては機械化などではなく、易経にある「文明以健」、すなわち、武徳の反対語である文徳つまり「礼楽政教の徳が輝くこと」と考えたほうが、21世紀以降の人類の持続にとっては良いようである。






第1巻「地球と文明の周期」小泉 格、安田喜憲 編集

・宇宙の歴史から何を学ぶか

 『文明が気候変動の周期性を受けて、周期的に盛衰することは、これまで多くの人々が指摘してきた。とくに伊東[1985]は、人類文明の発達を5つの段階―人類革命・農業革命・都市革命・精神革命・科学革命―でとらえている。これらの改革期は図3(省略)をみると、いずれも気候が寒冷化する時期に当たっており、生活環境が悪化したときである。』

『こうした環境の変化に対し、創造的な技術革新の方法をもって対応したところでのみ、文明の改革は成し遂げられてきた。』としている。

 農耕・牧畜というライフスタイルが、地球システムのエネルギーの流れ、物質循環に擾乱をもたらすことになり、それが産業革命により擾乱では済ませられなくなったことを述べた後で、

『これまでの地球史を見ると地球はつぎつぎと分化し、より多くのサブシステムを持つ地球システムへと変化してきている。このような歴史を見る限り、歴史の発展の方向性は分化することにあるようにみえる。なぜだろうか?結論をいえば地球が冷えるからである。』(pp.19)
 
つまり、火の玉から始まった地球が、冷えるたびに新たな物質圏を産むことになったというわけである。そして、最終的に生物圏から人間圏が分化して、今日の状態が生じたというわけである。
 
著者は、生物の進化とは言わずに、生物の分化といっている。地球環境の変化により、生物が多様性を必要として、分化が行われているというわけである。

・分化論の視点から見た人間圏の未来

 地球は、『全体として冷えつつあるが、その高温の部分と低温の部分の温度差は拡大している。このことが分化を促し、地球システムや銀河系・宇宙システム、そして生物圏内のサブシステムに、多様性とダイナミズムを生んでいる。』(pp.24)

 それでは、地球システムの中で安定性を保つにはどのような方法があるか、著者は3つの問題点を挙げている。

① どのような人間圏のサイズが、地球システムの中で安定なのか
② 文明のそれぞれの段階で発生する難民のための新天地がなくなったのが現代なので、新たなフロンティアを、どこかに求める必要がある。
③ 人間圏の内部システムの向かいつつある方向性を定める。現代のグローバル化を始めとする方向性は統合へ向かっているが、その先は均質化になる。

しかし、『均質化は自然界では死を意味する。均質化を求める方向は人間圏内部のダイナミズムを喪失させる方向である。
 
これらの問題に関して今後具体的に検討してゆくことが21世紀の人間圏を設計するうえで必要になる。現在のまま21世紀を迎えれば、人類は生き延びられるにしても人間圏が崩壊することは予想されるからだ。』(pp.25)
 このように結んでいる。まさに「猿の惑星」を思い出させる文章だった。


第2巻「地球と文明の画期」伊東俊太郎、安田喜憲 編集

冒頭で、伊東俊太郎の持論である人類文明の5段階の画期を開設している。すなわち、人類革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命の5つである。そして、その革命の発端の原因を次のように分析をしている。

『人類文明史の大きな変革期は環境がよいときではなく、むしろ環境が悪化しているときに起こっている。(中略)「産業革命」も決して良い時期の所産ではなく、気候的・環境的悪化のなかで、何らかの新しい変革を試みなければならないというムードが、人々の意識の底にヒタヒタと押しよせて作り出されたのであろう。』(pp.8)
『しかし此処で筆者は、決して「環境決定論」を述べているのではないということを強調しておきたい。文明の新たな創出というものは、あくまでも人間と環境との相互作用によっている。環境が人間のありかたを一方的に決定するのでもなく、人間が環境を一方的に規制するものでもない。

環境の著しい変化は地球上のさまざまな場所で起こったに違いないが、そのとき文明の大きな変革を成し遂げたのは、以上に述べてきたような甚だ限られた特定地域のみであった。すなわち環境の変化の挑戦に対し、創造的に応戦したところのみ、以上のような文明の変革は成し遂げられた。』(pp.9)

 このように解釈をすると、現代の地球温暖化問題は、むしろ行き詰りつつある現代文明の新たな文明への変革の時期として、好機が到来したともいうことができる。


第5巻「文明の危機」安田喜憲、林 俊雄 編集

 この巻では、文明の興亡の共時性を主張している。つまり、興亡は地球上のあちこちで同時に発生するというわけである。
『人類史をざっとみただけでも、文明の危機の時代は、民族の大移動のせいであることがわかる。そして、その民族移動の主役は牧畜民、遊牧民と海洋民であった。

不思議なことに文明の危機のいくつかは、世界各地で同時多発的だった。それを文明興亡の共時性と呼ぶことにする。なぜ文明の興亡には共時性がみられるのか。それは、文明の危機のいくつかが、気候変動というグローバルな要因によって発生しているからであろう。

文明興亡の共時性は、気候変動という物差しを人類史の解釈に導入することによって、はじめて明らかにできたことがらである。遠く離れた地中海世界におけるミケーネ文明の崩壊と、日本列島への稲作をたずさえた人々の渡来。そして中米におけるオルメカ文明の誕生は、ともに連動した気候事件であったことが明らかとなるのである。』(pp.15)

 つまり、気候変動により、民族移動が起こり、その結果文明の興亡が生じたというわけである。



第11巻「環境危機と現代文明」石 弘之、沼田 眞 編集

この巻では、ごく常識的に現代文明の問題を述べている。すなわち、人間活動の拡大によって地球温暖化の恐怖が生まれ、文明と環境倫理が問題化されることになった。それは、過去に起こった様々な技術革新が環境汚染の原因を作ってしまったことに起因している。そして、このような技術革新の問題を解決に導くには、日本の貢献が注目されるべきであると述べている。

『共生と並んで狩猟採集文化に強く内在し、稲作農業文化において多分に残存している原理が循環の原理である。それは、日や月をはじめ、一切の生とし生けるものは永遠の循環を続けるという思想である。(中略)

人間もまた死ぬが、その魂はあの世に行き、また甦ってこの世へ帰るという思想がある。それは一見非科学的に見えるが、このような思想は最近の遺伝子科学とも一致し、ある種の科学的真理を含んでいるものといえるであろう。このような循環の思想は、小麦農業文化圏である西洋文化圏ではヘラクレイトスやニーチェなどにかすかに表れるのみであるが、私は、終末や進歩の直線的時間論に代わってこのような時間論が環境問題解決のために21世紀の世界観にならなければならないと思っている。』(pp.176)

この根底にある思想は、『日本文化には人間と他の生物を本来同じものと考え、人間と他の生物の共生を図るという思想がその文化の根底に存在している。』(pp.176)である。


第15巻「新たな文明の創造」梅原 猛編集
 
 この書の位置づけは、編集者の梅原 猛による「あとがき」の冒頭にある。
 
『この講座「文明と環境」が第15巻「新たな文明の創造」をもって完了する。この全集の総編集者に私と伊東俊太郎君と安田喜憲君が名を連ねているが、(中略)平成3年から5年まで、文部省科学研究費の重点領域研究「文明と環境」が行われたが、この研究には200人を超える自然科学者、人文科学者、社会科学者、ジャーナリストや市民運動家などが参加して共同研究をつづけたばかりでなく、・・・。』(pp.223)

