メタエンジニアの眼シリーズ(149) TITLE: ネクスト・ソサエティー
「ネクスト・ソサエティー」 KMB4137
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。
『』内は,著書からの引用部分です。
書籍名;「ネクスト・ソサエティー」 [2002]
著者;P.F.ドラッカー 発行所;ダイヤモンド社
発行日;2002.5.23
初回作成日;R1.12.11 最終改定日;R1.
副題は「歴史が見たことのない未来が始まる」で、彼の円熟期の著作。今読み返しても、すべてのコトが当て嵌まってしまう。まさに、経済よりも社会の動きに注目すべきことが良くわかる。「ビジネス界に最も影響力のある思想家」の称号は20年後でも変わらない。
「はじめに」の前に「日本の読者へ」の文章がある。このころの日本は、停滞の真っただ中で、よほど気になったのだろう。先ずはイノベーションの話から始まる。
『イノベーションとい言葉をよく耳にする。ほとんどの人にとって、それは技術的な革新のことである。ところが今日もっとも求められているイノベーション、特に日本において求められているものは社会的な革新である。その典型のーつが、いかにして雇用と所得を確保しつつ同時に、転換期に、不可欠の労働力市場の流動性を確保するかという問題である。』(pp.ⅱ)
確かに、現在日本でも必要なイノベーションは、技術的なイノベーションではなく、先ずは社会的なイノベーションと思う。
そして、その後すぐに日本の製造業の在り方について言及する。
『さらには、製造業における雇用の安定に社会の基盤を置いてきた国として、雇用の源泉としての製造業の地位の変化という世界的な流れに、いかに対処するかという問題である。日本では、いまなお労働力人口の四分の―が製造業で働いている。この国が競争力を維持していくためには、2010年までにこれが八分のーないしは10分の1になっていなければならない。 すでにアメリカでは、一九六〇年に三五%だったものが二〇〇〇年には一四%になっている。しかもアメリカは、この四〇年の間に、生産性のほうは三倍に伸ばしているのである。』(pp.ⅱ)
この目標は、2010年はおろか、2030年でも達成は難しい。これができないと、先進国からの没落は止まらないのだろう。生産性の停滞は、高等教育の在り方の問題と解かれている。
日本の教育システムの改革の遅れについても断言をしている。社会要請にあった実学が不足し、社会に出ても生産性を挙げることに役立っていないと云いたいのであろう。
『日本はまた、これまでの教育システムを、いま新たに生まれつつある雇用機会、新技術、新市場にいかに適合させていくかという難題にも直而している。
そして何よりも知識テクノロジストという新しい労働力をいかに生産的なものにするかという挑戦がある。』(pp.ⅱ)
これらの挑戦は、20年近く経過した今でも、まだいくらも達成されていない。
「はじめに」では、この書の目的を次のように明示している。
『本書が言わんとすることは、一つひとつの組織、一人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたったということである。
一九五〇年から九〇年代までは、社会は与件として扱ってよかった。大きぐ変化しいたのは経済と技術のほうだった。社会は安定していた。もちろん、これからも経済と技術は変化していく。事実、本書の冒頭、第1部の「迫り来るネクスト・ソサエティ」では、今後数多くの新技術が生まれ、しかもその多くがITと関係のないものにまで拡がるであろうことを論じている。しかし、それら経済と技術の変化を好機とするためにも、次の社会たるネクスト・ソサエティの様相を理解し、自らの戦略の基盤とすることが不可欠である。』(pp.ⅵ-ⅶ)
社会のパラダイムの変化について、3つを指摘している。第1は、知識が主たる生産手段になる、いわゆる知価社会への転換。第2は、正社員ではなく、パートタイム、臨時社員、契約社員が半分以上になるであろう。そして、第3は以下のように記している。
『第三に、もともと取引コストはそれほど高いものではなかった。すべてを内製したフオード社は、やがてマネジメント不能に陥った。今日では、すべてを傘下に入れるという考はそのものが無効になっている。
一つの原因は、企業活動に必要とされる知識が高度化し、専門化したためだった。内部で維持するには費用がかかりすぎるものとなった。しかも、知識は常時使わなければ劣化する。それゆえ、時折の仕事を内部で行なっていたのでは成果をあげられなくなる。
