生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(111) 「科学/技術の哲学」

2019年02月24日 07時41分24秒 | メタエンジニアの眼
 メタエンジニアの眼シリーズ(111) TITLE: 「科学/技術の哲学」

書籍名;「科学/技術の哲学」 [2008] 
著者;古東哲明 発行所;岩波書店
本の所在;中央図書館
発行日;2008.9.5
初回作成年月日;H31.2.22 最終改定日;H31.2.27 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing


このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 この書は、岩波講座「哲学」の第9巻で、9人が執筆をしている。その中で、ハイデガーの技術論については、私と同じ考え方で記されている。すなわち、第2次世界大戦直後に、純粋な哲学者(彼の代表作は「存在と時間」)である彼が、何度も「技術論」を発表し、講演を繰り返したのか、その理由が分かってくる。つまり、大戦中に爆撃のためのロケットや航空機、原爆などが開発された。人類は資金と人材さえあれば、途方もない製品を開発できるという知恵を獲得してしまった。そして、一旦獲得したその能力は、平和社会になっても、もはや捨てることはできないというわけである。それらの部分を中心に引用する。

 その前に、現代の哲学者の悩みと考え方が理解できる部分があったので、「はしがき」から少し。
 
『哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、二〇世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。かつて「心」や「精神」の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない。また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知のとおりであろう。そうした趨勢に呼応して、哲学内部においても自然主義的主張が力を増しており、哲学と科学との境界が不分明になるとともに、「哲学の終鴛」さえ声高に語られるまでになっている。』(pp.ⅵ)

 さらに、西欧的な思考法に対する反省としても書かれている。

『政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流は、文化や思想の領域にまで及ぼうとしている。そうしたなかにあって、アジア地域やイスラーム圏からの眼差しを哲学の自己認識の鏡として取り込むことは、今日避けては通れない課題ではないだろうか。哲学はその誕生の経緯から、 著しくヨーロッパに偏った歴史を形成しており、現在でも哲学史といえば西洋哲学史を意味している。しかし、二〇世紀末に登場したオリエンタリズムへの批判的考察やポストコロニアルな視点からする言説の見直しは、哲学的思考における西欧中心主義の根深さや弊害を自日の下に晒してきた。』(pp.ⅶ)

 また、細分化された科学に対する哲学の在り方については、「展望」のなかで、次のようにある。
 
『しかしながら、分化した専門研究領城としての「科学」の誕生と、それに付随した科学の哲学の興隆というこの歴史が、さらにもう一度非常に大きな変動を経験する時が来た。それは科学が科学として自存せず、「科学/技術」、という新たなもの、科学とは別種なハイブリッドな知的/実践的領域へと変貌した時代の到来である。この変化は二〇世紀の後半にきわめて顕著になった変化、変換、変貌である。この変貌にともなって、科学の哲学もまた変化した、あるいは変化を余儀なくされたのである。』(pp.6)
 私は、「科学の哲学」よりも、技術の実行段階での哲学が、より重要だと考えている。

 しかしここでは、「技術の哲学」については、

 『これまで一般に人間の技術の歴史において最大の革命とされてきたのは、手工業的なレベルでの技術の発展から、産業革命時代における大規模なエネルギーの解放と連動した技術の発達への転換であった。 ―九世紀に始まった、さまざまな種類のエンジンを搭載した大規模な動力機械の導入は、たしかに人間の社会を根本から作り替えてしまう、大規模な革新であった。それはアルキメデス以来の、人間の身体的な作業の延長上にある技術から、人間の身体のレベルを超越した作業の次元へと、活動の範囲を圧倒的に拡大した。
この産業革命と結びついた、動力エネルギーの解放という意味での技術の進歩は、ちょうど科学がさまざまな分野へと分化する時代に並行的に生じた変革であるともいえる。その限りで、この技術の革新は、「利学の哲学」を生むのと同じような意朱で、「技術の哲学」を要請したともいえる。』(pp.8)

 これでのやはり、哲学は科学を尊び、テクノロジーを軽く見ているように感じられる。そこで、ハイデガーの登場になる。
 さて、本論のハイデガーについては、「科学技術時代の本質構造」と題して、

 『人類が農耕文明をおくるようになって五〇〇〇年。現代文明(科学技術時代)はそのさらに二〇分の一。人類史五〇〇万年のうちの、ほんの〇・〇〇五。ハーセントにすぎない。その、じつに特異で変則的な近代科学技術(以下、テクノロジーとも表記)の「本質」(哲学用語の「超越論的制約」と同義)を、ハイデガーはゲシュテルと名づける。「ゲシュテル」とはドイツ語で、足場やフレームを意味する日常語だが、さらにある独特のニュアンスを宿す。たとえば召集令状のことを、ゲシコテルンクス・ベフェールという。戦場へ駆り出し、殺教に追い立てる「強制的フレーム」にあって可能になる出頭命令書のことである。そんな召集令状とひびきあう《追い立て、駆り立て、微用する強制的なしくみ、ないし根源力》のことを、ハィデガーはゲシュテルと名づけ、それをテクノロジーの本質という。
科学技術の主体は人間。人間が意志して制作し操作する便利な道具。そうふだん素朴にぼくたちは思いこんでいるが、ちがう。科学技術もまた、ソシュールが暴いた言語の本質や、フロイトが分析した意識の深層などと同様に、その本性へ分け入ってみると、人間が主導権をにぎって操作する〈道具〉などというのどかな素顔をしていない。むしろ人間的自由や主体的行動を背後で支配する超人為的構造があって、それが具現し使役している〈媒体〉―しかも面白く便利という魅力的顔つきをしたメディア―にすぎない。』(pp.158)
 そうであれば、やはり哲学は、テクノロジーにこそ視点を移すべきではないだろうか。

 そこで、「テクノロジー」の正体については、

『テクノロジーを、みずからが現れるための媒体としているこの超人為的構造、あるいは現代世界の暗黙裡の時代構造。それを、ハイデガーはゲシュテルと呼ぶのである。そしでそんなゲシュテルが君臨し、それにすっかり貫通され 、仕組まれ、追い立てられて動く現代世界のありさまを「惑星帝国主義」と名づけた。―九三八年のことである。
 抽象的に想われるかもしれないが、これはハイデガーのかってな思いつきではない。念頭には第三帝国(ナチ体制)の惨状があった。浅薄な民族理念の旗の下、総動員法を施行し、モノや人間を戦闘に役立つ〈物資〉や〈人材〉として強引に徴用し束ね画一化し、はてはまるでゴミのように抹消していた当時の政治や社会のありさま。 その蛮行のよってきた由縁をたずね浮き彫りになったのが、このゲシュテルという時代構造である(当初は「機械経済」と呼んでいた)。「人間の主体中心主義は、技術的に組織された人間の惑星帝国主義において絶頂に到達する」。そう
ハイデガーは総括する』(pp.159)

 確かに、現代のテクノロジーは、第2次世界大戦中の戦争兵器の開発競争の延長戦と言えなくもない。所詮は、西欧型の資本主義の中での出来事なのだから、惑星のように中
心から逃れることは、永遠にできないというわけであろう。

 『爆弾仕掛の戦場だけではないはずだ。企業戦争。交通戦争。環境破壊。リストラ渦巻く町工場や教育現場のあちこちで、いまもくりひろげられているこの世のまぎれもないしくみではないか。人材育成。人材派遺。物資調達。そんなせりふは、ぼくたちのごくふつうの日常会話。最近は人体のパーツ工場さえできた。臓器さえ売り買いの対象なのである。すべて科学技術の〈援用〉がらみのできごとである。
だからそもそも、この現代の時代や社会の根本のしくみ自体が広義でのファシズム、つまりゲシュテル(万物を 「役立つモノ」とみるよう強いるしくみ)ではないか、その意味で、いまも地上はじつはゲシュテル戦争中、というのがハイデガー技術論の骨子である。』(pp.160)

 このことを著者は、「ほほえみのファシズム」と呼んでいる。
 
『 この構造的ファッシズム(惑星帝国主義/ゲシュテル)の質の悪さはなにより、それが一見そうでないような姿で現れるところにある。平和や繁栄や進歩を約束するユートピア思想や
革新思想の姿をして、しかも面白く便利な科学技術という羊の皮をかぶりながら、静かに進行するところにある。高速道路を平穏に走っている日常のなかに、清潔に整備されたオフィスで愉しく仕事をしているさなかに、音もなく浸透しでくるところにある。』(pp.161)

 「速いマシンを使ってしまうと、もう遅いマシンに戻れない」、「快適さと便利さということもある」、「まさに速い者勝の社会である」などと批判したうえで、「前のめりの人生―前望構造」を主張している。
 
『projectionとは、「前に+投げること」。投機、保険、利子、年金、配当などにみられるように、資本主義経済システムは、未来の利得や成果をあてにし、いまこの時この場で味わえる悦びや成果はお預け式の経済構造である。
それはとてもストイックなしくみだ。なにごとかを経験しその価値(富)を味わえるのは、いまこの現在をおいて他にないのに我慢し先送り。目前の財富にこだわっていては、未来に約東された〈もっと大きな富〉を逃がすから。そう想わせ、人を社会を前のめりに動かしてしまうのが、資本主義経済の骨格をなすこの前望構造である.
このしくみがあるため、そしてドロモロジーによって追い立てられるため、飢えて死にたくなければ、この日この場の現在にしっかり佇んで生きること(「瞬間蕩尽」)ができなくなる。それは生を生として経験しないこと、つまり人生を喪うことに等しい。生きながら死んでいるわけだ。  
その結果が、生を生としてじっくり味わう余裕もない、この慌ただしい現代社会の出現である。それは、科学技術形成物の氾濫、過熱的導入と軌をーにしている。より速くより速くより強く。まるでギネスブックさながらの競争社会が、こうしてできあがった。』(pp.163)

