生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(43))「古代のインド―ヤマト文化圏(その10)」  

2017年08月29日 12時34分45秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(43)「古代のインド―ヤマト文化圏(その10)」  KMM614

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
         
TITLE: 書籍名; 「やがてインドの時代がはじまる」[2002] 著者;小島 卓
発行所;朝日新聞社     2002.9.25発行
初回作成年月日;H29.7.31 最終改定日;H29.8.29
引用先; 「古代のインド―ヤマト文化圏(その10)」



カバーの内容紹介には次の言葉がある。
『「21世紀は中国の時代」といわれているが、ハイテク業界ではむしろインドに注目が集まっている。90年代初頭からの経済自由化で着実に成長を実現。世界最大の民主主義国家、英語話者国家であり、ハイテク分野への集中投資により、ソフトウエアの輸出額は世界第2位、マイクロソフトのウインドウズからJRの改札機のプログラムまで、いまや世界のソフトウエア業界は、インド人なしではやっていけないというほどである。本書は6年にわたり「新インド」の中心であるバンガロールに滞在した日本人ジャーナリストが、インドの急速な発展の秘密、そして将来の展望を語る啓蒙の書である。』

 冒頭には、「レクサスとオリーブの木」を著した、T.フリードマンがニューヨークタイムス紙にエッセイとして、「インドとパキスタンの開戦を未然に防いだのは、パウエル将軍(Generalパウエル)ではなくて、GE(Generalエレクトリック)だった」、と寄稿した。これは、インドが戦争にまきこなれると、米国内の多くの企業がソフトウエアやデータ処理の面で重大な被害を被ることを意味している。

 インドのIT産業の実力を示す例としては、以下などのデータを示している。
『いまやシリコンバレーの新興企業のうち3割から5割は、インド系の技術者が主導している。また、世界のソフトウエア技術者の3割はインド人だ。
 しかも、今後もこの割合は、更に大きくなりそうだ。インド全国にある200の技術系大学が、年間約8万人の技術者を排出し続けているからだ。政府の見積もりでは、ソフト開発に限っても、インドのIT技術者の数は220万人に達する見込みだという。』(pp.4)

・質・量ともに日本を凌ぐインドの数学教育
 
かつての日本の児童教育は、ソロバンなどにより世界的にも優れていると言われていたが、今はその陰すらない。インドがなぜIT分野でこれほどの人材を育てられたかの根拠が示されている。

『一つの鍵は、徹底した数学重視の学校教育にある。例えば掛け算。日本の九九が九X九で終わるのにたいして、インドでは11,12歳の段階で、19X19、あるいは20X20まで答えを丸暗記させる。』
『暗記力とともに、インドの数学教育では証明能力を重視する。芳沢光雄・東京理科大学教授によれば、インドの数学教科書の特徴は、以下の3点に集約される。(「数学セミナー」2001年11月号)。

(1)証明と応用問題が充実しており、証明能力の向上にとりわけ配慮がなされている。
(2)対数計算を用いた応用問題(例題)が多い。
(3)最終学年の11,12年生(日本の高校程度にあたる)での数学教育のレベルがきわめて高い。』(pp.7)
 
アメリカでも、数学教育は大統領の主導のもとに、どんどん盛んになりつつあるが、日本は実学が優位になりつつあり、数学の重要性は掛け声だけで終わってしまったように感じられる。

 理由の一つとしては、古代からの思考方法の特殊性が述べられている。つまり、論理を重んじる姿勢で、それは「ゼロ」の発見から始まったというわけである。
『インドの古語であるサンスクリット語の文法とコンピューター言語が類似しており、そのためわれわれは論理的思考を好む、という説があります』(pp.8)
というわけで、おおもとの原因は昔からの日常会話から始まったともいえるので、そうなると日本は圧倒的に不利である。

・ITと宗教を輸出できる稀有な国

『「インドは21世紀の行方を知るためにきわめて大切な国だ」という。というのも、21世紀は①IT革命とともに、②人間の存在(宗教)をより深く知らねばならぬ世紀だから。この2点において、インドは、「バンガロールからITを、マンガロールから宗教を他国に輸出している、世界でも数少ない国」なのだという。(中略)
 「東洋には絶対悪や絶対善は存在しづらい。それは東洋が多神教の風土を育んできたからだ。一方西洋は一神教の世界。多神教の世界の初めに「行い」ありき、たいして一神教の世界は初めに「ことば」ありきだという。どちらが21世紀の世界で大切なのかは世界の現状を見ればあきらかであろう。』(pp.226)

