第5話 優れた日本の品質文化の文明化
日本発の特徴ある優れたイノヴェーションの創出は、優れた日本文化の文明化から生まれる。メタエンジニアリングは、その場にこそ必要なものになるであろう。優れた日本文化の文明化についての具体的な試みを示してみよう。
なお、これまで気楽に「文化」「文明」という言葉を使ってきているが、参考までに三省堂・大辞林では、それぞれ次のように説明されている。
文化〔culture〕
① 社会を構成する人によって習得・共有・伝達される行動様式の総体。
② 学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
③ 世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。
④ 他の語の上について、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。
文明〔civilization〕
① 文字を持ち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・
技術水準などが高度化した文化をさす。
② 人知がもたらした技術的・物質的所産。
・日本的品質管理文化の文明化
どうも「文化」というと地域性と不合理性というイメージ、「文明」というと普遍性と合理性というイメージが、それぞれ背後について回っているように思う。こうした語感からすると、昨今、日本的品質管理は、まさに「日本的」という言葉通り、文化的な色彩を強めていると言えよう。
私がこれを強く感じたのは、ジェットエンジンンの鋳造品の日本の輸入検査基準である。それを日本は諸外国の基準より厳しいものにした。その結果、検査コストがアップすると同時に、頻繁に不良品が発生する事態が起こった。海外メーカーの通常の検査をパスした品物が引っ掛かってしまうからである。鋳造品に欠陥はつきもので、その検査基準は長年の経験に基づいて決められていた。しかし、日本の構造設計技術者たちが応力計算をしたり、最新の破壊力学を適用したりしたら、それでは駄目だったということで、厳しくした。しかし、長い実用化の歴史の中で育った経験値と、たった1回の数値計算の結果と、いったいどちらにより多くの合理性があるというのだろうか。私の頭の中では明白であった。
これには二つの問題が含まれている。第一には、部分的な事柄にこだわって、全体を見渡す視野に欠けること。第二には、管理することにこだわって、Control をするという意識に欠けることである。
「品質管理」とは、Quality Control の和訳なのだが、第二次大戦後に米国から輸入されてから、日本独自の発展を遂げて世界一といわれるまでに成熟した。しかし、反面Control という意味から離れ、絶対的完全品質を要求する管理手法になってしまった。
Control とは、目的を達成するべく調整することであり、絶対品質の要求が、過剰品質とコストアップ要因の原因となったケースが散見されるようになってきた。狂牛病対策のために打ち出された、輸入牛肉の検査基準の際にも感じた。勿論、政治的な判断要素が加味された上での決定なのだが、品質管理の専門家は沈黙していたように思う。一方、放射性セシウムの玄米からの検出検査については、確率論を全く無視した安全宣言で混乱を生じさせた。これらの基本的な原因は、Quality Controlが統計学を用いて許容範囲になるようにコントロールすることという基本的な考えから離れ、絶対品質を追求するための管理手法という考え方に偏ってきたためではないだろうか。
つまり、統計学という数学をもちいてコントロールを行う技術的な行為を、規定を守ることを目的とする管理手法に位置付けてしまっているように思う。日本の品質管理分野で最も有名なW エドワーズ・デミング博士(William Edwards Deming)は、かつて面会を求めた日本の専門家に対して「私は品質管理の専門家ではなく、統計学の専門家である」といわれたそうである。
もう一つの疑問は、いわゆる「品質コスト」の考え方に日本独特のものを感じる経験が度々あったことだ。日本で活発になったTQM(Total Quality Management)では、品質コストを合計したものが総品質コストであるとして、総品質コストを最小にする活動をよいとしている。総品質コストとは、予防コスト+評価コスト+内部失敗コスト+外部失敗コスト で表される金額なのだが、この中で、内部失敗コストと外部失敗コストは、経営者にとっては管理不可能な費用として非自発的原価と呼ばれている。 一方、予防コストと評価コストは、経営者が管理可能な費用として、自発的原価と呼ばれる。