 「テクノロジー」とは何か、については、

 『ハイデガーによれば、テクノロジーとは「数学的・実験的物埋学を自然力の開発や利用に応用すること」である。
自然科学とは「自然現象があらかじめ算定できるものだということを確証するよう知識の探求」。 「自然をあらかじめ算定できるような諸力の連関として立ち現れてくるよう駆りたてる」
知識スタイルが、自然科学である。
当然そんな自然科学的思考回路では、「算定できるものだけが実在する」とする存在観が支配的になる。計算でき数値化可能だから確実に把握でき、反復可能だから制御も計画も予測もできるもの。 だから将来だけ前望する構造にも、より速く未来時へ到達せんとするドロモロジーにもかなうもの。その意味でぼくたちの生活に《役立つもの》(用象Bestand)として登場できるもの。それだけが、存在するものであり世界というわけだ。』(pp.163)

 そして、「一線を越えた科学技術」と題しては、次のように記している。
 
『そもそも技術は、自然が押しつけてくる過酷な必然性や強制力から、人間を解放する手段であった。飢饉、旱魃、雨風、雷、地震、颱風、酷暑など。伝統的社会では、自然とはまずは過酷な気象変化であり、たえず人間に襲いかかり生命を脅かすものだった。技術の目的は、そんな自然力が課してくる限界に逆らい、自然環境を順化させその脅威から人間世界を守ると同時に、その猛威の自然力を人間生活に役立つさまざまな資源やエネルギーへ変形すること (《適応変形》)にある。それはそれでとても善いことにちがいない。自然の必然性や強制力は〈悪〉(「生命保持の努力」にもとること)だからだ。』(pp.166)

 しかし、現代の科学/技術はそれとは根底から異なる。
 
『だが科学技術は《強制変形》する。自然を支配する。ヘゲモニーの逆転がある。電信電話技術は、空間と時間という大自然の支配力と制約性をあきらかに凌駕した。ダムは峡谷や河川を破壊的に変形することで、自然が秘めたエネルギーを無理に取り出してくる。
その強引さは、昔ながらの手作業農法と機械農業とを較べてみればよくわかる。前者は、根本のところはすべて自然にまかす。生殖や生育過程自体に直接介人することはない。だが後者の農場ファクトリー方式では、〈自然に〉産出できないものを、こっちへでてこい(hervorbringen)といわんばかりに無理強いし、自然界から強奪してくる。自然の成長力にまかせない。遺伝子工学技術等を駆使し生殖や生育のメカニズムに手を突っ込んで、自然システムを改変する。「農業はもう今日では食品工場である。空気は窒素を引き渡すよう引っ立てられ、大地は鉱石を、鉱石はたとえばウランを、ウランは原子力を引き渡すために引っ立てられる」。自然の流れに徹底的に抗い、自然な佇まいを完壁に壊すのである。』(pp.167)

 ハイデガーの時代には、確かにそうであった。しかし、現代では、地球温暖化の影響がますます大きくなり、「飢饉、旱魃、雨風、雷、地震、颱風、酷暑など」への対応が、再び技術の主要課題となってしまった。まさに、歴史は繰り返されている。

 最期には、科学技術の行き先を「マンモスの牙」に例えて、その「死と再生」について述べている。
 
『科学技術の肥大化もそうではないのか。当初はじつに便利で効率的な生活をかなえる《善なるアイテム》だったが、速度体制と前望構造のため、効率性と至便性が自己日的化し、充実した生活をかなえるという当初の日的から外れた進化をたどった。その結果が、自然破壊、産業公害、テクノクラシーによる過度な管理体制などの害悪となって現れた。だから、それをたんなる成長痛というのは好意的にすぎる。もはや「成長の限界」を迎えた文明があげる痛みや軋み、手段を目的化し巨大化しすぎ進化の袋小路に陥った。』(pp.171)

 いつの時代にも、「三丁目の夕日」にもあるように、過去の平和でのんびりとした生活にノスタルジーを感じるものだ。「われわれの平凡な日常生活のあらゆる些事がおのずからの価値(自律的存在価値)によって、この上もなく美しく、喜ばしいものとなるだろう」(作家;ナポコフ)ということなのだ。それを支えるのが、メタエンジニアリングに基づく真のテクノロジロジーであり、そのための技術の哲学は、今後さらに重要視されるべきであろう。



メタエンジニアの眼シリーズ(110) 「謎の第12惑星」

2019年02月19日 15時43分36秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(110)TITLE:  「謎の第12惑星」 
                
書籍名;「謎の第12惑星」 [1977] 
著者;ゼカーリア・シッチン 発行所;新潮社(新潮選書)
発行日;1977.3.15
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この書の副題は、「一体の女神像から解明された謎の天体の正体」とあり、人類の近代文明の始まりの書として選んだ。裏表紙に書かれた内容は、『世界四大文明の一つであるメソポタミア文明は、紀元前3600年ごろ、西南アジアのティグリス、ユーフラテス両河畔にひろがる、肥沃な平地に興った。19世紀中葉から、この偉大な文明の遺跡・遺物がつぎつぎと発掘され、その多くは歴史学者や考古学者の手によって解朋されていった。しかし、その中で学者たちがどうしても解きえない謎が残っていた。それは、1903年から1914年まで、古代都市アッシュルから発掘された、胸や背中に奇妙な仕掛けのついた女神像である。

 その女神像は、当時考えられていた、古代人の一般的服装とはまったく異なる姿をしていた。頭には、帽子とは趣きの違うヘルメット様のものをかぶり、両耳はイヤホーンを想像させるようなもので覆われ、両手には、水差しにしては重過ぎる円筒状の物体をたずさえていた。 かつてメソポタミアに栄えたアッカド王国やシュメール王国の文献によれば、この女神はイシュタルと呼ばれ、”空を飛ぶ女神,とされていた。
近年、メソポタミア文明が、他の古代文明をはるかに凌駕する高度な内容をもっていたことが、明らかにされつつある。しかも、メソポタミア文明は、営々として築かれたというよりは、むしろ突然興ったという見方がなされている。』とある。

 本文の始まりは、「最古の高度文明の、あまりにも唐突な出現」と題して、このように書かれている。
 
『考古学者たちの発掘は、ラガシュを基点に南下し、ティグリス、ユーフラテスのデルタ地帯に向かっていった。南に下るにつれて、遺跡の年代はさらにさかのぼり、ついに最初のシュメール都市が、エリドウで掘り当てられた。深く掘り進むと、シュメールの知識の神ユンキにささげられた寺院にたどりついたが、この寺院は、何度となく建て直されたらしく、地層は発掘者たちをどんどん深みに導き、紀元前二五00年から三五00年まで、シュメール文明はたどられたのである。
発掘用シャベルが最初のエンキ寺院の土台を掘り起こすと、その下に、はじめて処女地があらわれた。そこには、以前何ものも建てられたことのない、紀元前三八〇〇年の地層があった。 ほんとうに正確な意味で、最初の文明がここに始まったと言える。ちなみに他の文明発祥の地と比較してみよう。エジプトは、紀元前三一〇〇年までしかたどれないし、中国は同じく二〇〇〇年、インダス河畔は二一〇〇~二二〇〇年が限度である。そればかりではない。他の古代文明よりもシュメール文明は、さまざまの点で進んでいた。しかし、不思議なことに学者たちは、今日にいたるまで、シュメール人がだれであり、どこからきたのか、そしてその文明が、なぜ、いかにして発生したのかについて、何らの手がかりも持っていないのである。 その発生は、まったく突然の、予期せぬ事件であるかのように見える。シュメール学者ジョセフ・キャンベルは言う。「この小さなシュメールの泥園に、驚くべき突然さで、世界の高度文明の発芽単位を内包する全文化形態が出現した。』(pp.24)

 そして、「シュメール文明は、宇宙人がもたらしたものだ」として、次のように続けている。

『ここで、私たちはふたたびイシュタルの像に戻ってみよう。私は、彼女がある種の飛行士ではないかと指摘したのだが、じつは、メソポタミアの古文書には、イシュタル以外にも、天と地の神々が地球を飛び立ち、地球の空をさまよい、あるいは天に昇り、天から降下する話が充満しているのである。古代人は、神々のこうした行為を当然のことと考えていたのではないだろうか。しかし、神―都はなにか。』(pp.25)

 人々が、神とあがめる習慣は、現在も存在する。超人的な能力を持った人や、時の権力者が神と定めたものは、ある年月が過ぎると、神として信仰されることになる。このことは、過去から現在までのどの民族にも当て嵌まる。

 そして、延々とシュメール文書を解読した結果が述べられて、焦点はそのなかの「詩」に当てられてゆく。

 『この詩から、他の惑星群を真二つに分けながら、「第12惑星」は、ティアマトが存在した場の真ん中を横断しつづけているという、決定的な情報が得られる。その軌道は、この星を常に、ティアマト粉砕の場へと引き戻しているわけである。
中央の位遺を占め、かつてティアマトがあった場といえば、小惑星帯が伸びる、火星と木星のあいだ以外にはないだろう。そこで、惑星を太陽から近い順に並べると、つぎのようになる。
水星、金星、月、地球、火星、「第12惑星」、木星、土星、天王星、海王星、冥王星。』(pp.130)

次に、「第12惑星」の軌道の説明が続く。

『ただし、「第12惑星」は、他の惑星のように、円に近い軌道を描いて、太陽の周囲を回転するのではない。 メソポタミアの文献には、「第12惑星は天空の未知の場と宇宙の果てに至る」と述べられている。「彼は隠された知識を盗み見る。 彼は宇宙の隅々までも見る。彼は、全ての惑星の監視者であり、その軌道は他のすべての惑星を取り巻いている」。彼の軌道は、他のどの惑星よりも「気高く」、「偉大」であるともいう。
ドイッ人のメソポタミア学者 ラソツ・クグラーは、これらの記述から、「第12惑星」は、速度の速い天体で、ちょうど葬星のように、大きな楕円の軌跡を描くものだと指摘している。』(pp.130)

 そして、このような詩を引用している。
 
『彼は天を横ぎり、地球を調べる……
主は、そのとき「深淵」の成り立ちをはかる。
エ・シャラを彼は、目につく住居として建て、
エ・シャラを、天上の偉大な住居として建てた。
一点は、はるか遠い天空の奥に、もう一点は、火星と木星のあいだの小惑星帯の内側に、その地を定めたのである。』(pp.131)

