生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(53)玉川上水と東八道路

2018年12月31日 14時24分50秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(53)  題名;玉川上水と東八道路

場所;東京都 年月日;H30.12.28
テーマ;新しい道路の開通   作成日;H30.12.31 アップロード日;H30.12.31
                                                      
TITLE: 玉川上水と東八道路

 東八道路とは、八王子から新宿までの第2甲州街道とも呼ばれるもので、私が学生時代には、すでに東府中と三鷹の間を走った覚えがあるから、着工から50年はゆうに経っている。その道路が、ようやく完成の目途が見えてきたようだ。
 最期の工事区間は三鷹市の新川から甲州街道の上北沢までで、どうも新宿までは諦めたようだ。私は、ずっとこの道は、青梅街道と甲州街道の間を通して、新宿まで行くものとばかり思っていたので、残念だ。これだと、甲州街道との合流は、中央道の高井戸インター出口と一緒になるので、さぞかしひどい渋滞が起こるだろう。
 
ところで、我が家からまっすぐに北に進むと井の頭線の高井戸の駅にぶつかる。その丁度中間に、玉川上水が流れている。そこが今回の工事区間の中間になっている。
 私は、そこから玉川上水を上流に向かって、井の頭公園までのウオーキングを年に数回楽しむことにしている。高井戸の駅には、神田上水が流れており、そこからも井の頭公園に行くことができる。そちらは両岸が住宅街で、神田川は川底も土手もすべてコンクリートで固めてあるのだが、玉川上水はすべて自然のままになっているのが嬉しい。




 私は、上流側と下流側を二日に分けて歩き、正確な道路の場所と、工事の進捗状況を見ることにした。先ずは、上流側。

 岩崎通信機の事務所と工場の角からその道は始まる。すぐ先に、国学院久我山校があるので、学生が通う道になっている。東八道路は、上水を挟んで北側が上り線、南側が下り線になっており、両側とも、上水沿いには遊歩道が完成している。今日は下り線に沿って歩いてみた。



 この道は、やや単純で橋も少なく、途中にベンチが一つあるだけだった。道は、牟礼橋というところで、左に急カーブをしている。実際に走るときには、さぞかし見通しが悪かろうと思ってしまう。ここは、複雑な交差点にもなりそうで、工事の人に聞くと、「開通はまだずうーと先です」と云われてしまった。




 ここから道路と分かれて、上水沿いを進んだ。井の頭までは公園もトイレもない、寂しい道がつづく。
井の頭では、万助橋というところに出る。井の頭動物園の端になる。ついでに拠ると、冬の早朝で客はほとのどなく、猿やリスが寛いでいた。ここのリスは人懐っこくて、ズボンを駆け上がり、背中でもそもそとやってくれるのが楽しい。





 日を置いて、今度は下流へ向かった。こちらは住宅が密集していて、犬の散歩道になっているようだ。







 少し歩くと交差点に出会う。左へ行けば、井の頭線の富士見の駅になるのだろう。
その先で、中央道が上にのしかかってくる。




ここからは既に車が走っていて、将来の渋滞を思わせる風景だった。



メタエンジニアの眼シリーズ(98) 「文明の構図」 (その1)

2018年12月30日 16時02分26秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(98)TITLE:  「文明の構図」 (その1)                         

書籍名;「文明の構図」 [1997] 
著者;山崎正和 発行所;文藝春秋
発行日;1997.3.20初回作成日;H30.12.29 最終改定日;H30.12.30

引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 著者は、劇作家だが、サントリー文化財団副理事長、複数大学(東亜、LCA大学院)の学長、文化功労者。1990年に福沢諭吉の「脱亜入欧」をもじって、「脱亜入洋」(洋はオセアニア)を提唱。
 この著書は、3つの構図(空間の構図、知の構図、感情の構図)を纏めているが、過去の著作をそれぞれに当て嵌めただけで、「空間の構図」を除いては、構図というよりは各論になっている。その中から、2つの文章を(その1)と(その2)に纏める。

1.東アジア文明の誕生

 この文章は、次の言葉で始まっている。
 『「一匹の妖怪が世界を徘徊している―東アジアという妖怪が」。もしもカール・マルクスが生きていたら、いささかの困惑をこめてこう述懐したかもしれない。 マルクスが「ヨーロッパに徘徊している」と信じた妖怪、共産主義は死んでしまったし、それと時期を同じくして 、彼が「アジア的停滞」の一語で片づけた東アジアが、急速な経済成長を遂げているからである。
しかし、世界を徘徊しているのが一匹の妖怪であることはまちがいない。それは漠然と東アジアと名づけられ、巨大なエネルギーの存在を感じさせるが、いざ正体を見届けようとすると、はっきりした顔も輪郭も持たない怪物である。それはーつの地域なのか、一つの人種の集まりなのか、それともーつの文明の名前なのか。』(pp.9)
 これは、世界情勢は一世紀を待たずして、構図が大きく変化することを示している。以下は、「文明の構図」としては、西欧文化と東洋文化を常に対照的に見ている。冷戦後の現代社会における状況については、次のようにある

