生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(6) 第5話 優れた日本の品質文化の文明化

2014年03月10日 12時36分25秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
第5話 優れた日本の品質文化の文明化

日本発の特徴ある優れたイノヴェーションの創出は、優れた日本文化の文明化から生まれる。メタエンジニアリングは、その場にこそ必要なものになるであろう。優れた日本文化の文明化についての具体的な試みを示してみよう。
なお、これまで気楽に「文化」「文明」という言葉を使ってきているが、参考までに三省堂・大辞林では、それぞれ次のように説明されている。

文化〔culture〕
① 社会を構成する人によって習得・共有・伝達される行動様式の総体。
② 学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
③ 世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。
④ 他の語の上について、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。

文明〔civilization〕
① 文字を持ち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・
技術水準などが高度化した文化をさす。
② 人知がもたらした技術的・物質的所産。


・日本的品質管理文化の文明化

どうも「文化」というと地域性と不合理性というイメージ、「文明」というと普遍性と合理性というイメージが、それぞれ背後について回っているように思う。こうした語感からすると、昨今、日本的品質管理は、まさに「日本的」という言葉通り、文化的な色彩を強めていると言えよう。
私がこれを強く感じたのは、ジェットエンジンンの鋳造品の日本の輸入検査基準である。それを日本は諸外国の基準より厳しいものにした。その結果、検査コストがアップすると同時に、頻繁に不良品が発生する事態が起こった。海外メーカーの通常の検査をパスした品物が引っ掛かってしまうからである。鋳造品に欠陥はつきもので、その検査基準は長年の経験に基づいて決められていた。しかし、日本の構造設計技術者たちが応力計算をしたり、最新の破壊力学を適用したりしたら、それでは駄目だったということで、厳しくした。しかし、長い実用化の歴史の中で育った経験値と、たった1回の数値計算の結果と、いったいどちらにより多くの合理性があるというのだろうか。私の頭の中では明白であった。
これには二つの問題が含まれている。第一には、部分的な事柄にこだわって、全体を見渡す視野に欠けること。第二には、管理することにこだわって、Control をするという意識に欠けることである。

「品質管理」とは、Quality Control の和訳なのだが、第二次大戦後に米国から輸入されてから、日本独自の発展を遂げて世界一といわれるまでに成熟した。しかし、反面Control という意味から離れ、絶対的完全品質を要求する管理手法になってしまった。
Control とは、目的を達成するべく調整することであり、絶対品質の要求が、過剰品質とコストアップ要因の原因となったケースが散見されるようになってきた。狂牛病対策のために打ち出された、輸入牛肉の検査基準の際にも感じた。勿論、政治的な判断要素が加味された上での決定なのだが、品質管理の専門家は沈黙していたように思う。一方、放射性セシウムの玄米からの検出検査については、確率論を全く無視した安全宣言で混乱を生じさせた。これらの基本的な原因は、Quality Controlが統計学を用いて許容範囲になるようにコントロールすることという基本的な考えから離れ、絶対品質を追求するための管理手法という考え方に偏ってきたためではないだろうか。
つまり、統計学という数学をもちいてコントロールを行う技術的な行為を、規定を守ることを目的とする管理手法に位置付けてしまっているように思う。日本の品質管理分野で最も有名なW エドワーズ・デミング博士(William Edwards Deming)は、かつて面会を求めた日本の専門家に対して「私は品質管理の専門家ではなく、統計学の専門家である」といわれたそうである。

もう一つの疑問は、いわゆる「品質コスト」の考え方に日本独特のものを感じる経験が度々あったことだ。日本で活発になったTQM(Total Quality Management)では、品質コストを合計したものが総品質コストであるとして、総品質コストを最小にする活動をよいとしている。総品質コストとは、予防コスト+評価コスト+内部失敗コスト+外部失敗コスト で表される金額なのだが、この中で、内部失敗コストと外部失敗コストは、経営者にとっては管理不可能な費用として非自発的原価と呼ばれている。 一方、予防コストと評価コストは、経営者が管理可能な費用として、自発的原価と呼ばれる。
従来の考え方は、自発的原価と非自発的原価の間にはトレード・オフの関係があり、予防コストや評価コストを高めていくと、内部失敗コストと外部失敗コストは減少していくので、失敗コストが多い場合には、管理可能な費用を増しても総コストは少なくなる。しかし、品質が向上して失敗コストが激減すると、ある時点で総コストはむしろ増加をしてしまう。

しかしTQMでは高度な品質管理により、高品質を求めることは長期的には一方的に総品質コストを減らすことができるとしている。このために、延々と品質管理活動が強化されるのであるが、果たしてそれは世界の通常の企業にとって合理的なのであろうかといった疑問を持たざるを得ない。一概に結論を出すわけにはゆかないが、ここにもQuality Control を品質管理と和訳した日本的な文化が強く存在しているように思える。