もうーつの原因は、コミュニケーション・コストが軽視しうるほど安くなったためだった。それはIT革命以前の、ごく普通のビジネス能力の拡がりによるものだった。』(pp.41)
第3章は、「大事なのは社会だ」と題して、日本の経済政策や産業政策についての歴史を語っている。官僚が問題を先送りすると、経済成長は遅くなるが、社会は安定的に変わってゆく。一方で、早々と行動を起こすと、経済は思ったほど改善されずに、社会的な混乱を引き起こす結果になる、ということ。日本の官僚機構をほめているのか、けなしているのか微妙な感覚になっている。
先送りの成功例は、以下のようにある。
『日本の官僚は問題解決への圧力に最後まで抵抗し成功した。彼らといえども、非生産的な農業人口が経済成長にとって足枷であり、生産しないことにまで補助金を払うことは、ぎりぎりの生活をしている都市生活者に犠牲を強いることになることは認めていた。しかし、離農を促したり米作からの転換を強いるならば、深刻な社会的混乱を招きかねなかった。そこで何もしないことだけが賢明な道であるとし、事実、何もしなかった。
経済的には、日本の農業政策は失敗だった。今日、日本の農業は先進国のなかで最低水準にある。 残った農民に膨大な補助金を注ぎ込みながら、かつてない割合で食料を輸人している。その輸入は先進国のなかで最大である。しかし、社会的には何もしないことが成功だった。日本はいかなる社会的混乱ももたらすことなく、いずれの先進国よりも多くの農業人口を都市に吸収した。』(pp.259)
かたや、行動の失敗例については、以下のようにある。
『日本は一九八〇年代において、他の国ならば不況とはみなされないような程度の景気と雇用の減速を経験した。そこへ変動相場制移行によるドルの下落が重なり、輸出依存産業がパニックに陥った。官僚は圧力に抗しきれず、欧米流の行動をとった。景気回復のために予算を投入した。しかし結果は惨憎たるものだった。先進国では最大規模の財政赤字を出した。株式市場は暴騰し株価収益率は五〇倍以上になった。都市部の地価はさらに上昇した。借り手不足の銀行は懸かれたように投機家に融資に融資した。』(pp.260-261)
そして、すぐにバブルははじけてしまった、というわけである。
この日本の官僚機構システムは現在もそのまま続いている。原因は、それに代わるものを決して育てようとしないためだと、後の章で結んでいる。
「ネクスト・ソサエティー」 KMB4137
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。
『』内は,著書からの引用部分です。
書籍名;「ネクスト・ソサエティー」 [2002]
著者;P.F.ドラッカー 発行所;ダイヤモンド社
発行日;2002.5.23
初回作成日;R1.12.11 最終改定日;R1.
副題は「歴史が見たことのない未来が始まる」で、彼の円熟期の著作。今読み返しても、すべてのコトが当て嵌まってしまう。まさに、経済よりも社会の動きに注目すべきことが良くわかる。「ビジネス界に最も影響力のある思想家」の称号は20年後でも変わらない。
「はじめに」の前に「日本の読者へ」の文章がある。このころの日本は、停滞の真っただ中で、よほど気になったのだろう。先ずはイノベーションの話から始まる。
『イノベーションとい言葉をよく耳にする。ほとんどの人にとって、それは技術的な革新のことである。ところが今日もっとも求められているイノベーション、特に日本において求められているものは社会的な革新である。その典型のーつが、いかにして雇用と所得を確保しつつ同時に、転換期に、不可欠の労働力市場の流動性を確保するかという問題である。』(pp.ⅱ)
確かに、現在日本でも必要なイノベーションは、技術的なイノベーションではなく、先ずは社会的なイノベーションと思う。
そして、その後すぐに日本の製造業の在り方について言及する。
『さらには、製造業における雇用の安定に社会の基盤を置いてきた国として、雇用の源泉としての製造業の地位の変化という世界的な流れに、いかに対処するかという問題である。日本では、いまなお労働力人口の四分の―が製造業で働いている。この国が競争力を維持していくためには、2010年までにこれが八分のーないしは10分の1になっていなければならない。 すでにアメリカでは、一九六〇年に三五%だったものが二〇〇〇年には一四%になっている。しかもアメリカは、この四〇年の間に、生産性のほうは三倍に伸ばしているのである。』(pp.ⅱ)
この目標は、2010年はおろか、2030年でも達成は難しい。これができないと、先進国からの没落は止まらないのだろう。生産性の停滞は、高等教育の在り方の問題と解かれている。