『冷戦後のアジアが二極体制の抑制を失い、民族主義的な不満を爆発させて、地域紛争の渦に巻き込まれるだろうと予言する。またエーロン・フリードハーグ氏のように、アジアアジア諸国が成長して大国化すれば、かつてヨーロッパがたどった歴史を再現して、国家間の戦争をすら繰り返すだろうと予言する。しかしマブバニ氏は、そういう観測は西洋人の一元的歴史観のもたらす妄想にほかならず、現実を見れば、アジア地域はむしろ現在のヨーロッパ以上に安定の条件に恵まれているという。』(pp.13)
 この、「西洋人の一元的歴史観のもたらす妄想」という言葉は、文化や文明論では、しばしば用いられている。

 一匹の妖怪が世界の文明の構図を変えてゆくということで、それは価値観の持ち方がまるっきり異なっているところで起こり得る。そのことについては、次のように明言している。
『いったい、西洋人は世界観のうえで独善的であって、民主主義や資本主義といった、西洋起源の特定の概念が普遍的だと信じこんでいる。それにとらわれて、彼らは同質の社会だけで団結しようとするのであるが、アジア人は互いの文化のみならず、価値観すら多様であることを認めることができる。そのために、この地域では政治体制と倫理観の違いをも超えて、ただひとつ、経済発展のダイナミズムが全域を統合しうるのだという。 』(pp.14)
 
そして、究極的には、「太平洋を舞台に、東西の文明が融合する」可能性を指摘する。日本は、アジア的な価値観を次第に失ってゆくのか、あるいは再び目覚めるのかは、どちらもあり得るように思われる。

文明は、大きく分けて二つに分類される。世界文明と民族文明であり、過去の文明は「民族文明」であったとしている。そして現代の西洋文明のみが「世界文明」としている。(pp.17)

 西洋文明だけが世界文明に育った道筋については、次のような説明に拠っている。
『私の見るとこ、この統治と言語の二重支配の構造こそ、まさに「西洋世界文明」の誕生の始まりであった。 このときから、西洋はローマ帝国の伝統を傘とし、キリスト教文明を大枠として持ちながら、そのなかで内部の他者として民族文明を生かしうる 、世界文明の道へ踏み出 したのである。 』(pp.18)

 それに対してアジアでは、「仏教文明」が世界文明になる可能性があったのだが、「民族文明」どうしが化学変化を起こすためには、そこに触媒として、普遍的な「世界文明」の傘が必要なのある。であるが、アジアにはこの文明の二重構造が成立しなかったからである。』(pp.21)

 つまり、「キリスト教文明を大枠として持つ」ということが、アジアでは成り立たないということなのだが、現代の「世界的な諸問題を解決する新たなテクノロジー」は、大枠にはならないのだろうか。

 文化と文明の違いについては、次のようにある。
『ひとことでいえば、文化とは半ば意識下にまで根をおろした生活様式であり、身体的に習熟されて慣習化した秩序を意味している。 これにたいして、文明は完全に意識化された生活様式であり、 観念的に理解される秩序のことであって 、両者は連続的なグレーゾーンをはさみながら、しかしはっきりと分極している。例をあげれば、イギリスの議会制度や機械工業は文明であるが、議員の演説の文体や、機械を操る微妙な身体的ノウハウは文化である。 西洋の音階とリズムの体系は文明であるが、個々の演奏者の身についたスタイル、作曲家の体臭にも似た個性は文化にほかならない。当然ながら、文化は頑固に変わりがたいが支配の範囲は狭く、文明は広く伝播しうるが意識的に捨てることもやさしい。.』(pp.29)

 この分類に従うと、ハンチントンの云うところの「文明の衝突」は、東洋では起こりえないよ云う。彼は文化と文明を混同しており、文化の衝突は起こりえず、文明は民族固有の文化ほどの頑固な属性はない(つまり、「意識的に捨てることもやさしい」)からというわけである。

 諸文化を残したままでの世界文明へのプロセスは、大枠の存在いかんに係るとのことなのだが、一神教と多神教の様々な宗教が交錯する現代では、思想的な大枠は成立しがたい。むしろ、気候変動、地球温暖化、格差の拡大といった、世界共通の問題を解決するためのテクノロジーが大枠になる可能性があり、メタエンジニアリングが、それを支えるためのバイブルになればと思ってしまう。



メタエンジニアの眼シリーズ(97) 科学の統一 

2018年12月29日 07時17分40秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(97) TITLE: 科学の統一                            

書籍名;「自然科学と社会科学の統一」 [1973] 
著者;フィードラー 発行所;大月書店 発行日;1973.4.26
初回作成日;H30.12.27 最終改定日;H30.12.28

引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



この書の原題は、『「統一科学」か科学の統一か?』で、1971年に発行されている。まだ社会主義と資本主義との勝負が決着していない時期(特に、ソ連が米国に先駆けて人工衛星を打ち上げたことは、資本主義側にとっては驚愕だった)に、どちらも唯物論(すなわち、人類による工業製品の生産競争)と新実証主義(のもごとの科学的な証明)を競っていた。特に、ドイツ社会主義においては、完全な社会の構築のためには、科学の統一により国家を運営することが必須と考えていたようである。

 この著書は、「メタ科学」的な思考が盛り込まれている。しかし、本書では、「科学」の中に、「技術諸科学」を含めており、更に生産的機能を含む社会的諸機能を対象としているので、「メタエンジニアリング」の範囲も含んでいると考えるべきと思う。

この著書の狙いは、巻末の「解説」に、訳者の岩崎充胤氏によって述べれている。
『本書の主題が自然科学と社会科学との統一の問題を通じて科学の統一の問題を詳細に研究すること、そのさい、新実証主義の「統一科学」理論を批判しながら、マルクス・レーニン主義的な科学の統一の構想を展開することにある、・・・。』(pp.293)
 
その狙いを「緒言」では、このように書かれている。
『科学を首尾一貫して社会的再生産過程のなかに含ませ、社会主義的な大規模な研究を発展させ、精神的=創造的諸過程の有効性をそれらの合理化によって向上させる、という目標設定にある。この目標は、社会主義的な科学組織にもとづいてのみ十分に広範に達成することができる。社会主義的な科学組織の最も重要な課題の一つは、問題と過程とにそくして志向された学際的「間分化的」な研究を実現し、これをつうじて、構造諸科学、自然諸科学、技術諸科学およびマルクス・レーニン主義的社会諸科学の統一を全般的に実現するとにある。 』(pp.3)
 
この表現は、当時のドイツ科学アカデミーの議論とドイツ社会主義統一党の科学政策の委員会での議論に即している。
 「科学」に関しては、アリストテレス、ベーコン、デカルト、ライプニッツ、カントなどの名を挙げ、『歴史的な事実は、現在においても科学はその諸規定の全体において哲学の正当な対象である、という結論を示唆しうるかもしれない。 しかし、このような結論にたいしてはとくに二つの決定約な要因が反対している。第一に、科学は根本的な変化を経験してきている。 人間の知識の範囲と科学的認識の発展のテンポとは、驚くべき規模に達している。科学によって代表される人間の知識の貯えは、ひとつの科学―たとえば哲学―によってはもはやつかみえないほどの広がりをもつようになった。この発展と手をたずさえて、すでに特徴づけたような科学の社会約な存在様式の徹底約な変容が進行している。社会の物質的生活の体系における科学の位置が革命的に変えられる。最後に、量的な点でも質的な点でも、科学の諸方法、科学研究の諾道具、科学の概念装置もまた、変化している』(pp.22)
 
また、「メタ科学」的な記述がある。
『つぎに、オッソウスカとオッソウスキは、科学についての科学を五つの下位区分に分類しようと試みるが、そのさいかれらは、科学者たちのもとでの それまで支配的な分業から出発する。
一、科学の哲学(科学の概念、諸科学の分類、法則、仮説などの諸問題)
二、科学の心理学(科学者の心理的発展、さまざまの研究者タイプ、 科学的活動のさまぎまのタイプと段階などの諸問題)
三、科学社会学(社会の構造や教育制度の組織にたいする科学の依存性、文化生活におよぼす科学の諸影響などの諸問題)
四、科学組織および科学と政治との諸関連の研究
五、科学史』(pp.29)

 「統一科学」については、
『かれらがブィルタイとリッケルト の二元論的科学論との論争で一致して強調しているのは、諸科学が統一をなしているということである。かれらは考える、自然諸科学と社会諸科学との対立を主張することは、形而上学あるいは神学の残渣であり、科学が事実としてもっている性格と一致しない。現実には、諸科学は対象と方法によって統一を表している。ますます多くの諸文化への特殊化(専門化)は、もっぱら科学の営為の帰結なのであって、その内容の帰結ではない。認識として科学は、現実が統一的であるように、統一的である。』(pp.108)

 「自然と社会」については、 
『人間あるいは社会の自然にたいする関係を規定するという問題は、マルクス主義以前の哲学がいくたの試みをおこなってきたにもかかわらず、解決されてはいなかった。ほかならぬこの問題に正しい解答を与えることができるためには、マルクスの天才が必要であった。そのさいマルクスの功績は、まず第一に、かれが人間と自然との統一をたんに肯定し承認しているということにあるのではなく―そのことならマルクス主義以前の唯物論がすでにおこなっていた―、かれが この統一をどのようにとらえているかとつまり、本来的に実践的な関係としてとらえているということにある。』(pp.199)
 
マルクスの捉え方については、次のようにでてくる。
 「マルクスとエンゲルス」の捉え方は。
『マルクスとエンゲルスは人間を自然的な存在として、自然の一部分としてとらえる。たとえばすでに『経済学・哲学手稿』では次のように言われている、「人間の肉体的および精神的な生活が自然と連関しているということの、ほかならぬ意味は、自然が自然自身と連関しているということである。 というのには、人間は自然の一部分であるから」と資本論でマルクスは書いている、』(pp.201)
 
「マルクス」における、人間と自然の関係は、
『マルクスの場合、人間は自然存在、自然力、あるいはまた自然対象としてとらえられるが、この規定は
自然にたいするなんらの受動的な、観照的な関係をも含んでいない。まったく反対に、人間はその自然と
の統一をただかれ自身の行為によって媒介し、規定し、制御することができる。労働は、人間と自然との
あいだの物質代謝を媒介するための、永続的な自然必然性である。 マルクスは初期の著作のわかりやすい
ことばでこのことを次のように定式化している、「人間は自然によって生きてゆく、という意味は、自然は人間の身体であり、人間は死なないためにはたえずこれとかかわりあっているのでなくてはならないということである」。自然との統一は自然にたいする能動的な関係を含んでいる、逆にいえば、自然にたいする能動的な関係が自然との統一を実現するのである。』(pp.203)

 そして結論としては、
『科学の統一は自然科学と社会科学との統一と一致一するものではない。このことはすでにまえに指摘した。 すべての諸科学がこれらの二つの主要グループにはとても包括されえないという事実(例えば、数学やサイバネティックスはどちらのも属さない)が、こうした一致の 不可能なことをすでに明らかにしている。科学の統一は、もっと複雑であり、自然の諾科学と社会の諸科学との統一には還元されない。だが逆に、自然の諸科学と社会の諸科学との統一にもとづいていないような科学の統一も考えることができない。そればかりではなく、自然科学の諸分科と社会科学の諸分科との相互統一は科学の統一一般の根本前提であり、この相互統一の承認は科学の統一のどんな哲学的基礎づけの場合にもその根底をなしている。』(pp.218)

 最後に「解説」のなかで、
『次に、本書のなかでフィードラーが協調している基本的な観点をいくつか指摘しておこう。
第一にあげられるのは、ドイツ民主共和国における社会主義体制の形成という根本課題のなかに、この研究を位置づけようというきわめて実践的な観点である。「緒言」のなかでかれは書いている、
「科学の続一は社会主義の社会体制では自然発生的にではなしに「目的意識的に」実現される。しかし他方では、科学の統一は、現在の生産力と科学との発展および社会主義体制一般の形成が無条件的に要求するところである。じっさい、自然科学と社会科学との統一が実現されるただそのときにのみ、科学は社会主義の社会体制におけるその社会的諸機能―科学の生産的機能、その計画と指導の機能、およびその育成と教育の機能―を果たすことができるからである。それゆえ、自然科学と社会科学との統一を意識的に遂行することは、ドイツ民主共和国の科学政策の最も本質的な諸目標のひとつである」。』(pp.295)

(実証主義は神学的・形而上学的なものに依拠せず、経験的事実にのみ認識の根拠を認める学問上の立場であり、19世紀のフランスの思想家・社会学者のオーギュスト・コントによって人類の発展における神学的段階と形而上学的段階の最後に来る実証主義的段階として唱えられた。
哲学の分野では理想主義、構成主義、方法主義などと対立した意味で使われることが多い。20世紀初頭に、哲学も自然科学同様の実証性を備えるべきであるとする主張がウィーン学団によってなされ、彼らは自らの主張を論理実証主義(論理的経験主義、新実証主義)と称した。 Wikipediaより)

(唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、よく知られたものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと 

生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。Wikipediaより)

その場考学との徘徊(52)トルストイと徳富蘆花の関係

2018年12月27日 07時14分32秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(52) 題名;トルストイと徳富蘆花の関係
場所;東京都 年月日;H30.12.25
テーマ;ロシアと日本   作成日;H30.12.25 アップロード日;H30.12.27
                                                      
TITLE: トルストイと徳富蘆花

第46回「都立公園の事情」では、このように書いた。『我が家の500メートルほど南に都立芦花公園がある。徳富蘆花夫妻が晩年を過ごした茅葺屋根の建物と記念館、そしてお墓がある。しかし、それらはごく一部で、全体は公園になっている。
 ちなみに、今年は蘆花の生誕150年で、トルストイとの面談直後に、晴耕雨読に目覚めて、39歳で都心からこの地に移った。』


 
 先日、この中の記念館に立ち寄った。二部屋に遺物や著作本、原稿などが並んでいるだけで、いつもざっと歩くだけで、じっくりと中身を読んだことはなかった。今回は、たまたまヴィデオがかかっており、トルストイの画像が出ていた。蘆花の本は読んだことがないのだが、当時とてつもないベストセラーになり、年間に数十回も増刷されているとの事実を知って、俄かに興味がわいた。しかし、そこには同時に、彼の著作を今は読む人はいなくなった、とも書いてある。不思議な作家なのだ。そこで、今回の徘徊は、トルストイとの関連を含む彼の著作を渡り歩くことにする。

① 阿部軍治著「徳富蘆花とトルストイ」彩流社、1989
② 徳富蘆花集 第15巻 「日本から日本へ 西の巻」日本図書センター、1999
③ 徳富蘆花集 第14巻 「日本から日本へ 東の巻」日本図書センター、1999
④ 徳富蘆花集 第8巻 「順礼紀行」日本図書センター、1999
⑤ ジェイ・パリーニ著「終着駅 トルストイ死の謎」品文社、1996



なお、②~④は復刻版であり、原本は明治39年から大正10年にかけて
金尾文淵堂から出版されている。
先ずは、①により彼らの関係を具体的に知ることができる。例えば、次のように書かれている。

『「順礼紀行の「ヤスナヤ・ポリャナの五日」によれば、トルストイと蔵花は顔を合せるが早いか、さっそく真剣な問題に関して語り合ったのであった。トルストイはほとんど開口一番、薦花の手紙は信じられないほど嬉しかったが、手紙に書いてあることは本当か、と質したという。いままで見てきたように、トルストイは薦花が真に自分に共鳴しているかどうか若干疑っていたので、当然の質間ではあるが、それにしてもいかにもトルストイらしい対応の仕方ではある。あれこれ話があってから、トルストイは、「土を耕し他の力に頼らずして生活する者が国の力也」、とその持論を述べ、「君は農業によって生活するを得ざるや」、と問うた。それに対し蔵花は、「農業は最も好む所に候。今は尺寸の土も有たざれども、行々は少なくも半農の生活をする心算に候」、と答えたのだった。(第七巻五〇〇頁)。』(pp.131)

トルストイの当時の心情としては次のように書かれている。
『はるか遠方の国からわざわざ彼に会いに来るということに、よほど感動したのであろう。この日からトルストイは、薦花の到着をじりじりして待っていたらしい。この二週間後にこういう覚え書きがある。「六月十三日 食卓で。 L ・N ・あの日本人はいったいいつ来るのかね。彼に日本や中国のことをあれこれ聞いてみたいんだが。わざわざ来るのだから、しばらく滞在してもらおう」(同巻」六二頁)。』(pp.130)
 「あれこれ」とは、宗教的人生観、習慣、性質、家族、婦人への態度、などが挙げられている。

二人の会話は多岐にわたっているが、宗教論が真剣で面白い。
『話が信仰問題に及んで、トルストイにクリスチャンだというが、と問われて、薦花はこう答えている。「余は最広義最真義に於ての基督教徒也と自信す、余は人類の最大恩人として三人を数ふ、 基督、釈迦、孔子也、而して此内尤も高く昇れるを基督とす、基督によつて神顕はれぬ、基督を信ずるとは基督に顕はれたる神を信ずる也、神を信ずるとは神の聖旨を純粋に行ふ事也、儀文空礼 他を排して、独り主よ主よと呼ぶ所謂基督教は生の知らざる所也(後略)」。蔵花はトルストイとほとんど同じようなキリスト教理解を語ったわけであるが、それに対し相手は、「基督教徒多く基督を神化(神に祭り上ぐ)、基督の偶像化は余の好まざる所也(五〇七夏)、と答えたという。』(pp.132)
 トルストイは、敬虔なキリスト教信者だったが、教会の権威や偶像化は嫌っていた。自身での愛の実践を好んで進めていた。

文学論や芸術論についても、毅然としたことを述べあっている。「濫りに書かずに、言いたいことがあるときのみ、四方八方から見て自分特有の発見があったときのみ書くべき。自身の作では、宗教、哲学、社会的な著作のみに意味があった」と、トルストイは言っている。

トルストイと過ごした5日間は、蘆花にとって衝撃的だった。一緒に水遊びをした川での経験を「自分にとっては、洗礼だった」と述べ、帰還については、理由をはっきりと述べている。
『大人まで加わりトルストイ家はいわば家族総がかりで引き留めたのに、彼は半ば意固地になったように辞去しているのである。予定を早めての帰国の主たる理由は、それよりは、トルストイに会って、目から鱗が落ちたようなところがあり、いわば開眼し進むべき道が見えたためであったろうと思われるのである。』(pp.146)
さらに続けて、『彼はこの帰朝時のインタビューにおいて、「私は数日の間翁の家に止まつて非常に楽しい生活を送り、大変留めて呉れたけれど、一年居ても同じことだと思いましたから、名残を惜んで六「七」月五日に翁の家を辞して帰りました」、こう語っているのである。また、後年「ヤスナヤ・ポリヤナの回顧」には
何よりも聖書の「爾は我に従へ」の一句に触発され、「然だ、何程真面目でも、模倣では駄目。人間は自己を創作しなければならぬ。トルストイをしてトルストイの行く道を行かしめよ。私には私の道がなければならぬ。私の帰意はここに決した。」』(pp.146)

蘆花の旅行は1906年の3月から8月だった。そして、その年の12月には、④を発行した。トルストイとの邂逅だけについて475ページを費やしている。

 蘆花は、2年後のトルストイ生誕80周年祭りに長文を寄稿、更にトルストイ没後に夫人宛に長文を送った。

 粕谷(つまり、現在の芦花公園の地)での半農生活については、次のように書かれている。
『薦花は帰朝して間もなく、明治三十九年八月に、青山高樹町に居を定めたが、十二月に『順礼紀行』を出し、翌四十年二月に、千歳村粕谷へ移り住み、彼の言う「半農」、「美的百姓」の生活へ入っている。トルストイを訪問したとき彼はほとんど開口一番農業を勧められ、また別れに際してのトルストイの最後の言葉も、最適境遇は「農的生活」であったし、いわば耳にたこができるほど営農を説かれたので、さっそくその実行に、本格的なトルストイ主義の実践に入ったのであった。』(pp.150)

 この生活については「みみずのたはこと」に詳しいが、当時の粕谷については次のようにある。
『現在の粕谷町は家々がびっしり立ち並び、都心まで電車で四、五十分と交通の便利な町であるが、当時は東京の郊外の全くの田舎で、まだ新宿から電車も通っていない、戸数二十五にすぎないごく小さい不便なだったのである。そこに彼は、一反五畝の土地と、壊れかけた十五坪の草葺きのあばら屋を買い求め、それまでの借家住まいを清算して、はじめて地主的生活に入ったのだった。』(pp.191)

 これで概要が分かったので、各論に移る前に、トルストイの晩年について⑤を振り返る。



本のカバーには、その全容が短く示されている。
『月あかりもない闇の夜、前庭に立った老トルストイは、生まれ育った屋敷を長いこと見上げていた。やがて身をかがめて土に口づける と、彼は立ちあがった。いっさいを棄てて、 いまこそ旅立つのだ一一。
1910年11月、トルストイは旅の途次、寒村の駅長官舎で息絶えた。82歳の文豪を流浪へと駆りたてたものは何だったのか。 最晩年の謎にみちた日々を、トルストイ夫妻、娘、高弟、秘書、主治医、それぞれの視 点から浮かびあがらせる。』(カバーの内面)