さらに、『一神教と多神教では信者の聖地巡礼のスタイルも変わってくる。たとえばメッカやバチカンへの巡礼はあくまで唯一の聖地とその他の間の「往復」運動だが、インドや日本の聖地巡礼は多数の聖地を巡り歩く「円環」運動。こうした「聖地巡礼」の違いだけ見ても、21世紀を平和に生きる人類にとって、インドに代表される多神教の世界から学ぶべきことが多いというのだ。』(pp.228)
 
インド自身には、カースト制度を始めとする、独特の問題も多く存在するので、中国の専制政治に見られるような一直線の繁栄を望むことはできない。しかし、長期的に見ればインドの有利が理解できる内容だと考えられる。専制政治は何時かは破たんするが、国民に広く広がった基礎教育は、破たんすることはない。

「古代のインド―ヤマト文化圏」は、今回の「その10」で一旦終了です。ここでしめされたインドと古代日本との深層における関係は、大和朝廷成立以降に薄れ現在に至っているように思われます。私の勝手な想像ですが、10冊の著書を通して、次の世界文明の卵は、この関係の復活のように思えてきました。

現代日本人の「ハイブリッド思考」には、その可能性があるように思えます。しかし、それももう少し数学教育が今とは違った方向に進まないと実現はしないでしょう。とくに、デジタルかぶれで幾何学的な創造力が減退しているのが心配です。縄文土器には、当時の世界としては先進的な幾何学文様が多く記されています。
縄文時代に培われた超長期を見据える合理的な思想が、いつの間にか技術を細分化して超細部にこだわる文化に変化してしまった。日本の優れた文化の文明化のプロセスの一つとして、同じ東洋的思想を共有するインドの合理的思想を学びなおす必要があるように思われます。

メタエンジニアの眼シリーズ(42) 日本書紀と埴輪の謎

2017年08月15日 15時09分37秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(42)
          
TITLE:  日本書紀と埴輪の謎 KMB3366
書籍名;「日本書紀 全現代語訳」[1988] 
著者;宇治谷 猛  発行所;講談社 学術文庫 
発行日;1988.6.10


このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
北杜市考古資料館と長野県の井戸尻考古館、八ヶ岳美術館が3館合同で「ぐるぐる八ヶ岳、縄文時代の渦巻模様」という企画展と、山梨県立考古博物館の「考古博の土偶、縄文王国の土偶大集合」なる特別展を鑑賞した。そこでの縄文土器と土偶の形状は複雑で、なぜか埴輪の起源について調べようと思いたった。特に、中期に作られた中空土偶の製造技術には驚かされた。デザインのさることながら、厚肉と薄肉部分の接続が現代の鋳物でも割れるのではないかと思えるほどであった。

縄文時代には、とてつもない数の土器がつくられた。1万年以上つくり続けられた縄文土器と土偶である。古墳時代に作られた埴輪も素焼きのままなので、技術的につながりがあるのではと考えた。素焼きの土器としては、世界的にも優れた複雑な形状であっても、大型で薄肉の製造技術が完成されていた。その技術が引き継がれないわけはない。

また、技術的なつながりがあれば、製作上の思想にもつながりがあるはずである。しかし、技術的にも思想的にも、一切の繋がりは学会では認められていないことが分かった。

埴輪の起源は円筒埴輪と云われている。Wikipediaの概要には、次のように書かれている。
『埴輪の中で一番早く登場するのが円筒埴輪である。 その起源は、弥生時代後期に吉備地方で発達し葬送儀礼用の特殊な土器であると考えられている。 3世紀半ば過ぎに最初の前方後円墳といわれる箸墓古墳の葬送儀礼で使われた器台や壺(特殊器台・特殊壺)が初めである。』

また、種類と大きさについては、
『本埴輪は、もともと壺を載せる器台だったものが、垣根のように並べて配置されるため、下部が単純な土管(円筒)状になっており、突帯で数段に分けた胴部に円形や四角形の透かし孔を開けている。 種類は多くないが、普通円筒と朝顔形円筒がある。他には鰭付(ひれつき)円筒埴輪がある。これらの埴輪は円筒埴輪数本に対して朝顔形埴輪1本の割合で配置されるのが普通である。 大きさは、数十cmから1m程度のものが一番多いが、中には2m前後のものもある。』 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%AD%92%E5%9F%B4%E8%BC%AA