繰り返すが、日本は、戦後間もなく米国から品質管理を教わり、徹底的な導入を行った。そして、自らの伝統的な品質文化と融合をさせて、新たな品質管理を文明化したではないだろうか。それは奈良時代の仏教伝来を思わせる。そして、それ以降、今日まで、品質管理のイノヴェーションは持続的発展を遂げてきている。しかし、もし、日本に「独自の優れた品質管理の文化」がなかったならば、このような持続性は生まれようもないだろう。
しかし、文明化されたものも、ある限定された範囲でのみ極端に成長をすると、ある種の非合理性が入り込み、再びローカル文化に戻ってしまう。日本の現在の品質の多くに、例えばスーパーに並ぶ野菜や果物などに、それを強く感じる。メタエンジニアリングは、こうした現在の日本の品質管理のあり方を世界の文明として再生させることに役立てる必要があるだろう。

現在の日本的な品質管理文化を文明化し、より合理的かつ普遍的なものへと変えてゆく道筋に根本的エンジニアリングが関与できる「潜在化する課題」が数多くあるように思う。それは、数学を用いた工学的な技術をもっと広範囲かつ根本的に見直すことから始まるだろう。


・日本的ハイブリッド文化の文明化

第2のテーマとして、日本的ハイブリッド志向を考えてみる。
優れた日本文化の特徴の一つは、独特のハイブリッド文化だと思う。見渡すと事例はどんどん出てくる。漢字と仮名文字の併用、神仏混淆、ハイブリッド自動車などは代表例だろう。私の住まいの近くのJR 小海線では、数年前からハイブリッド電車が走っている。



ハイブリッドシステムでは、発電用のディーゼルエンジンでつくった電気と、列車のやねに積んだちくでんち(蓄電池)の電気を使い分け、モーターで車輪を動かしています。http://www.jreast.co.jp/nagano/wakuwaku/hybrid/hibrid_koumi.html

日本の文化の特異性は何であろうか。二項合体という言葉がある。神仏混淆、和魂洋才、文字の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナの混用など色々ある。多神教などを例に、多項合体という人もいる。そして、日本文化の特異性は、対立や相克を解消する不徹底さの許容にあるとされている。
日本では品質文化の中にもハイブリッド文化が入り込んできている。例えば「イチゴの味覚」である。イチゴの品質にこだわる日本人の感覚は異常である。昔、英国の片田舎でイチゴ狩りを楽しんだ。小高い丘をバケツ一つを持って歩き回り、野原に雑草のように生えているイチゴを摘み取る。品質のバラツキは大きいが、すべて本来のイチゴの味がする。
それに対して日本では、イチゴと言えば、形、大きさ、色が揃っていないと売り物にならないとされ、その上、現在、200 種類以上ものイチゴが栽培されるようになっているそうだ。最近の評判は、
岐阜県が力を入れている「濃姫」という品種だと聞いた。そして、その感想というのは「味が濃いが、すっきりとしている」、「酸味と甘みのバランスが丁度良い」といったものだった。



岐阜県農業技術センター
http://www.cc.rd.pref.gifu.jp/g-agri/breed/vegetables/pdf/nouhime-pr.pdf

日本では、すでにイチゴは、色や形を通り越し、こうした微妙なハイブリッド感覚により評価されるようになっているらしい。
これらは、ある意味では不合理である。しかし、日本人はその不合理を乗り越える能力を持っている。最近、漢字に興味を持つ外国人が増えているそうだが、世界的に発展する望みはまずないであろう。しかし、ハイブリッド自動車は世界で認知される存在になりつつある。

つまり、ハイブリッドが合理的であるとの回答が存在するということである。そのハイブリッドの回答を見つけ出し、独特の技術力により、それに真の合理性を持たせることができるのは、私は世界中で日本民族だけであるような気がしてならない。そして私がメタエンジニアリングに期待するのは、デジタルとアナログのハイブリッドである。

 この回の文面は、私の原稿を友人の前田君が編集したものをブログ用に直したmのです。

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(5) 第4話 イノベーションの負の遺産

2014年03月09日 09時00分43秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
第4話 イノベーションの負の遺産

イノベーションを、その結果が社会にもたらす正と負の価値という観点で考えてみよう。イノベーションはその正の価値によって急速に社会に浸透してゆく。しかし、人間が考えだした技術であるので、必ず負の側面が存在する。負の価値という表現は少々おかしいが、正と負の大きさを比較するのだから、ここでは同じ表現にする。

この様な観点から、もう一度「MECI サイクル」を見ると、

Exploring:こうした課題を解決するに必要な科学・技術分野を俯瞰的にとらえる、あるいは創出するプロセス
⇒ 必要な科学・技術分野とを俯瞰的にとらえる時点で、捕える範囲に逸脱は無かったのだろうか?もっと広く考えるべきではなかったか?