 そして、同じような内容の詩が、旧約聖書の中にも存在するとして、その部分も引用している。そして、そのようなことは、発掘された多数の遺物から語られるとしている。

『遠地点で「無限の高みまで上昇し」、近地点で「天に向かって弧を描いて降りてくる」、天空の偉大な旅人「第12惑星」は、 さらに古代の画家の手で、図55のような翼のある球として描かれた。 近東民族の遺跡には、どこでも、寺院や宮殿の上や、岩に刻印されたり、円筒印章に彫られたり、壁に描かれた、翼をつけた球のシンボルが目につく。この象微は、ときに王や僧侶を従え、あるいは王座の上に立ち、戦いの場面では彼らの頭上を舞い、戦車に彫り込まれている。
シュメールやアッカド、バビロニアにはじまり、エジプトのファラオや、ペルシアのシャーにいたる君主たちはみな、このシンボルを至上のものとしていた。』(pp.133)

彼らが、最初に地球に到達したのは、第2氷河期の45何年前と推定している。その時代が、着陸地点をシュメールの付近に定めるのに、都合がよいというわけである。そして、人類の突然の進化が始まったというわけである。

「なぜメソポタミアを居住地に定めたのか」として、次のように説明をしている。

『ネフィリムが、シュメールを含む古代メソポタミアを地球における住居と定めた理由は、じつは、もうひとつあった。のちにネフィリムは、乾燥した土地に宇宙基地を築くが、少なくともはじめは、密閉カプセルによって海中に着水したと考えられる、いくつかの証拠がある。もしそうだとすれば、南にインド洋、西に地中海を控えているメソポタミアは、絶好の着陸地だったと推定できる。インダスやナイルのように、近くに、海がひとつだけの土地よりも、前後に海を配したメソポタミアは、安心して着陸することができたのだろう。
古代の文献を見ると、ネフィリムの宇宙船は、「天の船」と名づけられていた。宇宙船を操縦したネフィリムが、魚のような服を着ていた、という記述もある。バビロニアの神話に登場するオアネス神は、「神」が降下した最初の年に海から現われた「理性ある存在」だが、魚の頭をとると、人間の頭が現われ、魚のような尾の下に人の足が見え、その声は、明らかに人間の声だったという。海に着水し、奇妙なカプセルと宇宙服に包まれたネフィリムの姿が、「魚人」として、長く語り伝えられたのではなかろうか。
ギリシャの歴史学者たちによると、このような「神々しい魚人」は、「エリスリア海」から定期的に上陸してきた、という。「エリスリァ海」は、 インド洋の西部、現在ではアラビァ海と呼ばれる海である。』(pp.185)
 
 この内容を追跡して、様々な証拠固めをして表したのが、先に紹介した、アラン・アルフォード著の「神々の遺伝子」 [1998] 講談社 、というわけである。
 いずれにせよ、この一連の書の内容が、どれほどに事実に近いものかは、次に第12惑星が太陽に近づく時を待たねばならない。




メタエンジニアの眼シリーズ(109) 「神々の遺伝子」

2019年02月15日 07時00分21秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(109) TITLE:  「神々の遺伝子」 
                
書籍名;「神々の遺伝子」 [1998] 
著者;アラン・アルフォード 発行所;講談社
発行日;1998.11.26
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です

この書の副題は、「封印された人類誕生の謎」とあり、人類史の始まりの書として独特の論理が展開されていた。原題は、「Gods of the new Millennium」とあり、著者は、コベントリー大学MBAの会計士で、独学で宇宙考古学を勉強したとある。

 「まえがき」では、現代人の祖先のホモ・サピエンスの出現がどのような進化論でも説明がつかないほどに、突然であったと断言している。話は、そこから始まる。そして、多くの巨大な古代遺跡とシュメル文明の繋がりを解こうとしている。著作の動機は、すべての遺物が現代科学と工学的な技術を駆使すれば、可能であるとの結論を得たためだとしているので、正にメタエンジニアリングの世界に思えてくる。

『この問題を追究し続け、私はついにシッチンの年代記を修正することができた。私の年代記は人類の誕生、神々の到来、聖書に登場する太祖の年代、シュメールの王名表のすべてに合致するものだ。
さらに、私の研究と並行して、遺伝学の分野で大きな進展があり、私は太祖やシュメールの王たちの長命の謎も解明することができた。このような経緯があり、私は本書の出版を決意した。新たな年代記を軸として血の通った神々について書いているうちに、自分でも驚くほど、さまざまな古代の謎を解明することができた。本書でその答えを示すことができるのは嬉しいかぎりだ。 私の結論は間違いなく論議を呼ぶだろう。なぜなら、それは確立された科学的見解に真っ向から挑むものだからだ。本書で示した根拠は科学的な検証に堪えるもので、矛盾点も未解決の問題もいっさ い残していない。』(pp.2)

これは、かなり大見えを切った文章だが、詳しく読むとなるほど会計士が書いたことだけのことはあると思わざるを得ない内容(つまり、論理的に記録を積み上げてゆく)になっている。そこで、シュメルに関する本を4冊ほど立て続けに読んで、最後には、ダーウインの進化論の現状解釈を解説した最新刊の本まで買ってしまった。この書はいわゆる「トンデモ本」に分類されるだろう。しかし、すべてを否定するわけにもいかないので、そこに興味がひかれる。
また、彼は地球の歳差運動に注目をしている。惑星の千年紀単位の運動に関連性を見出したとしている。

まず、ダーウインの進化論を説明し、本人も共同研究者も、人類の誕生は進化論では説明できないと断言していたとしている。
 つまり、旧約聖書の物語は、実際にあったことを何代にもわたって編集された結果であり、事実がなかったということではない、そのために現代アメリカ人の48%が、創世記を信じているというわけである。
 旧約聖書の由来については、次のように述べている。

『創世記と「エヌマエリシュ」
過去一〇〇年間において、六〇〇〇年前の粘土板が何万枚も古代メソポタミアで発掘された。これらの粘土板には、最も初期の文明からの知識が豊富に記されている。そして、それらの文明では、常にさまざまな複数の神々が崇拝されていた。 言語学的な研究から、これらの古代の粘土板(古文書と呼ぶことにする)はシュメールの物語に由来し、その文明が始まった紀元前約三八〇〇年にさかのぼるものだと今日では広く認識されている。
シュメール文明の存在、膨大な量の粘土板の存在、そしてその翻訳に議論の余地はない。 バビロニア(メソポタミア南部の古称)の叙事詩「エヌマエリシュ」では、創世記の神にかわり、マルドウクというバビロニアの全知全能の神が天地を創造したことになっている。創世記と「エヌマエリシュ」は似通っており、どちらかがもう一方に挑んでいるかのようだ。
しかし、それをいうならば、影響を受けたのは間違いなくヘブライ人のほうだ。古代都市バビロンにとらえられている間に、一〇〇〇年以上にもわたりバビロニアで最も神聖な宗教文書であった「エ ヌマエリシュ」を知ったのだ。』(pp.20)
 つまり、シュメル神話は旧約聖書の元になった文書ということを言っている。

 ダーウインの進化論については、現代の専門家の解釈は述べずに、当時の状況を示している。

『人類とサルをつなぐ「ミッシングリンク」は進化論では説明できない
―八五九年二月、チャールズ・ダーウィンはきわめて大胆な説を発表した。それは、すべての生物は自然淘汰により進化したというものだった。人間についてはほとんど触れられていなかったが、もちろん人間も含むものと考えられ、人間の自己認識にそれまでにはなかったような大変革が起こった。こうして人間は突然、神の創造物から、自然淘汰という味気ないメカニズムによって進化したサルに転落した。
しかし、科学者たちは、二本足の人間にも進化論を適用することができただろうか? チャールズ・ダーウィン自身はこの点について奇妙にも口をつぐんでいるが、共同研究者であるアルフレッド・ ウォーレスは
みずからの意見を述べるのにそれほどためらってはいなかった。明らかに、ウォーレスは、人間の進化にはなんらかの介入があったと考えていた。彼は「ある知的存在が人間の発達を指導あるいは決定した」といったのである。』(pp.27)

 通常の進化論に何らかの科学的な外力が加えられると、生命体は変えられる。現代の遺伝子工学の進化した形を想定しているのだ。

『<(種における)大規模な変化は何千万年もかかって起こり、その中でも本当に大規模なもの(大突然変異)は―億年程度かかる〉 しかし、人間はわずか六〇〇万年の間に、一回のみならず、数回の大突然変異の恩恵を受けてきたと考えられているのだ!
化石による根拠がないため、私たちが問題にしているのはきわめて理論的なことだ。しかし、完璧と思われる器官や有機体がゆっくりとした進化のプロセスにより、どのようにつくりだされるのかについて、今日の科学界では多くの有益な説明が行なわれている。 最もすぐれていたものはニルソンとペルガーによる、目の進化のコンピューター ・シミュレーションだった。彼らは単純な光電池から始め、無作為の変異を経させて、カメラアイに至るまでの発達の様子をコンピューターでみごとに示した。その途中の段階では円滑に一定の変化が起こり、進歩があった。』(pp.32)

 そして、「必要以上に高度な脳」、「人類の脳の驚異的な早さでの進化」、「不自然に発達した言語能力」などを例として挙げている。

 更に、世界中で発見された巨大建造物やオーパーツも、現代技術の延長上ですべて可能になるとしている。古代人は、超能力者を「神」としてあがめた。このようなことは、現代でもあちこちで見受けることができる。神は想像されるものではなく、実在するもの(あるいはコト)が年月を経て神になるのだと思う。彼の解釈は、次のようになっている。

『「エヌマエリシュ」の創世神話
神々はどこから来たのだろうか? シュメール人によると、神々は「ニビル」と呼ばれる惑星から地球にやってきたということだ。この惑星に関して彼らが書き残していることは、いわゆる「惑星X」の特徴に完全に一致する。惑星Xとは、現代の天文学者がこの太陽系の中で探している惑星のことだ。惑星Xの軌道は楕円残で、冥王星の軌道をはるかに越えると信じられている(だから、近年においては観測されていないのだ)。 惑星Xの科学的な根拠および現在進行中の調査については、本書中で後述する。まずは、太場系の初期から、私が一万三〇〇〇年前と考えている伝説の洪水に至るまでのその惑星の歴史をたどって、根拠を見ていくことにしよう。