 円筒埴輪の由来については、過去には日本書紀の垂仁天皇の記述にある「殉死の代用」説がもっぱらだったが、昭和42年(1967)に二人の高名な考古学者が、「埴輪の起源」という論文を「考古学研究」という学会誌に発表して以来、日本書紀の記述は虚偽であり、墳墓上で行われた葬送儀礼に用いられ聖域を区画するという役割であったとされた。以降、「日本書紀の記述は虚偽」が定説となり、少なくとも学会における反論は無いようである。そこで、日本書紀の記述を辿ってみることにした。

いわゆる有名な数々の神話の後に、歴代天皇に関する記述が始まる。神武天皇に関する部分は、東征を含めて21ページ分ある。続く巻4は、綏靖天皇から開化天皇までの6代で、全部で10ページしかない。続く巻5は崇神天皇で13ページと記述が増える。巻6は垂仁天皇で18ページもあり、神武天皇と同等である。内容も非常に具体的だ。その記述内容が項目別に書かれている。 

① 即位、② 任那・新羅抗争のはじまり、③ 狭穂彦王の謀反、 ④ 角力の元祖、⑤ 鳥取の姓、 ⑥ 伊勢の祭祀、⑦ 野見宿祢と埴輪、⑧ 石上神宮、⑨ 天日槍と神宝、⑩ 田道間守の10項目だ。この内容は、ほぼすべて現代でも否定されていないのだが、なぜ、⑨項だけが虚偽と断定されるのであろうか。

その内容は、野見宿祢が天皇から、「殉死は長い間の習慣だが、良くないことなので従わなくてよい。殉死を止める方法を考えよ」、と云われて、
『使者を出して出雲国の土部(はにべ)百人をよんで土部たちを使い、埴土で人や馬やいろいろのものの形を造って、天皇に献上していうのに、「これから後、この土物(はに)を以って生きた人に替え、陵墓に立て後世の決まりとしましょう。」と。天皇は大いに喜ばれて、野見宿祢を詔して、「お前の便法はまことに我が意を得たものだ」といわれ、・・・』とある。

これらを名付けて埴輪といい、野見宿祢は本姓を改めさせて土部(はじの)臣(おみ)とした、十分に納得ができる内容なのだが、それ以前の殉死の習慣も含めて、その証拠がどの古墳からも見つからないということなのだ。

私は、初期の王が死んだ際には、多くの殉死が行われていたと思う。もしそのような習慣が存在したとするならば、突然それを止めるのは危険である。ある時に前述のことが起こり、「殉死」すなわち「人はしら」の代わりに円筒埴輪を並べた。最初は、ほぼ等身大の円筒埴輪の中に、本当に「殉死者」が入っているようにみせかけた可能性もあるように思う。「殉死」は立っているほうが良い。そして、中に殉死者が入っていないと信じられるようになってからは、殉死が正式にとりやめられて、ヒト型や動物などの形象埴輪が置かれる様になった。素人眼には、その方が自然の流れのように思えてしまう。
その場合には、土偶から円筒埴輪を経て、様々な形象埴輪に移った経緯が、思想的にもつながる。すなわち、素焼きの形状には、常に霊が宿るということである。

私は、垂仁記の10項目のうち、この1項だけが虚偽であるという説には、「野見宿祢は本姓を改めさせて土部(はじの)臣(おみ)となった」との記述も併せて、納得がいかない。

一方で、『埴輪円筒棺・埴輪棺という物がある。円筒埴輪を転用したものや埴輪製作の技法で作られた円筒状の物で、5~6世紀に類例が多く、古墳の主埋葬に対して従属的な存在だという。』との連絡が、友人の古代史の専門家(あんたの説は、いい加減だと大いに怒られています)から知らされた。

いずれにせよ、土偶から埴輪への技術伝承があったということだけは確かなようなので、技術者としてはそれだけで満足がゆく。
日本書紀の記述については、古い部分の内容についての虚偽説がもっぱらなのだが、成立の意図はともかくも、個々の逸話について、なぜそのようなストーリーにしたのかの研究は、それらの逸話の中身の複雑性と関連性において、まだ奥が深いように思う。政治や政権の歴史ではなく、日本固有の縄文文明の発展という視点で見てゆくと、面白味が増してくる。


その場考学のすすめ(15) 原価企画と安全設計の関係

2017年08月14日 10時31分39秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(15)    H29.8.14投稿     

TITLE:原価企画と安全設計の関係

先月、痛ましい事故が発生した。宮城県で、溜池に姉弟が転落して死亡したニュースだ。
www3.nhk.or.jp/news/html/20170727/k10011076471000.html から引用すると、

『・ため池に姉弟が転落し小1の弟が死亡 宮城  7月27日 14時56分
27日午前、宮城県大崎市の農業用のため池に、祖母の家に遊びに来ていた小学生のきょうだい2人が転落し、このうち6歳の弟が死亡しました。27日午前9時ごろ、宮城県大崎市松山須摩屋で「ため池に釣りに行った子どもが落ちた」と親族から消防に通報がありました。

