ハリソン君の素晴らしいブログZ

新旧の刑事ドラマを中心に素晴らしい作品をご紹介する、実に素晴らしいブログです。

「悔いを残さない為に。」

2025-01-15 21:30:08 | 日記

仕事帰りに母の見舞い、というよりは看護師さんに経過を尋ねる為、面会終了時間ギリギリに滑り込み。容態は僅かながら良くなったらしく、母の寝顔も先日より穏やかに見えました。

しかし何せ「鬱陶しい」と思われてるから、起こさずに洗濯物だけ持ち帰ろうとしたとき、母が目を覚ましたので「しんどい思いさせてゴメンな」と声をかけてみました。

そしたら「あんたも、無理せんときや」って、穏やかな表情で言うもんだから涙腺決壊。

「まだ死ぬワケちゃうけど、今のうちに言うとくわ」と前置きした上で、産んでくれたこと、育ててくれたこと、毎日家事をしてくれたこと、中学〜高校時代には弁当を作ってくれたこと等に対する「ありがとう」をしっかりと言葉で伝えました。死ぬ間際に言っても伝わらなきゃ意味ないから。

すると母は眼をつむったまま、少し鼻をすすってた。たぶん伝わったんだと思います。最後はちゃんとこっちを見て微笑んでくれました。

病室を出てから帰路につき、家に着くまで涙が止まりませんでした。お互い憎しみもありつつ、やっぱり母と子。これで本当に悔いはありません。



ところが悔いが無くなった途端、私自身もこれ以上生きてもしょうがないなって、困ったことにまた考え始めてます。

それは今の仕事があまりにしんど過ぎるせいもあり、まあ転職という選択肢はあるにせよ、またゼロから何かを始める気力もない。そうまでして生き続ける理由がホント見当たらない。

もちろん使命を果たした後のことだけど、ボチボチ考えなきゃと思ってます。自分が倒れて動けなくなってからじゃ、それこそ悔いしか残りませんから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「果てなき闘い。(再) 」

2025-01-14 19:55:10 | 日記

前回の記事が公開停止にされました。相変わらず審査基準が判りません。前々回の記事と一体どこがどう違うと言うのか?

私の人生における最も大きな区切りとなるであろう、この闘いの日々の顛末は記録として残したいので、画像だけ無難なものに差し換えて再掲載しときます。

それでまた消されたら、問題は画像じゃなく文章の内容にあるって事だけど、まさかねえ?



今日、母の入院先から電話があり、ミトン(親指が分離して他の4本の指がまとめられている手袋)使用の許可を求められました。

看護や介護の業界では、治療を拒否したり認知症だったりする患者が、自分で点滴を抜いてしまうような危険行為を抑止する、つまり拘束するために使う道具ゆえ家族の許可が必要になるワケです。

もちろん、使った方が安全なら許可するしかないけど、やっぱり母は逝きたがってるんやなあって、あらためて思いました。なのに半ば無理やり延命させてる私が恨まれるのは当然のこと。

私自身、ここ2〜3か月ずっとジェットコースターに乗せられてる気分で、吐きそうなほどしんどい。正直、母が救急搬送されたときは「いよいよゴールかも?」って、期待まではしないけど非常に複雑な気持ちになりました。

が、点滴を抜こうとするくらい母の活力が戻ったなら、これはやっぱり長期戦になりそう。

何度も何度も“究極の選択”を迫られ、そのたび葛藤し、罪悪感に苛まれ、挙げ句に母親から憎まれる。いったい何をやってんでしょうか私は?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人生は運、鈍、根。」

2025-01-12 20:36:41 | 日記

ちょっと前の公休日に居間(ほぼ母の部屋)の整理をしていたら、小説家・曽野綾子氏の著による2017年発行のエッセイで『夫の後始末』なんていう物騒なタイトルの本が出てきたから驚いた!

けれど読んでみると、これはどうやら旦那さん(やはり作家の三浦朱門氏)の終末期を自宅で介護された曽野さん(執筆当時85歳)の、ユーモアを交えた介護記録みたいな本でした。

私が父の「下の世話」をしてる横で素知らぬ顔して蜜柑を食べてた母も、実は介護にまったく無関心なワケじゃなかったんだと、二重に驚きました。

だったら少しは協力して欲しかった! それとも、私が勝手に父の介護役を独占してしまったのか? とてもそうは思えないけど、まあ今となってはどうでもいい。



記事のタイトルにある「運、鈍、根。」っていうのは、作家・宇野浩二氏が何かのインタビューで「作家になれる資質」を問われたときの答えなんだけど、曽野綾子さんは「作家に限らず、どんな道もまさにその通りだ」と大いに共感されてます。

特に「運」の部分。信心深いクリスチャンでもある曽野さんは、どんな不幸に見舞われても「それは運命=神が決めたことだから仕方ない」と考えた方が、気楽に生きられると仰ってる。

そ……そうかも知れない!

私はこれまで「神は自分の中にいる」、つまり全ては自分が選択して来たことの結果だと考えて来ました。そうすれば諦めがつくと。

けど、それって全ての責任を自分で負ってるワケだから、重いですよね。だから髪の毛もどんどん抜けていく。(近々、スキンヘッドにする決意をしました)

自分の外にいる神様のせいにした方が、確かに気がラクです。なんたって自分を責める必要が無いんだから!