 秘書や主治医や友人の書簡が主だが、トルストイ自身のものが数通示されている。1910年には、いち労働者宛に、このように書き出している。
『どうやら二つの問題があなたの心を悩ましているようですね。神ー神とは何か?ーということ、人間の魂の本質についてです。あなたはまた、神と人間との関係について間い、死後の生命についてあれこわ考えていられるらしい。
最初の疑間を取りあげてみましょう。神とは何か、そして神はどのように人間と関わっているのか?
聖書には、いかに神が天地を創造し、いかに神の民と関わって、報償と罰を配分されるかについて、たくさんのことが書いてあります 。これはばかげたことです 。そんなものはぜんぶ忘れておしまいなさい。神は万物の始原、 われわれの存在の原質であり、われわれのなかの生命と考えられるもの、〈愛〉によってわれわれに明らかにされるものです。(だから、われわれは「神は愛なり」というのです)。
しか し、もう一度言いますが、神が世界と人類とを創り、誰であろうと神に従わぬ者を罰する、な どというお説教はどうか忘れてください。あなた自身の生命を新しく考えなおすためには、そのことを頭から拭い去らなければなりません。』(pp.33)
 これは、彼のキリスト教に対する基本的な態度なのだが、このことが、更に延々と長文でつづられている。

 そして、この手紙の終盤には死について、このように書かれている。
『あなたはまた―誰もがそうであるように―死後の生命について知りたがっていられる。 私の言うことを理解するためには、以下のことによくよく注意してください。 死すべき人間にとっては(つまり、肉体にとってのみ)時間は存在する。すなわち時刻、日、月、 年は過ぎてゆくのです。また、肉体にとってのみ、物質界―見ることができ、手で触ることができるもの―も存在するのです。大小、硬軟、永続的あるいは非永続的、といった性質のものです。しかし霊魂には時間はありません。それはたんに人間の体内に住んでいるだけです。七十年前に〈私〉と呼んだものは、現在私が〈私〉と呼ぶものと同じです。また、霊魂は物質的な属性を持ちません。 私がどこにいようとも、私の霊魂に何が起ころうとも、私が言う〈私〉は同じものであり、つねに非物質的です。このょうに、時間は肉体にとってのみ存在します。霊魂にとっては、時間も場所も物質界も実体を持ちません。』(pp.34)

 さらに続けて、『われわれのなかの霊魂は肉体が死んでも死なない、しかし、霊魂は死ぬはずがないことはわかっていても、それが将来どうなるか、またどこへ行くのかについては、われわれは知ることができない、というのが私の考えです。』(pp.35)

 ④については、すでに①の中で概要は述べた。トルストイに会いに行くためだけの旅行記になっている。この書には、多くの写真が添付されている。圧巻は、当時のエルサレムの360度のパノラマ写真だ。(pp.65)多くの記念物の位置関係が分かるのだが、遠景なので詳細の形は分からない。

 冒頭の文章(まえがきにあたる)、次のように始まっている。
『今年三月の初、ある日伊香保の山に雲を踏みて赤城のタ藁を眺めし時、不図基督の足跡を聖地に踏みて見たく、且トルストイ翁の顔見たくなり、山を下りて、用意も勿々順膿の途に上りぬ。
四月四日横演を出で、八月四日敦賀に帰る。百二十日、舟車六千里、電光と往き、石火と復へって、行程を顧れば茫として夢のごとく、すでに印象の六七分を失ひぬ。』(pp.1)

 更に、世界地図で旅程を示してから、本文が始まっている。
 本文の冒頭は「門出」で、次のように始めている。
『まつはる吾子を縁より蹴落として出家せし昔人さへあるを、さりとは贅沢なる巡礼の門出よ。父、母、姉、妻、甥、姪と共に「主の祈」をなし、賛美歌「朝日はのぼりて世を照らせり」を歌ひて、・・・』(pp.1)

 トルストイ家訪問については、『風采は写真版にて見飽き、思想は数多き著書にて大要を領す。別に用事はなけれども、唯何となく顔見たくてはるばる東より旅し来りし余は、今トルストイ翁の清居を驚かさむどす。』(pp.282)

 肝心の農業生活につては、あまり詳しくは書かれていない。
『日本の政況、農と商工の比例を問い、「土を耕し他の力に頼らずして生活する者が国の力なり」とその持論を、・・・(中略)終に余に向かひて「君は農業によって生活するを得ざるや」、と問ひぬ。余は、「農業は最も好む所に候。今は尺寸の土も有ざれども、行々は少なくも半農の生活をする心算に候」と答ふ。』(pp.302)

蘆花が「自らの洗礼」とした川での水浴については、何度も繰り返し、詳しく述べている。一人だけのこともあり、夫人が参加したこともあるようだ。トルストイは当時78歳、夏とはいえ寒そうだ。


 最後に、②と③について記す。
当初は、これがトルストイ訪問記だと思い読んでしまった。しかし、エルサレムまでの旅程は同じでも、それからイタリア(ナポリが主)経由でロンドンに行っている。気が付いたのは、2巻を読み終えた後で、トルストイ訪問は1906年で、この夫婦での旅行は1919年だった。間には13年間あり、間には第1次世界大戦があった。トルストイが亡くなったのは1910年で、その中間だった。

西廻りの世界一周なのだが、前半が「東の巻」で後半が「西の巻」。全部で1400ページ以上の大作で、旧仮名遣いなので読みにくい。
大正8年当時、蘆花は、50歳、妻の愛は44歳。第一次世界大戦で荒廃した世界を 「暖めたい」 というのが、彼らの旅の動機とある。香港、インド洋、エジプト、エルサレム、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、ベルギー、イギリス、アメリカ合衆国を廻っている。 トルストイの思いを引きずっている。

