書籍名;技術への問い 編集者;M.ハイデッガー著、関口 浩訳
発行所;平凡社 発行日;2009.9.16
初回作成日;2012.3.23
最終改定日;2016.7.29
この書は書店では手に入らず、インターネットに頼った。書には、彼の科学・技術・芸術に関する5つの論文が納められている。そして、冒頭が「技術への問い」であった。
この講演は,1953年11月18日にミュンヘン工科大学での連続講演のひとつとして行われたが、内容が難解だったのもかかわらずに、終了後には「満場の人々から嵐のような歓呼の声があがった」と記録されている。
この時代、即ち第2次世界大戦の恐怖から解放された欧州では、技術の本質に関する議論が盛んに行われたようである。アインシュタインの相対性理論により、質量が膨大なエネルギーに変換可能なことが理論づけされ、彼が反対したにもかかわらず、ヒットラーに先を越されるかもしれないという、政治的な説得に応じて原子爆弾を作ることにより、実証までをしてしまった。ハイデッガーはその事実に直面して(彼は、一時期ナチスの協力者であった)哲学者として技術の本質を知ろうと努力をしたのかもしれない。「技術への問い」は、暗にこのことを示しているようにも読み取れる。
この時代の同様な著書が、訳者後記に記されている。「歴史の起源と目標」カール・ヤスバース(1949)、「第3あるいは第4の人間」アルフレート・ウエーバー(1953)、「技術の完璧さ」フリードリッヒ・ユンガー(1953)などがそれぞれの見方で技術の本質を究めようとしたとある。翻って、現代は大きな原発事故を目の当たりにして、再び技術の本質を問い直す時期に来たように思われる。
ハイデッガーの見た本質は「現代技術の本質は、集―立にある」と訳されている。「集」とは、例えばウラン鉱床からウランを抽出し、それを必要とする場所に必要とする量を集めると云うことなのだ。このことは全てのものつくりに共通する基礎になる。「立」とは、集められたものを、何かの役に立つ形状に加工をして製品化し、更に使用することを指す。これが現実の技術なのだが、しかし技術の本質ではない、と彼は断言をしている。ここからが、メタエンジニアリングとの関係を彷彿とされる議論が始まるのだ。
彼の表現によれば、技術は人間の知りたいという本能の自然の現れと考えているように思う。それは、次の表現で表されている。
『不伏蔵性の内部で現前するものを人間が自分なりのしかたで開蔵する場合、彼はただ不伏蔵性の語りかけに応答しているだけなのである。』(pp.30)がその部分だ。
また、『技術は開蔵のひとつのしかたである。技術がその本質を発揮するところとは、開蔵と不伏蔵性とが、すなわちアレーティアが、すなわち真理が生起する領域なのである。』(pp.22)
「アレーティア」とはギリシア語で『神の真理』、「レーティア」は『秘匿性』を意味する言葉で、任天堂のDS用ゲームソフトの名称にも使われている。「ア」は、否定を表す前置詞で、アレーティアはレーティアの否定形になっている。
アレーティア(http://tekiro.main.jp/soma/w-jisyo_a.htmより)
『太古の時代に異界から来訪した邪神”という伝承はねつ造であり、本来はクレモナ文明が絶頂を極めた時代より約千年前に、外世界からトルヴェールを訪れた総体意思生命体の総称である。
肉体を持たない精神だけの存在で、基本的に“個”という定義を持たない。肉体を持たないが故に、地上では人間達の手を借り、見返りに知識と技術を与えていた。その結果、人間の文明レベルは急速な進歩を遂げ、アレーティア来訪から約千年の間に渡り、文明は発展と繁栄を続けた。しかし、長い時を経て知恵をつけた人間達は、アレーティアから生命力ともいえるエネルギー、ソーマを抽出する術を見いだし、それを独占しようと画策しはじめる。
この頃から、アレーティアの持つ絶対的な力を恐れる、反アレーティアの勢力が台頭し始め、やがてそれは世界全体を動かす大きな流れとなった。そして、彼らのその禍々しき策謀により、アレーティアは全ての力を奪われ、意識のみの存在へと変えられてしまうのである。アレーティアの怒りを怖れた人間達は、アレーティアの技の一つであった、地上全域のソーマ安定装置として建造されたリングタワーを利用し、惑星外にアレーティアの意識を追放した。さらに二度と戻れぬよう、リングから生じる青い障壁によって防御策を施すが、それは完全なものにはならなかった。
障壁にわずかな綻びが産まれ、その綻びを通過したアレーティアの意識の一部は変異し、人間達を恐怖に陥れるビジターとして地上へと降り立つこととなった。』
ここで云う真理とは、自然科学が解き明かした事柄を意味する。つまり、相対性理論の様なものを指す。その真理を現実に立たせるものが技術と云うものだと解釈できる。そしてそのことをギリシャ神話の一つに当てはめたのではないであろうか。それにより、技術の不可解さ、恐ろしさ、将来性までを云い当てようとしたかに見えてくる。同時に、エンジニアリングの根本がこの様な解釈をされることに、メタエンジニアリングの考え方からは共感を覚えてしまう。
つまり、相対性理論という真実が存在しても、それは伏蔵性のなかに隠されているのであって、それを人間が自分なりのしかたで開蔵すること、即ち必要な材料を集め、貯蔵し、必要な製品に加工し、使用できる状態(この場合は、爆撃機や弾道ミサイルなど)を作り出すことの全てが技術というものと解釈される。
『ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達されるのである。』(pp.24)
この様に解釈をすると、技術は人類の為にあると云うことが現れて来ない。良くも悪くも勝手に創造に走ってしまう、と捉えられる。
見えていないものを追求し、あらゆる知恵と手段でそれを具現化するメタエンジニアリングの考え方に共通するのだが、やはりそこに、社会科学・人文科学・哲学などが加わらなければならないと云うことが明らかとなってくる。
発行所;平凡社 発行日;2009.9.16
初回作成日;2012.3.23
最終改定日;2016.7.29
この書は書店では手に入らず、インターネットに頼った。書には、彼の科学・技術・芸術に関する5つの論文が納められている。そして、冒頭が「技術への問い」であった。
この講演は,1953年11月18日にミュンヘン工科大学での連続講演のひとつとして行われたが、内容が難解だったのもかかわらずに、終了後には「満場の人々から嵐のような歓呼の声があがった」と記録されている。
この時代、即ち第2次世界大戦の恐怖から解放された欧州では、技術の本質に関する議論が盛んに行われたようである。アインシュタインの相対性理論により、質量が膨大なエネルギーに変換可能なことが理論づけされ、彼が反対したにもかかわらず、ヒットラーに先を越されるかもしれないという、政治的な説得に応じて原子爆弾を作ることにより、実証までをしてしまった。ハイデッガーはその事実に直面して(彼は、一時期ナチスの協力者であった)哲学者として技術の本質を知ろうと努力をしたのかもしれない。「技術への問い」は、暗にこのことを示しているようにも読み取れる。
この時代の同様な著書が、訳者後記に記されている。「歴史の起源と目標」カール・ヤスバース(1949)、「第3あるいは第4の人間」アルフレート・ウエーバー(1953)、「技術の完璧さ」フリードリッヒ・ユンガー(1953)などがそれぞれの見方で技術の本質を究めようとしたとある。翻って、現代は大きな原発事故を目の当たりにして、再び技術の本質を問い直す時期に来たように思われる。
ハイデッガーの見た本質は「現代技術の本質は、集―立にある」と訳されている。「集」とは、例えばウラン鉱床からウランを抽出し、それを必要とする場所に必要とする量を集めると云うことなのだ。このことは全てのものつくりに共通する基礎になる。「立」とは、集められたものを、何かの役に立つ形状に加工をして製品化し、更に使用することを指す。これが現実の技術なのだが、しかし技術の本質ではない、と彼は断言をしている。ここからが、メタエンジニアリングとの関係を彷彿とされる議論が始まるのだ。
彼の表現によれば、技術は人間の知りたいという本能の自然の現れと考えているように思う。それは、次の表現で表されている。
『不伏蔵性の内部で現前するものを人間が自分なりのしかたで開蔵する場合、彼はただ不伏蔵性の語りかけに応答しているだけなのである。』(pp.30)がその部分だ。
また、『技術は開蔵のひとつのしかたである。技術がその本質を発揮するところとは、開蔵と不伏蔵性とが、すなわちアレーティアが、すなわち真理が生起する領域なのである。』(pp.22)
「アレーティア」とはギリシア語で『神の真理』、「レーティア」は『秘匿性』を意味する言葉で、任天堂のDS用ゲームソフトの名称にも使われている。「ア」は、否定を表す前置詞で、アレーティアはレーティアの否定形になっている。
アレーティア(http://tekiro.main.jp/soma/w-jisyo_a.htmより)
『太古の時代に異界から来訪した邪神”という伝承はねつ造であり、本来はクレモナ文明が絶頂を極めた時代より約千年前に、外世界からトルヴェールを訪れた総体意思生命体の総称である。
肉体を持たない精神だけの存在で、基本的に“個”という定義を持たない。肉体を持たないが故に、地上では人間達の手を借り、見返りに知識と技術を与えていた。その結果、人間の文明レベルは急速な進歩を遂げ、アレーティア来訪から約千年の間に渡り、文明は発展と繁栄を続けた。しかし、長い時を経て知恵をつけた人間達は、アレーティアから生命力ともいえるエネルギー、ソーマを抽出する術を見いだし、それを独占しようと画策しはじめる。
この頃から、アレーティアの持つ絶対的な力を恐れる、反アレーティアの勢力が台頭し始め、やがてそれは世界全体を動かす大きな流れとなった。そして、彼らのその禍々しき策謀により、アレーティアは全ての力を奪われ、意識のみの存在へと変えられてしまうのである。アレーティアの怒りを怖れた人間達は、アレーティアの技の一つであった、地上全域のソーマ安定装置として建造されたリングタワーを利用し、惑星外にアレーティアの意識を追放した。さらに二度と戻れぬよう、リングから生じる青い障壁によって防御策を施すが、それは完全なものにはならなかった。
障壁にわずかな綻びが産まれ、その綻びを通過したアレーティアの意識の一部は変異し、人間達を恐怖に陥れるビジターとして地上へと降り立つこととなった。』
ここで云う真理とは、自然科学が解き明かした事柄を意味する。つまり、相対性理論の様なものを指す。その真理を現実に立たせるものが技術と云うものだと解釈できる。そしてそのことをギリシャ神話の一つに当てはめたのではないであろうか。それにより、技術の不可解さ、恐ろしさ、将来性までを云い当てようとしたかに見えてくる。同時に、エンジニアリングの根本がこの様な解釈をされることに、メタエンジニアリングの考え方からは共感を覚えてしまう。
つまり、相対性理論という真実が存在しても、それは伏蔵性のなかに隠されているのであって、それを人間が自分なりのしかたで開蔵すること、即ち必要な材料を集め、貯蔵し、必要な製品に加工し、使用できる状態(この場合は、爆撃機や弾道ミサイルなど)を作り出すことの全てが技術というものと解釈される。
『ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達されるのである。』(pp.24)
この様に解釈をすると、技術は人類の為にあると云うことが現れて来ない。良くも悪くも勝手に創造に走ってしまう、と捉えられる。
見えていないものを追求し、あらゆる知恵と手段でそれを具現化するメタエンジニアリングの考え方に共通するのだが、やはりそこに、社会科学・人文科学・哲学などが加わらなければならないと云うことが明らかとなってくる。