警察によりますと、ため池に落ちたのは美里町北浦の小学1年生、高橋理緒くん(6)と2年生の8歳の姉で、理緒くんは病院に運ばれましたが、およそ2時間半後に死亡しました。(中略)現場のため池は、大崎市と土地改良区が管理する、周辺の水田に水を供給するための貯水池で、関係者以外が立ち入らないよう1メートル余りのフェンスで囲まれているということです。警察は、きょうだいが誤って池に転落したと見て詳しい状況を調べています。』

夏場になると、必ずと言ってよいほどの事故だった。しかし、今回は随分と違った。記事を調べてゆくと、次のことが分かった。
 それは、数年前に、同じ場所でその兄弟の姉が、同様な事故で亡くなっていたことだった。更に、これらの事故とは別に、過去に起こった溜池での児童の死亡事故に関する裁判として、こんな記事があった。

『安全対策を取らなかったためだとして、遺族が県や市、管理者の地元の土地改良区などに約3千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、高松地裁は24日、土地改良区に限り約1115万円の支払いを命じた。
 判決などによると、池まで上るために設置されている階段の入り口には鍵付きの門があったが、門の横を通り抜けて階段に入れる状態だった。森実将人裁判長は判決理由で「5歳児であれば容易に上れる構造だった」と指摘。「麻弥ちゃんの事故で幼児が転落する危険性は明らかになっていたのに、安全対策が不十分だった」と述べた。』
 
つまり、事故の原因は、溜池に近づけないようにする設備の管理が不十分であった、ということなのだ。損害賠償の裁判ならば、これで仕方がないと思うのだが、どうもおかしい。本当の安全の確保とはかけ離れていると、考えてしまう。

 27日の事故に関する、実証見分の様子がTV映像で流れた。当該溜池に大人が斜面からずるずると溜池に腹ばいで入っていった。首までつかると、その大人は自力で岸に上がることができなかった。斜面が急で、水面下はぬるぬるしている。水面上にも下にもつかまるところはなにもない。

 こんな設計が、通常の溜池の設計だと云う。「コンクリートで、かなりの角度で一定の斜面をつくる」ただそれだけのことだ。斜面は平らで何の凹凸もない。これが、通常の設計であり、それに基づいて見積もりがなされて、予算が執行される。一体、だれがどの時点で、「万一、人が落ちた時に、容易に這い上がれるように、斜面に凹凸を付けよう」と決めるのであろうか。
 
 概算予算が決められて、入札のための設計が行われコストが算出される。この段階ではもはや遅すぎる。競争入札のために、できるだけコストを切り詰めるためだ。私は、思考範囲を広げる決定は、当初の企画段階にあると思っている。現代の原価企画は、一旦具体的な作業に入ると、ひたすら余分なコストを切るために用いられており、安全のためにコストを増やすという発想は難しい。そこで考えられたのが、「メタエンジニアリング思考による新・原価企画」で、企画段階での思考範囲を人文科学分野に広げるということであった。

設計が、その中身をどこまで深く考えるかは、原価企画で決まる、と「新・原価企画」の中で述べた。そして、当初の見積もりの中身を決定する際の、思考の範囲を「専門分野から、人文科学的な分野へ広げなければ、長期間使用中に不具合が必ず起きる」とも述べた。また、再発防止の検討段階については、「不慮の事故が起きた際の再発防止対策は、大多数の場合に、設計にまでさかのぼることはない」とも述べた。(拙著;メタエンジニアリングによる新・原価企画 [2017] 日本経済大学大学院 メタエンジニアリング研究所)

新たなことやモノを始める場合に、長期的に使われて安全であるかどうかを決める「その場」は、「計画段階の原価企画」だと思う。その後の設計は、原価企画の範囲内でしか行われない。そうでなければ、採算が成り立たないからである。

八ヶ岳の24節季72候 涼風至(H29)「土偶の魅力」 

2017年08月12日 09時08分00秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳の24節季72候
涼風至(H29)土偶の魅力 (立秋の初候で、8月7日から12日まで)

この時期、東京などでは猛暑が続くのだが、ここ八ヶ岳南麓では、朝晩には涼風を感じる。ヒグラシの声があちこちから聞こえればなおさらである。入道雲に代わって、秋空らしい雲も時々現れる。