一風変わった資料からニビルあるいは惑星X探しを始めることにしよう。 それは、四〇〇〇年前のバビロニアの古文書で、「エヌマエリシュ」として知られているものだ。―八七六年、大英博物館のジョージ・スミスが、この聖なるバビロニアの叙事詩の翻訳を発表した。 スミスはすでに、聖書の物語と対応する洪水の古文書を翻訳しで国際的に有名になっていたが、「エヌマエリシュ」は同じくらい話題になった。というのは、それは、聖書の創世記一章の短い記述よりずっと詳細な創世神話のように思われたからだ。
しかしながら、一〇〇年の間、「エヌマエリシュ」は神話、つまり宇宙における善と悪の抗争を扱った想像上の物語と軽く考えられていた。 そして、それに基づいて発展したバビロニアの新年の儀式も、同様に意味のない迷信と考えられていた。』(pp.186)

そこから先は、シッチンの惑星X説に準拠しているように思える。軌道の周期が3600年ということは、彼らの100年が、地球では3万6千年ということだ。地球上では、この倍数で大変化が起こっている。
その他、いろいろな面での例証が続いているが、省略して「エピローグ」へ向かうことにする。そこは、このような言葉で始まっている。
 
『本書の主題は、血の通った神々が、二〇万年前に、遺伝子工学を利用し、みずからの姿に似せて人間を創造したということである。かなりの根拠を第一章に挙げ、遺伝子工学による介入があったと考えなければ、人類の発祥の謎を解明することはできないことを示した。その他、本書に書かれていることはすべてそれを詳細に裏づけるものだ。では、私は、二〇万年前に、神々に遺伝子工学を利用する能力があったことを証明できただろうか。
私は、くりかえし、二〇世紀の技術に匹敵する水準の技術があったことを示してきた。つまり、宇宙飛行、超音波機械加工、天文学、その他、今日の水準を超えた技術(巨石をどのように動かしたのか?、)などだ。これらの技術は実際に確認できるものであり、したがって確固たる根拠になる。 この根拠から私は、神々は遺伝学を知っていたと合理的に結論づけた。この結論を支持するものとして、古文書に残されたさまざまな遺伝子操作の記録を引用した。ホルスのクローニング、尋常ではないノアの誕生、ルルをつくりだすための最初の「神女の介入」などだ。また別の面からの裏づけとして、今日さまざまな民族がいるという事実が挙げられた。これは、どんな科学的な説でも解明できていない謎だ。』(pp.389)

原題は、この惑星が太陽に近づくのは、地球上の今回の千年紀にあたるとして、大変化が起こるであろうとしている。次は、この話の前提となった「シッチンの惑星説」についての本を探ってみる。そして、最後に進化論の今も探るつもりだ。


メタエンジニアの眼シリーズ(108) 「5000年前の日常」

2019年02月13日 15時40分26秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(108) TITLE:  「5000年前の日常」   
              
書籍名;「5000年前の日常」 [2007] 
著者;小林登志子 発行所;新潮社(新潮選書)
発行日;2007.2.22
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この書の副題は、「シュメル人たちの物語」とあり、人類の近代文明の始まりの書として選んだ。裏表紙に書かれた内容は、『人類史上最古の文明人は、なにを考えて生きていたのか? 古代メソポタミアにも教育パパや非行少年がいた! 初めて文字を発明し、最初の都市社会に生きた人々の生活は、どのようなものだったのか? 大な粘土板に刻まれた楔形文字を読み解き、自意識過剰の王様、赤ん坊の子守歌を作ったお妃、手強い敵を前にして王に泣きつく将軍、夫の家庭内暴力から逃れた妻など、人間くさい古代人の喜怒哀楽を浮き彫りにする』とある。

 紀元前5000年頃のシュメル(彼女は、敢えて「シュメル」としている。理由は後述)は、このように書かれている。もう、近代と大きな変わりはない。

 『前五〇〇〇年頃に人々はバビロニアに定住を始めた。ウバイド文化期(前五〇〇〇ー前三五〇〇年頃)の始まりである。これに先立つこと三〇〇〇年前、前八〇〇〇年頃ころにはザグロス山脈の山麓地帯で天水に頼る原始農耕がすでに始まっていたが、ようやくこの頃にバビロニアの乾燥地帯でも、濯慨農耕によって大麦が栽培されて安定した収穫を得ることが可能になった。
ウバイド文化期の後期には大きな町が成立し、交易も活発におこなわれるようになった。

 次のウルク文化期(前三五〇〇―前三一〇〇年頃)が本格的な都市文明成立の時代である。ことに後期になると、支配階級や専門職人などが現れ、巨大な神殿が造られ、古拙文字(=絵文字)が発明された。最古の古拙文字は前三二〇〇年ぐらいに書かれ、それ以前のブッラ(中空の直径一〇センチメートルぐらいの粘土の球)とトークン(ニ~三センチメートルぐらいの粘土製品)を使った記録方法から大きく転換した。
都市の生活はほとんどの人間が農業に従事した単調な村落社会とちがっていた。 数万人が集まり住んだ都市には余剰生産物が増えた結果として、食糧生産に従事しない者が数多く生まれた。王や支配者層がいて複雑な支配組織が整えられた。都市に住む入々の日常生活では、たとえば技術や工芸などが複雑になり、同時に洗練されもした。』(pp.5)

 シュメル語についての記述も面白い。彼女は、原日本人がこの地域(例えばインダスなど)から海伝いにやってきたことを否定しているが、日本語との関係についての説明は、冒頭から詳しく書かれている。

『シュメル人とはどこからやって来たのかわからない民族系統不詳の人々である。シュメル語は日本語と同じように膠着語で、日本語の格助詞、つまり「てにをは」のような接辞を持つ言語であった。 シュメル語を表記するために考案された古拙文字はしばらくして楔形文字に転換した。これは一本でさまざまな形を作り出せる葦のペンを工夫した結果、粘土板への書き始めが三角の襖形になったので、こう呼ばれる。シユメル語の楔形文字は表語文字から始まり表音文字も工夫され、シュメル語を自在に表現できるようになった。やがて、セム語族のアッカド人も自らの言語を表記するためにシュメルの襖形文字を借用した。

 アッカド語の表記には日本の仮名文字と同じ音節文字が必要で、アッカド語の文章の中にシュメル語そのままの用語も多数取りいれた。これは本来中国語を表すための漢字を我が国で借用して、日本語を表した万葉仮名の用法と似ている。当然アッカド語の中に多数のシュメル語が含まれているのと同様に日本語の中には多数の漢語がはいっている。日本ではやがて漢字を崩して平仮名、漢字の偏を取って片仮名を発明した。楔形文字にはこうした展開はなかったが、文字が簡略化され、ウガリト語、ペルシァ語などのさまざまな言語に借用され、広く長くオリエント世界で使われた。』(pp.7)

 日本の文字も、ひらがなは明らかに毛筆で書きやすく、かつ美しいと感じたからだろう。使い慣れた筆記用具によって、独特の文字も作られてゆくということ。

 「シュメル」との表記については、このような説明がされている。日本の歴史学会の権威主義を象徴するようなことだと感じる。

『話変わって「超古代史」という不思議な分野がある。こうした分野ではともに膠着語を言語とすることからシュメル人と日本人を結びつける論がもてはやされている。その多くは荒唐無稽で学問とはいいがたい。たとえば、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあったとか、 天皇のことを「すめらみこと」というがそれは「シュメルのみこと」であるといった俗説が流布した。
そこでシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れ「シュメール」と表記された。 三笠宮崇仁様はこの話を中原先生から直接うかがったという。 戦後も、「シュメール」は「シュメル」にもどることなく、我が国では「シュメール」が市民権を得てしまった。こうした事情を踏まえて、本書ではアッカド語の原音に近いシュメルを採用した。』(pp.10)
 ここまでわかっていても、日本語の教科書は、「シュメール」の、ままなのだろうか。

 その後、『現在の文明社会のしくみの多くは、シュメル人の社会に見られるものである。』(pp.12)として、多くの例を挙げている。その一つは、反対討論でこのように書かれている。

『「銀と銅」と題した「討論詩」が残っている。「討論詩」はシュメル文学の一分野で、動物、植物、季節そして鉱物などの擬人化された一組が自分の方が優れていると主張しあう。たとえば、「魚と鳥」「タマリスク(御柳)となつめやし」そして「夏と冬」などの組み合わせがある。
はじめに討論者たちの創造された過程や属性などを紹介し、争いの原因が語られる。続いてそれぞれが自己の長所を並立てる一方で、他者を貶める主張が展開される。だが最後には神による判定の後で、討論者たちはめでたく和解にいたる。』(pp.178)
 
「紀元前5000年頃のシュメルは、このように書かれている。もう、近代と大きな変わりはない」ということは、この頃に、現代人類文明の色々な基盤がすべて同時にこの地のみで起こったことになる。これは、偶然と言えるであろうか、大きな疑問が残ってしまう。

 この書を読むと、いわゆる古代4大文明の中でも、ここだけが近代の文明に酷似しているように思えてくる。エジプトや黄河流域と何が違っていたのであろうか。その答えは、最近発行された本の中にあった。勿論、それが真実かどうかは分からないが、メタエンジニアリング思考だと、こんな楽しみ方もできるようになる。



メタエンジニアの眼シリーズ(107) 「シュメール」

2019年02月08日 08時50分14秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(107)  TITLE:  「シュメール」  
               
書籍名;「シュメール」 [1976] 
著者;H.ウーリッヒ 発行所;アリアドネ企画
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この書の副題は、「人類最古の文明の源流を辿る」とあり、人類の近代文明の始まりの書として選んだ。内容は、「古代メソポタミアの鳥観図、シュメール前史に遡って」から始まり、「失われた帝国の永遠の遺産」まで、18項目に分かれている。中央の3章は、こんな具合だ。
 