日本の教育システムの改革の遅れについても断言をしている。社会要請にあった実学が不足し、社会に出ても生産性を挙げることに役立っていないと云いたいのであろう。
『日本はまた、これまでの教育システムを、いま新たに生まれつつある雇用機会、新技術、新市場にいかに適合させていくかという難題にも直而している。
そして何よりも知識テクノロジストという新しい労働力をいかに生産的なものにするかという挑戦がある。』(pp.ⅱ)
これらの挑戦は、20年近く経過した今でも、まだいくらも達成されていない。
「はじめに」では、この書の目的を次のように明示している。
『本書が言わんとすることは、一つひとつの組織、一人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたったということである。
一九五〇年から九〇年代までは、社会は与件として扱ってよかった。大きぐ変化しいたのは経済と技術のほうだった。社会は安定していた。もちろん、これからも経済と技術は変化していく。事実、本書の冒頭、第1部の「迫り来るネクスト・ソサエティ」では、今後数多くの新技術が生まれ、しかもその多くがITと関係のないものにまで拡がるであろうことを論じている。しかし、それら経済と技術の変化を好機とするためにも、次の社会たるネクスト・ソサエティの様相を理解し、自らの戦略の基盤とすることが不可欠である。』(pp.ⅵ-ⅶ)
社会のパラダイムの変化について、3つを指摘している。第1は、知識が主たる生産手段になる、いわゆる知価社会への転換。第2は、正社員ではなく、パートタイム、臨時社員、契約社員が半分以上になるであろう。そして、第3は以下のように記している。
『第三に、もともと取引コストはそれほど高いものではなかった。すべてを内製したフオード社は、やがてマネジメント不能に陥った。今日では、すべてを傘下に入れるという考はそのものが無効になっている。
一つの原因は、企業活動に必要とされる知識が高度化し、専門化したためだった。内部で維持するには費用がかかりすぎるものとなった。しかも、知識は常時使わなければ劣化する。それゆえ、時折の仕事を内部で行なっていたのでは成果をあげられなくなる。
もうーつの原因は、コミュニケーション・コストが軽視しうるほど安くなったためだった。それはIT革命以前の、ごく普通のビジネス能力の拡がりによるものだった。』(pp.41)
第3章は、「大事なのは社会だ」と題して、日本の経済政策や産業政策についての歴史を語っている。官僚が問題を先送りすると、経済成長は遅くなるが、社会は安定的に変わってゆく。一方で、早々と行動を起こすと、経済は思ったほど改善されずに、社会的な混乱を引き起こす結果になる、ということ。日本の官僚機構をほめているのか、けなしているのか微妙な感覚になっている。
先送りの成功例は、以下のようにある。
『日本の官僚は問題解決への圧力に最後まで抵抗し成功した。彼らといえども、非生産的な農業人口が経済成長にとって足枷であり、生産しないことにまで補助金を払うことは、ぎりぎりの生活をしている都市生活者に犠牲を強いることになることは認めていた。しかし、離農を促したり米作からの転換を強いるならば、深刻な社会的混乱を招きかねなかった。そこで何もしないことだけが賢明な道であるとし、事実、何もしなかった。
経済的には、日本の農業政策は失敗だった。今日、日本の農業は先進国のなかで最低水準にある。 残った農民に膨大な補助金を注ぎ込みながら、かつてない割合で食料を輸人している。その輸入は先進国のなかで最大である。しかし、社会的には何もしないことが成功だった。日本はいかなる社会的混乱ももたらすことなく、いずれの先進国よりも多くの農業人口を都市に吸収した。』(pp.259)
かたや、行動の失敗例については、以下のようにある。
『日本は一九八〇年代において、他の国ならば不況とはみなされないような程度の景気と雇用の減速を経験した。そこへ変動相場制移行によるドルの下落が重なり、輸出依存産業がパニックに陥った。官僚は圧力に抗しきれず、欧米流の行動をとった。景気回復のために予算を投入した。しかし結果は惨憎たるものだった。先進国では最大規模の財政赤字を出した。株式市場は暴騰し株価収益率は五〇倍以上になった。都市部の地価はさらに上昇した。借り手不足の銀行は懸かれたように投機家に融資に融資した。』(pp.260-261)
そして、すぐにバブルははじけてしまった、というわけである。
この日本の官僚機構システムは現在もそのまま続いている。原因は、それに代わるものを決して育てようとしないためだと、後の章で結んでいる。