Mining:地球社会が抱える様々な顕在化した、あるいは潜在的な課題やニーズを、問い直すことにより見出すプロセス
⇒ もう一度問い直すことに戻ると、何が足りなかったのか?それは何故なのか?

となるのだが、第1の方向は、この「EとM」の段階で新たなイノベーションの社会的価値を見極めることにある。そこで、負の価値という観点でこの二つのプロセスを捉えると、全く別の方向が頭に浮かぶ。

「イノベーションの神話」(Scott Berkun著 村上雅章訳、 出版 O’REILLY)という本がある。原題「The Myths of Innovation」で、2010 年に改定が行われているが、改訂版の翻訳本はまだ出版されてはいない。




この中では、イノベーションに関して様々な観点から面白い表現が記されている。そのことは、初めに書かれている推薦の言葉から容易に推定される。

“The naked truth about innovation is ugly,funny, and eye-opening, but it sure isn’twhat most of us have come to believe. With this book, Berkun sets us free to try and change the world.“
http://books.google.co.jp/books?id=UFqWi2Ek8f8C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false



その発想過程は、「メタエンジニアリング」に通ずるところが多々ある。そしてイノベーションの負の価値をも明確に示している。

一例は、かつて全世界のマラリアを始めとする様々な病原菌を媒介する小さな虫に使われた殺虫剤、有名なDDT の話だった。日本でも、太平洋戦争直後の国内のあらゆる場所で、子供たちが進駐軍から白い粉を頭から浴びせられる写真が評判になった覚えがある。ダニやシラミ退治のためだったと報道されていた。このDDT は間もなく発がん性物質の可能性の疑いにより世界中で生産中止になったのだが、この著書ではまるで、「風が吹けばおけやが儲かる」風の話が述べられている。

DDT の広範囲における使用がペストの大流行の原因になったと云うのである。DDTの世界的な使用とペストの大流行は時代が異なるので、不審に思って調べると、以下のブログがあった。

「空から猫が降ってくる」http://omegapg.org/?p=236



1950 年代の前半、インドネシアのボルネオ島に住んでいるダヤック族の間で、マラリアが蔓延していました。マラリアという伝染病は、感染すると吐き気や高熱などの症状を引き起こして、感染した人を死に至らしめることもあります。
この事態を重くみた世界保健機関(WHO)は、マラリアの病原菌を媒介している蚊を駆除するために、DDTという殺虫剤をダヤック族の村に散布しました。そしてWHO の思惑通り、この作戦は見事に成功しました。散布したDDT は蚊を駆除し、マラリアに感染するダヤック族の人々は劇的に減りました。
すると今度は不思議なことに、ダヤック族の人々の間でチフスやペストの伝染病が蔓延しました。事態はマラリアの時と同じくらい、もしくはそれ以上に深刻です。よく調べてみると、その原因は大量発生したネズミでした。大量発生したネズミがチフスやペストの伝染病を撒き散らしていたのです。なぜネズミが大量発生したかというと、WHO が蚊を駆除するために撒いたDDT は、蚊だけでなく他の多くの虫も駆除してしまっていたのです。WHO が撒いたDDT で死んだ虫をヤモリが食べて、ヤモリがDDT に汚染されました。DDT に汚染されたヤモリを猫が食べて、多くの猫が死んでしまいました。猫はネズミの天敵です。ネズミを食べる猫が大量にいなくなったために、ネズミが大繁殖したのです。この事態を深刻に受け止めたWHO は、今度はダヤック族の村めがけて、パラシュートでたくさんの猫を送り込みました。これは、WHO が行った「猫降下作戦」です。




この作戦によってネズミの数は減り、チフスやペストの伝染病はおさまり、ダヤック族の村には平和が戻ったとのことです。これは、本当にあった有名な話です。ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
空から猫が降ってくると言うと、何かの怪奇現象のように聞こえます。しかし、この出来事が起きるまでには筋の通った過程がありました。DDT を散布したことが原因となり、その結果として虫がDDT に汚染されました。DDT に汚染された虫をヤモリが食べたことが原因となり、その結果としてヤモリがDDT に汚染されました。DDT に汚染されたヤモリを猫が食べたことが原因となり、その結果として猫が死にました。猫が死んだことが原因となり、その結果としてネズミが増えました。ネズミが増えたことが原因となり、その結果として猫が空から降ってきました。このように、空から猫が降ってくるという出来事が起きるまでには、何かが原因となってその結果が生まれ、その結果が何かの原因となってまた新しい結果が生まれ、その結果が何かの原因となってまた新しい結果が生まれ、という原因と結果が連続する過程を見ることができます。     


「イノベーションの神話」では、続けて自動車事故による世界中での年間死亡者数の問題について述べている。日本国内でも年間1万人を超えた年が何年間も続いたのだが、その間の事故を減らす対策は、概ね交通システムに関するもので、自動車自体への対策は十分ではなかったように思われる。最近になってようやく自動車自身に様々な工夫を取り入れる風潮が現れたが、根本的な事柄はなんら解決されていないと指摘する。さらに電気自動車に触れて、電池式自動車はおそらく急激に広がるだろうが、世界中で電池の大量生産、それに続く電池の大量廃棄が始まると有害物質問題がクローズアップされるとしている。
 
導き出される結論は、イノベーションはいずれ世界中を席巻することになるのだから、初めから公害等が起こらない工夫を全ての面にわたって充分に配慮すべきであるというである。

ある発明がその正の価値の大きさに注目されて、プロセス・イノベーションが急激に起こり、全世界に行きわたるようになる。そうすると、初めから存在した負の側面が覆い隠されてしまい、それに対する対策が不可能なまでになる過程が見えてくる。

イノベーションは、ある文化の中で発生するのだが、それが全世界に広がり、ある時間が経過すると文明になる。文明にまで高められたものが、真のイノベーションと言えるものなのだろう。
イノベーションが負の価値を背負ったままでは、遠い将来にその時代のエンジニアリングレベルは
いったいどう判断されることになるのだろか?これはイノベーションを自身の業務として目指す科学者や技術者に聞いても意味ないことだろう。



ある発明がイノベーションにまで成長するためには長い年月を必要する。プロセス・イノベーションとビジネス・イノベーションの期間が必要だからである。しかし、この間に「メタエンジニアリング」によって、十分に「負の価値」についてのエンジニアリング的な検討を行うことができる。そして、だからこそ、「メタエンジニアリング」による検討が重要視されることになると考える。

この回の文章は、私の原稿を友人の前田君が編集してくれたものを、ブログ用に直したものです。次回からは、優れた日本文化の文明化についての具体例をいくつか示そうと思う。

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(4) 第3話 優れた日本文化の文明化

2014年03月07日 08時12分00秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
第3話 優れた日本文化の文明化

先に挙げた司馬遼太郎の文明論には、
「普遍性(かりに文明)というものは一つに便利と云う要素があり、一つにはイカさなければならない。たとえばターバンはそれを共有する小地域では普遍的だが、他の地域へゆくと、便利でないし、イカしもせず、異常でさえある。」とあった。
つまり、「普遍的であってイカすものを生みだすのが文明である」というわけなのだ。イカすものとは何であろうか。



 この論理は一見おかしなことのように見えなくもないが、具体的に考えると良く分かることのようだ。例えば、ある国家なり民族が活気なり繁栄なりを望んで、新たなものをその地域全体に導入しようと考えたとしよう。その際に、優れた文明であればスムースに進められるが、特定の文化であれば、いかに優れていても容易ではなかろう。そのことは、はっきりとした意思表示であっても、無意識的な流行の形であっても、大きくは変わらないように思われる。

 この端的な例がソニーのウォークマン伝説の中にある。少し長くなるが、工学アカデミーの専門部会で委員の小松氏が話された内容を、ご本人の了解のもとに引用させて頂くことにする。

「メタエンジニアリングの場のあり方」、 小松、2011.12.5
ソニー「GENRYU源流」より、ウォークマン

ウォークマンのイノベーションは大きく2段階に分けられる。
・コンパクトカセットの普及
・歩きながら聴けるステレオ・ウォークマンの開発
これらの開発がMECIのサイクルに沿って進んだか否かを書かれている内容から調べてみる。

1. コンパクトカセットの普及
1) 潜在的課題、ニーズは1950~1960年代に普及していたオープンリールのテープレコーダーを使いやすくするという、メーカーならごく当たり前の発想で、一般消費者のニーズとも合致していた。
2) しかし、必要な技術の俯瞰的把握・創出、この場合は使いやすさを実現可能な「技術の選択」になるが、1958年にアメリカのRCAが磁気テープを「カートリッジ」に収めたものを考案し、それに刺激されて世界中でケースに収めた磁気テープを開発し始めた。実現するうえで技術的に致命的に困難な問題はなかったと思われる。アイデアがあれば実現は容易というべきか。しかし、オープンリール方式とは使いやすさが格段に違い、子供やお年寄りでも操作ができる大きなイノベーションにつながった。
3) 科学・技術分野の融合については詳しい記述がない。カートリッジ試作、商品化におきな技術的困難はなかったためと思われる。
4) 次の段階であるImplementationにおいて標準化というハードルがあった。今回の場合、多くのカセットが開発される中で、1963年ドイツのグルンディッヒ社からソニーに「DCインターナショナル」というカセットを規格化しようという提案があった(ソニー以外へも提案はあったと思われる)。続いて、オランダのフィリップス社より「DCインターナショナル」より少し小さい「コンパクトカセット」の提案があった。フィリップスは既に発売に踏み切っていた。ソニーとして小型という点からコンパクトカセットを選びたかったが、フィリップスは1個25円のロイヤリティを要求してきた。これは飲めないので交渉を続けついに特許の無償公開にこぎつけた(フィリップスが無償で折れた理由は不明)。
5) 標準化が終わればImplementationは完了である。カセットレコーダーは1966年ころから各社で発売され始めた。当初は音質が良くなかったので学習用に導入されたが、音質が改善されハイファイサウンドを録音再生できるまでになった。まだオープンリールの時代であった1965年の日本の磁気テープ生産は35億円であったのが、1981年にはオーディオテープだけで1,300億円になった。