従来の考え方は、自発的原価と非自発的原価の間にはトレード・オフの関係があり、予防コストや評価コストを高めていくと、内部失敗コストと外部失敗コストは減少していくので、失敗コストが多い場合には、管理可能な費用を増しても総コストは少なくなる。しかし、品質が向上して失敗コストが激減すると、ある時点で総コストはむしろ増加をしてしまう。
しかしTQMでは高度な品質管理により、高品質を求めることは長期的には一方的に総品質コストを減らすことができるとしている。このために、延々と品質管理活動が強化されるのであるが、果たしてそれは世界の通常の企業にとって合理的なのであろうかといった疑問を持たざるを得ない。一概に結論を出すわけにはゆかないが、ここにもQuality Control を品質管理と和訳した日本的な文化が強く存在しているように思える。
繰り返すが、日本は、戦後間もなく米国から品質管理を教わり、徹底的な導入を行った。そして、自らの伝統的な品質文化と融合をさせて、新たな品質管理を文明化したではないだろうか。それは奈良時代の仏教伝来を思わせる。そして、それ以降、今日まで、品質管理のイノヴェーションは持続的発展を遂げてきている。しかし、もし、日本に「独自の優れた品質管理の文化」がなかったならば、このような持続性は生まれようもないだろう。
しかし、文明化されたものも、ある限定された範囲でのみ極端に成長をすると、ある種の非合理性が入り込み、再びローカル文化に戻ってしまう。日本の現在の品質の多くに、例えばスーパーに並ぶ野菜や果物などに、それを強く感じる。メタエンジニアリングは、こうした現在の日本の品質管理のあり方を世界の文明として再生させることに役立てる必要があるだろう。
現在の日本的な品質管理文化を文明化し、より合理的かつ普遍的なものへと変えてゆく道筋に根本的エンジニアリングが関与できる「潜在化する課題」が数多くあるように思う。それは、数学を用いた工学的な技術をもっと広範囲かつ根本的に見直すことから始まるだろう。
・日本的ハイブリッド文化の文明化
第2のテーマとして、日本的ハイブリッド志向を考えてみる。
優れた日本文化の特徴の一つは、独特のハイブリッド文化だと思う。見渡すと事例はどんどん出てくる。漢字と仮名文字の併用、神仏混淆、ハイブリッド自動車などは代表例だろう。私の住まいの近くのJR 小海線では、数年前からハイブリッド電車が走っている。
ハイブリッドシステムでは、発電用のディーゼルエンジンでつくった電気と、列車のやねに積んだちくでんち(蓄電池)の電気を使い分け、モーターで車輪を動かしています。http://www.jreast.co.jp/nagano/wakuwaku/hybrid/hibrid_koumi.html
日本の文化の特異性は何であろうか。二項合体という言葉がある。神仏混淆、和魂洋才、文字の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナの混用など色々ある。多神教などを例に、多項合体という人もいる。そして、日本文化の特異性は、対立や相克を解消する不徹底さの許容にあるとされている。
日本では品質文化の中にもハイブリッド文化が入り込んできている。例えば「イチゴの味覚」である。イチゴの品質にこだわる日本人の感覚は異常である。昔、英国の片田舎でイチゴ狩りを楽しんだ。小高い丘をバケツ一つを持って歩き回り、野原に雑草のように生えているイチゴを摘み取る。品質のバラツキは大きいが、すべて本来のイチゴの味がする。
それに対して日本では、イチゴと言えば、形、大きさ、色が揃っていないと売り物にならないとされ、その上、現在、200 種類以上ものイチゴが栽培されるようになっているそうだ。最近の評判は、
岐阜県が力を入れている「濃姫」という品種だと聞いた。そして、その感想というのは「味が濃いが、すっきりとしている」、「酸味と甘みのバランスが丁度良い」といったものだった。
岐阜県農業技術センター
http://www.cc.rd.pref.gifu.jp/g-agri/breed/vegetables/pdf/nouhime-pr.pdf
日本では、すでにイチゴは、色や形を通り越し、こうした微妙なハイブリッド感覚により評価されるようになっているらしい。
これらは、ある意味では不合理である。しかし、日本人はその不合理を乗り越える能力を持っている。最近、漢字に興味を持つ外国人が増えているそうだが、世界的に発展する望みはまずないであろう。しかし、ハイブリッド自動車は世界で認知される存在になりつつある。
つまり、ハイブリッドが合理的であるとの回答が存在するということである。そのハイブリッドの回答を見つけ出し、独特の技術力により、それに真の合理性を持たせることができるのは、私は世界中で日本民族だけであるような気がしてならない。そして私がメタエンジニアリングに期待するのは、デジタルとアナログのハイブリッドである。
この回の文面は、私の原稿を友人の前田君が編集したものをブログ用に直したmのです。
日本発の特徴ある優れたイノヴェーションの創出は、優れた日本文化の文明化から生まれる。メタエンジニアリングは、その場にこそ必要なものになるであろう。優れた日本文化の文明化についての具体的な試みを示してみよう。
なお、これまで気楽に「文化」「文明」という言葉を使ってきているが、参考までに三省堂・大辞林では、それぞれ次のように説明されている。
文化〔culture〕
① 社会を構成する人によって習得・共有・伝達される行動様式の総体。
② 学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
③ 世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。
④ 他の語の上について、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。
文明〔civilization〕
① 文字を持ち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・
技術水準などが高度化した文化をさす。
② 人知がもたらした技術的・物質的所産。
・日本的品質管理文化の文明化
どうも「文化」というと地域性と不合理性というイメージ、「文明」というと普遍性と合理性というイメージが、それぞれ背後について回っているように思う。こうした語感からすると、昨今、日本的品質管理は、まさに「日本的」という言葉通り、文化的な色彩を強めていると言えよう。
私がこれを強く感じたのは、ジェットエンジンンの鋳造品の日本の輸入検査基準である。それを日本は諸外国の基準より厳しいものにした。その結果、検査コストがアップすると同時に、頻繁に不良品が発生する事態が起こった。海外メーカーの通常の検査をパスした品物が引っ掛かってしまうからである。鋳造品に欠陥はつきもので、その検査基準は長年の経験に基づいて決められていた。しかし、日本の構造設計技術者たちが応力計算をしたり、最新の破壊力学を適用したりしたら、それでは駄目だったということで、厳しくした。しかし、長い実用化の歴史の中で育った経験値と、たった1回の数値計算の結果と、いったいどちらにより多くの合理性があるというのだろうか。私の頭の中では明白であった。
これには二つの問題が含まれている。第一には、部分的な事柄にこだわって、全体を見渡す視野に欠けること。第二には、管理することにこだわって、Control をするという意識に欠けることである。
「品質管理」とは、Quality Control の和訳なのだが、第二次大戦後に米国から輸入されてから、日本独自の発展を遂げて世界一といわれるまでに成熟した。しかし、反面Control という意味から離れ、絶対的完全品質を要求する管理手法になってしまった。
Control とは、目的を達成するべく調整することであり、絶対品質の要求が、過剰品質とコストアップ要因の原因となったケースが散見されるようになってきた。狂牛病対策のために打ち出された、輸入牛肉の検査基準の際にも感じた。勿論、政治的な判断要素が加味された上での決定なのだが、品質管理の専門家は沈黙していたように思う。一方、放射性セシウムの玄米からの検出検査については、確率論を全く無視した安全宣言で混乱を生じさせた。これらの基本的な原因は、Quality Controlが統計学を用いて許容範囲になるようにコントロールすることという基本的な考えから離れ、絶対品質を追求するための管理手法という考え方に偏ってきたためではないだろうか。
つまり、統計学という数学をもちいてコントロールを行う技術的な行為を、規定を守ることを目的とする管理手法に位置付けてしまっているように思う。日本の品質管理分野で最も有名なW エドワーズ・デミング博士(William Edwards Deming)は、かつて面会を求めた日本の専門家に対して「私は品質管理の専門家ではなく、統計学の専門家である」といわれたそうである。
もう一つの疑問は、いわゆる「品質コスト」の考え方に日本独特のものを感じる経験が度々あったことだ。日本で活発になったTQM(Total Quality Management)では、品質コストを合計したものが総品質コストであるとして、総品質コストを最小にする活動をよいとしている。総品質コストとは、予防コスト+評価コスト+内部失敗コスト+外部失敗コスト で表される金額なのだが、この中で、内部失敗コストと外部失敗コストは、経営者にとっては管理不可能な費用として非自発的原価と呼ばれている。 一方、予防コストと評価コストは、経営者が管理可能な費用として、自発的原価と呼ばれる。
従来の考え方は、自発的原価と非自発的原価の間にはトレード・オフの関係があり、予防コストや評価コストを高めていくと、内部失敗コストと外部失敗コストは減少していくので、失敗コストが多い場合には、管理可能な費用を増しても総コストは少なくなる。しかし、品質が向上して失敗コストが激減すると、ある時点で総コストはむしろ増加をしてしまう。
しかしTQMでは高度な品質管理により、高品質を求めることは長期的には一方的に総品質コストを減らすことができるとしている。このために、延々と品質管理活動が強化されるのであるが、果たしてそれは世界の通常の企業にとって合理的なのであろうかといった疑問を持たざるを得ない。一概に結論を出すわけにはゆかないが、ここにもQuality Control を品質管理と和訳した日本的な文化が強く存在しているように思える。
繰り返すが、日本は、戦後間もなく米国から品質管理を教わり、徹底的な導入を行った。そして、自らの伝統的な品質文化と融合をさせて、新たな品質管理を文明化したではないだろうか。それは奈良時代の仏教伝来を思わせる。そして、それ以降、今日まで、品質管理のイノヴェーションは持続的発展を遂げてきている。しかし、もし、日本に「独自の優れた品質管理の文化」がなかったならば、このような持続性は生まれようもないだろう。
しかし、文明化されたものも、ある限定された範囲でのみ極端に成長をすると、ある種の非合理性が入り込み、再びローカル文化に戻ってしまう。日本の現在の品質の多くに、例えばスーパーに並ぶ野菜や果物などに、それを強く感じる。メタエンジニアリングは、こうした現在の日本の品質管理のあり方を世界の文明として再生させることに役立てる必要があるだろう。
現在の日本的な品質管理文化を文明化し、より合理的かつ普遍的なものへと変えてゆく道筋に根本的エンジニアリングが関与できる「潜在化する課題」が数多くあるように思う。それは、数学を用いた工学的な技術をもっと広範囲かつ根本的に見直すことから始まるだろう。
・日本的ハイブリッド文化の文明化
第2のテーマとして、日本的ハイブリッド志向を考えてみる。
優れた日本文化の特徴の一つは、独特のハイブリッド文化だと思う。見渡すと事例はどんどん出てくる。漢字と仮名文字の併用、神仏混淆、ハイブリッド自動車などは代表例だろう。私の住まいの近くのJR 小海線では、数年前からハイブリッド電車が走っている。
ハイブリッドシステムでは、発電用のディーゼルエンジンでつくった電気と、列車のやねに積んだちくでんち(蓄電池)の電気を使い分け、モーターで車輪を動かしています。http://www.jreast.co.jp/nagano/wakuwaku/hybrid/hibrid_koumi.html
日本の文化の特異性は何であろうか。二項合体という言葉がある。神仏混淆、和魂洋才、文字の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナの混用など色々ある。多神教などを例に、多項合体という人もいる。そして、日本文化の特異性は、対立や相克を解消する不徹底さの許容にあるとされている。
日本では品質文化の中にもハイブリッド文化が入り込んできている。例えば「イチゴの味覚」である。イチゴの品質にこだわる日本人の感覚は異常である。昔、英国の片田舎でイチゴ狩りを楽しんだ。小高い丘をバケツ一つを持って歩き回り、野原に雑草のように生えているイチゴを摘み取る。品質のバラツキは大きいが、すべて本来のイチゴの味がする。
それに対して日本では、イチゴと言えば、形、大きさ、色が揃っていないと売り物にならないとされ、その上、現在、200 種類以上ものイチゴが栽培されるようになっているそうだ。最近の評判は、
岐阜県が力を入れている「濃姫」という品種だと聞いた。そして、その感想というのは「味が濃いが、すっきりとしている」、「酸味と甘みのバランスが丁度良い」といったものだった。
岐阜県農業技術センター
http://www.cc.rd.pref.gifu.jp/g-agri/breed/vegetables/pdf/nouhime-pr.pdf
日本では、すでにイチゴは、色や形を通り越し、こうした微妙なハイブリッド感覚により評価されるようになっているらしい。
これらは、ある意味では不合理である。しかし、日本人はその不合理を乗り越える能力を持っている。最近、漢字に興味を持つ外国人が増えているそうだが、世界的に発展する望みはまずないであろう。しかし、ハイブリッド自動車は世界で認知される存在になりつつある。
つまり、ハイブリッドが合理的であるとの回答が存在するということである。そのハイブリッドの回答を見つけ出し、独特の技術力により、それに真の合理性を持たせることができるのは、私は世界中で日本民族だけであるような気がしてならない。そして私がメタエンジニアリングに期待するのは、デジタルとアナログのハイブリッドである。
この回の文面は、私の原稿を友人の前田君が編集したものをブログ用に直したmのです。