クリスチャンって懺悔ばかりしてるイメージがあったけど、曽野さんみたいな方もおられるんですね。介護日記にしろ、いかにして手を抜くかに力点を置かれてるw (確かに、自宅介護で完璧なんぞを目指した日にゃあ3日で自滅します)

スピリチュアルが人を癒やすって、こういう事なのかも知れません。今さら信心深くはなれないけど、神は自分の中にいるなんていう考え方は、今すぐ捨てた方が良さそうです。ラクに生きることが一番!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マンガみたいな家族?」

2025-01-11 19:03:42 | 日記

一昨日(母が救急搬送される事態になった前日)、母の面倒をみてくれてる部署に私が立ち寄ったとき、ちょうど食事時間でスタッフから「(母に) 食べるよう促して欲しい」と頼まれました。

ダメもとでチャレンジしたけどやっぱりダメで、「僕が促すのは逆効果だと思う」と告げたら驚かれ、その流れでここ数日は完全無視されてること、そもそもウチの家庭には私が小学生だった頃から会話が無いことを話したら、若い女子職員がさらに驚いてこう言いました。

「そんなマンガみたいなことが本当にあるんですね!」



皮肉とかじゃなく、心底から驚いてたと思います。

いやいや、こないだ書いたようにウチみたいな家庭は古今東西いくらでも存在するし、暴力や犯罪に発展しなかっただけマシだと私は思ってます。

とはいえ、かなり少数派なのは確かでしょうから、多数派に属する(しかも若い)人がにわかに信じられないのも無理からぬこと。

ちなみに、そのとき居合わせた(彼女と私の中間にあたる世代の)女性相談員は「ウチの家庭にも似たところがある」と言って少し涙ぐんでました。



それはともかく、「そんなマンガみたいなことが!?」って3回ぐらい言ってた女子職員は、マンガを誤解してると思います。実際は逆。

マンガに限らず、小説や映画などのフィクションに登場する全てのキャラクターには、必ず実在のモデルが存在する。それは作者自身か、作者の周辺にいる(いた)人物、あるいはその複合体。

たとえ歴史上の偉人を描く場合でも、作者自身の想いを乗せないと観客のハートは揺さぶれない。このブログをちゃんと読んで下さってる(つまり画像だけが目当てじゃない)皆さんには釈迦に説法ですよね。

アニメの『サザエさん』にだって、突き詰めれば生々しいダークサイドがきっと見つかるはず。ただ、テレビに代表される一般メディアは、あの手この手でオブラートに包んじゃう。生々しい現実と向き合うのを大衆が嫌がる→視聴率を稼げないから。



その若い同僚は、若いがゆえにオブラートに包まれた家庭像しか知らない、あるいは知りたくないんだろうと思います。もちろん知らない方がハッピーゆえ、それでいいんだけど。

昨今の連ドラを観ると、極端に2分割されてるような感じがします。いい人しか出てこない癒やし系のドラマと、クルクルパーな人たちが裏切り合いを繰り返すゲーム系のドラマと。

私が昨年度ナンバー1に挙げたNHKの夜ドラ『VRおじさんの初恋』とて例外じゃありません(言うまでもなく前者のカテゴリー)。

生々しいのはネットで(フェイクも含め)イヤというほど見せられるから、テレビは(報道は別として)現実逃避の場でいいのかも知れません。けど、免疫を持たずに社会に出ていくのは如何にも危険。

そういう意味じゃ、テレビほどの制限がなく、若い人が取っつきやすいマンガはちょうど良い教科書なのかも?なんて、いろいろ考えさせられました。


PS. これを書いたあと母の見舞いに行ったところ、昨日より少しはラクになった様子だけど、いつ「そのとき」が来るか分からない状況は変わらず。

そして母の隣のベッドには、私が勤めてる施設の利用者さんが寝ておられました。母の入院先は(今回は救急搬送だったので)いつもの病院と違い、施設にほど近い(私が腎臓結石で入院したのと同じ)病院なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母、再入院。」

2025-01-10 20:41:30 | 日記

昼食時に母の容態が悪化し、ナースから選択を迫られました。施設で出来る範囲内の処置に留めるか、病院へ救急搬送するか。

私の願いは一貫して「苦しまずに逝くこと」だけど、「家族として“やれることは全部やった”と思いたいなら病院を勧める」と言われ、後者を選びました。

そう、これは自己満足。母は明らかに早く逝きたがってるけど、少しでもラクに逝かせるなら病院の治療に頼るしかない。どうせ母には恨まれてるし、最後までこっちの意志を尊重させてもらいます。



もちろん、植物人間みたいな延命治療は断固させません。あくまで自然な終末を、可能なかぎりラクに迎えてもらうための処置。

母は相変わらず私のことは無視してる(ナースの問いかけにはちゃっかり応えてる)けど、だからこそこっちも割り切れるってもんです。

息子を憎んだまま最期を迎えつつある母と、親の終末にまったく興味を示さない兄。そんな2人に比べれば、自分なりの最善を尽くしてる私は綺麗ごと抜きで幸せだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする