生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングとLA設計(13) 第10話 大作の絵画と設計

2013年11月20日 20時16分01秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第10話 大作の絵画と設計

 私は、若いころから「設計技術者は大壁画を描く画伯と同じ」と言っていた覚えがある。デッサンで基礎を学び、様々な画法を試み、その後に漸く大きな物語を念頭に大作に挑む。その際には、全頭脳を使って、ひたすら全体最適を目指す。その姿が、設計技術者と一致しているように思えたからである。
このことは、メタエンジニアリングを考え始めてから一層強くなったように感じている。

 今日(11月20日)、本郷の東大構内にある伊藤国際学術センターで「デザイン・イノベーション・フォーラム2013」なるものを聴講した。広義の設計を対象に、期待学や認知科学、認知神経科学など、広い分野との融合を目指す試みで、メタエンジニアリングによる、「Design on Lberal Arts Engineering」との共通点が多いとの印象で、毎年聴くことにしている。メタエンジニアリングとして感じることは、設計には感性と理性の妥当なつり合いが必要で、「正しい設計」の為には、理性が感性に僅かでも勝らなければならない、ということなのだが。専門的な議論には、このような側面は出ることは無い。

工学部から法学部への通路         


東大図書館前の発掘現場

 会合の後でウオーキングを楽しみながら上野の山まで行き、東京都美術館で開催中の「ターナー展」を見た。ウイリアム・ターナーは英国で産業革命が始まった頃の画家で、その大部分の作品が収められているロンドンのテート美術館には何度も通った経験がある。中心からやや離れているので、いつも空いており、ゆっくりと大作を楽しむことができるし、前を流れるテムズ河のボートに乗れば、疲れた足を休めている間に、ロンドンの中心街の好きなところに行けることが魅力だった。

不忍池と池之端の高層マンション

http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=362&c=8
 しかし、今日改めてターナーの絵を眺めて、その中に設計の意図を強く感じた。彼の得意は大自然の風景なのだが、その大部分では古代ギリシャ・ローマに始まる歴史や、当時有名だった物語や詩がテーマになっている。そして、彼の一つの画面には、人間と小動物と自然と人工物が、本来不自然なテーマの中で、自然に収まっているのだ。これは、画面の高度な設計なのだろう。絵を描くことにのみ精進しても、このような絵を描くことはできないであろう。


ターナー展入口

 私の山小屋の近くに、平山郁夫シルクロード美術館がある。毎年12月の閑静期には、市民サービスがあり、その期間は無料で入場させてもらえるので、ゆっくりと楽しむことができる。シルクロード地帯が政情不安定で混乱していた時期には、その地方の住民がこぞって仏像などを安全な日本に持ち帰ってほしいと持ちより、今では膨大な美術品が収蔵されている。正倉院御物を思わせるものにも出会うことがある。その二階にある壁画室には、左右に長安からローマまでの道のりの大きな絵が十数枚並んでいる。右壁が昼間の隊商で、左壁は月夜の隊商がほぼ同じ形で描かれている。これらの絵も、まさしく優れた設計の元に描かれたものだと強く感じる。一方で、彼の広範囲な知見に関しては、有名である。



 いずれにせよ、設計技術者は広範囲のLberal Artsを、再び学び直さなければならないことを考えさせられた小春日和の一日であった。

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(1) はじめに 日本文化の文明化とは何か

2013年11月13日 15時27分25秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
はじめに 日本文化の文明化とは何か

平成23年3月に東日本大震災が起こった。私は、その時に日本橋のある高層ビルの中に居た。異常に長い地震がおさまった後に、帰宅を急いで地下鉄の駅に向かったが、勿論全線不通であり、そのまま地下道をとおって日本橋の三越に向かった。そこでなら安全に時間が過ごせると思ったからだ。それから大きな余震が起こり、その度に場内放送は、適切な指示を客と従業員に知らせていた。非常事態にあたっての準備がきちんとできているとの印象を受け、日本の優れた百貨店文化を感じた。


 
 東京大学の工学系教官が震災直後にワーキンググループを作り、それから3ヵ月後に緊急に学生その他に示した文書が出された。この様な事態に直面して改めて工学の在り方を纏めたものである。「震災後の工学は何をめざすのか」、東京大学大学院工学系研究科緊急工学ビジョン・ワーキンググループ、平成23 年5 月9 日発行(全27P)(註1) は、特に目新しいものではなかったが、その中で「社会への実装・普及」にまで言及しているところが、一歩進んでいるように読み取れた。しかし、その中の次のような記述に疑念が湧いた。
 「学問の領域が伝統的な一つの基盤工学のディシプリンに収まらずに、複数の学問領域が融合したり複合しあってできる新たな学問領域のことを意味します。そして、一度確立した学際領域や複合領域は自立して総合工学として発展していくものもあります。例えば、原子力工学は半世紀前に学際研究として誕生し、その研究対象であった原子力発電システムは巨大複雑系システムに発展し、原子力工学は学際化した巨大複雑システムの工学として進化してきました。私はこの文章を読んで、まず現在の学際とか連携とかに物足りなさを感じた。米国では、Converging Technologyと称して、イノベーションなど実社会に貢献を始めているのだが、日本の学際については、多くの学会で長期間叫ばれはているが、大きな成果が出たことはあまり聞かない。そんなときに、ある学際的な学会で高名なパネラーの一人が「私は自然科学者なので、社会科学者や人文科学者の言葉が良く分からない」との発言を聞いた。考えてみると、大学の工学部ではそのような教育は皆無であり、大学院ではなおさらのことだった。そして福島原発の事故から、前述の「原子力工学は半世紀前に学際研究として誕生し、その研究対象であった原子力発電システムは巨大複雑系システムに発展し、原子力工学は学際化した巨大複雑システムの工学として進化してきました」が、社会システム全体としての考え方の面で不十分であったことが明らかとなった。つまり、このことは総合工学として誕生したものが、いつの間にか社会的には総合ではなくなっていたことを意味している。

一方で、メタエンジニアリングは自然科学者である工学者や技術者が、その工学脳を用いて、社会科学や人文科学の領域にまで入り込んで「潜在する問題の発見」を第1段階とすることを明示している。そして、その問題に対しては、学際や連携から更に進んで,ひとつの個人、一つの組織などの統合化されたなかで積極的に新たな思考をはじめ、かつ纏めることを明示している。

 現代社会におけるものごとは全てが複雑化の傾向にある。そのなかにあってエンジニアリングは基本的な計画から詳細な設計に至るまで深くかかわりがあるケースが多い。それどころか、かつて20世紀最大のドイツの哲学者ハイデッガーが「技術論」で述べたように、更に大きな責任を背負っているのである。

「近い将来に、技術が全てを凌駕することになるであろう。何故なら、人間は常により良く生きることを望み、より少ない犠牲でより多くの利益を得ようとし続ける。これが実現できるのは、哲学や政治や宗教などではなく、技術である。世界中の良いものも、悪いものも全て技術が創り出すことになる。」 
21世紀は人類文明の危機であると云われ始めているが、文明の危機から救うものは何であろうか。前述の言葉を介せば、それもまた技術であろう。少なくとも、経済や政治や宗教のみで救えるものではない。すべてに、技術すなわちエンジニアリングが具体的、かつ主導的な役目を果たすことになるであろう。

文明は、複数の優れた文化の中から生まれてくると思われる。そこで、メタエンジニアリングという考え方から、優れた日本文化の文明化の糸口を探ってゆきたいと考えた。

昨年、「根本的エンジニアリングで考える日本文化の文明化」(全101頁)という小冊子をまとめた。目次は以下である。

序章 Meta-Engineering, 新しい工学への考え  9

第1章 文化の文明化とはなにか        18

 第1節 根本的エンジニアリングの二つの方向
 第2節 根本的エンジニアリングと文化の文明化
第3節 すぐれた日本文化の文明化と根本的エンジニアリング
第4節 文化に対する根本的エンジニアリングの役割
第5節 すぐれた日本文化の文明化
第6節 もう一つの方向
第7節 根本的エンジニアリングの価値