 さらに続けて、『地球科学、気象学、海洋学、生態学などの学問が地球環境破壊の現状の正確な認識を与えてくれるかもしれないが、それを全体の問題として考えるとき、哲学が必要であるし、文明論が必要である。

そしてそのような哲学あるいは文明論の上に立って地球環境の保全を考えるとき、何よりも技術というものをどう考えるかという技術論が不可欠である。それには法的な規制をどうするか、またそれに伴う経済をどう考えるかという法律学、経済学の成功性が必要である。』(pp.224)

 つまり、現状の正確な認識の後で、法律学と経済学の条件下における「哲学と技術論」が結論に導くことを示唆している。大掛かりな研究プロジェクトの最終結論としては、かなり常識内に留まりすぎているように感じられる。

 本書は、総論と14の独立した論文で構成されているが、そのなかから3つ(総論と最初と最後)を選んで検討を試みる。

・総論 地球と人類を救う東方思想と文明  


 表題からして結論ありきのように見えるが、冒頭から次のようにある。
『地球環境破壊の問題は、近代西洋文明の問題である。とすれば、この問題に対する解決の道は東洋文明すなわち東アジア文明の中に求められるであろうか。』(pp.1)

つぎに、いきなり古代西アジアにおける小麦農業による自然破壊を問題視して、『シュメールを統一して、最初の都市文明をつくったギルガメッシュ王が最初にしたことは、森の神フンババの殺害であった。これは人類を森を破壊するタブーから解放したことであり、自然破壊の理論的な許容を与えたことになる。』(pp.2)

一方で、東アジアのモンスーン地域で発生した稲作文明は、『稲作文明は小麦文明に負けない華麗な文明を生み出したと思われるが、それは自然に対して小麦文明よりははるかにやさしい。なぜなら稲作文明においてもっとも大切なものは水であり、水を恒久的に保存するのはもりであり、したがって稲作農業民は守を大切にし、森を神の住みかと考えざるを得ないからである。』(pp.3)

 その後、仏教、キリスト教、ギリシア哲学などに触れた後で、ヨーロッパのロマン主義を「自然に帰れという思想」として紹介している。しかしそれも、結論的に「人間を世界の中心におき、自然と対立する文化」として否定している。
 最終結論は、『人類のために東洋文明の原理の積極的採用を主張すべきなのである。』(pp.9)
で総論を終えている。

・文明の転換と自然観の変貌 

 彼の従来からの主張である、「人類革命 ⇒農業革命 ⇒都市革命 ⇒精神革命 ⇒科学革命」を述べた後で、現在は、「環境革命」が進行中と述べている。そして、注目は最初の人類革命の時代にある。つまり、石器時代の生活環境である。

 『生活の充実感も現在以上であったと考えられる。彼らには財産というものがなかったから、これを増やそうとあくせくすることもなかった。彼らは土地も所有しなかったから、そのテリトリーにとどまる限り、土地を奪い合う戦争もなかった。移動によって人口も自然と抑制されていた。』(pp.13)

そして、現代については、『人類史の第6の転換期「環境革命」-われわれはまさにその真っ只中に生きているーにおいて、今や自然観はどのように変わらなければならないのか。われわれはその自然観をデカルトの「機械論的自然観」(mechanistic view nature)にたいして「生世界的自然観」(bio-world view of nature)と名づける。
本章では、この新たに形成されるべき「生世界的自然観」がいかなる内実を含むものであるかが、考察されねばならない。』(pp.20)
 としている。

 そして結論としては、『来るべき21世紀は「生命の時代」といえる。(中略)従来の「自然」対「人間」、「物質」対「精神」の二元論的対立が究極的に止揚されるのみならず、「科学」と「宗教」の対立も、これまでとはまったく違った角度から、再検討されねばならなくなるであろう。』(pp.23)
 これは、総論とほぼ同じ結論だ。


・文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う 

 表題のごとく、縄文人の思想を地球と人類の救済のために役立てるべきとの主張になっている。
『その縄文王国再生計画の中で、現代から未来にかけて極めて重要と思われるものをここでは5点にしぼって取り上げる。』(pp.201)

 ① 循環の思想に立脚した持続型社会
 ② 共生の思想に立脚した平和共存の世界
 ③ 平等主義に立脚した共同社会
 ④ 文明融合地帯の先進技術社会
 ⑤ 土偶文明にみる女性中心の世界
 の5つである。

 そして、それらを総合することを、「ヘレニズム化」と呼んでいる。

『日本人は文明の縄文化によって危機を回避し、自らの文明のアイデンティティーを確認できるだろう。しかし、文明の縄文化と叫んでも世界には通用しないだろう。世界に適用するたえには新たな概念を設定する必要がある。それを文明のヘレニズム化と呼ぶ。文明のヘレニズム化は3つの新たな文明原理からなっている。すなわち文明の大地化、文明の東洋化、そして文明の地球化である。』(pp.212)

これに関しては、ギリシア文明が崩壊したのちに、アレキサンダーが東方文化をもたらして、新たにヘレニズム文明として文明の伝統を継承したことを挙げている。そして、そのために必要なことは、以下であるとしている。

『ギリシア文明が破滅の淵を回避し、ヘレニズム文明にゆるやかにバトンタッチできたのは、プラトンからアリストテレスへの転換、つまり外なる天空のかなたの力から、内なる自然の内在する秩序への転換、文明の大地化が行われたからであった。もしそうならば、現代文明が破壊的な崩壊の危機を回避するためにまずなさなければならないことは、文明の大地化である。その為にはアリストテレスやストア派に匹敵する哲学者が排出されなければならない。』(pp.216)

 
著者は、東洋の文明の概念を、「再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」としている。しかし、これらを並べたところで、新たな文明は発生しないであろう。しかも、昨今では日本は勿論、中国やほとんどのアジア諸国で、このような文化は、むしろ廃れ始めている。過去に存在した優れた「東洋的な文化」をいかに持続させるかのほうが問題になると思う。

先ずは、優れた文化の復活や堅持が問題で、並行して優れた文化の文明化を進めるプロセスが必要と思う。

このような著作を数十冊読んでも、残る印象は常に同じであった。それは、日本列島における縄文時代は、人類の歴史上で唯一の、平和で安定した状態が1万年間も続いた文明であった、ということである。

文明とは、西欧的なCivilization、すなわち都市化とか文字化ではなく、易経にある「文明以健」、すなわち、武徳の反対語である文徳つまり「礼楽政教の徳が輝くこと」と考えたほうが、これからの人類の持続にとっては良いようである。

その場考学のすすめ(12)その場でメタ思考

2017年03月16日 14時08分52秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(12)

・その場でメタ思考
 
「メタ思考」は、メタエンジニアリングの基本になっている。それは、あるものを一つ上の視点から客観的にみるということなのだが、そのことは、やはりその時その場で実行できなければ何にもならない。従って、メタ思考トレーニングなるものが必要なのだが、そのための良い本があった。

細谷 功「メタ思考トレーニング」PHP研究所[2016]



先ずは、「メタ思考」として、3つの特徴を挙げている。
 
『一つ目は、私たちが成長するための「気づき」を得られることです。特に知的な成長において「気づき」の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはありません。まずは自分がいかに知らないか、自分がいかに気づいていないかを認識することが、知的な成長のための第1歩です。』

『二つ目は、「思い込みや思考の癖から脱する」ことにあります。まず「思い込み」とは、「自分(の考え)が正しくて当たり前だ」と、露ほどにも疑っていない状態のことです。一つ目の気付きにつながるものですが、自らの視野を広げ、成長するためには、「自分は間違っているかもしれない」と常に自分自身の価値観を疑ってみることが重要です。』

『三つめは、上記の二つで得られた気づきや発想の広がりを基にした創造的な発想ができる、ということです。本誌では、「なぜ?」という問いかけによってメタの視点に上がって新しい方法を考え出すやり方と、抽象化という手段でメタの視点に上がり、「遠くの世界から借りてくる」ことで斬新なアイデアを生み出すアナロジー思考について取り上げます。』(pp.4)

 逆に、メタ思考を苦手とする人については、

『往々にしてこのタイプの人たちは行動力があり、それなりの実績を上げて地位の高い人も多く、そうなるとさらにこれらの傾向に拍車がかかってきます。その状態に入ったらもはやメタの視点で考えるのはほぼ不可能と云えます。』(pp.7)
と断言をしている。

 ソクラテスの有名な「無知の知」を挙げて、『気づきの難しさと同様に、「気づいていない人」の最大の問題点は、「気づいていないことに気づいていない」という「無知の無知」状態だからです。一つ言えることは、「無知の無知」から脱するのは他人の力では絶対に無理ということです。』(pp.29)

 メタの視点で考える具体的な方法としては、次のことを挙げている。(pp.34)

 ① 自分を客観視する
 ② 「無知の知」を知る
 ③ 「〇〇そのもの」を考える
 ④ 上位目的を考える
 ⑤ 抽象化する

 「戦略というのはいわば「メタの作戦」のこと」
 Whyだけが、「繰り返す」ことができる

『ある程度安定した組織、伝統ある会社、大企業ではこのような「手段の目的化」が後を絶たず、当然そのような組織にいる従業員は長年その組織にどっぷりとつかればつかるほど思考停止は進行していきます。そのためにはきわめて基本的なことではありますが、常に慣習化してしまった行動に対して目的を問うてゆく姿勢が求められます。』(pp.80)

 この言葉は、現役当時での思い当たる節がある。考えてみると、「手段の目的化」は日常的に起こっていた。そこで、「その場でメタ思考」のためにひとつあげるとするならば、④の「上位目的を考える」だろうか。このことは、「手段の目的化」が起こっていることを、その場で気づかせてくれる。


その場考学のすすめ(11)その場で設計標準化

2017年03月15日 10時30分07秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(11)

・その場で設計標準化
 
「その場でA4紙1枚」の少し高級な実例は、設計標準資料の作成だった。通常は そのことに専用の時間をつくり、専用のスタッフがこれを行うようだが、プロジェクトの進行中にそのような余裕は全くない。私のモットーの一つに「忙しい時に使える資料は、忙しい人がつくったものであり、暇な人が作った資料は、忙しい人には役に立たない」ということがある。従って、標準化もその場で行うことに決めた。
 
設計書でも、計算書でも これぞというものを指定して、A4紙1枚の表紙を追加する。それだけである。この表紙のフォーマットを念入りに工夫すればよい。目的、経緯、標準性の度合い、適用許容範囲などだが、A4紙1枚のスペースがあれば、十分に必要なことを全て書き込むことができる。どのような資料であるかは、あらかじめ番号体系を計画的に決めておけば、誰にでも番号を見ればすぐに分かってしまう。
 
余談になるが、私はこの方法で、ある開発プロジェクトの間に1000件の設計標準を作る目標値を定めた。1000という数字は、数年間で完成の目途が立つことと、一つの設計標準として自立して運用ができることの兼ね合いの数字のつもりであった。

実際にこの目論見は成功した。そして、思わぬ余録があった。それは、プロジェクトのしかも最も精神的な負担の重い設計技術者の中から、一人の精神障害者も作らなかったことだ。
 
過去に次の様な文章を書いたことがある。


・「部下をノイローゼにしない方法

本稿は蛇足である。20年以上前に書いたことなのだが、現在の設計技術者の危機的な様子を見て 敢えてこの蛇足を書くことにした。

ここ数年の設計技術者(私の場合、設計技術者とは、常に機能設計と工程(あるいは生産)設計の両者を指す)のてんてこ舞い振りは目に余る。一般にプロジェクトの数が増えたことと、増産、人数不足などが挙げられているが、ジェットエンジンの場合、これらが世間一般の製造業に比べて特に激しいものとは思えない。プロジェクトのゴールまでの期間を考えれば、むしろ変化が緩やかな部類と思う。

原因の大部分は世の中の変化に追随できないアジリティー不足で、その原因はITツールの使い方の間違えから来ていると思う。納期問題は調達のIT,品質問題はQCのIT,技術の伝承問題は形式知のITなどなど。
 
余談が先になったが、これも設計リーダーの考えの一つと思い敢えて記しておく。
てんてこ舞いの設計技術者の精神と肉体を健康に保つ方法。

時間の確保については、既に記した。ここでは業務の中身について記す。
一般的に、設計技術者の頭の回転は早い。通常はゆっくりでも、状況に応じていくらでも加速できる。要は、無理なく加速し、それを無理なく持続させる方法。

加速期間が長くなるとノイローゼの問題が出てくる。私は、20年間の設計リーダーの間に部下をこの状態にした覚えが無い。それは、ある一つのことを常に実行してきたためと信じている。それは何か。
それは、「どんなに忙しくても、1%の時間を標準化の為の作業に充てること」だった。そのメリットは沢山ある。

・1%という時間はチーム全体の時間管理としては無視できる時間である。

・標準化の為の作業の間は、目の前の重荷を忘れられる(気分転換)。

・標準化の為の作業は、自分の為ではなく他人の為(ボランティア心地)。

・標準化の為の作業をしていると、不思議と心に余裕が出来る(心の余裕つくり)。

・標準化の為の作業をしていると、予期せぬことに出会う(不安ではなく楽しみ)。

・標準化の為の作業は、簡単なわりには完成後の充実感がある(短時間でも充実感を得ることができる)。
などなど、いくらでも出てくる。

てんてこ舞いの設計技術者を抱える部門には、このことをお勧めする。私は、設計担当の課長時代の全期間に、この1%という数字を確保するための独自のデータ収集法を実行した。

ただし、このことは、私の一人合点かも知れない。しかし、お試しあれ。少なくとも害にはならないと思う。
二律背反。一石二鳥。

・蛇足の蛇足

標準化の資料は、「忙しいときに忙しい人が作るべき」ということ。忙しい人が、仕事のやり方を一番良く知っており、標準化をする資格がある。また、忙しいときに作ると、簡潔になるので、後で忙しい人が見るときにちょうど良い。暇な人が、暇なときに作った資料は、いざと言う時に役立たない。
だから「その場考学のすすめ」と云う訳である。

・哲学からの再出発(つづき)

M.ハイデッガー著、関口 浩訳「技術への問い」平凡社 [2009.9.16]

この書は書店では手に入らず、インターネットに頼った。書には、彼の科学・技術・芸術に関する5つの論文が纏められている。ハイデッガーの5つの論文の冒頭が「技術への問い」であった。


 
この講演は,1953年11月18日にミュンヘン工科大学での連続講演のひとつとして行われたが、内容が難解だったのもかかわらずに、終了後には「満場の人々から嵐のような歓呼の声があがった」と記録されている。
 
この時代、即ち第2次世界大戦の恐怖から解放された欧州では、技術の本質に関する議論が盛んに行われたようである。

アインシュタインの相対性理論により、質量が膨大なエネルギーに変換可能なことが理論づけされ、彼が反対したにもかかわらず、米国では、ヒットラーに先を越されるかもしれないという、政治的な説得に応じて原子爆弾を作ることにより、実証までをしてしまった。ハイデッガーはその事実に直面して(彼は、一時期ナチスの協力者であった)哲学者として技術の本質を知ろうと努力をしたのかもしれない。「技術への問い」という題名は、暗にこのことを示しているようにも読み取れる。
 