『4.人類が書くことを覚えたとき― 史上最古の文書を読む/絵文字から楔形文字へ/光陰矢の如し/「人生」を「矢」にたとえたシュメール人/ニップール の文書庫― 最古の詩人を訪ねて
5.検証・・「ノアの洪水」―「ノアの方舟」発見/大洪水の痕跡
6.シュメールの聖塔 ― バベルの塔とその原型/砂の都市/洪水から身を守る聖塔/神々の棲まう聖塔
』(pp.4)

 シュメールの諸都市は、ティグリス、ユーフラテスの川沿いに有名なウルやウルクなど24都市が示されている。どれもかなりの規模だった。これだけでも、ナイルや黄河文明とはだいぶ異なる。そもそもの始まりについては、このように書かれている。
 
『この地域の北部と東部の互いに離れ離れの場所で、製陶業はすでにこの時代には―つの伝統を形成していた。その離れ離れの場所とは、葦と粘土でできた家があるペルシアの塩砂漠の西端に位置するテペ・シアク、ユーフラテス河の支流シャブール川畔のテル・ハラフおよびティグリス中流のサマッラの三箇所である。 これらの集落では、豊饒をもたらすものとして地母神像が崇拝されていた。それらは様々な材質によって、また色々な形に作られていた。北メソポタミアのテペ・ガウラや南のエリドウで、こうした女神を崇拝するための粘土製の小さな神殿が見られる。
定住生活をするようになったからといって、人々の創作意欲が失われるということはなかった。彼らの多くは移動しながらも、時には職人に、そしてまた時には神官となって、自分たちの 技術や信仰を広めさえしてきたのである。このように東方からの移住者は、昔からの定住者と接触していた。後に都市が形成されるウルの近くにある最古の集落アル・ウバイドやその周辺地域で、彼らは定住民の生活様式を学ぶと同時に、逆に自らの知識の多くを伝えたりした。移動生活の中では、とてもそんな余裕はなかったことだろう。ここに至るまでの道程は険しく、はるか遠く、人々は生き残ることで精いっぱいだったはずだからだから。』(pp.22)

 つまり、遊牧民の文化と農耕民の文化が合体し、商業まで生まれる基盤ができたことになる。そして、文明の始まりについては、こうである。

『シュメール、それは「文明の地」
ところがここへきて、それまで溜めに溜めたこの民族の力が、一挙に吹き出したようである。 紀元前三〇〇〇年紀への変わり目頃、この地方の風景は考えられないほどの速度で変わっていった。それまでウバイド人が部分的にしか成し得なかったことが、今や大々的に進行するようになったのである。砂、水、葦から成る荒野が、文明の地へと相貌を変えていった。楽園は栄えた。ウバイド人のもとでは村には小規模の濯概設備や畑地しか存在しなかったが、必要に迫られ大規模なものへと短期間に姿を変えていった。定住によって人口が増大すると、それだけ多くの食糧を生産する必要が生じたのである。
早くも新来の移住民は、その土地を組織的に開発し始めた。土地を造成するため彼らは流域の広大な土地に杭を打って測量を行った。広範囲にわたり土地はなお水面下にあったため、大規模な干拓を行った。干拓で余った水は貯めておき、いつでも必要な場所へ流れていくようにした。 このようにして、次第に混沌から秩序会が生まれていった。荒地が肥沃な耕地になった。』(pp.23)

 このような急激な変化はどうして可能だったのだろうか、近代的な文明の初期についての記述は、このようにある。(別の著書では、このような古代人類文明の急激な変化が、ある周期で繰り返されていたと記していることは、興味深い)

『彼らは農耕の必要に応じて土地を灌漑したり、排水したりした。そして絶えず新しい運河を引き、船を建造し、家屋や神殿を建てた。常に危険に曝されていたため、超人的な存在による庇護を求める気持ちがこの時生まれたのである。
家々の並びは人口密度の高い集落へと発展していった。いざ洪水がきて堤防が決壊したり、逆に畑への濯概が途絶えたりした場合、人々はただちに手を携えて仕事にとりかかれる態勢になければならなかったからである。超自然的な圧力の下で、生き残ることへの強い願望から生まれたこのような集落を、労働共同体と呼ぶことができよう。それが明確な形をとったのが、南メソポ タミアの各地から発展して、その地の構造を変えていった公共団体、つまり都市である。そこでは共通の任務によって結び合わされた人々が、共同生活をしていた。』(pp.24) 
もうこれは、現代と変わらない文明だ。

シュメールの特徴の一つは、膨大な文書、すなわち文字による記述にある。

『部分的にはなお十分に解読されていないとはいえ、人間が用いた文字の中では最も古いと見做されるものが、南メソポタミアのウルクで発見された粘土板の上に書かれた形象である。新聞は一時期「シュメールの研究に転機」とか、「最古の文書、発見さる」とか、「石の力」あるいは、今度はペルシア南東部に「最古の文字発見さる」といった風に報じてきたものである。』(pp.44)

それは、絵文字から楔形文字への変遷の過程がある。

『絵文字から楔形文字へ移行する際に決定的な力を発揮したのは、おそらく記号言語が発明されて間もなく、ウルクのすべての神殿と後には他の都市の神殿地域で祭司君主を助ける役目を持つようになった、数多くの書記達であった。彼らは絵文字をより速くより良い状態で粘土板に刻すために、元来直立していたものを九〇度左へ転回させた。その結果、それらの絵文字はすべて仰向けに横たわることとなった。それにもかかわらず、円形部分や四方八方に伸ひている線を粘土板の上に刻印することは、容易なことではなかった。
一枚の板の上に記すべき分量が多い場合には、ことさら難しかった。そこで勢い、粘土板の大きさも大きくなった。 貯蔵庫内で一日中続けられることになった。』(pp.48)

更に、その文字は時代とともに急速に進化していた。

『楔形文字の発展に伴い、符号の数は減っていった。楔形は次第により精選された文字体系に適合していくようになると同時に、その多義性は失われ、表音文字ともなった。
絵文字は言語との結び付きなしに成立した。誰でも絵文字はすぐに、言語とは無関係に理解することができた。紀元前二八〇〇年頃、単なる符号であった絵が、意味のある音節を持つ単語になり始めるに及んで、文字は今日の意味で、「読むことのできるもの」 になった。かくして抽象概念や動詞、接続詞などを表す記号も生まれた。そして元来の絵の羅列かり真の文章文字が生まれた。』(pp.49)
この文字の進化も、かなり急速で謎めいている。まるで、急激に発達した文明と商業文化を、世界各地の民族にも伝えてゆきたいという意志の表れとも感じられる。

そして、有名な「ギルガメシュ神話」を残した。

『シュメール時代のギルガメシュの物語のいくつかは、ヘラクレスの物語を先取りしたものと言えよう。したがってギリシアのヘラクレス伝説は、ここにその起源があると推測することも可能なのだ。
最も古いギルガメシュ物語には、二つの主な傾向が窺える。その第―は、荒々しい空想上の動物の姿をした強力な敵との闘いであり、第二は死との闘いである。力の誇示と不死の二つが、このシュメールの英雄が抱いていた大きな願望であったようだ。そしてこの時すべての対立は、唯―つの敵の存在に向けられていた。この英雄は一人ですべてを決定するのだ。他の者は彼の行為を助ける従順な臣下としての役割を担っているに過ぎない。』(pp.129)

この神話は、ギリシャだけでなく、日本のスサノウの尊神話とも共通している。
ギルガメシュは、三分の二は神であり、三分の一が人間と記されている。具体的な訳はこのように示されている。

『ハルトムート・シュメーケルがアッシリア版から独訳した叙事詩の前口上では、ギルガメシュは人間の中にあって神性を持った存在として登場している。
「その全能の存在は地の果てまでも見渡した、 すべてのことを見分けることができ、すべてを知っていた、 隠れているものはただちにその正体を暴いた、 あらゆる知恵と経験を持ち、 秘密を見、隠れたるものを発見した、洪水が起こることに警告を発した。 はるかな道のりを疲れ果てるまで進んだ。』(pp.130)

 最近は、日本の神話もギリシャ神話も、実際にあった話が、何らかの力に拠り脚色されて伝わったもので、特に大きな事件については、実際に超古代にあったとの説が有力になりつつある。ノアの箱舟や洪水伝説が、全くの空想ではなかったとの説の初期の著作だと感じる。
 また、「三分の二は神であり、三分の一が人間」という表現は、ダーウインの進化論から離れて、現代人の祖先が直立歩行のサルの進化した姿とは、一線を隔している。そこに最大の興味が生じてくる。

メタエンジニアの眼シリーズ(106)「なぜ、人は宇宙を目指すのか」

2019年02月07日 07時18分30秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(106)  「なぜ、人は宇宙を目指すのか」
              
TITLE: 「なぜ、人は宇宙を目指すのか」
書籍名;「なぜ、人は宇宙を目指すのか」 [2015] 
著者;宇宙の人間学研究会 発行所;誠文堂新光社
発行日;2015.8.14
初回作成日;H31.2.5 最終改定日;H31.2.7
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring

 
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

副題は、「宇宙の人間学から考える宇宙進出の意味と価値」とあるので、人類の文明の将来に係る話があるものと期待して、この著書を選んだ。冒頭は「宇宙と人間の新たな関係」と題して、「カントの人間学」から始まっている。しかし、哲学ではなく、人類が発生以来経験した様々な経験論から解きほぐしてゆこうとの態度がうかがえた。
 そこで15人の著者の中から、著作やその他で親しみを感じているお二人を選んで読むことにした。宗教学者の山折哲雄さん(宇宙時代の人間)と、かつての宇宙研教授、所長の的川泰宣さん(科学・技術と宇宙・自然・地球・生命・人間の関わり)だ。

 先ずは山折哲雄さんの「宇宙時代の人間」からで、話は宇宙飛行士との会話から始まっている。土井飛行士との会話からは、次のようにある。

 『アポロ計画で月に行った宇宙飛行士たちのなかに、神や神秘を感じたケースがいくつかあったことを持ちだして、そのような予感が土井さんにもあるだろうか、ときいてみたのです。お答えは簡明なものでした。―こんど打ちあげられるスペースシヤトルはせいぜい地球から280kmの軌道を回る衛星である。地球の姿も視覚的には大きくみえるはずだ。 だから神秘に打たれるような経験はまずないだろう。けれども月や火星まで行けば、どうなるかわからない。要するに、視覚の問題ではないかと思う・… 。
私は土井さんと先のコンラッドさんが、それぞれ別の観点から宇宙イメージと視覚の問題について語っていることに、不思議な暗合を感ずるのです。宇宙と人間のあいだに張りめぐらされている相対感覚といったものの面白さといっていいでしょう。それは「神」の問題をも含んで、途方もない広がりをもっているようです。』(pp.156)
 その後著者は、視覚と聴覚からの受け取り方により、人間の精神の持ちようが変化するとしている。