2. 歩きながら聴けるステレオ・ウォークマンの開発
1) 1978年ころ、ステレオ型のカセットレコーダーは普及が進んでいたが、ポータブルタイプはまだイヤホンを使ったモノラル型のみであった。ソニーは1977年にモノラル型の小型テープレコーダー「プレスマン」を発売していた。1987年にはポータブル型のステレオ型録再機を発売し、井深は日頃から海外出張にこれを持参していたがやはり「重くてかなわない」という思いであった。そこで、海外出張を控えたある時、大賀副社長にプレスマンをステレオ再生専用機に改造してくれないかと持ちかけ、依頼を受けた事業部長は早速改造し、井深はこれが大変気に入った。帰国後、井深はそれを盛田に紹介すると盛田も気に入り早速商品化の話になった。ターゲット顧客は学生で、価格は学生に手の届く33,000円に決めた。しかし、カセットレコーダーから録音機能を取り再生専用とするコンセプトでは「絶対に売れない」との意見が大半を占めていたので井深、盛田がやろうと決めなければできない話であった。これが、Miningプロセスである。Miningがイノベーションのキーである場合は特別な感性、条件が必要とされるようだ。
2) Exploring、Convergingのプロセスでのポイントは、偶然に超軽量、小型ヘッドホンが別の部隊で開発されていたことで、歩きながらステレオを楽しむというウォークマンのコンセプトに合致した。そのほかは音質の改善など一般的な技術開発はあったものの特に致命的な問題はなかったと思われる。
3) Implementationの最初はマスコミ発表であるが、マスコミの反応は冷やかでほとんど無視され、発売当初1か月の売り上げはたった3,000台というありさまであった。そこで、営業スタッフや新入社員が山手線、銀座の歩行者天国などでデモし、通りがかった人にヘッドホンを差し出して聴いてもらった。評判は口コミで徐々に広まり、初期ロット3万台は発売翌月で売り切れた。その後は増産に次ぐ増産で、ヘッドホンステレオという新たな市場を作り出し、発売10年で累計5000万台、13年で1億台を達成した。

以上が、小松氏のレポートである。

この話の中では、イノベーションと文明に関する多くのことが凝縮されている。先ずは、イノベーションの条件である推進する組織のトップの強い意志である。これが第1の絶対条件だと思う。イノベーションを起こすためには巨大な投資が必要であり、多くの場合それに伴うリスクをヘッジする手段は無い。トップの強い意志が無かったために、優れた発明や新製品が小さな市場の場での実現に留まってしまったケースは無限にあるように思われる。
 次に文化の文明化の二つの条件となる、①合理性と、②イカしている、なのだが、これが見事に反映されている。

「ソニーは1977年にモノラル型の小型テープレコーダー「プレスマン」を発売していた。1987年にはポータブル型のステレオ型録再機を発売し、井深は日頃から海外出張にこれを持参していたがやはり「重くてかなわない」という思いであった。そこで、海外出張を控えたある時、大賀副社長にプレスマンをステレオ再生専用機に改造してくれないかと持ちかけ、依頼を受けた事業部長は早速改造し、井深はこれが大変気に入った。」 
のくだりである。
 
ポータブル型のステレオ型録再機からステレオ再生専用機への改造である。当時は、たとえ小型テープレコーダーであっても、録音機能は必須のものであるとの認識が当時の開発陣にも技術者にも強くあったようだが、再生専用機にするという合理化とそれによって容易に持ち歩きができる小型化が実現したことと、更に銀座でのデモンストレーションにより、イカシテルとの評判を得たことだろう。そこで、普遍性が生まれたのだ。司馬遼太郎の「普遍的であってイカすものを生みだすのが文明である」という定義が見事に的中していると思う次第である。