 この時代の同様な著書が、訳者後記に記されている。「歴史の起源と目標」カール・ヤスバース(1949)、「第3あるいは第4の人間」アルフレート・ウエーバー(1953)、「技術の完璧さ」フリードリッヒ・ユンガー(1953)などがそれぞれの見方で技術の本質を究めようとしたとある。
翻って、現代は大きな原発事故と地球規模の環境汚染を目の当たりにして、再び技術の本質を問い直す時期に来たように思われる。

 ハイデッガーの見た本質は「現代技術の本質は、集―立にある」と訳されている。「集」とは、例えばウラン鉱床からウランを抽出し、それを必要とする場所に必要とする量を集めると云うことなのだ。このことは全てのものつくりに共通する基礎になる。

「立」とは、集められたものを、何かの役に立つ形状に加工をして製品化し、更に実際に使用することを指す。これが現実の技術なのだが、しかし技術の本質ではない、と彼は断言をしている。ここからが、メタエンジニアリングとの関係を彷彿とされる議論が始まるのだ。

彼の表現によれば、「技術は人間の知りたいという本能の自然の現れ」と考えているように思う。それは、次の表現で表されている。
『不伏蔵性の内部で現前するものを人間が自分なりのしかたで開蔵する場合、彼はただ不伏蔵性の語りかけに応答しているだけなのである。』(pp.30)がその部分だ。

また、『技術は開蔵のひとつのしかたである。技術がその本質を発揮するところとは、開蔵と不伏蔵性とが、すなわちアレーティアが、すなわち真理が生起する領域なのである。』(pp.22)

 「アレーティア」とはギリシャ語で『神の真理』、「レーティア」は『秘匿性』を意味する言葉で、任天堂のDS用ゲームソフトの名称にも使われている。「ア」は、否定を表す前置詞で、アレーティアはレーティアの否定形になっている。

アレーティア(http://tekiro.main.jp/soma/w-jisyo_a.htmより)

『太古の時代に異界から来訪した邪神”という伝承はねつ造であり、本来はクレモナ文明が絶頂を極めた時代より約千年前に、外世界からトルヴェールを訪れた総体意思生命体の総称である。

肉体を持たない精神だけの存在で、基本的に“個”という定義を持たない。肉体を持たないが故に、地上では人間達の手を借り、見返りに知識と技術を与えていた。その結果、人間の文明レベルは急速な進歩を遂げ、アレーティア来訪から約千年の間に渡り、文明は発展と繁栄を続けた。しかし、長い時を経て知恵をつけた人間達は、アレーティアから生命力ともいえるエネルギー、ソーマを抽出する術を見いだし、それを独占しようと画策しはじめる。
 
この頃から、アレーティアの持つ絶対的な力を恐れる、反アレーティアの勢力が台頭し始め、やがてそれは世界全体を動かす大きな流れとなった。そして、彼らのその禍々しき策謀により、アレーティアは全ての力を奪われ、意識のみの存在へと変えられてしまうのである。アレーティアの怒りを怖れた人間達は、アレーティアの技の一つであった、地上全域のソーマ安定装置として建造されたリングタワーを利用し、惑星外にアレーティアの意識を追放した。さらに二度と戻れぬよう、リングから生じる青い障壁によって防御策を施すが、それは完全なものにはならなかった。
 
障壁にわずかな綻びが産まれ、その綻びを通過したアレーティアの意識の一部は変異し、人間達を恐怖に陥れるビジターとして地上へと降り立つこととなった。』

 ここで云う真理とは、自然科学が解き明かしたすべての事柄を意味する。つまり、相対性理論の様なものを指す。その真理を現実に立たせるものが技術と云うものだと解釈できる。そしてそのことをギリシャ神話の一つに当てはめたのではないであろうか。それにより、技術の不可解さ、恐ろしさ、将来性までを云い当てようとしたかに見えてくる。同時に、エンジニアリングの根本がこの様な解釈をされることに、メタエンジニアリングの考え方からは共感を覚えてしまう。

 つまり、相対性理論という真実が存在しても、それは伏蔵性のなかに隠されているのであって、それを人間が自分なりのしかたで開蔵すること、即ち必要な材料を集め、貯蔵し、必要な製品に加工し、使用できる状態(この場合は、爆撃機や弾道ミサイルなどに搭載すること)を作り出すことの全てが技術というものと解釈される。

『ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達されるのである。』(pp.24)

 この様に解釈をすると、技術は人類の為にあると云うことが現れて来ない。良くも悪くも勝手に創造に走ってしまう、と捉えられる。つまり、技術は人類を破滅の方向に向かって加速させるためのものとも考えることもできる。

 このことは、見えていないものを追求し、あらゆる知恵と手段でそれを具現化するメタエンジニアリングの考え方に共通するのだが、やはり技術には、社会科学・人文科学・哲学などが常に加わらなければならないと云うことが明らかとなってくる。
 いずれにせよ、すべてはその時、その場の判断によることになる。


「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (終章)」

【Lesson13】リベラルアーツは常に重要
 
ここ数年,大学教育を中心にリベラルアーツ教育の重要性が注目されて始めている。ジェットエンジンはコモディティー品ではないので,個人生活とは関係がないと思われがちだが,実は環境問題や信頼性・安全性などで大きな関わりがある。エンジンに起因する事故を想定すれば,より明白に理解できると思う。

設計時に用いられるのは自然科学の知識が主と思われがちであるが,実は人文・社会科学や哲学的な思考がより重要である。重力という自然の基本的な原理に逆らって,半世紀近くも絶対安全性を確保し続けることは,その間に起こる可能性のある潜在的な要因をすべて配慮する必要がある。直ちに人命にかかわることであるので,想定外という言葉は通用しない。

国際共同開発では,業務外の付き合いも長時間多岐にわたる。お互いの歴史や文化(特に伝統文化で現在まで続いているもの),さらには政治的な考え方も理解しなければならない。英国での共同開発の作業中にフォークランド戦争や湾岸戦争が勃発した。サッチャー政権が誕生し,終焉を迎えた時も会食での大きな話題になった。リベラルアーツ面での深い相互理解がなければ,何回も訪れる危機を無事脱することはできない。

【この教訓の背景】

 日本の技術力は、海外では自分たちが思っているほどには評価されていないということを、自覚しなければならない。ことが、ある程度細部にまで入り込むと、むしろその技術力には感心されることが多いのだが、全体的な観点(すなわち戦略)が必要な場面では、例えば、中国にも後れを取るという場面は、最近の世界情勢の中でも、珍しいことではない。

これは、一にかかって、「日本の技術者のリベラルアーツ面での教養が足りない」ことが原因だと断定してもよいと思う。英米の技術系の大学でも大学院でもリベラルアーツ教育は必修科目になっている。一方で、わが国では入学時のオリエンテーリング感覚で形式的に行われるのみで、専門学科との連携が見受けられない。専門学科と教養学科は、始めから終わりまで並行に行わなければ、世界に太刀打ちできる技術者は、育つわけがないであろう。

結言
 
福島第1原発事故や笹子トンネルの天井板崩落事故などを知ると,常にエンジンの設計が蘇る。前者では想定外という言葉,後者ではメインテナンス不良という言葉は,ジェットエンジンの設計では最も重要視されて配慮が払われる観点である。