『精神(あるいは意識といってもいいが肉体から分離していく感覚ということですが、それがまことに快適で穏やかな気分だったと強調されたのです。重力の状態がそういう意識の変換を演出したということなのでしょうか。また眠るということはいわば視覚の一時的な停止を意味しますが、もしもそうだとすると、その視覚の一時停止が意識と身体の分離という感覚を生みだしたことになります。人によっては、精神と身体の分離、もしくは魂と肉体の分離というかもしれない。無重力という物理的条件が軽快な魂のはたらきを活性化させるのだ、と解釈することも不可能ではないわけです。』(pp.156)

砂漠で生まれた一神教と、自然豊かな地で生まれた東洋的な宗教を比較した後で、

『信ずる宗教と感ずる宗教の対照性、といっていいでしょう。その信ずる宗教についてでありますが、そもそもこの信ずるという生き方をあらわすうえで「個」という言葉ほどふさわしいものはないように私にはみえるのです。自立した個人がそれぞれに、天上の彼方に絶対的な価値の存在することを信じようとする姿が、そこからは立ちのぼってくるからであります。個人とか個性とかいう言葉の本来の意味もまた、そこに発しているにちがいありません。
ところがこれにたいして、感ずる宗教の場合、その「個」にあたる言葉はどういうことになるのでしょうか。それが「ひとり」という大和言葉だったと私は考えているのであります。「ひとり」は 「独り」とも「一人」とも書く。寂家のなかの孤独、独り寝を楽しむ一人、極小のわが身を嘆くひとりから、宇宙大の自意識へと膨張していくひとりまで、「ひとり」をめぐる伝承や物語を追っていくと、あっという間に千年の歴史を超える。近代ヨーロッパ語から輸入した「個」とくらべるとき、その日常言語としての合意はさらに深く、イメージの波長も長い。』(pp.162)
 著者は指摘していないが、宇宙で生まれる宗教は、一神教になってしまうのだろうか。

 宇宙からの視覚(緑の森林が見える)、セスナ機からの視覚(広がる田畑が見える)、高層ビル(近代工業の結晶が見える)の高さからの視覚を比較したうえで、

『要するにそのとき、日本列島は三層構造でできあがっていると気がついたのです。森林山岳社会、農業革命以後の稲作農排社会、そして産業革命以後の近代工業社会の三層ででき上っている。そう考えたのです。そしてこの列島形成の重層性が、そのままわれわれの意識と感覚に重要な性格を刻みこんでいる。いわばその深層には縄文文化とその世界観や入間観が横たわり、中層には弥生文化とその価値観や入間観、そして最上層というか表層に近代的な人間観や価値観、そして世界観がつみ重なっている。その三層がそれぞれ他の層を克服したり排除したりするのではなく、それらが重層化することで多元的な価値観や柔軟な自然観を生み出している。』(pp.163)
 
そして、現代の不安定な世界については、「歴史の不気味な波動(視覚も聴覚も波動ということか)をコントロールできない状況だとして、

『ところがどっこい、そうは問屋がおろさなくなりました。「宗教」と「民族」が歴史の後景に追いやられるどころか、
このグローバル世界に躍りでてきて牙を剥き、自己を主張しはじめたからです。近代の実現を待望する楽観的な歴史観が足元を揺さぶられるようになったといっていいでしょう。
歴史の進歩という観念にたいする民族と宗教の逆襲、と映らないではない。もしもそうだとすると、その不気味な逆襲をどのようにして食いとめたらよいのか、いろんな手立てを講じなければならないはずです。なかでも緊急の課題がまずもって人類の歴史を「文明」という枠組のなかでとらえ直すということではないでしょうか。』(pp.164)

最期には、結論的に次の様に記している。
『そしてそのような新しい環境のなかで、人間の視覚や聴覚をはじめとする生命感覚がどのような反応や変容を示すのか、といった問題があります。そこまでいけばまさに人類が発生して以来の何億年にわたる生命のあり方までが問われることになるでしょう。そのような問題設定があまりにも空想的であるというなら、せめて今から5000年前、1万年前の地球人間たちの考え方をふり返り、想像してみればよい。仏教やキリスト教やイスラーム教が発生する遥か以前の時代のことです。そのころの地球上の人間たちは、どの大陸、どの文化圏に属していようと、ほとんどが「万物に生命(いのち)あり」という意識だけを唯一の心のよりどころに生きていたと想像されるからであります。そのような意識や感覚が、おそらくその時代の唯一の「普遍宗教」的な役割をはたしていたのではないかと私は想像しているのです。』(pp.166)

一方で、的川泰宣さんの「科学・技術と宇宙・自然・地球・生命・人間の関わり」は、科学者らしく順を追って論理的に説いている。先ずは、文明の始まりから、

『人問がその生き方を考える上では、自分を包む環境を知り、それと自己との関係を理解する必要があります。その環境の最大のものは、いつの時代も「宇宙」であり「世界」です。そこで「宇宙やこの世界がどのようなものであるか」「その宇宙や世界で人間はいったいどこにいるのか」という問いを、私たちの先祖は絶え間なく発し続けてきました。これは、ただ―つ、その「環境」と一括して呼んでいるものの中に、「生きもの」という、人間にとってかけがえのない存在がいることに、最近まで気づかなかったことを除けば、実に当然の展開だったと言えるでしょう。
今から7千年も前に花開いたと考えられている世界各地の大河流域の古代文明においては、さまざまな性格・性質の神々が創りだされ、彼らの行いや闘いに基づいて、宇宙の起源や成り立ち、移り変わりが説明されました。人間にまつわる事件や歴史も、神々の行動に巻き込まれるかたちで展開するとされたのでした。』(pp.168)

古代ギリシャの代表的な哲学者(というよりは、自然・物理学者)の所説を並べた後で、特にデモクリトスの原子モデル説に着目をして、

『彼によれば、人間の「魂」も原子から成り、それら原子は球形で動きやすく、「魂」を作っている原子群は他の物質の原子群よりもきわめて動きがよく、身体を動かし生命を与えるものと考えています。そして原子に支配される「魂」が動揺しないで安定していることが、「魂」の幸福な状態であるとしています。
こうして、人間を含めた世界を統一的・普遍的に把握しようと志向する傾向は、こうした古い時代からありましたが、 それが説得力をもつためには、自然のさまざまな諸相についての認識に合理性が認められ(科学)、それが人間の実践によって証明され(技術)、総じて宇宙・世界の全体の仕組みが示されなくてはなりません。』(pp.170)

そして、そこから、占星術からプトレマイオスの宇宙へと進んでゆく。そして、宇宙の中の人間について考えるには、古代にたち戻って考えた方が、良いのではとして、

『しかし、現在私たちが「科学・技術」と呼んでいる営みの萌芽が生じたと考えられるこの頃の人々の中に、合理的であると同時に普遍的でありたいという心が存在していたことに、驚きを禁じえません。私たちの生きている現代は、科学・技術的に正しいかどうかが、さまざまな価値判断の非常に強い基準となっています。今から20世紀以上も昔に生きたタレースたちが懸命に求めていた「宇宙の中の人間のあり方」という出発点に、今一度立ち返って学ぶことは大いに違いありません。』(pp.171)

 宇宙の視覚的なモデルとしての集大成は、プトレマイオスによって成された。

『それらを集大成した2世紀のプトレマイオス(90頃ー168頃)のモデルは、非常に高い精度で惑星運行を予言できるものとなっています。占星術の大成者を自認するプトレマイオスは、学間として正確な天文学を求めたのではなく、占星術に基づいて正確な予言をするためにこそ、正確な惑星運行表を必要としたのです。
そのプトレマィォスが著した「メガーレ・シンタクシス(大全書)』は、アラビア語に翻訳され、さらにラテン語に再翻訳されて『アルマゲスト 、(偉大な書)』と呼ばれるようになりました。』(pp.173)

 そして、コペルニクス的大転換になる。

『文豪ゲーテ(1749-1832)は、そのコペルニクス説の衝撃を印象的に語っています。
―あらゆる発見と信念の中で、コペルニクスの学説ほど、人間精神に多大な影響を及ぼしたものはないだろう。われわれの住むこの世界が、孤立したひとつの球体であることが明らかになるやいなや、宇宙の中心という絶大なる特権を放棄することになったのだから。ヒト間の精神に対しかくも厳しい要求が突き付けられたことは、かつてなかった。
この学説を認めることで、いっさいが露と消えた。第二の楽園も、無垢の世界も、文芸と信仰も、五感を通して得られる確かさも、そして詩的・宗教的な信念による確かさも。人々がそれらすべてを手放そうとせず、あらゆる手段でそれに抵抗したのもなんら不思議ではない。
しかしこの学説は、それを認める者に対しては、それまで知られていなかった、いやそれどころか予想すらされていなかったこと、すなわち、自由にものを考え、大きな枠組みで物事をとらえるという思想的立場に立つ権利を与え、それに参加するよう誘いかけるのである。(『色彩論』) 』(pp.175)

それから、ニュートン、デカルト、カントの功績により、現代風の理解がすすめられた。しかし、宇宙への理解が進むほど、人間の立ち位置が見えなくなってくる。

『そのような、時間的・空間的に人間を巨大なスケールで包み込む宇宙に生きているということを、「自らの科学・
技術の力で明らかにした結果」、私たちは、1万年以上にわたる文明史の中で、自らの立っている位置が非常に分かりにくくなっていることを感じているのではないでしょうか。かつて宇宙の中心に確固とした地位を占めていると思い込んでいた自信はとっくの昔に崩れ去り、自らの未来を「神の助けを借りて」何とかできると思っていた予感も、今では一体どこを足場にすればいいのか定かではありません。
現代を席巻している「科学・技術」というお化けのような存在に翻弄されているようにも見える人間。しかし所詮それは人間自身の営みですから、いまこの時代に進行しつつある事実をしっかりと整理して、人間が主体的に正しく未来を切り拓いていくための思想的準備をすることが、喫緊の課題として私たちの前にあります。』(pp.180)