 文化は、いかに優れていてもそのままでは文明化はしない。グローバル的な視野で「イカすもの」への変化をもたらすものは、優れたアイデアなのだが、ソニーの例のように個人的なセンスが大きな役割を果たすことができる。しかし、文化に「普遍性」をもたらすものは、エンジニアリングの役目であるように思える。しかも、通常の専門化されたエンジニアリングではなく、視野を人文科学や社会科学に大きく広げたエンジニアリングなのであろう。

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(3) 第2話 文化に対するメタエンジニアリングの役割

2014年03月06日 19時52分10秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
第2話 文化に対するメタエンジニアリングの役割

メタエンジニアリングは、如何なるものを価値観の中心に据えて考えるべきであろうか。日本工学アカデミーの提案では、日本発のイノベーションの継続を目指したものだったのだが、社会科学的に考えれば、イノベーションの継続は、もはや経済発展だけのものであってはならない。それは、現代の人間世界が抱えることになった様々な解決困難な大問題をさらに大きくするだけのことになるであろう。

メタエンジニアリングによる価値観は、より根本的であるべきで、そこにのみメタエンジニアリングたる所以があると考える。それは、文明の継続と進化であろう。
文化と文明、文明と人間、文明における科学など過去に多くの著書が発表されている。そして、現代において文化と文明に最も大きな影響力があるのは、エンジニアリングである。このことは、20世紀初頭にハイデッカーが喝破したとおりに進んでいる。個々のエンジニアリングは現代文明をつくりだしたが、同時に現代の諸問題もつくりだした。

技術者がものごとをデザインする際に、文化や文明を意識することは皆無であった。かのアインシュタインでさえ、核兵器が将来の人類の文明に与える影響を深くは考えなかったのではないだろうか。しかし、逆説的に考えると、全ての文明がエンジニアリングの結果であるとするならば、エンジニアリングが先ず考えるべきことは、文明への影響であると云うことになる。そして、そのことを実践する手段がメタエンジニアリングの重要な一分野であろう。

文明と文化については、先に述べたように司馬遼太郎のアメリカ素描の文章が多くの識者によって引用されている。しかし、それはある見方であってほかの見方も多く存在する。先ずは、それらを少し調べてみることにする。世界中(とくにキリスト教圏)で使われている文明ということばと、日本での認識には微妙な違いがあることに気づかされる。

「文明と人間」東京大学公開講座33(東京大学出版会)1981には、伊藤俊太郎氏(科学史)の文章で、この様に述べられている。





「日本において“文明”を最初に論じた書物は福沢諭吉の「文明論之概略」(明治8年 1875)といってよい。ここで福沢が“文明”という言葉をどのような意味で用いたかというと、それは英語の「シヴィリゼイション」(civilization)の訳であるとことわり、「文明とは人の身の安楽にして心を高尚にするを云うなり、衣食を豊かにして人品を貫くするを云うなり」といい、「又この人の安楽と品位とを得せしめるものは人の知得なるが故に、文明とは結局、人の知得の進歩と云て可なり」としている。」とある。



これは、司馬遼太郎の定義とは大いに異なる。ついでに「文明開化」という言葉に触れて、西周がcivilizationを当時「開化」と訳し、両方が並存して「文明開化」の語が生まれたとしている。その後、日本における考え方の変遷と、諸外国特にヨーロッパにおける認識の歴史を述べた後で、やや結論的に「文化・文明の二つの考え方」として纏めている。そこを引用する。
「結局、これまでの話で“文化と文明”については二つの考え方があることがおわかりいただけたのではないかと思う。一つは文化と文明は本質的に連続したものであり、文明は文化の特別発達した高度の拡大された形態であるとするものである。したがって最初の原始的な状態は“文化”であり、それがある高みにまで発展して、広範囲に組織化されたものになると“文明”になるという考えかたである。(中略)もう一つの“文化と文明”に対する考え方は、“精神文化”と“物質文明”というように、これが連続的なものではなく、かえって対立したものとしてとらえるものである。つまり哲学、宗教、芸術の様な精神文化と、科学、技術というような物質文明は本質的に異なっており、一方は内面的なものであり、他方は外面的なものであり、一方は個性的なことであり、他方は普遍的なものであり、一方は価値的なものであり、他方は没価値的なものである、というような対立でとらえてゆく。」とある。

「文明・文化・文学」有賀喜左衛門著、(お茶の水書房)1980では、次のように述べられている。
「私が文化と考えているものは特定の民族が示している個性的な生活全体を意味しているのであります。これは通例いわれているように政治や経済、社会を除外したものではないと重ねていっておきます。だから特定の民族の歴史的、社会的、心理的、情緒的特質が認められるのであります。(中略。この間に、資本主義や共産主義が国によって異なった形態で存在することを例証として挙げている。)単純に言えば、特定の民族の文化は、他の民族に伝播させることができるのでありますが、伝播させることのできる文化は特定の民族から抽出することのできる側面であり、普遍化することのできる要素に限られているのであって、この民族の生活全体として他の民族に移し植えることはできないのであります。」
これは、司馬遼太郎の定義と同じ意味に捉える事ができる。