第2章 日本文化の文明化という課題 53

第1節 日本の品質文化について
第2節 日本のハイブリッド文化について
第3節 日本の省エネ文化について

第3章 文明の衰退と根本的エンジニアリング 64

第1節 ヴェネチアの衰退からの教え
 第2節 現代デジタル文化は文明の衰退か
 第3節 環境問題と根本的エンジニアリング
おわりに                    89
附録 その場考学的サイクル論  90      

これらに加筆・訂正を加えて、このカテゴリーを進めてゆこうと思う。

(註1)
この提言書は、その後大幅に追記をされて書籍として発行された。
「震災後の工学は何をめざすのか」東京大学大学院工学系研究科 編、内田老鶴圃(1972)

鴻雁来 雁が飛来し始める(寒露の初候で、10月8日から12日まで)季節を見て出かける方向を決めること

2013年11月04日 16時44分20秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
季節を見て出かける方向を決めること

季節を見計らって旅に出るのは、雁も人も変わりがない。人だって夏は北へ、冬は南への旅を好む。
ここ八ヶ岳南麓は、日本のほぼ中央に位置する。中央にも色々と定義があって、「日本中央」の碑が青森県で発見されたことは有名である。これは、当時の日本が千島列島全域をカバーしていたと考えれば妥当だとされているようだ。私の中央の定義は、ドライブをするのに好都合ということ。小淵沢インターからは、関東にも関西にも日本海側の新潟や福井方面にも快適なドライブを楽しむことができる。つまり、距離だけではなく快適なドライブができるということも、要素の一つになる。そのことは、周囲の別荘地や観光地に駐車している車のナンバーを見れば直ぐに分かることなのだ。
 ここでの生活も十年を越えたが、毎年1~3回は関西方面にドライブに出かけている。行楽シーズンの中央道は渋滞で有名だが、名古屋方面に向かうのは全く逆方向なので、いつも渋滞の列を横目で見ながらの運転になる。
 今年のこの季節の連休は、琵琶湖周辺を選んだ。かつて、琵琶湖から伊賀、奈良、高野山を抜けて、紀伊半島一周をしたときに見逃したところを尋ねる予定だ。それから、琵琶湖東岸は観音様の良い仏像が沢山あるので、目下制作中の聖観音像のお手本にもするつもりなのだ。


完成半ばの聖観音様

 出発は、いつも朝の6時と決めている。


朝日に輝く甲斐駒岳 
彦根までは、約300kmなので、サービスエリアごとに小休止をとっても、10時には最初の訪問地に到着する。丁度、開門時刻なので駐車場の心配もない。彦根城は前回たっぷりと堪能したので、今回の最初は長浜城。明治期の広告ビラの特別展示と石田三成の髑髏を元に想像された肖像画が興味を引いた。


彦根上の天主からの眺め

 今回のお目当ては渡岸寺の観音像。先ずは、その前に腹ごしらえと、門前の茶店に入った。先客は二人、名物を注文したら、なんと小型の観光バスでの出前だった。


琵琶湖定食、小エビと貝は琵琶湖産

観音像は、別棟に前立ち像などと共に安置されている。二重扉だが、中の照明は明るい。国宝を手が届きそうな距離からじっくりと見ることができるし、説明も丁寧で感激。お顔の特徴の細かい説明は、後ろの笑い顔が良かった。写真を示しての説明で大方を理解してから、ゆっくり仏像を廻りながら観察をする。すると能面と同じように、見る角度で表情が変わってしまう。
姉川の合戦のときには、付近の寺は浅井側だとして、信長に焼き払われたが、村人が仏像を埋めて守ったとか、その記念碑が建っている。


仏像の埋伏由来を書いた記念碑

ところで、渡岸寺という名前の寺は存在しない、場所の名前なのだ。十一面観音像は、白山信仰でこの地域に沢山あるそうだが、朝廷の庇護をうけ比叡山の援助が強かった。しかし、信長以降改宗して、真宗となり十一面観音は拝めなくなったので、別棟を建てて安置したそうだ。現在管理をしている、向源寺は、100mほど西へいったところにあった。