そして、ようやく「生命についての問題」に取り掛かる。

『さあそこで、私たちが安易に叫んでいる「宇宙時代」の実体とは、いったい何でしょうか。それは、あの古代ギリシャの哲学者たちが、合理性に乏しいままではありましたが、「魂」の意昧を普遍性の中に位置づけようと努カを重ねました。その後の人間の営みの中に、アリストテレスを代表者とする、 自然(生物を含む)の事実と観察という粘り強い作業のあったことは、まことに有難いことです。ラファエッロ(1483-1520)の描いた『アテナイの学堂』という古代ギリシャの思想家たちを主題とする絵の中心に、天を指さすプラトンと手を地上に向けているアリストテレスが、歩きながら語り合う姿があります。』(pp.182)

さらに続けて、

『ネッサンスで無限空問に放り出された人間は、「魂の飛翔」を見せてよみがえり、アリストテレス以来蓄積されてきたデータをもとに、古代から潜在的な要求だった「合理性」を求める動きの中から、近代科学を生み出しました。そして20世紀、近代科学に基礎を置き、圧倒的に「科学・技術」の力に頼って、遂に「合理性と普遍性を兼ね備えた宇宙の認識」に到達したのでした。』(pp.182)

 結論は、次のように述べられている。

『しかしカントからヘーゲルに至るドイツ哲学の時代に、二元論の装いはありながら哲学は科学と技術に思想的な基礎を提供し、人間が合理的・普遍的に宇宙を可能にしました。こうした科学・技術の成功はめざましく、現代では「科学・技術」が、かつての「神」が果たしていた役割を担っているかのように感じている人は多いことでしょう。その「科学・技術」は、しょせん人間の活動の一環です。
1974年、マルティン・ハイデッガー(1889-1976)は、『芸術の由来と思索の使命』という小論の中で、現在の状況を「人間が科学的・技術的世界に閉じ込められている」と表現しています。そして「全地球的になった世界文明がかつてそこからその原初を奪いとった領域、その様な領域へと参入するという仕方でのみ(思索によって立ち戻る歩みが)可能となる」と語っています。
今は、哲学を先頭として、人文・社会・自然のあらゆる分野の人間の知恵を総動員して、「生きる」ことを軸に据えた新しい宇宙観を築くときです。そのために、ここまで築いた素晴らしい利学・技術を新たな宇宙観―「生きること」「いのち」をベースに置いた宇宙観― に脱皮させる時代に私たちは立ち至っているのだと思います。』(pp.184)

私は、「宇宙には夢がある」という言葉が、昔から嫌いだった。聞くたびに「宇宙には何もない」と繰り返していた。しかし、この著書を読んだ後での結論は、人類の文明の曙の時代をもう少し視野を広げて考えなければならない時代になったということだった。太古と現代は、共通して夢を宇宙に求めるしかないということなのだろう。
しかし科学者的な発想だけだと、どうしても人間機械論的、かつ性善説的な結論になってしまうように思われる。やはり、奥深くまで疑う哲学的な思考と常に並行して進めることが肝要なのだと思う。



メタエンジニアの眼シリーズ(105)「古代中国の呉と日本への移民」

2019年02月02日 08時14分35秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(105)「古代中国の呉と日本への移民」

① 汪 向栄「古代の中国と日本」桜楓社 [1992] 
② 竹田 昌暉「神武は呉からやってきた」徳間書店 [1997] 
③ 林 青梧「阿倍仲麻呂の暗号」PHP研究所 [1997] 
④ 竹田 昌暉「1300年間解かれなかった日本書紀の謎」徳間書店 [2004] 

初回作成日;H31.1.28 最終改定日;H31.2.1

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この4冊は、一貫して大和朝廷の始まりは、古代中国の三国時代を生き抜いた呉の民族によるものとの説を唱えている。
中国から日本への大量移民は、紀元前の秦の統一に関するものと、三国時代の魏と呉が主たるもののように思える。
親魏倭王の金印が示すように、北九州は魏(漢人)との関係が深かった。その最大の敵国だった呉の民(非漢人)は、したがって、南九州と紀伊半島の南端、出雲(?)に居を構えたとの説は、私には理解しやすかった。そのもととなった部分を4冊の中から引用する。
                    
書籍名;「古代の中国と日本」 [1992] 
著者;汪 向栄 発行所;桜楓社 発行日;1992.10.1



中国の歴史の専門家が、古代の日本について深く考えることはあまりない。秦に追われて朝鮮半島に逃げ、そこにも居られなくなって、古代の倭国まで逃げのびた、いわば難民の話になるからだ。しかし、この著者はかなり公平に詳しく記述を進めていると思う。

 先ずは、第2次大戦後に日本の歴史学者が、「帰化人」ではなく、「渡来人」と言い始めたことについて、「正確には移民というべきである」としている。そして、その「移民」については、次のように記している。
 『古代、特に日本の先史時期、あるいは闘史時代と呼ばれる時代に、日本列島に入ったこれらの外国移民は、先進文明を伝え、生産技術を持って行き、日本列島の開発、開化のために貢献した者が多かった。これらの外国移民の中で、最も多く貢献したのはもちろん中国移民であった。当時の中国は、文化知識においても、また生産技術の方面においても、すべて周囲の民族、国家(日本国内も含めて)の水準よりずっと優れていたからである。
これら日本列島に進入した中国移民については、中国史籍中に別に何らの記載もなく、日本の史籍中に若干の根跡が見られても、それはやや後の事である。しかし、ここ数十年来の考古学の発達によって、われわれは早期に日本列島に移住した中国移民の事跡について理解することが可能となった。当然、考古学においては、遺跡、遺物に基づいて総論して、当時当地にこのような事があったことを知ることができるだけで、 文字で記載されている歴史のように、具体的に名指しすることはできない。 ただこれらの遺跡、遺物だけで、日本列島が、まだ原始未開の状態に置かれていた時、中国大陸、それから朝鮮半島からやってきた外国移民の貢献があったことをすでに十分に物語っている。』(pp.44)

 さらに、三国志の魏書ではなく、晋書の内容を引用している。
『太伯は呉国の始祖であるが、それも別に事実だというわけではない。「史記」には「呉太伯世家」の記載があるが、恐らく伝説を書き記したものであろう。呉国は春秋時代の強国のーつであり、他の強国もそれぞれ始祖の伝説が史書に書き記されているからであり、呉太伯の記載もまたこの類に属するかもしれず、このため、「三国志」の編纂者である陳寿が、基本的に「魏略」をそのまま引用して、「倭入伝」を選述した時この部分を削除したのである。』(pp.45)

 そして、それをもとに、古代日本には呉の文化が根強く伝わっているのではとしている。
 『日本人が呉太伯の後継であるというのは、伝説にすぎない。伝説は歴史であるというわけではないが、少なくとも―つの事実、即ちはやく魚蒙が「魏略」を撰述した紀元三世紀・中国人の間にすでに呉太伯の子孫が海を渡って日本列島に到り、日本列島の住民の祖先になったという伝説があったことを物語っている。つまり、中国には、早くから中国移民が日本列島に移住したという説があり、彼らの根拠は、日本列島における漁民(水人)は入れ墨して、大魚や水禽の害を避け、その後、修飾を加えて、男子は大人も小児も、皆鯨面(顔面の入れ墨)文身(身体の入れ墨)するようになり、そして、中国の呉越の沿海部の住民もすべて断髪文身していたということである。風俗習慣が同じであることから、日本列島の住民は呉越人の後高であり、中国から移っていったものであると認めたのである。』(pp.46)

面白いのは、中国人の眼からは、「呉の民」は、漢民族ではないと明言していることだ。
『日本民族は最初からそのようであったわけではなく、次第に形成されたものである。長い歴史の中に、幾多の外来民族の混入があったので、紀元前八、九世紀のころ、中国移民(もし呉越を指すとすれば、非漢民族と言わねばならない)がそこへ行って定住し、以後の日本人の祖先になったということがあるかどうかは、まだ明確にし難い。』(pp.46)

中国大陸から日本への移民については、中国の政治状況によって、大量には2回に分けて行われたことが定説となっている。紀元前と紀元後の二派だが、後者については「呉」ではないかとしている。
『現在日本の学者は、先史時代に日本列島に入った中国移民を時間的に二次に分け、それを第一次渡来人と第二次渡来人と名付けている。縄文末期、即ち紀元前三、四世紀を第一次渡来人が日本列島に進出した最集中の時期とし、 第二次渡来人が比較的集中する時期は、弥生前期と中期、即ち紀元前後であるとしていてそ
れらは事実にあっていると言うべきである。』(pp.77)

 また、その移民は九州に定着したが、まもなく近畿地方に中心を移したであろうと、遺物の量をもとに推定をしている。
 『日本列島で、九州を中心とする須玖式文化を発見することもできるが、しばらくして弥生中期にはすでに近畿地方に移っている。この事実は日本列島に入った外来移民(中国移民ばかりではない)が集中案居した地が、すでに九州から近畿に移ったことを表しており、言い換えれば日本列島における生産力の発展の中心はすでに九州ではなく、近畿地方に移ったことを示しているいる。』(pp.82)

 
②  書籍名;「神武は呉からやってきた」 [1997] 
著者;竹田 昌暉 発行所;徳間書店 発行日;1997.8.31 



 この書は、三国志の魏書ではなく、「呉書」をもとに書かれている。後漢の次の三国時代は、魏が勝利したが、まもなく晋にとって代わられ滅びた。呉はそれでも残ったが、ついに晋に滅ぼされる羽目になった。その時の話である。
 『呉はやがて、孫晧の時代の天紀四年(西暦二八〇年)にわずか四代で西晋に滅ぼされることになる。「呉書」 によると、そのとき呉の人ロは二三〇万、兵二三万、舟船五〇〇〇余般であったという。 その天紀四年四月戊辰の「呉書」に、注目すべき記事があるのだ。』(pp.12)