ここで、全ての解釈に共通することは、グローバル化のためには普遍性が必要であり、それは文化の文明化であると云うことであろう。文化に留まっていたのでは、いかに優れたものであっても、それのみでは文明に至らずに、その中の普遍的なもののみがグローバル化が可能になると云うことなのだ。また、それが可能なものは、優れた文化からのみ発することも自明である。そして、今後はこの役割もエンジニアリングの一端と考えなければならない時代になってしまっていると云うことではないだろうか。

さらに、「科学技術と知の精神文化」副題―科学技術は何をよりどころとし、どこへ向かうのか(社会技術研究センター編、丸善プラネット)2011の中で、村上陽一郎氏が次のように述べている。

「文明とよばれるには、文化にプラスアルファとなる「X」がなければならないのではないでしょうか。この「X」が、工業化や民主化のようなヨーロッパ近代の社会組織に係わるものとすれば、古代エジプト文明も、古代ローマ文明も、古代中国文明も、メソポタミヤ文明も、「文明」と呼ばれなくなるはずです。(中略)では、civilizerあるいはcivilizeという動詞、つまり「市民化する」とか、もう少し別の意味を用いれば「都市化する」と云う言葉は、どういう成立過程があったのでしょう。(中略)
すると、先ほどの「X」にあたるものはどういうものになるのでしょうか。「文化」になにがプラスされれば「文明」とよばれるようになるのでしょうか。私の仮説では、自然に対する攻撃的な支配が文明のもつ一つの特徴になると思います。つまり、自然を自然のままほおっておくのはむしろ悪であり、人間が徹底して自然を管理したり、矯正したりすべきという考え方が「X」に来るわけです。」
とある。
氏は、東大教授(教養学部、先端研)の後に、東洋英和女学院大学学長を務められ、科学史と科学哲学の第一人者とされている方だ。
これは、ハイデッガーの「技術に問う」と共通する考え方があるように思う。

この様な色々な文明に対する科学的な見方をとおして感じられることは、やはり、エンジニアリングが文明というものに対してもっと積極的に考察を深めるべきであると云うことでないだろうか。

日本の文化は世界的に見ても素晴らしいものだとの観念がある。それは、正しいと思う。しかし、文化と文明の違いを明確にすると、いかに優れた文化でも、普遍的でなければ文明にはなりえないと云うことなのだ。そこで、自己の文化における普遍的でない部分は何なのか、普遍的なものにしてゆくためには、何を考えて改善してゆくべきなのかと云う課題が見えてくる。この様な条件を総合的に考えてゆくと、メタエンジニアリングこそが、この様な「潜在する課題の発見」に最も適した、唯一の方法論であるように思われるのだが、いかがなものであろうか。
 このような思考過程で、「日本の品質文化」や「日本の省エネ文化」を考えてみた。これらは、日本発の「品質文明」や「省エネ文明」に育ててゆくべきものだと、つくづく思う次第です。


メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(2) 第1話 正しいイノベーションは文化の文明化から

2014年03月05日 11時10分13秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
第1話 人にとっての正しいイノベーションは文化の文明化から

メタエンジニアリングの実践の第一歩はイノベーションに繋がりそうな「潜在する課題の発見」であろう。その一つを司馬遼太郎の著書の中に見ることができる。

「アメリカ素描」司馬遼太郎、読売新聞社、昭和61年発行

司馬遼太郎は、著書の中で文明と文化について触れることが多い作家である。彼の定義は一貫しているのだが、その中でも「アメリカ素描」の冒頭の文章が分かりやすい。また、そのことに関連してイノベーションに通ずる一文があったので、敢えて紹介する。P17からの引用;(昭和60年ころの諸事情であることを念頭に)



「アメリカへゆきましょう、と新聞社のひとたちが言ってくれた時、冗談ではない、私にとってのアメリカは映画と小説で十分だ、とおもった。それにアメリカは日本にもありすぎている。明るくて機能的な建築、現代音楽における陽気すぎるリズム、それに、デトロイトの自動車工場の労働服を材料にみごとに“文明材”に仕立てたジーパン。
ついでながら“文明材”と云うのはこの場かぎりの私製語で、強いて定義めかしていえば、国籍人種をとわず、たれでもこれを身につければ、かすかに“イカシテル”という快感をもちうる材のことである。普遍性(かりに文明)というものは一つに便利と云う要素があり、一つにはイカさなければならない。たとえばターバンはそれを共有する小地域では普遍的だが、他の地域へゆくと、便利でないし、イカしもせず、異常でさえある。
ところが、ジーパンは、ソ連の青年でさえきたがるのである。ソ連政府はこの生地を国産化してやったそうだが、生地の微妙なところがイカさず、人気がでなかったといわれる。
普遍的であってイカすものを生みだすのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はなさそうである。そう考えはじめて、かすかながら出かける気がおこった。」