③の冒頭には、旅の目的が書かれている。
『何為に世界を周る7
不得要領を本領とする私でも,世間の常軌に籍らねば身動きは出来ぬ。 何為に世界を周る? 族券出願書の ‘目的、の条下に,私は‘職後の慰問と人情覗察、と書いた。火事見舞ですと口上を添へた。私の慰問は雨刃だし,人情覗察も月並だが嘘ではない。然しそれでは何となくぎごちない。』(pp.14)
云うわけである。気楽そうでもあり、重荷をしょってでもあるような表現になっている。

どこの土地についても詳しく述べているのだが、「エルサレム」は特別だった。題名からして「屋上日記」とある。「耶蘇」の言葉を引用しているのだ。冒頭はこうであり、戦争の記憶が生々しい。

東の巻はここまでで、イタリアからは西の巻になっている。どうやら彼の間隔では、世界はエルサレムが中心らしい。(そのようなことは、どこにも書かれていないと思う)

②の「西の巻」は、内容的には面白かった。
私が、熟読したのは「ナポリ」そこだけでも30ページ近くある。最初の文章は、こうなっている。
『七月十四日。私共が落ちついたHotel Continentalは, 日本人泊りつけの宿であつた。日本人泊りつけの宿には,日本人 馴染の案丙者があつて,私共が泊ると翌朝早連やつて来た。 Antonioと云ふ五十男。出した信用帖には,多くの日本字が書かれてある。皆好い肝判を輿へて居る。私共は,四五日休息し て後,案内を頼む事にする。』(pp.638)

 彼らは余裕綽綽なのだが、戦争直後なのに、なぜこうも落ち着いているのかが疑問になる。
『私共のバルコニイから、下の往来が さまざまの見物を私共に與へる。朝早く馬糞などちらばつてる下の通りをよく女が箒で掃き済めて居る。戦地の羅災者に生活の便を得さす為に 政府が各地に分けて. かかる仕事をもさすと云ふ事を後で聞いた。下が海水浴揚なので,それ等を黨に朝からパン売り菓子売がダマスコのパン売りを思はせて立売りする。何とか、フレスコオ、ト云ふ。‘焼き立てのパン、と謂ふのだ。』(pp.641)
そういえば、現在でもスペインでは都市の掃除に多くのひとを国費で雇っている。100年たっても変わらない風景なのか。

1週間後にカプリ島に渡っている。私は、国際会議でカプリ島に1週間滞在したので、おおいに懐かしい。
『力ブリの島は人口約八千,漁と葡萄つくり,それからお客相手で喜らして居る。 私共は上陸すると,Cable carに乗って,葡萄や柑橋の茂 つた傾斜をずうとCapri の本邑に上った。店があり,ホテルがあり,別蟹がある。 Aは私共をーの静かなホテルに導いた。其慮で午餐を食 べる。江の島あたりに遊んで居る気もち。特に魚を注文したら, 力サゴ見たやうなものの一皿をつけた。此慮の白,赤葡萄酒は名高いもの ものさうな。二重の酔を恐れて,私共は飲まなかった。』(pp.659)

私が滞在したほぼ100年後も、全く同じような雰囲気に思える。観光地としての管理が行き届いているのだろう。しかし、江ノ島を引き合いに出すとは、恐れ入る。当時の日本人は、今よりはよほど高慢だったのだろう。日本は、当時は戦勝国であり、現在は敗戦国という違いなのだろうか。

『日ざかりの日は熟し、直く,其慮のやに眼には見えても可なりの上りになるので, 私共はTiberiusの別荘跡も見に往く事をやめた。Aは別荘の間の狭い路を先に立って,私共を Augustus Villの公園に導いた。それは濁逸人の有であつたらしく崖の端近く腰掛があって,其慮からcapri 島の 南面の海が望まれた。遙か下の崖に白い波が寄せて居る。海は眼がさめるやうな純縁の色をして居る 。』(pp.660)
日帰りで、滞在時間が短く、多くが語られていないのは残念だが、雰囲気は伝わってくる。
 
ロンドンの記述も興味をそそった。書き出しはこうなっている。
『英吉利が私共に提供した住居は,私共の心に適ふものであつた。倫敦の西山の手,Hyde ParkやKensington Garden の南側を通るKensington Roadの片側町の一Blockの頭を占めたKensington Palace Mansions Hotelは,Hotelよりも Mansion即下宿で,決して所謂Fashionableでも乃至備はつ た意味に於ての所謂Comfortable なHtote!でもないが,矢張私共には一番好い家であった。第一に位置が好い。』(pp.1053)

 また、エジンバラにも出かけている。ここの描写も、私の経験と大差はない。
『十二月十六日。十時頃からEdinburgh見物に出かける。 Edinburgh は好い。典雅な都だ。丘と平地の按排も面白く,倫敦あたりに見るを得ない高い建築,雅致ある建築が見る眼を悦ばしめる。私共のホテルの前通り、Princes Streetは欧州一の美しい街と誇称される。一方Edinburgh Castle を見上げて,公園ー帯を前に,此慮は電車も通さぬ片側街のまことに 気もちの好い街である。』(pp.1149)

 最後の日本帰着の様子は、奥さんの感謝の文章で終わっている。

その場考学との徘徊(51)秩父夜祭の藤娘

2018年12月08日 09時00分16秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(51) 題名;秩父夜祭の藤娘

場所;埼玉県 年月日;H30.12.3
テーマ;祭りの楽しみ方   作成日;H30.12.8 アップロード日;H30.12.
                                                      
TITLE: 秩父夜祭と藤娘

久しぶりに藤娘を見た。場所は、秩父神社の拝殿前の神門の階段下。時は、有名な秩父夜祭の最終日の朝。この藤娘は、なんと高校2年生。



夜祭での中身については後程、先ずは藤娘との出会いについて。
最初は、母親の雛飾りだったと思う。下の段に飾るいくつかの日本人形の中に、あった記憶がある。
次に出会ったのは、ほぼ30年前だった。当時GE社とのジェットエンジンの共同開発(現在、Boeing777機に搭載されて、世界中で飛び回っている)で、頻繁に訪れたオハイオ州の町で、ある家族から歓待を受けた。その時の仲間は10人ほどいたであろうか。なにかお礼をしなければと思い、考え付いたのが日本人形。しかし、季節外れでそれなりの日本人形を売っている店はなかった。そこで日本橋の十軒店へ向かった。「十軒店(じゅっけんだな)」とは、江戸初期に京都の人形店を十軒この地に移住させたとの記憶があった。幸い1件だけ残っていた店で、いくつかの藤娘に出会うことができ、無事お礼を届けることができた。

 今の地図に「十軒店」の地名はない。ネットで調べると、こんな記事があった。
『十軒店跡 所在地 中央区日本橋室町三‐二‐一五
十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。』
http://www.viva-edo.com/kinenhi/nihonbasi/jikkendana.html
歴史的な地名が、次々に消えてゆくのは寂しい。

 さて、今回突然に夜祭に行こうと思ったのは、前日の日曜日の夕方の「笑点」でのタイヘイの発言だった。彼の冒頭のあいさつは、「明日は、秩父で最も有名なお祭りの最終日です」から始まった。その時は、年寄りなのだから、夜は長居はできない。昼から出かけて、暗くなったら直ぐに引き上げよう、と思って電車の時刻表を調べた。
一方で、祭りの行事を調べると、最終日の朝の9時から色々なことが目白押しになっている。思い切って早起きをして、それに駆けつけることにした。  
池袋発の直通の特急の乗車券は、窓口で容易にとれた。車内はガラガラでゆっくりと車窓の景色を楽しみながらの旅は、武甲山を近くに見ることもできた。




西部秩父の駅前には、多くの露店が店を出していたが、どこも開店準備中。速足で秩父神社へ向かった。
境内には、すでに人だかりがあり、2台の鉾が並んでいた。順番に神門の階段下に向かい、拝礼をするように見えた。




てこを使って台車の向きを変え、階段下に寄せてゆく。責任者の襷をかけた長老の鐘の合図で、鉾は動き出す。




社殿を一回りして戻ると、丁度舞を収める女性が鉾に乗り込むところだった。そして、まもなく最初の舞の「手習子」が始まった。舞うのは高校1年生とあるのだが、とてもその若さとは思えない、落ち着いた舞だった。そして、選手交代で「藤娘」が始まった。それが、冒頭の写真だ。





なぜ、藤娘に拘るか。それは、30年前の贈り物の際に、「藤娘は不吉な人形だ」と言われた記憶があったためだ。幸い、神門の階段上から踊りをじっくりと楽しむことができた。この場所からは、長唄の歌詞もしっかりと聞き取ることができる。


Wikipediaには、こんな風に書かれている。
『藤娘は、大津絵の『かつぎ娘』に題をとった長唄による歌舞伎舞踊の演目。文政9年(1826年)江戸中村座初演、二代目關三十郎が舞った。作詞は勝井源八。もとは絵から出て来た娘が踊るという趣向の五変化舞踊のひとつだったが、六代目尾上菊五郎が娘姿で踊る藤の精という内容に変えて演出を一新して以来その型が一般的になり、今日でも人気の歌舞伎舞踊の演目の一つであるばかりか、日本舞踊でも必須の演目の一つとなっている。』
とあり、特に不吉ではない。
ちなみに、歌詞を調べると、
『若むらさきに とかえりの 花をあらわす 松の藤浪
人目せき笠 塗笠しゃんと 振かかげたる 一枝は
紫深き 水道の水に 染めて うれしきゆかりの色に
いとしと書いて藤の花 エエ しょんがいな 裾もほらほら しどけなく』で始まっている。

 前の演目では「笠」、こちらはちゃんと「藤の枝」をもって舞っている。

舞が終わる頃に、交通整理があり、山門から神主の行列が入場した。神社の正式行事の「献幣使参向例大祭祭典」の始まりだった。
それが終わると、ようやく鉾は向きを変えて、大通りへ引き出されていった。



この祭りの、もう一つの目玉は、路上歌舞伎だ。広い大通りいっぱいに設置された「上町の屋台」と称する舞台の上で、本格的な歌舞伎が演じられる。第1幕は小学生が中心で、第2幕からは大人が演じる。




これもゆっくりと椅子に座って楽しむことができたのだが、その話はまた別途。

祭りの楽しみ方はいろいろある。夜祭と言って、夜が良いわけではなさそうだ。その土地の文化と伝統を学ぶためには、早朝からの行事にこそ、多くの楽しみがあることを強く感じた半日だった。