衣の細部のお手本は、入口の仁王像が代役

寺の横の資料館で場所を調べてもらった横山古墳へむかった。約3kmの畑の中の道だ。途中で野良仕事の老人に場所を尋ねると「この先の角を曲がって、しばらく行くと学校がある。その前に小さな神社があって、古墳はその中にある小さな盛り土だと思う。」と教えてくれた。


横山古墳の全景


この古墳は、最近の本で継体天皇の先祖のものとされている。ちなみに、継体天皇の両親の古墳は琵琶湖の西岸に、そのまた両親の古墳は東岸にあるとの説をその本は主張している。これで、次回の旅の目標地が決まったようだ。

翌日も連日の快晴・無風。ゆっくりと朝食をとって八時半に出発と思ったが、エレベータの中に近江鉄道の一日乗車券+竹生島往復船券という張り紙があった。船賃だけで¥3300なのに、鉄道乗り放題付きで¥2900は安い。駅まで行って、改札口で乗車船券を買った。勿論、鉄道に乗らなくても問題ないとのこと。早く戻ったら、多賀大社にでも行ってみよう。片道15分ほどの電車が楽しめる。(⇒実際は時間が無くなったのだが、鉄道も船も西部グループ傘下だった)


船は西部ライオンズの色に塗られていた


竹生島からの帰りの船上より

竹生島の国宝「渡り廊下」は、屋根のふき替え工事中。しかし、わざわざ特設の階段が用意されており、剥がされた屋根の地を見ることができた。




そして、屋根ふき用のひのきの皮と、釘と槌まで用意されていた。



剥がされた屋根の地と、屋根ふき用のひのきの皮と、釘と槌

MIHO美術館は、優れた作品が東京のいくつかの展覧会に出品されていたので、是非現地を見たかった。受付で聞くと、平均1時間半で廻れるとのことで、イヤホーンを借りてゆっくりと廻り始めた。二人供用になっているので、2m以上離れることは出来ないのだが、これは便利だった。特別展の甲賀の塗りものの北館だけで、1時間以上かかってしまった。これから本番という時に、閉館時間の案内放送があった。残念ながら古代中国の青銅器は数点だったが、エジプトのヒエログリフやガンダーラ仏などは、逸品だった。創始者のみほこさんの、「一流のものだけ見る価値がある」との言葉通りの収蔵物は、通常の博物館とは違って、正に逸品だけに限られていた。

博物館の喫茶室の屋根

受付と、美術館の間には、岡と谷があり、10人乗りのカートでトンネルと橋を抜ける。歩くこともできるが、皆カートを利用している。



料金所との間のカート上より

閉館時刻に追われて、美術館を出たが、駐車場の車は数台しか残っていなかった。帰りは、信楽に戻らずに、白州雅子の「隠れ里」の道を行くつもりだったが、こちらの県道が通行止めになっている。聞くと、先日の台風で数か所の土砂崩れで、長期間にわたって通行止めとのこと。来た道を帰ることにした。安土城址も含めて、この辺りの寺巡りは、今回もお預けとなってしまった。





楓蔦黄 もみじや蔦が黄葉する(霜降の末候で、11月2日から6日まで)

2013年11月03日 10時18分34秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
楓蔦黄 もみじや蔦が黄葉する(霜降の末候で、11月2日から6日まで)
我が家の廻りでは、


 八ヶ岳南麓の秋は短い。あちこちの収穫祭が終わると朝晩には冬の訪れを予感する。特に、晴れた朝は放射冷却で零度近くまで気温が下がってしまう。その恩恵のせいなのだろう、毎年見事な紅葉を楽しむことができる。ここ標高1130m付近は、丁度落葉樹と針葉樹が混在しており、おまけに多品種のモミジ、ななかまど、白樺などが自生しており、色とりどりの秋となる。

 東京の家からここまでは、ゆっくりと2時間半のドライブだが、中央道の他にも、少し遠回りになるのだが、東名経由、秩父経由、大菩薩経由、佐久経由などの多くの選択肢がある。今回は、紅葉を愛でることを目的に、佐久経由を選んだ。平日の早朝に環状8号線を北上して、練馬ICから関越道を下るルートは、むかし富岡工場に通った思い出が蘇る。朝6時の出発は、通勤渋滞を全く感じさせない快適なドライブだ。

 藤岡JCTから上信越道に入り、下仁田で高速を出る。未だ8時を廻ったばかりだったが、道の駅で下仁田ねぎを買えたのは嬉しい。東京のスーパーの下仁田ねぎは、あの独特の粘りを感じることは無いが、地元で調達したものは、先端を抑えると かすかに白い中味の弾力を感じるし、鍋に入れると、堅くて青い部分に独特の粘りが出て美味しい。

 ここから佐久へは国道254号の一本道だが、途中ちょっと旧道(上州姫街道)に入ると、「本宿」という街並みがあり、そこに「古月堂」という古い御菓子処の名物がある。


そのまんじゅうを、近くのお寺の駐車場で、門前の石の観音様と紅葉の山容を眺めながら楽しんだ。


 近くのお寺の駐車場で、おやつ。

この道は、交通量が少ないので、自由に駐車をしてシャッターを切ることができる。名物の荒船山もくっきりと見ることができた。

荒船山遠景

 

 佐久から国道141号線を少し走って、八千穂から八ヶ岳の中間を横断する国道299号線に入る。峠の標高は2000mを越えるので、色々な段階の紅葉を一気に見ることができる貴重なルートなのだ。

 登り始めて間もなく、工事中のコンクリートの柱の列があった。どうやら、上信越⇒中央道⇒東名と結ぶ、新高速道路の建設が進んでいるようだ。北と南の両端は既に完成したいるのだが、我が家の所属する北杜市では、まだルートが確定していない。


峠の東側は八千穂高原、西側は蓼科高原である。峠付近の茶店で、早い昼食をとった。


 ここからの浅間山の遠望は最高なのだが、今日は雲の間から立ち上る、白い煙でその存在を知るのみだった。

山菜づくしの、蕎麦、ご飯、みそ汁で昼食。




 麦草峠を越えると、景色は一変する。

道 のわきに、小さな展望台があった。登ってみると、南・中央・北アルプスが一望だった。
我が家の方向を見ると、左から北岳、甲斐駒ケ岳・千丈が岳の3つの頂上が、かすかに確認できた。この3つの山様は、それぞれ特徴があるので、どこからでも確認することができる。



 一日おいて、買い出しのついでに瑞牆山(みずがきやま、標高2,230m)の紅葉を見ることにした。ラジウム温泉で有名な増富温泉の先なのだが、30km足らずの広域農道の快適なドライブだ。

増富への道からの眺め

 温泉の直前にある「ますとみ湖」は、紅葉が丁度見ごろで、駐車場でキャンプを楽しんでいるグループが数台。未だ、9時前なので観光案内所が開いていない、そのまま山路に入った。

みずがき湖の紅葉


 目的地の瑞牆山登山口までは、渓流沿いの細い道が続くのだが、早朝なので出会う車は少ない。それでも、曲がりくねっていて先が見えないので、対向車に鉢合わせでバックすることも数回。


瑞牆山遠望、途中の道から山頂が望めるのは、ここだけだった

 やっと駐車場に近づいて、驚いた。100台分と言われる駐車場はおろか、その大分手前から路上駐車の列が続いている。

写真だけとって、即座にUターンをしたのだが、午後の混雑が大いに心配になってしまう。それにしても、このミニ登山ブ―ムには驚いた。


家に帰って、我が家のまわりの紅葉を観察した。今年は、夏の強い日差しで、どの色も鮮やか。やはり、我が家の紅葉が一番だった。 北には、今日も編笠山の頂上をくっきりと見ることができる。

我が家の、南と北側の紅葉。


瑞牆山(みずがきやま)標高2,230m
日本百名山のひとつ。「瑞牆」とは神社の周囲の玉垣のこと。全山が黒雲母花崗岩で形成され、頂上付近が風化の為の独特の景観で有名。深田久弥が、「森林から、まるでニョキニョキと岩が生えているような」と表現したとか。(写真は、デジカメの光学15倍望遠)