その後で司馬は、
「ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なものも・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまり普遍的でない。」
としている。

ここで、ジーパンに即してイノベーションを考えると、イノベーションは特定の固定化された文化のみからは生まれずに、それが何らかのプラスアルファで文明化したときにイノベーションとしての可能性が生まれると云うことではないだろうか。

 文化の文明化とは、ある文化に多くの他の文化が混入して出来上がってゆくものである。古くは、古代エジプトやローマ、黄河文明も最終的には多民族の融合により生まれた。トインビーが云う日本文明も、奈良時代までの諸民族の文化の混入により出来上がったものと思う。明治の初期を文明開化と云うのが、正にあたっている。一方で、鎌倉文化や江戸文化などは、それ自体は前者よりも内容的に優れているのだが、文明とは呼ばれない。

 イノベーションの持続的発生は、従って文化の文明化のプロセスの中で可能になるように思われる。幸いにして、日本には文明化が可能な優れた文化が沢山あるではないか。「潜在する課題の発見」の入口が、そのあたりにも多数あるのだろう。

 司馬の本の後半には、品質について似たようなことが書かれている。
「近代工業以前ながら、日本には江戸期、大工や指物師の世界で“文化”としての品質思想は濃密に存在した。(中略)、それらはあくまでも個々の情熱と自負心と技量に依存した“文化”であって、法網のように普遍性のある“文明”ではない。第二次大戦下のアメリカは、品質管理というこの課題を、お得意の思想として“文明化”したのである。」

 この文章にも日本的イノベーションの入口が見える。日本は、戦後間もなく米国から品質管理を教わり、徹底的な導入を行った。それは、奈良時代の仏教伝来を思わせる。そして、自らの品質文化と融合をさせて、新たな品質管理を文明化したではないか。そして、それ以降今日まで、品質管理のイノベーションの持続的発展を実現している。もし、日本に「独自の優れた品質管理の文化」が無かったならば、そのような持続性は生まれようもない。

しかし、文明化されたものも、ある限定された範囲でのみ極端に成長をすると、ある種の非合理性が入り込み、再びローカル文化に戻ってしまうのではないだろうか。日本の現在の品質の多くに、例えばスーパーに並ぶ野菜や果物などに、それを強く感じる。メタエンジニアリングは、それらを再び、世界の文明として再生させることにも役立てなければならない。

日本発の特徴ある優れたイノベーションの創出は、優れた日本文化の文明化から生まれる。メタエンジニアリングは、その場にこそ必要なものになるであろう。現代のイノベーションは世界のどこででも通用するものでなければならない。日本国内だけのヒット商品は、世界市場ではいずれかの国の同等商品に勝てないケースが益々多くなるであろう。「イカシテル」を認識することからスタートしてみよう。

文化は、限られた地域でのみ特別な価値を持つもので、他から見ると不合理なところが存在する。文明は、優れた文化から発展するのだが、文化に較べて普遍的な価値を持ち、かつどの地域においても不合理さが感じられず、「イカシテル」と感じられる。

最近、「クールジャパン」という言葉をよく聞かされる。日本発の文化が特定の外国人に「イカシテル」と感じられているようである。しかし、「ジャパン」という字が付く限りは、まだ普遍的ではないという意味が含まれているように思う。
つまり、日本発の特徴ある優れたイノベーションの創出は、優れた日本文化から生まれるのだが、生まれたのちに他から見ると不合理なところを排除して、かつより普遍的な価値(単に、品質や便利さのみではなく、イカシテルなど)を付加しなければならない。この二つの引き算と足し算の実行は、通常のエンジニアリングでは不可能で、社会科学や人文科学を含むメタエンジニアリングが求められるという訳である。

日本の文化の特異性は何であろうか。二項合体という言葉がある。神仏混淆、和魂洋才、文字の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナの混用など色々ある。多神教などを例に、多項合体という人もいる。そして、日本文化の特異性は、対立や相克を解消する不徹底さの許容にあるとされている。



一方で、そのような日本文化に根差す日本文明は、西洋物質文明の行き詰まりの先にある、唯一の超古代から続いた独立文明であるという考えかたが広がりつつある。かつてそのようなことをアインシュタインが日本を去るにあたって述べたとも言われている。トインビーの有名な「歴史の研究」で示された、「日本文明は、西洋物質文明に感化されて衰退に向かっている」という説を否定して、更なる発展を持続するためにこそ、メタエンジニアリングは用いられるべきであろう。