新エンジンの設計と開発には,計画段階を入れるとほぼ十年を要する。その間に必要とされる知識は,大学での教養学部と工学部のすべての科目にわたっていた,というのが実感である。FJR710(当時、通産省の大型プロジェクトで、最終的には短距離離着陸機を飛ばした)の成功から半世紀が過ぎようとしているが,当初の日の丸エンジンが世界の空を飛ぶ夢(本来の目的)は果たされていない。

その経緯を示す意味で,実体験から得られた13の教訓の概略とその背景を述べた。すべては部分的な勝ちであり,全体的な勝利にはほど遠いものであったと反省をしている。最終目的に対する確固たる戦略の共有が明らかに足りなかったためであろう。確固たる独自の戦略の確立と、最終目的を忘れずに、手段の目的化をしないことが、グローバル社会では最も重要だと思う。

その場考学のすすめ(10)その場でA4を一枚

2017年03月14日 08時04分52秒 | その場考学のすすめ
第3考 その場でA4を一枚

・その場で知力

知力とは、出来るだけ少ない情報で、出来るだけ早く正しい判断を下す能力、と思う。技術者にとっては、常にそのことが要求されている。いざと云う時に彼方此方を調べまわったり、逡巡するようでは時間がいくらあっても足りなくなるので、競争には勝てない。いや、はっきり言って仕事にならない。

知力は、知恵の集積から生まれる。
知恵は、知識の集積から生まれる。
知識は、情報と経験によってつくられる。
知識は、情報の集積から生まれる。

つまり技術者にとって大事なことは、情報を知識化し、知識を知恵化し、知恵を知力化する術を知ることであろう。このことは、訓練によって可能になる。つまり、日常の動作の中で自然にそのことが出来るようになる。

情報の集積の形はこの10年間で革命的に変わってしまった。いわゆる「ネットサーフィン」である。しかし、そこには人間の能力に関する重大な欠陥がある。そのことは、あの有名なキッシンジャーが繰り返し指摘し続けている。最近の発言は、2016.12.20に行われた読売新聞記者とのインタビューの中にある。主テーマは、その年に起こった英国と米国における政治的な大変化なのだが、敢えて次の言葉を追加している。

『確かにインターネットはボタンを一押しするだけで、実に多くン情報を得ることができる。しかし、それが可能になったことによって、我々は得られた情報を記憶する必要がなくなったことが問題だ。得た情報を記憶しなくなると、様々な情報を取り入れて、体系的に思索するということができなくなる。
それで、どうなったかといえば、知識力が著しく損なわれる結果を招くことになった。そして、なにもかもが感情に左右されるようになり、物事を近視眼的にしかみられなくなる。私はこれを大きな問題だと思っている。多くの人がこの事態をさらに研究して、対策を考えるべきだろう。』(  ,pp.100)
このことが、すでに英国のブレクジットと米国のトランプ政権の誕生で起こってしまったということなのだろう。

このことの解決策の第1歩は、情報の知識化になる。短時間で情報を知識化する方法は色々とあるのだろうが、私のお勧めは情報をA4サイズ1枚に纏めること。この作業は、慣れると非常に簡単で、しかも楽しい。

実例は、会議の打ち合わせ覚えのような単純なものから、設計の標準化の資料などの複雑なものまで枚挙にいとまがない。いくつかの実例を別途纏めることにした。

その数は63種類で、覚えやすいように各シートには英字3三字以内の愛称を付けた。これもRolls Royce譲りなのだが、他部門への浸透力は抜群であった。(デザイン・コミューニティー・シリーズ 第12巻)








そして、それらはその先の知識の知恵化にも役立つ。A4が一枚で独立した資料になっているので、ファイルに纏める方法はいくらでもある。
 
なぜ、A4サイズが一枚も必要なのか、との疑問が生じるかもしれない。メモでは役に立たないのだろうか。
 技術者は、常に「何故;Why?」を念頭におけなければならない。つまり、情報の背景や目的や起承転結が同時に明らかでないものは、技術者にとっては情報たる価値が無いのである。従って、「Why」を記入する欄は必ず必要である。


・A4横型のバインダー


 A4の一枚の資料は、できれば横サイズに統一すると使いやすい。
第一に、大方の資料は縦型なので、一目で区別がつく。バインダーに綴じても、他の資料との区別がはっきりと分かる。ファイリングの方法も、時間とともに簡単に変化させることができる。
 
 私は、設計の現役時代にいくつかのプロジェクトを掛け持ちした。そこで、先ずはプロジェクトごとにファイリングをする。大きなプロジェクトならば、その中をいくつかに分ける。最初から分けなくとも、途中から分ける場合でも、A4紙1枚で独立しているので、たとえば年賀はがきを、差出人別に あ行、か行などと分類するように簡単に分割をすることができる。

プロジェクトが終了したら、単純に年度別にバインダーに纏めてしまう。その際は、社内と社外、あるいは国内と外国などと自由に分けることも簡単である。
 
もっとも、その為には一つの工夫が必要である。それは、番号付けなのだが、1970年代のロールスロイスから学んだ方法の詳細は後に譲ることにする。とにかく、どんな一枚にも右上に小さな四角い欄を作り、そこに日付と情報の種類が分かる記号と番号をその場で書き込むことができるように自分なりのルールを決めておくことだ。私は、このルールを1980年以来 既に30年以上もの間まったく変えずに守っている。
 
例えば、昨今盛んにおこなわれている講演会でも、講演者の紹介文などの裏面の右上に小さな四角い欄を作り、日付とRR式番号体系を記入して、あとは講演を聞きながら必要な情報を書き込む。その紙は、色々な書類と一緒に1か月間纏めておかれて、次の月にそれぞれの保管ファイルに分けられる。
従って、いざとなれば30年前の資料と、昨日書いた資料を一つのファイルに纏め直すことが、可能になっている。

 知識は断片的でも役立つものだが、知力は断片ではなく、一つのストーリーが必要になる。その場合には、そのストーリーに必要なシートのみを集めればよい。ノートや手帳に書いてしまうと、この自由は全く無くなってしまう。だから私は、過去20年間はノートも手帳も使わなかった。

 パソコンの記憶容量が増えて、なんでも「名前を付けて保存」し、あとからの「検索」で自由に過去の資料が取り出せる環境が整っているのだが、やはりA4一枚のシステムのほうが格段に優れている。そのことは、長年の実感でしか知ることはできない。


・その場でSchedule管理、その場で日記

 手帳が無いと困るのはSchedule管理だが、それもA4紙1枚で済ませた。方法は、Out Lookの日程表の1週間分をA5サイズにして、2週間分をA4紙1枚に印刷をする。実際には、3週間先までが実用的なので、2枚になってしまうのだが、これをA5サイズに二つに切り4つ折りにして、ワイシャツのポケットに入れておく。
 
一番上は今週の予定表で、実績や追加の予定を随時書き込む。それが日記帳代わりになる。四つ折りにした3枚目の裏側は、4面あるので それぞれをメモ帳として使う。4面はそれぞれ違う場所でのアクション項目とする。たとえば、事務所、工場、自宅、旅行先など その週ごとに勝手に決めればよい。
 
1週間が過ぎたところで、4週間分の2枚を改めて印刷をする。
その際は、先週の分から始めると、その間に追加や訂正の予定がパソコンには入っているので、その週の始めと終わりとでの予定の変化が一眼で分かる。また、メモ代わりの紙は、4分割をしてそれぞれの場所に置いておく。

アクションが全て終われば、捨てる。アクションをのろのろと済ませていると、この小さな紙切れが何枚もたまってしまうので、処理の遅れの度合いも一目で分かるというものだ。そして、日記帳には、先週書きこんだ紙と、今週印刷した紙とを並べてはる事により、どのような変化が起こったのかも同時に記録する事が出来る。

 このことも、現在はスマホで全てをすますことが容易に可能になっている。しかし、それでは「知恵は、知識の集積から生まれる」ができるわけがない。A5サイズの紙に書かれた予定と実績と、ちょっとしたメモ書きは、そのまま日記帳に張り付けることができる。つまり、私の予定表は「日記」なのだ。そして、過去の日記は知識の集積であり、知恵のもとになる。

 この様に、A4紙1枚は 小さな工夫でいかようにも効率を上げることができることが、最大のメリットと言えるのだろう。



「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その12)」


【Lesson12】エンジンの設計は知識と経験が半々[1979]

1979年3月26日から,共同開発期間において技術と設計の作業をどのように進めるかの会議が始まった。我々は,FJR710のエンジンを10年間で4種類すべてを成功裏に運転した直後であったが,RR流のやり方をとことん吸収すべく 取り入れられるものはすべて取り入れることにして会議に臨んだ。会議は一日に数回,連日行われた。

最初は,会議に使うノートである。ほとんど全員がA4サイズの2センチほどの罫線の入った分厚いノートを持ち歩いている。ファイル用の孔が明いており,一枚ずつ破って別々のファイルに保存する。したがって,持ち歩くのは,だんだん薄くなる何も書いていないノートだけになる。会議の冒頭で,私は先ずこのRR式ノートを差し出して,相手の名前を書いてもらった。(これも教訓の一つ)親切な人は,自分の周りの組織図まで書いてくれるので,かなり合理的だった。以来,私は従来型の日本式ノートを持ち歩くことはなくなった。

午前9時,B J Banes氏と執務室の正確なAddress( RR Ltd. Whittle House Room W1-G-4)などのTechnical Systemの話から始まった。続いて,10時から,設計に使う様々な単位の話,10時半からは,Fan部分の性能の話,11時半からはHP Compressorの性能の話,といった具合に矢継ぎ早に攻めてくる。相手は,次々に代わるのだが,こちらは連続である。幸い,一度にすべてではなく,段階的に話を進める術を心得ているようで,中身は良く理解できたように思う。

これが,その後数十年間にわたって続く(私の場合だけでも, 10年間で約1000回),RRとの開発設計に関するEngineering Meetingの始まりであった。パラパラと当時のRR式ノートのファイルを捲ってゆくと,日本に居ては決して聴けないような話が至る所に出てくる。エンジン設計は,知識と経験が半々に必要であるとの認識を初めて持つことになった瞬間であった。

【この教訓の背景】

 英国人は、教え方にたけているように感じたことが何度かある。先ずは、相手に合わせる技術。一度に全てではなく、基本的なことからある時間をおいて、徐々に詳細に入ってゆく手順の良さ。最初の駐在者部隊は英語に長けたメンバーだったが、年を追うにしたがって、交代要員が不足し始めて、英語が不得意な人も送り込まなければならなくなった。しかし、心配は杞憂に終わった。彼らは、心配になるとこういう、「Are you with me?」。少し失礼な言い方なのだが、明確である。日本人が教えるときは、このようなことは起きない。
 
ちなみに、ここで実感したのは、「会話の能力は言語によらない」ということだった。いくら学歴が高くても、日本での会議の席での発言がきちんとできない人は、英語能力が達者でも意思疎通が不完全だった。一方で、英語が全くの不得手でも、日本語での会話能力が達者な人は、あっという間に英国人との意思疎通ができてしまう、ということを何度も経験した。
 
このことから、最近の大学や大学院で行われている、英語でのプレゼン能力の重視教育からは実質の効果が期待できない。重要なのは、会話を通じた意思疎通能力であり、訓練の方法は全く違ってくる。



その場考学との徘徊(19) 川越散歩

2017年03月10日 10時25分01秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(19)         

題名;川越散歩 場所;埼玉県川越市  年月日;H29.3.5

テーマ;縄文時代からの歴史
作成日;H29.3.8 
 
歳をとると、冬の八ヶ岳からは足が遠のく。以前は、冬でも八ヶ岳に籠って地下室づくりなどで汗をかいたが、ここ2年間は冬の間は出かけず。今年も日帰りでチェックに行ったのみ。

そこで、天気は絶好、快晴で無風、適度に温かい日を選んで川越に行くことにした。
日曜日の朝なので、高速道も街中も車は少ない。

 7:50 自宅発  4℃
   甲州街道も環8道路も、日曜日の朝はガラガラ
   関越道に入ると、さすがに車は増え始めた。ゴルフ銀座は健在のようだ。
 8:22 予定よりも早く着きそうなので、三芳PAで小休止。
   売店も食堂もSA並みになっている。
 8:40 川越IC出口までは、 33km 料金は¥840
   駐車場の開場は9時なので、少し遠回りをして、川越駅前を通過、続いて、西武線の本川越駅前へ



   いつの間にか、川越の観光道路に出てしまった。もう、観光客が結構歩いている。



 9:00 観光用駐車場に到着。ここだけが終日無料。 39.4km、燃費は27.4㎞/L
   無料駐車場は、すぐに見つかったが、手前の、農産物売り場の駐車場に入ってしまった。
ここはすでに満車。案内の人が、観光用駐車場への柵を開けてくれた。
先ずは、農産物売り場を物色。   野菜も、そのほかの物産もけっこうたくさんある。きゅうり、キャベツとイモ類が安い。
 
このところ、埼玉県の遺跡からの発掘物の質の良さが評判になっている。

北九州や畿内に比べて、中世から近代まで土地が荒らされなかったからなのだろうか。
最近の宅地や道路新設では、完全な発掘が行われてきたためなのだろう。

9:30 博物館に入場
  お目当ての縄文土器から、太田道灌の川越城築城の色々なヴィデオまで結構楽しめた。






この本は、なかなか良い勉強になった。
4年前の企画展の冊子だ。



① 円筒埴輪のもとは、ツボを置く台だった?
② 円筒埴輪の帯(凸帯)は、被葬者の位によって数が決まっている。円墳は2本、大型の前方後円墳は5~6本
③ 後期の埴輪の作成には、須恵器の技術が使われている
④ 埴輪の配列は、第1~第5ゾーンに分かれる
 被葬者と近習、食膳奉仕、護衛、馬飼、墓域警護の順
⑤ 埴輪を焼く登り窯は、古墳の近くにある
など。


最近の博物館は、ジオラマやヴィデオが良くできている。
ここでも、じっくりと見たいものが結構あった。

この「博物館だより」の鏡の説明も丁寧で分かりやすい。



和製の鏡の文様の謎が解けた。
中国製は、文様や絵の神話や伝説が明確だが、和製はそれらの図柄を適当に組み合わせをして配置をしている。



「サツマイモ」が薩摩(沖縄も薩摩の内)から広がった様子が良く分かる。
そして、江戸の人口増加を支えるために、埼玉で発展したのだろう。



   
裏口通路から、隣の美術館へ。

つづいて、川越城本丸。ここも共通観覧券で入る。博物館よりは、人も多く観光バスも駐車中。
このスタンプは、びっくり!
ふつうは、ハンコウが摩耗しているのだが、これはすべて完璧だ。





川越城本丸から800m歩いて観光のメイン道路へ。途中の老舗で「道灌まんじゅう」をお土産用に買った。この店のマークは、紋所の組みあわせ。これならば、商標登録に引っかからないのだろう。




昼食処は、特にお目当てはなかったが、結構当たりだった。
店の前では、食べ歩き用のつくねを焼きながら売っている。どうも、つくねの専門店のようだった。



12:20 駐車場発、氷川神社へ。

日本一の木製の鳥居。額は、勝 海舟の直筆と書いてあったので、望遠で撮ってみた。
面白い字だが、親しみがある。





12:28-55 氷川神社。さきほどの川越城本丸の案内人から是非よりなさいと勧められた。

丁度、結婚式の行列が入ってきた。雅楽の演奏付きでしゃれている。




縁結びの赤い糸は、ここの商標登録だとか。
結婚指輪の代わりに、これを交換するそうで、
巫女さんが指のサイズに合わせて、作ってくれる。





本殿の彫刻が素晴らしい。「江戸彫」といわれる独特の手法で、当時の名工が7年間かけて作ったそうだ。





おみくじは、鯛を釣り上げる方式で、
若い人が楽しんでいる。




今年は、初詣で干支の土鈴を買いそびれた。社務所に出てはいなかったが、巫女さんに尋ねると、奥から「土鈴は無いのですが、土を焼いたものはあります」といって、これを出してくれた。
「神領地で出土した神土を、神水で練り固めて、浄火で焼き上げた」とあるので、土鈴よりも高級品だった。



帰路へ、1時間弱なので、休憩は無し。まだ昼を過ぎたばかりなので、道路はガラガラ。
13:55 自宅着 80km、27.6㎞/L
丁度6時間の小ドライブだった。

その場考学のすすめ(09)哲学からの再出発(つづき)

2017年03月08日 08時31分32秒 | その場考学のすすめ
・哲学からの再出発(つづき)

加藤尚武著「ハイデガーの技術論」理想社 [2003.6.20]

 加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で、日本哲学会の委員長も務められたが、同時に原子力委員会の専門委員も務められた。「災害論―安全工学への疑問」世界思想社[2011]が有名である。その中では、「ハイデッガーの技術論」に関連して、『危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ』、『合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている』などが述べられている。



 「ハイデガーの技術論」は、前書きにもあるように、ハイデガーの技術論を少し本格的に研究しようとする者のための入門書であり、従来のハイデガーに関する様々な著書が、技術論を詳細に扱っていないとの考えに基づいて書かれている。メタエンジニアリングにとっては、格好の著書のひとつである。

彼の解説は、大きく二つに分かれている。
1. 技術は、人間を引き立て、現実のものを取り立てて発掘するように仕向ける
2. 「転向」でハイデガーはどのような歴史意識をつたえようとしたか

前の章では、「技術論」の特徴を次のように要約している。

『① 機械にたいして、たんに人間が主体性を、個人が自立性を取り戻すだけでは不十分で、同時にその人間が本来性を取り戻すのでなければならない。
 
② 特定の人間や階級が、姿のない匿名性、非人格性を通じて、多数の人間を自分たちの利潤追求の手段とし、監視し、支配するのではなくて、その支配者もまた徴発性という形のない仕組みの奴隷となっており、一つの時代の文化、社会、人間が全体として人間存在の真実を喪失している。
 
③ 人間が自己を喪失して機械の部品となり、技術が自然の持つ奥深い真理性を破壊するのは、西洋とその影響を受けた文化全体の根本にかかわる大きな歴史的運命のなかの出来事であり、何らかの作為で解決がつく問題ではない。』(pp.23)

 「転向」の中では、いかなる本質も、時間の経過とともに転換期が到来することを述べている。
『技術道具説、技術中立説とは、根底にある心性に無理解であることから生まれてくる即物的な個体主義である。私が私の自由意思でナイフを使う。ナイフは善悪両方に使うことができる。善悪の決定は私の意思にゆだねられている。これが、技術道具説、技術中立説の基本認識である。
 
ハイデガーはこれに対して、社会文化全体が「総とりたて体制」「収奪性」「徴発性」という潜在的な集団心性にもとづく、体制化された自己忘却を作り出しているのであって、その全体的な文脈は個別的な行為のなかに、実証可能な形で内在している物ではないということを指摘する。
(中略)

ところが、そこに同時に、逆転の可能性がひそんでいる。危機が危機として明らかになるとき、危機は転換期の到来をもたらすのである。自己欺瞞が自己欺瞞であることを露にすることによって、逆転が生ずる。』(pp.36)

それに続く、「3.徴発性は、歴史的なめぐりあわせのなかで、変化する宿命をもっている」のなかでは、

『存在そのものが変化するということは、世俗的な言い方をすれば、文化の体質が根本から変化することである。その中で生きる人間の存在の意味が歴史的な規模で変化することである。(中略)

このような変化全体が行われる場が、時間なのであって、この時間は歴史的な出来事の複雑な組み合わせが変わる世俗的な世界の時間であり、その中で物事の根本的な意味づけの枠組みもまた変わる。』(pp.40)
としている。
 
しかし、次の節では「技術の本質を人間が操作することはできない」と断言している。
つまり、技術の本質は存在そのものだというわけである。


・和辻哲郎の見方


 存在と時間が発表された丁度このころに、日本人哲学者の和辻哲郎がドイツに留学をしていた。そして、驚くことに彼はすぐそれに対する反論(というよりは、もっと広い視野からの追加の意見)を発表した。そして、和辻の論理は当時の哲学者に広く受け入れられた。そこにも、その場考学と似たような考えがある。
 
それは、和辻の著書の中でもっとも有名な「風土」の序文で述べられている。



「この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。」

「自分が風土性の問題を考え始めたのは1927年初夏、ベルリンにおいてハイデガーの「有と時間」を読んだときである。人の存在の構造を時間性として把握する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった。しかし時間性がかく主体的存在構造として活かされたときに、なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされて来ないのか。」

「そこに自分はハイデガーの仕事の限界を見たのである。」

「ハイデガーがそこに留まったのは彼のDaseinがあくまでも個人に過ぎなかったからである。彼は人間存在をただ人の存在と捕えた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。」

「ハイデガーにおいて十分具体的に現れて来ない歴史性も、かくして初めてその真相を露呈する。」
その場考学にとっては、なんとも小気味よい文章である。

・人⇒人間⇒空間的な広がりの場⇒その場⇒その場考学

 以上の経緯を経て、技術によって完全に支配された現代社会において、その場考学の進むべき方向が示されたように感じている。そして、その課題に対しては根本的エンジニアリングの手法で臨むことが良いのではないだろうか。

 
・「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その11)」

【Lesson11】試験用エンジンをいかに早く組み立てるか[1982]


いよいよ最初の共同設計の成果であるRJ500の組み立てが日英双方で始まった。初号機は勿論Rolls-Royce。2号機のIHI瑞穂工場でのスタートは約1ヶ月遅れの計画だったと思う。

途中で問題が起こった。FAN ROTOR MODULEでバランスが旨くとれないのだ。設計では,鳥や氷で頻繁に傷つけられるエンジンの最先端にあるFANやLPC Moduleだけの交換が、機体に取り付けたままで自由にできるように,小さなStub Shaft(Fan RotorとLP Shaftをつなぐ短い軸)にLPCサイズのDUMMY WEIGHTを付けてバランスをとることを要求している。これが,日英双方の現場でトラぶったのだ。

結局解決策を見つけたのは,瑞穂工場であった。問題解決の場面が設計と現場とのコラボレーションになると,圧倒的に日本チームが強い。
更に,計測ラインの取り付けでも同様で,当時のRRが最も恐れていた,2号機が先に運転場に運び込まれる事態となってしまった。結果は,RR NEWSの記事にあるとおりに,同じ週の数日違いでRRが面目を保った。めでたし,めでたしであった。(当時のRolls-Royce Newsは後日追加で添付します)

【この教訓の背景】


 このことは、「格差のないチームワークだけが複雑な問題を素早く解決できる」ということだと思う。
リーダーとメンバー、経験の差、年齢の差、出身母体の差など、格差の要因はいくらでもあるし、格差が全くないチームは不可能だ。要は、格差を感じさせないチームということだ。

日本では、設計と現場の間で格差を感じることはない。(このことは、私の長年の経験なのだが、そうではないという人もいる)しかし、欧米の会社での設計と現場の会話には、明らかに格差を感じることが多かった。勿論、このことは個人差によるのだが、文明論などを読んでいると、歴史的に奴隷制度があった国となかった国の差とも思えてくる。

メタエンジニアの眼(23)「レクサスとオリーブの木」

2017年03月04日 07時42分56秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「レクサスとオリーブの木」[2000] KMM3309

 訳者;トーマス・フリードマン  発行所;草思社  発行日;2000.2.25
 初回作成年月日;H29.3.3 最終改定日; 
 引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 
 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 グローバル化の世界を初めて包括的に捉えた名著だと思う。副題は「グローバリゼーションの正体」。上下2冊を粕谷図書館のリユース本で手に入れた。

 2000年は、日産が手放した航空宇宙部門を、新会社として立ち上げるべく、電通のチームと社名やワードマーク、夏冬用の作業衣や社用封筒のデザイン、通勤用のバスの配色などなど、3か月間ですべての準備を終わらせるべく、あくせくしていた時期だ。
 労働組合の支部も立ち上げたが、自動車労連と造船重機労連の文化の違はかなりのものだった。文化は、とんでもないところでも育つものなのだ。

 そんな中で、この書を読んだ覚えがよみがえる。当時は、何となくしっくりとしない印象だったが、今読み返すと「よくもここまで言い当てたものだ」と感心させられる。

 前回の「講座「文明と環境」第15巻「新たな文明の創造」編集者梅原 猛」とは、正反対で、日本が現代文明の最先端を追い続け、地中海諸国がオリーブの木に代表される、昔ながらの文化を保ち続けているという内容なので、比較も面白い。

「包括的に捉えた」の意味は、冒頭の次の言葉で代表される。

 『本書は、新しいグローバル化時代が20世紀末を支配する(冷戦システムの後を継ぐ)国際システムになった経緯を説明し、それが今、ほとんどすべての国の内政と外交を方向づけているその仕組みを検証しようという試みである。その意味では、冷戦後の世界を定義しようとしてきたあまたの著作群の末席に連なるものといっていい。

 このジャンルのなかで、最も広く読まれてきたのは、次の4冊だろう。ポール・ケネディー「大国の興亡」、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」、ロバート・D・カプランの多様な論文や著書、サミュエル・P・ハンチントンの「文明の衝突」。
この4冊には、それぞれ重要な真実が記されているものの、私の目から見ると、いずれも冷戦後の世界の全体像をつかみ損ねている。』(pp.I7)
 これに続けて、4冊に対する意見と理由を述べているのだが、なるほどと思わせるものがある。

 本論では、まずトヨタの最新工場を見学した後で、具体的な話が始まる。

 『わたしは世界最新の電車に乗って、時速270キロで快適な旅をしながら世界最古の地域に関する記事を読んでいた。そのとき、ある思いが頭をよぎった。きょう見学したばかりのレクサスの工場をつくり、今乗っているこの電車をつくった日本人は、ロボットを使って世界最高級の車を生産している。

 一方、ヘラルド・トリビューンの第3面のトップには、わたしがベイルートやエルサレムで長年いっしょに暮らした人々、よく知っている人々が、いまだにどのオリーブの木が誰のものかをめぐって争っているとある。ふいに、レクサスとオリーブの木は、冷戦後の時代にじつにぴったりの象徴ではないかと思った。どうやら、世界の国々の半分は冷戦を抜け出して、よりよいレクサスを作ろうと近代化路線をひた走り、グローバル化システムの中で成功するために躍起になって経済を合理化し、民営化を進めている。ところが、世界の残り半分―ときには、ひとつの国の半分、ひとりの個人の半分、ということもあるーは、いまだにオリーブの木の所有権をめぐって戦いを繰り返しているのだ。

 オリーブの木は大切だ。わたしたちをこの世界に根づかせ、錨を下ろさせ、アイデンティティーを与え、居場所を確保してくれるものすべて、つまり家族、共同体、部族、宗教、そしてとりわけ故郷と呼ばれる場所を象徴する。オリーブの木は第3者に手を差しのべ、知り合いになるために必要な信頼と安全な環境を与えるだけでなく、家族のぬくもり、自主独立の喜び、私的な儀式に漂う親密さと私的な関係を持つ懐の深さを与えてくれる。』(pp.58)
 
 ここではなんと、先の著書「文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う;安田喜憲著」の結論の言葉である、「著者は、東洋の文明の概念を、再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」と同じ言葉が、日本文化とは正反対の西洋におけるオリーブの木の文化として挙げられている。

『グロ-バルという新システムのリング上で、レクサスとオリーブの木がレスリングをしている(中略)。少しばかり経済的な効率を失っても、オリーブの木、つまり独自のアンデンティティにしがみ付いているほうがいい。レクサスとオリーブの木が健全なバランスを保っている例を、環境保護団体・・・。(中略)オリーブの木がレクサスを負かした例は、1998年の春、インドが・・。』(pp.61)というように、直近の様々な事例を紹介している。

それから、
 第8章「グローバリューション」、
 第9章「あなたの国は大丈夫か?」で上巻が終わる。
下巻では、
 第11章「持続可能なグローバル化」、
 第12章「勝者が全てを手に入れる」、
 第13章「グローバル化システムへの反動」、
 第14章「うねり、または反動に対する反動」、
 第15章「合理的な活況」、
 第16章「革命はアメリカから」、
 第17章「破滅に向かうシナリオ」とつづく。

まるで、トランプ大統領の演説を聞いた後、昨日書かれた内容のようだ。

 以上は、つくづく一流の米国ジャーナリストの才能を思わせる内容なのだが、下巻の最後に記された言葉は、?であった。しかし、これもいかにもアメリカ人が言いそうな言葉だった。

 『だが、持続可能なグローバル化のための政治学や地政学や経済地理学を正しく理解できたとしても、もうひとつの、ほとんど雲をつかむような一連の政策も、心に留めておかなくてはなるまい。それには、オリーブの木がわたしたちすべての人に必要だということを理解し、オリーブの木が必ず守られるような手段を講じなくてはならない。だから、わたしは本書をバベルの塔の話で終わらせたい。

 バベルの 塔の問題点は何だったのか? それは、グローバル推進者が現在について夢見ているもの ーすべての人が同じ言語を話し、同じ通貨を用い、同じ会計習慣に従う世界ではないのか? 聖書の時代に、世界の人々が協力し合ってバベルの塔を建てること ー本当に天国に届きそうな塔を建てることー を可能にしたものは、まさしく、人々の同一性だ。』(pp.264)

 この結論は、1960年代に書かれた、トインビーの「歴史の研究」の最終的には世界帝国に至るということと共通する。