 その漢文の文章を和訳すると、『呉国の暦で天紀四年にあたる西暦二八〇年、西晋は濁の軍船を使って揚子江上流から呉の攻略を開始した。呉軍は西晋の大兵力を前に敗北を重ね、首都建業(南京)ももはや陥落かと思われた同年四月戊辰に、呉将・陶溶が武昌からようやくもどり、最後の呉王・孫晧に、「敵の軍船はどれもこれも小型です。わたくしに二万の兵と大型の艦船をお貸しください。かならずたたきつぶしてごらんにいれます」(前出書、守屋洋・竹内良雄訳)と進言する。孫晧はただちにその策を受け入れるのだが、問題の記述「明日、発せんとするに、・・・。』(pp.12)
 とあり、早朝にはどこかへ消えてしまい、大船団が丸ごと行方不明になった。西晋の書にも、この船団の記述はないので、戦って沈められたのではない。

 この呉の最後の大船団が、黒潮に乗って、日本の数か所に分散上陸をして、新たな国を作った。そのいきさつをこのように記している。
 『すでに明らかにしたように、呉の水軍の主力船隊は南九州と河内に分散上陸したが(これを〈第一仮説〉とする)、三世紀末の日本の古代史の主役はおそらく河内に上陸したという伝承があるニギハヤヒのほうだったろう。
「先代旧事本紀」の第3巻天神本紀によると、 物部氏の祖ニギハヤヒは天孫ニニギの実兄で同母兄弟である。しかもニニギより先に天磐船に乗って河内に天降ったと明記されている。
ニギハヤヒの軍団は近畿の河内から大和に進出して、弥生時代に日本最大の集落があった奈良盆地からこの唐古・鍵遺跡周辺の大穀倉地帯を制したのであろう。この進駐が戦闘によったか、平和裏に行われたかについては一考を要する。 その後に神武=ホホデミの東征伝承があるからで、ニギハヤヒの場合には平和裏に進駐したと見るほうが妥当ではないか。』(pp.76)

 当時の倭国の王たちは、魏や晋と親しくしており、この時に進駐した呉の民が恐れていたのは、呉の民と身分が知られることであった、という。そこから、ややこしい古代日本史が始まったというわけである。

③  書籍名;「阿倍仲麻呂の暗号」 [1997] 
著者;林 青梧 発行所;PHP研究所 発行日;1997.11.13

 この書は、阿倍仲麻呂の有名な「あまのはら ふりさけみれば かすがなる・・・」の歌を、本来の記述だった漢字の使い方が奇妙である、との考えから出発して、彼の唐からの帰国計画と、当時の大和朝廷の関係を解きほぐしている。特に2か所ある「の」に対して、「能」の字を当てることへの疑問が大きく、暗号解読の発端となっている。
 しかし、私の興味は当時の交通路にあり、日本と中国の往復は、はるか南の揚子江のさらに南、つまりかつての呉のくにを通過して行われていたことだ。

 「和歌はいったい、どこからきたのであろうか」で始まる記述では、特に万葉集や古今和歌集の歌の傾向が、呉の国の古い歌と同じであるとして、次のように述べている。
 『呉歌というのは山歌の一種で、自然感情を歌いあげる場合が多く、山中における歩行者同士が安全を確認しあったり、難路をはげましあったりした歌で、長短まちまち、ときには尋ねたりこたえたり、拝情叙述にまたがったりする。原始形態の日本の和歌も長短まちまちで、スタイルは質朴、思うままに歌って、統一したリズムをもっていなかった。朗吟しながら鑑賞するところに、呉歌の趣きが混入しているようにみられる。和歌と呉歌の関係を、研究者はもっと重視すべきだと、楊副教授は主張するのである。 このことから、和歌は当初日本に来航する呉人たちの伝える山歌(呉歌)が、三十一文字の形式に落ち着いて、日本詩歌(和歌)とよばれるようになったのだろうと考えられる。』(pp.184)

 当時の呉については、
 『ここで取りあげる呉は、南京を中心とする三国時代の呉で、その後五世紀になって国家として成立した日本と、さかんに交流をかさね、日本に多大な影響を与えた国のことである。
国際呉文化学術研討会に提出された論文で、蘇州大学の楊暁東副教授が書いた「呉文化与日本」(呉文化と日本)のなかで、楊副教授は、呉と日本の関係に触れて、こう述べている。「善舟習水(舟をうまく操り、泳ぎが上手)の古代呉人が、日本との交渉を続けていたことは明白で、古代倭人はみずからを呉太伯の後人と称しているという(「翰苑残巻」「羅山文集」による)説は、まだ検討の余地があるが、江南の地域が日本と密接な関係をもち、呉地の先住民が、数千年も前に日本の地に赴いたことは、事実である。』(pp.183)
 さらに続けて、
 『古代中日文化交流には、江南の呉文化が濃厚に影響しており、たとえば日本の民族衣装といわれる「和服」については、多くの人が唐朝の服飾との関係をいうが、江南呉服の服飾・腰帯・飾り物などの影響のほうが、はるかに直接的である。それゆえに和服は、日本では呉服ともよばれるのである。江南呉語方言では、「和服」の和と「呉服」の呉の発音は「hou」と全く同音なのである。
呉文化研究所で、李恵然教授によって復元された呉入たちの結婚式のビデオをみせてもらって、わたしは驚いた。日本の昔のそれとそっくりだったからだ。』(pp.183)

 この著書では、仲麻呂の漢字の和歌の真意は、日本に帰る遣唐使に託す歌として、次の解釈になっている。
 『わたし仲介人仲麻呂は、中国皇帝の許にいて、日本に約東を果たしに行けないので、日本国天皇はそれを不満に思って、不機嫌になり、箕や篩で、穀物をふるっているだろう。こうして わたしは、やむなくここにとどまることになってしまったが、仲介人としてさらにはかりごとはないものかと、夜な夜な工作にふけっている。思えばいく転変、苦労を重ねてきたわたしの生涯であったが、この夜の月よ、どうかわたしの志を、少しでもよいから伝えてもらいたいも のだ。』(pp.189)

④  書籍名;「1300年間解かれなかった日本書紀の謎」 [1997] 
著者;竹田 昌暉 発行所;徳間書店 発行日;2004.1.31

 この書も、三国志の魏書ではなく、「呉書」をもとに書かれた同氏の説の統編になっている。今回は、神武だけではなく、日本書紀全体に彼の説を当てはめたわけである。
第5章は、「呉軍渡来説を支持する考古学的証拠」と称して、目本各地の例を挙げている。先ずは日向で、 次の記述になっている。
『これまで王仲殊氏の三角縁神獣鏡の研究と、「呉書」の記述から、「記紀」の「天孫降臨」伝承の実態 は、二世紀末に呉から呉王・孫氏の軍船が黒潮ルートで倭国に渡来した史実の伝承と見てきたが、それが史実だとすると、それを支持する考古学的な証拠が必要である。宮崎県は,奈良県や北関東とともに全国でも古墳が最も多いことで知られ、古墳時代全期を通じて古墳が築造されている。なかでも宮崎県と鹿児島県の大隅地方には、独特の地下式横穴古墳がある。この古墳の特徴は次のような点である
①  古墳の構造が中国の慕制と共通していて、目本の弥生時代の墳墓とつながらない。』(pp.70)
さらに樹ナて・被葬者の畿内との関係、宮崎市内から出土の銅銭、鏡の文様の特徴など7項目を挙げている。

第8章では、明治30年に発表きれた「上世年紀考」の記述について考察をしている。
『日韓の古代史を比較べると、雄略天皇以後の双方の記事には甚だしい違いはないが、允恭天皇以前の記述はその食い違いが甚だしい。その原因は允恭天皇以前の年紀が正しくないからである。よって上古の両国 交渉を研究するには、まずこの年紀の食い違った根本を正さなければならない。 戦後は一転して「記紀」否定が常識となってしまったが、「記紀」を香定せず年代の食い違いの原因を検討しようといり素朴な提言に、新鮮なショックを受けた.』(pp. 144)

ここには、自然科学に通じる記述もある。
『「上世年紀考」は那珂博士が明治一0年以来、「記紀」の年代を古代朝鮮及び中国の史書と比較研究し て、三回目にようやく集大成きれた著作で今目でも紀年研究の基礎となる重要な文献である。 博士の史観は明治維新期の若さにあふれ、「記紀」の誤謬を指摘するは、これを破壊するためにあらず。それを正しい史実に戻して信ずるためなり』 と冒頭で明言して、歴史に対する探求心が、自然科学に通ずる客観的な史観によって裏付けされている。もちろん今目では肯定できない部分も多いが、博士の史観は客観的なので時空を超えている』(up. 145)
そしで、結論的には次の様に記している。
『「日本書紀」では、神武元年が辛酉年となっていることから、平安時代の中期以降、「日本書紀」元年す なわち神武元年が、辛酉革命説によって設定されていることが知られていた。「上世年紀考」の功績は、「日本書紀」が辛西革命説によって、推古九年(六〇一)の辛酉の年を起点として、それより一蔀(一ニ六二年)きかのぼった蔀首の西暦前六六〇年を日本書紀元年、すなわち神武元年に設定しためだとはじめて科学的に解明したことである。
このように「日本書紀」は、最初に神武紀元年を西暦前六六〇年と設定し、神武元年から神功皇后六九年 二六九)までの九二九年間を、神功皇后を含む一五代の天皇で割り振ったので、一代の平均在位年数が、 六一・九年と異常に延長される結果となったのである。』(pp. 147)

私は,和眼を「呉服」と言ったり、漢字の音読みの中では、「漢音」(例えば男女は、だんじょ)よりも「呉音」(男女は、なんにょ)に目本人の心を感じてしまうので、この説には共感を覚える。更に、魏からの移民は友好の民だったが、呉からの移民は多くの軍船と王族・貴族を伴っていたのだとすると、その後の倭の国の政治に大きな影響を及ぼしたことへの想像は難くない。日本の古代史は、早く定まってほしいものだ。