都会での美術展はもっぱら秋に集中するのだが、この辺りの秋は収穫祭で忙しい。毎週末に数か所で行われるので、山梨と長野県の県境に近いここからは、どこへ行くかを迷ってしまうことも度々である。そこで、夏の時期に多くの博物館や美術館で特別展が催される。

今年は、北杜市考古資料館と長野県の井戸尻考古館、八ヶ岳美術館が3館合同で「ぐるぐる八ヶ岳、縄文時代の渦巻模様」という企画展だ。渦巻模様は、縄文土器が有名で「神」とか「蛇」を表していると云われるが、多くの土偶にも描かれている。最も有名なのは、国宝の縄文のビーナスの頭頂部だろう。また、山梨県立考古博物館では、「考古博の土偶、縄文王国の土偶大集合」なる企画展が催されている。そこで、涼をとるためも兼ねて、ここと北杜市考古資料館を訪ねた。


先ずは、北杜市考古資料館
数年前に大幅な模様替えをして有料になってからは、初めての入場だ。縄文時代から戦国末期までの地方史が良く分かる。



先ずは、縄文土器の渦巻き模様。蛇の形が明確なものもある。大きな土器を目の前にすると、縄文自体が蛇を表すとの説も納得がゆく。
火炎土器の前進とも思える土器も、渦巻だらけだ。





しかし、今回の目的は土偶にある。当館発行の「北杜の土偶」(H27)によれば、市内で土偶が出土した遺跡は80か所以上で、総数は1000個に上るそうだ。しかも、縄文前期から、中期・後期・晩期のすべてが揃っている。
しかし、我が家から最も近い「金生遺跡」の出土物は見当たらなかった。そこは、大規模な集落跡と配石遺構が発見されて、一部は掘り出されたままの公園になっている。



そこで、山梨県立考古博物館にも出かけることにした。甲府市内は暑い日で、人影は皆無だった。




入り口から、特徴ある土偶が並んでいた。




その中に、お目当ての金生遺跡出土の土偶があった。「ちゅうたくん」という名前まで記されている。
お腹には、どうどうとした渦巻が描かれていた。



金生遺跡だけでも、233個の土偶が見つかって居るのだが、これだけが中空で、しかも完全な形で出土したとある。多くの土偶に囲まれてると、色々な空想が浮かんでくるのだが、そのことは別途「その場考学との徘徊(24)」で考えてみることにする。

八ヶ岳南麓の24節季72候 土潤溽暑「ブルーベリーを囲う網に蛇が絡まった」

2017年08月05日 15時34分40秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
土潤溽暑 (大暑の次候で、7月29日から8月2日まで)

ブルーベリーを囲う網に蛇が絡まった

「つちうるおうてむしあつし」と読まれている。土に水分がたっぷりと含まれ、それが熱気となって空気中に上がり、人間どころか植物も汗をかくと云われる。東京や京都などの大都市の中の蒸し暑さもあるが、ここ標高1130mの林の中では、強い紫外線に照りつけられる濃い緑が発する蒸し暑さになる。足元には、雑草がびっしりと生え、草むしりが追いつくことはない。その中を、ヘビが動き出したようだ。
 
 昨年のブルーベリーは大豊作で、7月5日から10月23日までの間に、12本の木から23kgが収穫された。ジャムの瓶は64個。しかし、今年は調子が悪い。多くの実が、小さいまま黒ずんでしまった。稲作もそうだが、実が入る時期の悪天候はいただけない。今日までの収穫は、4本の木からの400グラムのみ。しかし、まだ大きなラビットアイの4本の収穫が1週間後に始まるので、それからの楽しみが残っている。

12本のブルーベリーの木、狭い庭なので、お互いの枝が絡みあってしまった。


 
 8月2日に4本目の収穫が始まった。東北の角にある、一番日当たりが悪い場所の木だ。何となく下を見ると、一匹の蛇が絡まっていた。随分と長い蛇で、網に複雑に絡み合っていて、身動きがとれないようだ。近寄っても、ピクリとも動かずに、生きているのか死んでいるのか定かでない。丁度、「やまかがし」の事故のニュースの後だったので、そのままほおておくことにした。二日たっても一は全く変わっていない。「気持ちが悪いから、早くとって捨ててきて」と奥さんが言うのだが、もう少し様子を観ることにした。
 



 今朝(5日)、頭の位置が変わっていた。網の外に向かって真っすぐに伸びている。明らかに生きている。蛇は冬眠もするので、数日間飲まず食わずでも平気なのだろう。もう数日間、様子を観ることにした。
全長は、結構長いようだが、網に絡まっていて良く分からない。




ヘビの上のほうには「かみきり」がのんびりと日向ぼっこ中。